玖
そんな俺の思考を察してか──いや、共感して、か。
ユーシアさんは顔に小さく苦笑を浮かべた。
それは“ですよねぇ…”と言う様な意味だろう。
俺も同じ様に苦笑で返す。
自覚は有っても直せない。
そういう“甘さ”が故に。
しかし、それを悪い事だと思う訳ではない。
ある意味、人間らしさだと俺個人は考えている。
その矛盾した思考や言動は時として“可能性”と成り想像を越えた奇跡を創造するのだから。
「猛り狂う炎の中、彼女の姿は直ぐに見付かりました
燃えている薪を右手に持ち虚空を見詰めて笑う姿には正直、寒気がしました…」
“ああ、もう手遅れだな
彼女は壊れてしまった”と多少なりとも経験や知識が有れば、一目見ただけでも十分に判る事だろう。
仮に、其処までは判らないにしても、ユーシアさんの様に本能的に感じ取る事は可能だと思う。
その異常さ故に。
当時を思い出したらしく、ユーシアさんは小さく身を震わせていた。
生物としての基礎的な恐怖なのかもしれない。
だから、無意識で有っても“こうは成りたくない”と本能的に拒否・拒絶するのだろうな。
小さく、けれど、ゆっくり息を吐いて、話を続ける。
「ですが、その感覚が私を冷静にしてくれました
その思考は実際には僅かな時間だったのでしょう…
しかし、その瞬間に限れば十分に長かった、と思える位には考えていました
真っ先に考えたのは現状で山小屋がどうなるのか…
冷静に燃え盛る炎の勢いと山小屋内の様子を観察し、長くは持たないと判断する事は簡単でした
同時に悠長な時間は無く、この行動に“遣り直し”は存在しないのだとも…」
此処での“遣り直し”とはタイムリープとかではなくセーブ&ロードでもない。
単純に山小屋からの脱出と其処までの行動。
それには無駄な余裕は無く選択するまでの時間も無く決断から実行に至るまでに一切躊躇は許されない。
一発勝負だという事。
「山小屋から脱出する事は問題有りませんでした
しかし、其所で私は選択をしなくてはなりません…
妹を救う為に山中で集めたヤシュレカの入った皮袋を取り山小屋を脱出するか…
或いは炎の中に佇んでいる彼女を連れて脱出するか…
私の位置から出入口までは直ぐでしたが、皮袋の有る場所は右手の奥…
彼女が佇むのは左手の奥…
私が両方を手にするという事が不可能という事だけは確かでした…
欲張れば、私も死ぬ、と…
そう感じていましたから」
それは究極の選択の一つ。
本能と理性、現実と理想。
その狭間で揺れる時間すら碌に与えられぬ過酷さ。
それでも必ず選ばなくては無意味に死んでしまう。
ただそれだけなのだから。
俺がユーシアさんであれば選び取るのはヤシュレカの入った皮袋だろうな。
その女性には悪いが俺には助ける価値を全く見出だす事が出来無いからな。
二つに一つならば、迷わず俺は選択するだろう。
勿論、俺自身が、その場に居たなら話は別だが。
両方──望む全てを手にし自らも助かる、というのはそれが可能な力を持ち得る者にのみ許された特権。
力無き、弱き者には決して与えられる事の無い選択。
そんな幻想な選択をした時点で破滅する。
弱肉強食という真理の下の狡猾で非情で冷徹で残酷な甘い罠なのだから。
物語の中の様に、気持ちで都合の良い奇跡は起きず、現実としては共倒れになるというのが大概だろう。
故に、選択は避けられない必然だと言える。
その結果がどうなろうとも選択を罪とは言えない。
何故ならば、誰しもが日々選択を繰り返している。
それを罪と呼ぶのであれば人は全て罪人となる。
その罪を裁くと言うのなら全てに対し完璧でなくてはならないだろう。
故に、人には裁けない。
人が人を裁く権利はなく、その為に法が定められる。
其処に感情論は不要。
何処までも平等に、真摯に対象となる事実と向き合い公正な判断により裁く。
その為に法律は存在する。
もしも“彼方”の世界なら俺の選択の結果は、恐らく訴訟問題になるだろう。
だが、その選択の正しさを誰が立証出来るのか。
其処に感情論を持ち込まず最善の選択をしたのならば同じ状況で、自身の選択は他者を優先出来るのか。
そう言い切る者が居たなら俺は問うだろう。
“ならば、お前は己自身の生活も人生も未来も放棄し他者に尽くせるのだな?
今有る財産の全てを世界で苦しむ人々の為に費やし、自らは一切の金銭も得ずに働いて尽くせるのだな?”という様な感じで。
それが出来るのであれば、俺は如何なる裁定も刑罰も受け入れるだろう。
ただ、目の前の者を助ける行為を否定はしない。
その結果、助けられずとも仕方が無い事だ。
だが、助けても自分が命を落としてしまう事にだけは何も言えない。
俺の個人的な考えとしては“自己満足の自殺”と同義なのだから。
しかし、時として失われた犠牲を尊び、良い方向へと社会が進む事も有る。
それは生きる者が失われた命への敬意と尊重を糧とし前へと歩みを進めた結果。
金の為に訴訟を繰り返して何の解決になるのか。
問題の先送りばかりをして社会は改善するのか。
そんな普通の疑問を口にし正面から向き合わなければ世の中は変わりはしない。
その選択が出来るか否か。
それが、大事だと思う。
社会とは人々の選択により成立しているのだから。
…少々関係の無い方向へと思考が逸れてしまった。
昔、下らない訴訟問題やら政治問題絡みの仕事を受け嫌気が差したのを思い出し苛々してしまっただけ。
決して、ユーシアさんへの不満や苛立ちではない。
だから、俺以外には誰も、気付いてはいない。
愛紗達であってもだ。
…まあ、華琳なら…な。
「…何故、そうしたのか
今でも不思議に思います」
そう言う口調とは裏腹に、落ち着いている彼女。
理解は出来てはいないが、何と無くは、感じているのだろうな。
「私は右手を伸ばして──佇む彼女の左手を掴み取り山小屋の外に出ました…
その直後の事です
まるで、貪欲な炎の猛獣がその巨大な顎を閉じて噛み砕いたかの様に、山小屋は崩れました
本の少し、行動が、決断が遅れていれば私達は生きていなかったでしょう
また、連れ出す際に彼女が少しも抵抗しなかった事も助かった要因でしょう」
「自暴自棄になった彼女が火事の原因では有りますが皮肉にも、そういう状態で有ったが故に、ですね」
俺の言葉に彼女は頷く。
溺れている者を助ける際に一番怖いのは、救助対象が混乱して暴れ、巻き添えで行動の邪魔をされる事。
それと似た様な物だ。
自暴自棄で、要らぬ抵抗を受けてしまうと助かる物も助からなくなってしまう。
そういう意味では抵抗すら出来無い茫然自失状態だと助け易くなる。
眠ったり、気絶している訳でもないので、自分の足で動いてくれるのも大きいと言えるだろうしな。
偶然とは言え、様々な事が噛み合った結果と言える。
まあ、それも結果的には、と言ってしまえば、結局はそれまでの事なのだが。
「上から押し潰された様に崩れ落ちて尚、燃え続ける山小屋を見詰めながら私は生きている事に安堵し…
同時に困惑もしました
私自身が選んだのは彼女を助ける事でしたが…
集めたヤシュレカの入った皮袋は炎の中です
目の前の命を選んだ…
そういう事なのだと一応は納得をしています
ただ、それでも…」
「その選択が正しかったか間違いだったのか…
自分でも判らない、と…」
再び首肯する彼女。
その気持ちは理解出来る。
後になればなる程意外な程簡単に幾つも見えるのが、可能性という物で有る。
そして、付随する様にして生まれるのが疑念と後悔。
だが、その用意さに反して決着を付ける為の答えは、簡単には得られない。
もどかしく、嫌気がする程苦悩し続けていても。
ただ、自分では、見付ける事が困難だとしても。
他者の言動に因って答えに辿り着く事は有る。
それも結構、呆気ない程に単純に、だったりする。
「深く考えれば、迷う事は無いでしょうね
自分を身勝手に敵視した上殺そうとした者と、大事な妹を救う為の薬草…
それが単純な二択であれば私も貴女も迷わずに後者を選ぶ事でしょうから
純粋な選択肢として」
少しだけ逡巡した彼女だが“…そうですね”と自らも納得した様に小さく頷く。
彼女だけではない。
単純な二択ならば、大体が同じ様に選ぶ事だろう。
ただ、前提条件が変われば選択も違ってくる。
「命の危機の迫る状況下で追い詰められての選択です
考え過ぎて何も出来無いで共倒れする位ならば直感に任せてしまうというのも、一つの方法でしょう
或いは、意識的にではなくそういう風に思考より先に本能的に身体が動く場合も有る事でしょう
その場合、多くが理屈より“目の前の命”を優先した選択を取ると思います
貴女が、そうした様にね」
人命と薬草。
そういう風に考え、単純に比べてしまうと迷う事無く人命を選ぶと思う。
溺れている者を助ける際に“今の自分に出来る事”を冷静に判断出来るか訊けば少しは悩むと思う。
平常で有れば、考えてから行動の選択が出来る。
しかし、その状況下に居る場合には咄嗟の反応をする者が多いと思う。
勿論、個人差は有る。
他人よりも、我が身を第一とする者は自分では動かす“自分が関わらない方法”を探すだろうから。
それを悪いとは思わない。
二次被害を考慮したならば下手な真似をしないという選択も間違いではない。
個人の感情や印象・風聞は別にしてもだ。
そんな事をユーシアさんは考えてはいないだろう。
単純に目の前に有る人命を優先したというだけで。
「仮に、そのヤシュレカが二度と手に入らない物なら迷う必要は有りません
ヤシュレカを選びます
ですが、ヤシュレカは再び採取する事が可能…
その一因が、貴女に彼女を救わせる後押しになったと私は思いますよ
彼女を助け、再び頑張ってヤシュレカを集めて戻れば妹さんも助けられる…
結果的に、二人共に助ける事が可能になるでしょう
採取する貴女自身の疲労は物凄いでしょうが、それも自己犠牲的な精神で言えば“自分だけが…”で済む話ですからね
一つの、合理的で理想的な可能性と言える筈です」
長年の疑念と後悔の苦悩に一つの答えを得た。
その事が見て取れる様に、先程までの彼女とは表情や雰囲気が変化している。
それ自体は喜ばしい事だ。
ただ、もう少しだけ古傷を抉る真似をしなくては。
そう思うと本の少しだけ、心が痛んでしまう。
「しかし、現実は非情です
そう何もかもが都合良くは成りません
それ故の選択ですから…」
「…はい、その通りです」
現実を──過去を受け入れ、向き合う為に。
彼女に意識させる。
辛く、苦しくとも。
その先へと進ませる為に。
「私は甘かったのでしょう
先程言われた通り、彼女を助けた後、私は再び山中を歩き回って、ヤシュレカを探して集めました
そして、彼女を連れて山を下り、彼女を家まで送って私は家に戻りました
“これで妹は助かる!”と楽観視していました
…いえ、違いますね
彼女を助けられた事により勘違いしたのでしょう…
“私なら出来る”、と…」
「それは貴女に限っての事では有りません
よく有る、珍しくもない、有り触れた後悔の一つです
誰しもが一度は経験をする成長過程の一端…
些細な不幸な出来事です」
敢えて、淡白で冷めた様に言う事で彼女の懐いている罪悪感を薄れさせる。
俺に反感や嫌悪感を向ける事に為っても構わない。
後を支えるのは俺ではなくマフメドさんだからな。
彼に対しての愛と信頼さえ揺らがなければ問題無い。
とは言え、流石に此処まで色々話していれば彼女自身気付くというもの。
俺の言葉の意図を察して、苦笑を浮かべている。
“貴男の奥様は色々と大変でしょうね”と言いた気に感じた様な気がするけど…気にしない。
関係無い事だしな。
決して、恥ずかしいから、という理由ではない。
恥ずかしくなんてない。
ツンデレでもないから。




