伍
──五月七日。
あれからは特に何も無く、二日が過ぎている。
うん、本当に何も無くて、暇を持て余しています。
既に見慣れた感の有る街で適当な店に入っては甘味や料理を楽しむ日々。
…太らないのかって?
ははっ…そんな事を言うと切り落とされるよ?
何が、とは言わないけど。
まあ、珀花みたいな中毒者症状は出ていないから特に問題は無いだろう。
珀花も珀花で肥満体に為る気はしないし、糖尿病にも為らないだろうな。
…彼奴は日増しに可笑しな方へと進化しているしな。
多分、今直ぐに世の人類が滅びたとしても珀花と──“黒い彼奴”だけは平然と生き残る気がする。
…俺の中の珀花が猛抗議し異議を唱えているのだが、特に広げるネタでも無い為無視して流してしまう。
今は御呼びでないのだよ。
「しかし、どうしますか?
確か、明日には此処を発つ予定で話を為さっているのでしたよね?」
「そうなんだけどな…」
愛紗の質問を聞きながら、一つ溜め息を吐いて静かに天を仰ぎ見る。
俺達のマフメドさんの邸宅滞在予定は今日が最後。
明日にはコーカンド発ち、サマルカンドへ行く。
──というのが、当初俺が立てた予定だった。
…いやまあ、それはね?
“もう暫く此方で御世話に為りたいんだけど…”とか言えば、マフメドさん達は喜んで承諾してくれるとは思うんだけどね。
今朝だって“今日で此方の滞在は最後ですか…”って物凄い残念で無念な感じで言われたからね。
…え?、社交辞令だろ?
それが本気か上辺か見抜く事が出来無かったら、今頃俺は死んでるって。
世の中、善人よりも悪人の方が遥かに多いんだ。
ただ、悪人=犯罪者という印象が強いだけでね。
結構、身近に居るよ。
まあ、そう言う俺自身も、“悪人”なんだからな。
──と、そんな話は置いて今後の予定の話だ。
とは言うものの、根本的な事を言えば現状での俺達に出来る事は待ちの一手のみだという事。
与えられた選択肢は二つ。
一つは無視して放置。
題して、“お家に帰ろう!〜いつか、きっとまた〜”大作戦である。
要するに被害が出ていない以上は後回しにするという考えも有りだという事。
それはまあ、早期の討滅が理想的では有るけどな。
でも、実際は宅にとっては最優先すべき事ではない。
勿論、国交・貿易面でなら損失には繋がるが。
既に商隊が引き上げている以上、後は俺達と隠密衆が戻れば被害は出ない。
全てが決着するまで暫し、国交・貿易を停止する事で簡単に解決するからな。
どうせ今回の件の“禍”も“舞台上”に上がってくる事だろうしな。
その時に纏めて始末すれば手間が省ける、という物。
ただ、これを遣った場合、俺達は夫婦で旅行していた感が強くなる。
まあ一応は、ローランでの禍の討滅が有るから仕事を放棄している訳ではないがアレは偶発的な気がするし微妙な所だと思う。
もう一つは滞在延長。
一旦、コーカンドを出て、変装してから再び街に入りマフメドさん達と縁の無い──或いは浅い、宿を取り禍が動くのを待つ。
只管に待ち続けるだけ。
何故、此処、コーカンドで待つのかと言うと、此処が禍の造った“鏡面世界”の基準点だったから。
あの時の空間は既に破棄し使用はしないだろうが。
何と無く、アレは此処との繋がりが有る気がした。
或いは、此処で目覚めたのかもしれない。
故郷──と言うよりかは、生まれた巣穴的な感覚なのかもしれないけれど。
そんな感じの理由でだが、件の禍が此処を活動の拠点にしている可能性は有ると俺は考えている。
まあ、一度サマルカンドに態と移動して、誘ってみるという手も有るが。
それも、滞在延長前提での一手でしかない。
「お前達は、どう思う?」
顔を正面に戻すと愛紗達を見て、そう訊ねてみる。
具体的な献策を求めているという訳ではない。
勿論、出来るので有れば、積極的にして貰いたいが。
飽く迄も、愛紗達から見て“自分ならどうするのか”考えさえ、その上で出した結論を、一つの意見として訊いているだけ。
その事を判っているから、愛紗達も変に気負ったりはしないで黙考し始める。
俺達には待ちの一手のみと判っているから、選択肢も予想は付いているだろう。
後は選択と、可能性だ。
「んー…囮を撒いて誘き寄せられるって事なら滞在、かな〜…」
最初に口を開いたのは翠。
“難しい事を考えるのって苦手なんだよなぁ〜…”と言いはするが、別に全くの考え無しではない。
感覚的な部分が多いが故に“誰にでも理解が出来る”説明等が苦手なだけ。
実際には、その着眼点等は宅の軍師陣すら感嘆させる事が有ったりする程だ。
武にしても、脳筋ではない事からも判る。
卓越した技術を活かす為の戦い方は理に適っているし計算もされているからな。
決して馬鹿では無い。
…面倒で細かい書類仕事をサボる、或いは避ける為の口実であるという可能性は無くはないと思う。
しかし、実際にそれを遣る様な無責任な性格ではない事は俺は理解している。
だから無いとは思う。
「でも、個人的な意見だとやっぱさ、禍は可能な限り早く討ち滅ぼすべきだって思うから、此処に残って…って思うけどな」
“指示には従うよ”という言外の意思を受け取りつつ翠の真っ直ぐな思い遣りを好ましく思う。
甘いだけの意思ではなく、覚悟を伴った意思。
それを叶えて遣りたい、と思ってしまうのも事実。
難しいだろうな、と思ってしまうのも、また事実。
生きている限り、相反する矛盾は常に存在する。
“生きる”というのは即ち選択の連続なのだから。
何もしない、という選択を選ぶのも自由。
その結果から、目を背ける事でさえも。
与えられた選択肢の一つに過ぎない。
「…私も個人的な気持ちは翠と同じですね
出来る事ならば直ぐにでも討つべきだと思います」
次に口を開いたのは愛紗。
別に翠の意見を聞いた上で──という訳ではない。
単純に思考具合の差。
個人の意見を求める状況で他者の意見を聞いて考えや判断を変える事は微妙だ。
勿論、そう遣った方が良い場合も有るだろう。
当然、悪い場合も有るが。
今は飽く迄も意見のみ。
その先の決断に直結しない状況だから他者を気にする必要は少ない。
寧ろ、自分の意見が何より大事になると言える。
その辺りを判っているから俺も多くは言わない。
これが愛紗達──妻以外の者が居れば、一言説明して置いただからからな。
「ですが、魏国の、曹家の家臣としての立場で言えば帰還する事を提案します
私達三人だけの滞在ならば代わりを務められる人物は居なくはないでしょう
しかし、雷華様の代わりを務められる者は居りません
雷華様が長期間離れる事は魏国にも、曹家にも大きな損害だと言えますので」
「あー…確かにな〜…」
愛紗の意見に納得した様に頷いている翠。
既に自分の意見を言ったら後は聞き手に回れる辺りに彼女の柔軟さを感じる。
…決して、膨らみに対する事ではない。
柔らかいのは確かだが。
…ごほんっ。
愛紗の意見は立場的な点に重点を置いての物だ。
対して翠の意見は現状での問題にのみ対しての物。
何方らも間違いではない。
何方らも各々に考えられた意見なのだからな。
最後に、残った螢の方へと顔を向ける。
既に、考えは纏まっている様で此方を見ていた。
視線が合うと一呼吸置いて静かに口を開く。
「…もう一週間だけ滞在を延長して、此処で待つ事を提案します
…その間に動きが無ければ即座に帰還します
…相手の意図・目的という点が不明な以上、此方から態々付き合う必要は無いと思いますから」
「それが妥当な所か〜…」
「そうだな…」
螢の意見は計画性に重点を置いた現実的な物。
順番的に翠と愛紗の意見の間を取った様に思えるが、それは結果的にそう為ったというだけの事。
螢は螢で、ちゃんと考えて結論を出している。
打算的な物ではない。
尤も、態々言う必要なんて無い程度には、互いに対し理解と信頼を持っているし仲も良いんだけどな。
さて、三人から各々意見を聞いた訳なんだが。
本当、どうしようかね〜。
現実的な事を言えば、螢の意見が主軸だろう。
後は細かい調整だけだ。
螢の提示した期間、一週間というのは曹魏の全体的な状況を考えての事だ。
其処に他国の事情や状況を加味しての微調整は欠かす事は出来無い。
ただ、此処で一番の問題は“動く可能性”だろう。
はっきりと言ってしまえば今回の禍の行動に関しては黒幕が居て、それが俺達の最大の難敵となる“災厄”である事。
それだけしか断言出来無いというのが実状だ。
螢の言った様に意図・目的といった点が不明な以上、明確な対策は出せない。
何より、無意味な根比べに付き合う程、暇ではない。
遣るべき事は山積みだ。
それを放置したまま此方に留まる訳にはいかない。
そう考えた時、一週間もの時間を此処で割く必要性が見出だせない訳だ。
一週間待って駄目だったら仕方が無い。
そう考えるのは当然だ。
だが、果たして一週間もの時間を費やして待つだけの価値が有るのか。
其処が問題だと言える。
禍を放置する事に対しての是非を問うのではない。
単純に、待っていても動く可能性が有るのか。
その一点だけが重要だ。
可能性は0ではない。
しかし、放置しても確実に後々には動く。
それは間違い無いだろう。
とすれば、今此処で無理に待つ必要性は少ない。
その時に討滅すればいい。
0か、100。
その考え方で判断するなら此処は帰還すべきだろう。
被害が出ていない、という事も大きな要点だ。
最優先とする最大の要因はやはり被害の大きさになる事は否めない。
政策・法律・事業といった場合の備えとは違い、禍に対する備えは後手。
先手を打つ事は困難だ。
それ故に、被害が拡大する前に対処──討滅する事が望ましい訳だ。
被害が小さくても、其処に存在すると明確に判るなら当然として討滅する。
しかし、今回の様に相手が異空間に居る場合となると受け身に回らざるを得ないというのも事実。
それに対し、何処まで禍に付き合うのか。
(フェルガナの方には多少被害が出るかもしれないが其処は仕方が無いか…)
俺達は万能ではない。
出来る事には限りが有り、この身は一つしかない。
故に、選択を要する。
何を第一とするのか。
その選択を。
──と、結論を出した。
まさに、その瞬間だった。
『──っ!!!!』
今度は予兆から、はっきり感知する事が出来た。
故に、即座に身構えた。
耳鳴りの起きる瞬間の様に周囲の音が遠ざかる。
静寂を越え、無音の世界が這い寄り、引き摺り込む。
水面に、絵の具を溶かして落としたかの様に、景色は色彩を滲ませて、歪む。
「──っ!?」
──と、その一瞬。
違和感を感じ取った。
咄嗟に愛紗達を含め周囲に結界を張り巡らせる。
混じり合った色彩が津波の様に視界を覆い尽くして、全てを飲み込んだ。
瞬間的にとは言え、感覚が機能を奪われてしまう為、正直に言えば不安を感じてしまっていたりする。
これは多分、知識・経験の多い方が感じ易い物。
“何も出来無い”、という無力感に対する恐怖。
実際には何が起きるという訳ではないのだが。
精通するが故の感覚だ。
「…はぁ〜…遣られた…」
右手で顔を覆って俯くと、一つ溜め息を吐く。
異空間に転移した事自体は問題ではない。
問題なのは、俺が愛紗達と切り離されてしまった事。
結界は展開出来た。
だが、僅かに遅かった。
引き摺り込まれる瞬間には俺より先に、三人の気配が消えてしまっていた。
(…彼処で引き摺り出して仕留めるべきだったな…)
前回、脱出を優先した事に迷いは無かった。
だが、その結界として禍に警戒心を与えてしまった。
特に、連携していたという事が大きかった様だ。
まさか、異空間に分断して各個撃破策に出てくるとは予想外思わなかった。
しかも、御丁寧に俺だけは“鏡面世界”とか。
完全にして遣られたな。




