11 陽炎の死鎌 壱
「──っ!?、これはっ…」
目を見開き驚きを露にするマフメドさん。
その右手には陶器の杯が。
覗き込む彼の顔を映し込む水面がゆらゆらと揺れる。
彼と同様に、俺の右手にも陶器の杯が有り、同じ物が注がれている。
光の加減では血を思わせる深い赤紫色の液体。
葡萄酒──ワインである。
銘を“紫津香”と与えられた曹魏の輸出用の量産品の一品である。
とは言え、まだ非公式での認可商品であり、公式には出回ってはいない品。
当然ながら、公旦達ですら未だ扱ってはいない。
では何故、そんな物が今、此処に有るのか。
それは単純に製品開発者が俺だからである。
うん、秘密でも何でもない事なんだけどね。
いや、一応は俺の立場とか極秘だから秘密だけど。
「甘く芳醇な香りは勿論、舌に感じる程好い酸味…
しかし、果実水とは違って甘過ぎない味わい…
柔らかな口当たりながらも深い奥行きを感じさせる…
これ程のワインは今までに飲んだ事が有りません」
「そう言って貰えるなら、持ってきた甲斐も有るな」
今、この場には俺達二人。
男同士、気兼ねも無い。
だから、口調も砕けた物に変えている。
いや、元に戻している、が正しいだろうな。
因みに、ワイン自体は然程珍しい物ではない。
ただ、その質は宅に比べて遥かに劣ってしまう。
それも当然と言えば当然。
何しろ、此方は二千年近い研鑽の果ての技術や知識を用いているのだから。
その差が出てしまう事自体必然的だと言える。
公には言えないけどな。
「今はまだ生産する態勢が整ったばかりだからな
本格的な輸出は早くて来年辺りになるだろう
その時は、此方に来ている公旦殿達から正式な輸出の交渉が有る筈だ
一応、見本・試飲用にと、もう五本有るからな
それは其方の取り引き先に回して貰って構わない」
「…宜しいので?」
自分で言うのも何だけど、商品としては上質だ。
何しろ、華琳という厳しい審査官が居るからな。
輸出用と言えど、粗悪品を大量生産させる様な真似は絶対に認めない。
だから、出来として言えば全く問題無い。
輸出用、とは言っているが国内にも流通はさせるし。
そういった事情を知らない彼からすれば、高級品だと言っても可笑しくない品を無料も同然に貰えば驚くし怖じ気付いてしまう気持ちも判らなくはない。
「ああ、問題無い
元々、手土産代わりに、と預かってきた物だ
曹魏からすれば、お前との良好な関係を長きに渡って継続したいからな
まあ、ユーシアさんの様な奥さんが居るから跡継ぎの教育は心配無いだろうが…
せめて、後五世代は繋いで行ってくれよ?」
「…尽力致します」
俺の意図を察したらしく、彼は苦笑を浮かべながらも言うべき事を口にする。
口約束に過ぎない。
しかし、互いの信頼の上の誓いでも有る。
故に、軽くはない。
「しかし、彼女を見るまで結婚していたとは思ってもみなかったな…」
情報としては知っていたが態々言う事ではない。
なので、初めて知った体で何気無く、話題に出す。
二人の間には子供が三人。
長男・長女・次男になり、各々四歳・三歳・零歳。
つまり、最低でも五年前に結婚はしている訳だ。
まあ、実際に結婚したのは六年前らしいが。
俺からしてみれば、改めてユーシアさんが良い女だと評価せざるを得ない。
普通、行商人という不安定極まりない職業の男性とは結婚したがらないからな。
余程実績が有れば別だが。
尤も、この二人の場合には大恋愛の末だった、と以前仲以から酒を飲み、絡まれながら聞かされた。
“若いって良いわねぇ〜…私も、身も心も焦がす様な恋をしてみたいわ〜”とか言っていたしな。
其処で余計な事を口にする程に俺は馬鹿ではない。
自ら女郎蜘蛛の張った巣に飛び込み捕食される趣味は全く無いんでな。
「あはは…実は亡くなった彼奴にも言われてました
“お前からは結婚している奴の生活臭がしない”と」
「その気持ちは判るな…」
今は兎も角、以前の彼から妻子の存在を感じ取るには情報が少な過ぎた。
言い訳でしかないがな。
ただ、そういう私情を彼は垣間見せ難い質の様だ。
それは商人としては勿論、交渉等を生業とする者には向いているとも言える。
付け入る隙を見せないのは大きな強味なのだから。
時として弱味は武器として使えもするのだが。
それには才能等複数の要因が必要にもなる。
故に簡単な事ではない。
向き不向きの有る事だから彼には向かないが。
(…時間か、妻子の存在か
追及するのは不粋だな…)
昔を懐かしむ様に語る姿に曾ての翳りは感じない。
友の死を乗り越え──否、向き合い、受け入れた上で背負って生きている。
それを感じられる。
その事に内心、安堵する。
「当時は妻子を残して?」
「はい、何しろ一度此方を離れてしまうと、最低でも半年は帰れませんから…
結婚したばかりの時に一度一緒に来るかを訊いてみた事が有りましたが…」
「…“帰る場所”、か?」
「はい」
少しだけ照れながらも彼は全く躊躇する事無く肯定。
その反応には此方が思わず苦笑を浮かべてしまう。
しかし、男という生き物は惚れた女には本当に弱いと思ってしまう。
そして、それが出来る女は本当に強く、素晴らしいと改めて認識させれる。
…まあ、俺も、彼も結局は惚気になるんだけどな。
本当、無しでは生きる事が無意味に為るって判るから大変な物だよ、恋愛って。
「──時に、飛影様の方は如何なのですか?
あの時とは…その、御連れの方が違いますので…」
酒も入り、雑談等をして、少しは気が緩んだのか。
マフメドさんは思い切って踏み込んだ質問をする。
尤も、判断力を失う程には酔ってはいない。
単純に男同士だからという心の隙も有るのだろうな。
そうでなければ、訊く様な人柄や質ではないし。
とは言うものの、どう反応するべきかを考える。
…まあ、深く考える必要は無いんだけどな。
「ああ、あの二人か
彼女達なら今は曹魏の重鎮──軍将を務めている」
「──なぁっ!?」
流石に予想外だったらしく俺の答えを聞いて取り乱し右手に持った杯を滑らせて落とし掛けた。
武人、ではないにしても、運動神経自体は悪くはないみたいで、落とす事は無く無事に確保している。
中身が殆んど無かった事も幸いだったかな。
そうでなかったら、今頃は衣服や卓上に零れて大慌てしている所だろう。
そして、ユーシアさんからこってりと絞られる訳だ。
…うん、よく有るパターンだよね、うん。
もう見飽きた、と言うか、見慣れ過ぎた光景だな。
ある意味、御約束だし。
「…し、失礼しました…
で、ですが、その…」
「取り敢えず、落ち着け
そうなる気持ちも判るが」
「は、はい…」
大きく深呼吸する姿を見て胸中で苦笑する。
フェルガナ屈指の大商人も予想外の事態では意外にも普通の反応を見せる様だ。
(しかし、やっぱりこれが普通の反応なんだよな…)
ずっと一緒に居る事も有り感覚が麻痺気味なのか。
…いや、単純に地位や身分という観点での見方を先ずしないからだろう。
妻・恋人としてだから。
(…と言うかさ、俺自身が何とも言えない立場だから意識し難いんだよなぁ…)
華琳の夫、というだけでも曹魏の頂点付近なんだし。
今更、皆の立場をどうこう思わないんだよな。
でもまあ、客観的に見ると色々と凄いんだけど。
…多分、だけどさ。
俺も庶民派な思考だから、セレブ感は無いしな。
良い物は良い。
それだけだからなぁ〜。
セレブな感じの俺って全く想像出来無いよなぁ。
…うん、似合わない。
ちょっと散歩している間にマフメドさんは落ち着いたみたいで元に戻っていた。
ただ──いやまあ、現状の彼の頭の中なら察する事は容易いんだけどね。
思春と紫苑が曹魏の重鎮に成っているという事はだ。
“一緒に旅をしていた俺も曹魏内で低くない立場に居るのではないだろうか?”という考えに為っても何も不思議ではない。
寧ろ、当然だと言える。
だから、若干ではあるが、緊張から強張っている彼の表情や態度には納得。
俺個人の気持ちとしては、苦笑したくなるが。
「…あの、飛影様?
飛影様は曹魏内では…」
「んー…まあ、あれだ
そういう堅苦しい立場って柄じゃないからな〜
俺は気楽に遣ってるよ」
そう言って、小さく笑う。
誤魔化している訳ではなく事実ではある。
ただ、全くの嘘ではないが曖昧にはしている。
立場としては彼の想像よりずっと上なのだが。
その事実を彼が知る機会が来るとすれば、その時には大いに驚いて貰おうと思い今から仕込んでいる訳だ。
いつか宅にユーシアさんや子供も一緒に招待でもして派手に遣りたいからな。
今から楽しみだ。
「そう…ですか…」
──と、そんな俺の謀略を知る由も無い彼は、何処か安心した様な、複雑そうな表情を見せるマフメドさんに対して内心では苦笑。
俺が相手だからという事で気を抜いている部分も有るとは思うんだけど。
反応が素直過ぎるしな。
彼に“悪役”が出来る気は全くしないな。
「では、今回御一緒でした御三方は飛影様とは…」
「ああ、俺の護衛兼経験を積ませる為、だな
一応曹魏に正式に所属する官吏ではあるが、出来れば特に気にしないでくれると俺としても助かる
“外”に出て、ある程度は自由に行動が出来るという事は滅多に無いんでな」
「…っ…判りました」
小さく、息を飲む彼。
愛紗達の意外な立場に対し驚いた、訳ではない。
思春達の事を公言した以上想像は十分に可能。
少なくとも三人が曹魏内で低くはない立場、或いは、そういう立場になる予定や可能性の有る存在であると察しが付くだろうからな。
だから、彼が驚いた理由は別の事になる。
そしてそれは、愛紗達より“俺が護衛を必要とする”立場に有るという点。
一度、安心したが故に彼の緊張感が跳ね上がった。
そういう事だったりする。
本当の所は俺と愛紗達との関係を深くは追及されない様にする為だったりする。
ちょっとした悪戯の意味も含まれてはいるが。
先程の質問内容が具体的な物ではなくて良かった点は内心では安堵している。
彼が鈍くて良かった、と。
その後は他愛の無い話題で談笑しながら俺の持参したワインとは別の酒や肴等を味わいながら夜は更ける。
ある程度、彼に酔いが回り“記憶が残らない”状態を意図的に作り出してから、漸く本題を切り出す。
「──所で、此処まで来る道中でも聞いたんだが…
今、フェルガナでは内乱が起きているらしいな?」
「…ふぇ?…あ〜…うん、らぃらんでしゅか〜
たしゅかに、おきゅてりゅみちゃいれすねぇ〜
れもぉ〜、このあちゃりはきゃんけ〜ないれすよ〜
ほひょんじょが〜、にひのしゃまるきゃんじょのほ〜でしゅかりゃれ〜」
「…そ、そうか」
…あれ?、ちょっと飲ます加減を間違ったかな?
何かもう呂律が怪しいし。
下手すると身体に悪影響が出るかもしれないな。
まあ、氣で治療をしてからユーシアさんを呼ぶけど。
その前に、訊けそうな事を念の為に訊いておく。
「内乱の原因は何だ?」
「ん〜…ふめ〜れすね〜…
いろ〜んにゃ、うわしゃはれてりゅみちゃいれすが〜
さ〜ぴゃりらんれす〜」
…うん、俺もさっぱりだ。
これはもう駄目だな。
此処で諦める事にしよう。
卓上に突っ伏している彼の意識を氣で深く沈み込ませ眠りに就かせる。
その上で体内に入っているアルコールを分解・中和。
宅は二日酔い知らずです。
実際には飲み過ぎたら罰で二日酔いにするけどね。
氣も使わせません。
滅多に無い事だけど。
「さて、後はユーシアさん呼んで任せようか…」
少しだけ罪悪感を感じるが別に此方も遊びに来ている訳ではないからな。
利用している事は確かだが巻き込む事はしない。
フェルガナ全土を巻き込む場合には無理だけど。
取り敢えずは、情報収集が最優先課題だな。




