玖
防風林と、その周辺域での採取と調査を終え、俺達はマフメドさんの邸宅へ到着していた。
邸宅は店舗からは近いが、きちんと別に持っていた。
昔の日本の商家の様に奥や上階を居住スペースとする場合には押し込み強盗等で犠牲者が出てしまうケースも少なくない。
その為、店舗と邸宅は別に設けるのが望ましい。
まあ、その為の資金が必要ではあるけれど。
「フェルガナでも指折りの大商人って事だけあって、良い屋敷に住んでるな〜」
邸宅の中を案内されながら失礼に為らない程度に翠は周囲を見回して呟く。
その仕草に関して言うと、俺個人は容認出来る方だが他の者は違うだろう。
今此処で俺が注意するのは簡単だが、翠も俺だからの行動なんだろうしな。
変に目くじらは立てない。
それは兎も角として。
マフメドさんの邸宅の中に入ってみると、意外だ、と言うべきなのか。
商人らしい、と言うべきか悩む所では有るが。
翠が言った様に、大商人に相応の豪華な邸宅だった。
てっきり俺は立派な外見に反し素朴な内装ではないかと思っていたりした。
彼に成金趣味は似合わない事だし、抑、無い筈。
趣味が変わったというのは可能性としては有り得るが再会後からの彼の言動等を見る限り、その可能性自体考え難い。
勿論、彼が俺に対して己の印象操作を謀っているなら話は別なのだが。
それが出来るタイプだとは俺には思えない。
となると、可能性は絞られ自然と高い物が浮かぶ。
(商人としての箔、か…)
急激な台頭と成長を遂げたマフメドさんは商人の中で新顔と見られても可笑しい事は無いと言える。
曾て、漢王朝領内を回って行商はしていても、所詮は根無し草と同じ。
商人としての評価は普通は店舗を構えた方が受け易く高く見られる。
宅みたいに行商に対しての評価は現在の社会情勢では低いのが当たり前だ。
だから、店舗も邸宅も他に力を示す為にも豪華にする必要性が有る訳だ。
「商人に限らず、有力者の力を象徴する物の一つが、住まう邸宅だ
まあ、人格第一の者ならば話は別ではあるが、普通は住む邸宅の大きさが周囲や民への目安になるからな
そう珍しい事ではない」
──と、愛紗が当たり前の事だと言う様に説明する。
真面目な分、そういう事を嫌煙する所の有る愛紗から出た言葉だけに驚きだ。
潔癖とまでは言わないが、利害を第一に置くのが商人という者だからな。
感情的な面では愛紗の中で難しい相手なのだろうな。
「そう言われると確かに…
無駄に見栄を張ってるのが鬱陶しい時も有ったな〜」
曾ての旅をしていた時期の一幕でも思い出したのか、翠は小さく息を吐いた。
愛紗の言った事の意味には気付いていない様だが。
まあ、言った本人も無意識だったみたいだしな。
驚いたのは俺と螢のみ。
態々指摘する事も無いな。
気を利かせて、と受け取るべきなのだろうか。
案内された部屋は大部屋で寝台が三つ、横並びにしてくっ付けて置かれていた。
普段から、こうではないと部屋の雰囲気から感じる。
明らかに意図して用意され配置されている、と。
それを見て固まる愛紗達を他所に俺は案内してくれた侍女──と言うよりかは、使用人の女性と言った方が正しいのかもしれない──へと顔を向けると、口元を右手の袖口で隠しながら、“どうぞ、御気に為さらず御過ごし下さいませ”的な笑みを浮かべて退室する。
あまりの引き際の手慣れた仕草に俺ですら、言い訳が出来無かった。
…と言うか、あれか?
いや、寧ろ、そうだよな。
普通、この時代の部屋だと防音壁や遮音壁なんて先ず使われていない。
況してや、氣による遮断等出来る訳も無い。
つまり、“そういう場合の声や物音”は基本的に外に駄々漏れな訳で。
使用人達は触れない事が、一つの暗黙の了解。
“おはようございます
昨夜は御楽しみでしたね”とか言う馬鹿は居ない。
下手をすると首を斬られる可能性だってある事だ。
ある種の守秘義務を伴った仕事・職場だと言える。
勿論、宿屋関係も同じだ。
これまではどうしてたか?
そんな事は自分達で始末も洗濯も掃除もしている。
僅かでも痕跡を残す真似は一切していない。
完全犯罪風にしたいという訳ではないが。
まあ、俺が“女性”として認識されている場所でなら“そういう事”をしたとは先ず思われない為、部屋の粗捜しをされる可能性自体かなり低いと言える。
…女性同士で、という事に興味が有るとかでない限り大丈夫だとは思う。
絶対に、と言い切れない為念入りに遣っているけど。
(…しかし、あれだな
この様子からして、俺達は夫婦か恋人扱いされていると見て間違い無いか…)
確かに間違ってはいない。
事実として正解だ。
しかし、確認もしていない男女を一緒の部屋にして、“どうぞ、ごゆっくり…”的な手回しをするか普通。
マフメドさんは勿論だが、あのユーシアさんが仕切る状況では考え難い。
(…もしかして、何処かで情報に齟齬が生じたか?)
そう考えた方が、可能性は高いと言えるだろう。
マフメドさんの俺に対する反応や態度も端から見ると色々と気を遣わせる理由に為ったのかもしれないし。
とすると、下手に言うのは控えるべきだろうな。
特にマフメドさんには。
此処はユーシアさんに俺がこっそり話して、対処して貰うのが一番だろうな。
そう決断すると、今もまだ固まっている三人を放置し部屋を後にした。
まあ、あの三人の中でなら螢が一番早く我に返るから大丈夫だろうしな。
暴走はしないだろう。
…大丈夫、だと信じよう。
邸宅の中を逆に辿りながら歩いてゆき、丁度出会った先程とは違う使用人の女性にユーシアさんの居場所を訊いて、案内して貰う。
邸宅内に居る事は勿論だし居場所も態々氣を探知するまでも無く判っているが、そんな真似を遣っていると怪しまれてしまう。
なので、無難な方法で。
案内された部屋に入ると、ユーシアさんが机に向かい書き物をしていた。
その姿に出直そうかと思う俺よりも早く、使用人から俺から用事が有り、彼女を探していたと伝えられた。
嘘は言ってはいない。
ただ、彼女の仕事を邪魔し中断させる程ではない。
だが、それを此処で言うと使用人の女性の立場が悪く為ってしまうだろう。
そう考えて、取り敢えずは流れに乗る事にした。
取り敢えず促された椅子にゆっくりと腰を下ろす。
そうして、使用人の女性が部屋を出て、十分に離れた事を氣にて確認した上で、ユーシアさんに話す。
「すみません、御仕事中に御邪魔してしまって…」
「いえ、大丈夫です」
笑顔で答えてくれるけれど少しだけ胸が痛む。
その用事の内容が、何とも言えない事である為に。
「急ぎでは有りませんので終わるまで待ちますが…」
そう言うとユーシアさんは少しだけ手元を見て考え、無意識に小さく頷いた。
そうした方が効率としても良いと判断した様だ。
「…では、もう少しだけ、御待ち頂けますか?」
「ええ、勿論です」
ユーシアさんの言葉に俺は笑顔で答える。
特に非は無いのに、申し訳無さそうにしてしまうのは“御客人を待たせる”事に対する引け目なのだろう。
彼女の性格も理由の一つに違いは無いだろうが。
この時、平気な顔で待たす者よりも、演技でも相手に配慮している素振りをする者の方が印象的に良いのは“待つ”という行為自体が相手に主導権を委ねる故に信頼性が問われるからなのかもしれないな。
普段からの、礼節や配慮の意思や姿勢が窺える辺りに“試す”事にも使われる。
ローランの時みたいに。
尤も、今のユーシアさんにそんなつもりが無いという事は言うまでも無い。
警戒されているのならば、自宅に招くという夫に対し賛成はしないしな。
上手く断るか、夫を窘める事を言うだろうから。
彼女の仕事が終わるまでの間は適当に部屋の内装等を観察していようかな。
彼女の事を理解する上でも情報収集は大事だからね。
ジロジロ、キョロキョロと見る事はしないけど。
女性──妻達以外の異性の部屋に入る事は少ない。
御義母様達や家臣達は偶に入る事は有るが、執務室が殆んどだと言える。
宅では執務室は城内だから感覚的にも仕事場だという認識も強いしな。
だから、ある意味で新鮮。
仕事をしているとは言え、此処は私邸だし、部屋自体彼女の私室とも言える。
勿論、仕事場として使う分私物は少ないのだが。
それでも、彼女のセンスや拘りの様な物を窺える。
「…あまり見られる事には慣れていませんので、少し恥ずかしい気がしますね」
そう言いながら、机を離れ此方に遣って来る少しだけ恥ずかしそうな彼女。
仕事は片付いたらしい。
然り気無く見ていたのだが棚に飾られていた小物類に目が止まってしまった為、彼女に気付かれた。
落ち着いた才色兼備の女性というのが彼女への印象。
そんな彼女の部屋に有った所謂、ブサカワ系の動物をモチーフにした小物。
ただ、中にはホラーっぽい物も混じっていた。
“ジャンルが違うだろ”と言いたくなる物も。
(…美的センスが可笑しいという気はしないが…)
さて、どう返すべきか。
対面に座った彼女を見詰め言葉を選ぶ。
「可愛らしい小物ですし、部屋の中で“草分け兎”をしているみたいな置き方も然り気無くて良いですね
魏の方では見掛けない様な動物も居るみたいですから見ていて楽しいですよ」
“草分け兎”というのは、この辺りでの“隠れ鬼”の呼び方だったりする。
“彼方”では聞かないので“此方”独自の物だろう。
時折、日常の中へと紛れた世界の違いを見付けると、楽しくなってしまう辺りは長年の生活の影響だろう。
好奇心が刺激されるしな。
「そう言って頂けると私も嬉しく思います
尤も、殆んどは夫の御土産ですので私自身の趣味とは少々違うのですけど…」
そう言い、苦笑する彼女に思わず納得し、俺も苦笑を浮かべてしまった。
別に嘘は言っていないが、気を遣った発言だった事はバレバレだった様だ。
ただ、今、“殆んどは”と彼女は言った訳で。
つまり、中に混じっている数点の小物は彼女の趣味で選んだ物、という事。
(…感想に困る事実だな)
普通なのか、独特なのか、変なのか、悩ましい。
まあ、深く追及しない方が互いに幸せだとは思う。
話を逸らす意味も含めて、彼女を訊ねた理由を話す。
すると、俺の予想していたパターンだったらしい。
彼女が右手で額を押さえて俯いてしまう。
彼女やマフメドさんからの指示ではなかったらしく、使用人達の独断による点が介在した結果みたいだ。
まあ、こういう事一つでも騒ぎ立てる馬鹿は居るから困る気持ちは判る。
俺達だから、穏便な対応で済ませているのも事実。
世の中はクレーマーの方が多いと言えるし、俺達にもそういう部分は有る。
自己中心的な思考から来る不満や苛立ち等が原因な為仕方無い事だろう。
「…申し訳御座いません
直ぐに部屋の方は直す様に言っておきますので…」
「いえいえ、色々と要因が重なった結果でしょうし、然程気にはしていません
ですから、誤解さえ解いて頂ければ大丈夫です
旅の途中、経費節約の為に同室で過ごしていますから慣れてはいますしね」
「そう言って頂けると…」
だからこそ、“赦す”事が大切になってくる。
些細な事に目くじらを立て粗捜しをするよりも。
相手の小さな配慮に気付く心と意識を持ちたい。
中々に難しい事だけどな。
「さてと…それでは本題に入らせて頂きますね」
「本題、ですか?」
今の遣り取りから、彼女が部屋の件だけで俺が来たと考えても可笑しくはない。
実際、其方の件も解決して貰いたい事だからな。
しかし、最悪、俺達の手で直せば済む事でも有るから最優先ではない。
「ええ、十日病に関して、判った事が有りますので」
「──っ!?」
予想外だったみたいだ。
いや、“滞在中には…”と思っていたかもしれない。
ただ、早過ぎる事に対して驚いているのだろうな。




