伍
「雷華様、実際の所、件のこの国の内乱とは如何な物のでしょうか?」
結局、直接に情報を得ない愛紗達からしてみると今は“何も判らない”のが本音だと思う。
意図的に俺が省いていたり隠してしまう事も理解してはいるだろうしな。
…納得しているかは別の話なんだろうが。
「はっきり言えば不明だな
マフメドさんから仕入れた情報では西のサマルカンド辺りで、という話だが…」
「彼は嘘を吐いた、と?」
俺が言葉を切った事から、愛紗は僅かに怒りを滲ませ静かに訊き返してくる。
その反応に思わず苦笑し、小さく左右へと頭を振って発言を否定する。
「そういう訳ではない
抑、彼には嘘を吐く理由が存在しないからな
この国の内乱が噂と言えど広まれば、宅からの行商は確実に停止する
それは商人としては勿論、国益という意味でも貿易に大きな支障を来し、多大な損失を生む事にもなる」
そう言いながら対面に座る螢に視線を向け、促す。
小さく首肯すると螢は顔を愛紗の方へと向ける。
「…それに、実際には国に内乱が起きてはいなかったとしても、そういった噂が広まった結果、内乱に至るという事も有ります
…ですから国内でも有数の大商人という立場の方からその様な噂が出るという事自体が考え難い訳です」
「俺達にとっては一番判り易い例を挙げるとすれば、あの黄巾党だろうな」
「…成る程、確かに」
「つまり、“人の口に戸は立てられない”って事か…
噂って厄介な物だよな…」
螢の説明と俺の例えを聞き愛紗と翠が納得して小さく頷きながら溜め息を吐く。
決して、良い思い出だとは呼べない事だからな。
愛紗は愛紗で色々と複雑な一件でも有る訳だし。
でも、判り易くは有る。
旧・漢王朝の領域。
その凡そ五分の二の領域を焼き尽くす勢いで拡大した噂という名の業火。
勿論、その根底には長年の漢王朝や官吏等に対しての不信感やら不満が有った訳なんだし、“望映鏡書”や左慈や于吉の暗躍が有った事も大きな要因では有る。
ただ、それでも人々の噂が追い風と為り、煽った事も確かな事実だと言える。
“天の御遣い”や予言には触れたくないので無視。
色々と面倒臭いしな。
噂というのが何なのか。
“世論の後押し”、とでも言えば判り易いだろうか。
確かに有力者の言動による影響力は大きな物だ。
それは間違い無い。
だが、世論の影響力もまた決して小さくはない。
今はまだ技術が未発達故に媒体は精々が噂話・風評の類いとなる。
しかし、技術が十分に達し情報化社会となったならば一個人の発言が世に及ぼす影響力は格段に跳ね上がり時には“暴走”を生む事に繋がるのは否めない。
技術の利と害である。
けれど、未発達と思うのは“知っている”からであり現代の人々には無関係。
其処は重要ではない。
寧ろ、人々が直接口にする現代の方が自己催眠擬きの効果を伴い厄介だと言える状況なんだろうな。
或いは“言霊”と言う方が納得出来るかもしれない。
他者の言葉に影響される。
それは誰にでも経験の有る事だとは思う。
では、それを自分の発する言葉へと置き換えてみるとどうなのか。
小さな子供が勉強する際、或いは外国語を学ぶ時等に“声に出す”という行為を用いる事で、多くの人々は身に付けているだろう。
そういった経験が一度位は有る筈だと思う。
“自分に言い聞かせる”と言うのと同じだ。
例え信憑性の無い噂話でも“自分が口にした”という事実さえ確かな事で有れば人は簡単に認識を覆して、それが本当の事である様に認識してしまう様な場合が時として起きてしまう。
記憶という情報は曖昧な為“完璧な状態の情報”とは言い切れない。
それ故に、単なる噂話でも何等かの要因を加えた後に思い出したりすると実際は同じ情報な筈なのに別物の様に違って感じてしまう。
記憶の擦り替え、擦り込み──或いは“自己置換”と言うべきだろうか。
群衆心理として見た場合に多数意見へと流され勝ちな思考傾向は少なくない。
故に、“此奴は変だ”等と周囲に思われたくない為に自己の判断と意見を放棄し大勢に付く、という思考は有り触れている事だ。
視覚的錯覚にも似ていると言う事も出来るだろう。
何等かの事件等の目撃者や証言者、或いは容疑者さえ度重なる質問を繰り返され“本当の記憶”に後付けの情報が介在して存在しない“架空の記憶”を生み出すという事も珍しくはない。
どんなに記憶が正しくとも最終的に、その記憶の正否を決めるのは当事者自身の思考と感情が伴ってしまう以上は絶対には為り得ない事だったりする。
機械の様に記憶を純然たる情報として扱えるのならば全く問題は無い。
付け入る隙は先ず無い。
問題点も記憶の改竄以外に考え難いだろう。
けれど、そんな事は正面な人間には不可能だ。
何処か“壊れた”人間か、欠けた人間か、或いは逆に“過剰な能力”を持ち得た人間位だと思う。
“人の形をした何か”が、正しいかもしれないが。
…俺?、一応、まだ人間を辞めた覚えは無いかな。
自分自身の思考も感情も、捨てる気は無い。
それが何よりも自己形成の上で重要な事でも有るし。
自分らしく、と皆に言って導いている以上、特にな。
これであっさり自我を消失したりしたら笑い者だ。
…え?、華琳との初夜?
あれは理性と本能の上の、両者合意の行為ですから。
我を失ってはいません。
ちょっと歯止めが利かない状態だっただけです。
ええ、違いますとも。
「それで結局はどんな話が出てる訳なんだ?
その辺、私達は使う言葉が解らないから不明だしさ」
さらっと、何でも無い事の様に訊ねてくる翠。
ある意味、それは現状での俺が一番誤魔化したい事。
其処をピンポイントで突き誤魔化しが利かない質問の仕方で抉ってくる。
こういう所が、翠みたいなタイプの怖い部分だな。
本人は“普通に思い付いた当たり前の疑問”を言ったつもりなんだろうけど。
無意識だからこそ厄介。
対応し難いからな。
そういう意味で言うなら、華琳や軍師陣を相手にする場合の方が誤魔化し易いと言ってもいい。
まあ、最近は馴れたのか、腕を上げたのか、両方か。
手強く成ってるけどさ。
それは兎も角として、だ。
さて、どうするかな。
…いや、まあ、どうするも何も無いんだけどね。
此処で無理矢理にでも話を誤魔化そうとすれば螢から突っ突かれるだろうし。
話す以外の選択肢を見事に翠に潰されてるからな。
方法が無い訳ではない。
要は愛紗達の思考や意識が別な物に向けばいい訳だ。
そう、例えば先程注文した品とかだな。
そう都合良く注文をした品は来てくれはしないんだけどさ。
余程空気が読める店員なら感付くかもしれないけど、それはそれで俺達の関係や素性が怪しまれそうで困る事になるしな〜…。
そう上手くは運ばないか。
此処は素直に話そう。
「大宛──フェルガナには都と呼べる規模の街は主に四つ存在している
先ず一つは当然の事だが、今現在俺達が居る此処──コーカンドだ
次に此処に来るまでの途に寄った北端のシムケント
国領域の中央部に位置するタシケントになる
そして、南端であり西端、王都・サマルカンドだ」
と、勿体振った言い方だが愛紗達は知っている事だ。
最低限の地理を知らないと現地での行動に対し様々な支障が出てしまうしな。
必須な予備知識と言っても間違いではない。
故に、これは飽く迄も確認でしかない。
本題は此処からだ。
「先程も言った事なんだが此処コーカンドでの内乱に対する認識は大体同じだ
“サマルカンドの方で”と殆んどの者が口にしている
しかし、その割りには特に具体的な話は出て来ない
“そういう噂だな”という不確定な域を出ない話しか聞こえては来ない」
「……は?、え?、あれ?
ちょ、ちょっと待てよ
それって可笑しいだろ
何で誰も自分の国で内乱が起きてる事に──っ!?」
俺の言葉を聞いた翠が直ぐ何かに引っ掛ったらしく、違和感を感じ取った。
そのまま思い付きを口にし──自分でも思い至る。
同時に聞いていた愛紗達も同じ答えに至ったみたいで表情に緊張を滲ませた。
それは当然だと言える反応だから仕方が無い。
別に悪い事でもないしな。
ただ、場所が場所だ。
変に緊張感を持っていては目立ってしまう。
それは衆目を集める結果に繋がってしまうので可能な限り避けて然るべき。
喫茶店で男女が──はい、見栄を張りました、どうせ初見だと女性扱いですよ、別に良いじゃないか少し位俺も見栄を張ったって──同じ席に座って、緊張した様子で話をしている場面を見掛けたとしたら。
大抵の人は一度位は視線と意識を其方らに向ける筈。
野次馬根性で聞き耳を立て息を殺す、という所まではしないかもしれないが。
気には為るだろう。
俺や華琳でも気にするとは思うからな。
愛紗達に苦笑を浮かべつつ右手の人差し指を口元へと静かに一瞬だけ上げて当て意図を示す。
すると、愛紗達は気付いて各々に自然な形で深呼吸し無意識に入っていた身体の力を抜き、緊張を解す。
「つまり、この内乱に対し民は“認識はしているが、理解はしていないし深くは思考もしていない”、と…
そういう事ですか?」
後から美味しい所を横取りではないのだが、意図せず然り気無く遣っている辺り愛紗も中々の強者。
まあ、それに対して翠も、螢も文句を言わない所か、嫉妬の欠片ですら見せない辺りは普段の“役回り”が有るからなんだろうな。
こういう場面で自己主張は遣らない面子でも有るし。
そういう意味では俺自身も助かってはいるか。
遣る事が増えないから。
「んー…まあ、そうだな
そういう言い方をしても、間違いとは言えない」
「──って、言うと?」
「愛紗の意見は間違いとは思わないけど、この状況を説明し、理解するには色々足りないって事だ」
そう言うと愛紗が拗ね顔で“そう仰有るのでしたら、私(達?)で遊んでいないでさっさと説明して下さい”なんて言いた気な眼差しで睨んできた。
真面目な話を真面目にするという尤もな意見は正しい事なのだろう。
だが、敢えて、断る!
それでは面白くないし。
何より、愛紗のそんな顔を見られるんだからな。
これも役得だよ、役得。
露骨に見ているとバレる為話題を変えつつ視線を外し螢の方へと顔を向ける。
「問題点は何だと思う?」
いきなり訊ねても大丈夫。
これまでの話を聞きながら十分に考えるだけの情報を螢は得ている。
勿論、きちんと話を聞いて理解していたら、だが。
其処は心配は愚か、不安も疑念も懐いてはいない。
「…国内の事、というなら愛紗さんの言葉で説明する事が出来ると思います
…でも、他国での情報等を含めると難しいかと…
…そして、一番の問題点は抑として“何故、雷華様が把握をされていないのか”という点だと思います」
…クククッ、よくぞ、我が秘密に気付いたな。
──って、違う違う。
気持ち的には勇者よりかは魔王の方が好きだが。
遣るなら魔王だな、俺は。
──とまあ、馬鹿な考えは忘れて、其処に至ったなら螢には見えているな。
根本的な問題点が。
「ん?、なあ、螢
何で雷華様が把握してない事が問題なんだ?
そんなの普通だろ?
他国の事なんだし」
そんな螢に翠は当然の様に大抵の者が口にするだろう疑問を向けた。
黙ってはいるが愛紗も翠と同じ考えなんだろう。
無意識にだが、本の僅かに頷き、同意を示している。
「…だからこそなんです
…本来であれば隠密衆から雷華様に必ず内乱に関する最低限でも具体的な情報が報告される筈です
…勿論、“禍”が相手では絶対とは言えません
…ですが、情勢が不安定な事は私達も既知の事です
…その上、此方には国営の商隊が来ていますので先ず隠密衆の方達は情勢に対し気を抜く事は有りません
…それでも、雷華様の元に情報が来ないとするなら、理由は一つだけです
…内乱自体“存在しない”という可能性です」




