参
それでも、俺に対して懐く信頼から、マフメドさんはユーシアさんを真っ直ぐに見詰めながら頷いた。
それだけで通じ合えるのは深い理解が有るから。
場の雰囲気や話の流れから察する事も出来はするが、承知出来るか否かは別問題だと言えるのだしな。
まあ、古傷を抉り返す様で心が痛まない訳ではない。
ただ、既に遣ってしまった以上は下手に怖じ気付いて引くよりも、突っ切る方が良い場合も有る。
勿論、全てがそうだという事ではなくて、だ。
要は其処の判断が出来るか否かが重要な訳って事だ。
「少し長く為りますが…」
一つ息を吐いてから此方を向いてユーシアさんは話し始める。
その様子に、後ろに控える愛紗達は言葉は判らないが真剣な話なのだと察して、緊張感を高めていた。
細かい内容は兎も角としてどういう類いの話なのか。
それは判っているだろう。
この状況でも察せない様な鈍感さは無いからな。
「私には八つも離れた妹が居ました
二人きりの姉妹という事も有りましたが、ある程度の自覚を持って私は“姉”と為ったからでしょう
兎に角、たった一人の妹が可愛くて仕方無くて…
とても、大事でした」
語り口調が全て“過去形”という事から、彼女の妹は既に亡くなってしまったのだろうな。
…まあ、何かしらの理由で喧嘩・対立・険悪と為って絶縁状態、という可能性も無くはないだろうが。
その場合、彼女が額と頬に負う事に為った火傷の元凶とは、その妹、という事が濃厚になる。
けれど、彼女自身は勿論、マフメドさんを見る限りは誰かに対して憎悪・嫌悪を向けている、という感じはしなかったりする。
当然、俺が感じ取れない程二人が自制心が強かったり俺が鈍いという可能性等も十分に有り得る訳だが。
その辺りは華琳達妻からは賛否両論有ると思う。
「私自身、兄姉を欲しいと思っていましたし、自分が姉と為るなら弟妹も良いと思っていましたから…
母が身籠ったと知った時、妹が産まれた時、本当に、本当に…嬉しかったです」
その口調や声音は穏やかで懐古の念よりも、今もまだ変わらず大切に思っているという印象を受ける。
よく有る、下の子が産まれ自分が構って貰えなくなり褒めたり、構って貰いたいという欲求から御手伝いや勉強を頑張って気を引く。
長子には特に、そういった傾向が出易いという。
勿論、全てが全てではない事は言うまでもない。
今言える事は一つだけ。
ユーシアさんにとっては、妹さんは大切な存在だったという事だろう。
過去形な理由から考えて、亡くなっていると見るのが妥当な線だろうとは思うが決して、彼女が妹さんへの想いを失ってはいない。
ただ、死した者への想いは届く事は無く。
ただただ、生きる者の中で燻り続けるだけ。
移ろい、褪せ、枯れゆき、過ぎ去る事もまた、一つの正しさではないだろうか。
忘れる事で、前に進める。
そういう想いも世の中には在るのだから。
ただ、その答えに絶対的な正解は無いだろう。
結局は人各々なのだから。
その人自身が選び、決める事でしか解決はしない。
忘却も、復讐も、後悔も、敬愛も、悲哀も、追憶も、全ては、その人次第。
人の数だけ、正しいと思う答えは有るのだから。
(…まあ、そういう方向に考えられないから、色々と苦悩し、後悔もする…
そんな物だからな…)
俺も、華琳達も、皆。
何かしら、そういった物を抱えていたし、越えて来て今に至っている訳だ。
一度の後悔も失敗も無い、完璧な聖人君子なんて者は存在しない。
どんなに小さく些細でも、後悔と失敗を繰り返して、人は成長するのだから。
尤も、だからどうなんだと今の状況を客観的に見れば思うのだろうが。
そういった突発的な思考に傾くのも人なのだと思う。
集中力の問題とも言うが。
「ある程度歳が離れていた事も有ったからでしょう
少しずつ大きくなってゆく妹の成長がとても楽しみで喜ばしい物でした
それこそ、普通なら近所の仲の良い友達と一緒に色々遊んでいる時期でしょう
ですが、私は遊ぶ事よりも妹の面倒を見ている方が、楽しくて嬉しかったんです
それだけで良かった…
私はそう思っていました」
静かに語るユーシアさんの様子に特に目立った変化は見られない。
マフメドさんも同じだ。
と言うか、マフメドさんはかなり落ち着いている。
その様子から感じ取って、浮かぶ可能性が有る。
…恐らく、ではあるが。
二人は幼馴染みという事は無いのだと思う。
そう思える根拠としては、彼は感情面では素直だ。
特に一度気を許した相手に対しては。
だから、彼が平静を装い、感情を抑えているとは俺は考えてはいない。
話は知ってはいる。
大切な者を失った経験なら彼だってしている。
ただ、それでも、だ。
如何に己が妻の妹の事でも会った事も無い相手に対し深い感情を懐くというのは中々に難しい事だ。
時に、そういった温度差が夫婦や恋人としての関係に罅や亀裂を生む事も有る。
この二人に関して言えば、心配無いとは思うけどな。
二人の互いに対する信頼は揺るがないだろうし。
見ていると俺達に似ている雰囲気が有るからな。
…惚気じゃないけどね。
淡々と話すユーシアさんの呼吸の為の少しの間。
小さく、本当に僅かな変化だっただろう。
本の一瞬だけだった。
ユーシアさんの表情に──口元に滲んだのは深く濃い憤怒と悔恨。
其処に憎悪や嫌悪の感情が混じってはいない辺りから自己嫌悪の類いか。
話す事に躊躇いが有る様な感じはしないが。
切り替える様に、短く息を吐いて話を続ける。
「普通に考えれば、ですが下の子の面倒をよく見れば親に褒められる物です
勿論、私の両親も、父方の祖父母は私の事を褒めて、喜んでくれていました
それ自体は素直に嬉しいと思いもしましたし、私自身遣る気にも繋がりました
ただ、それ以上に家族より周囲からの私の評価の方が高かった事が問題でした
特に、“ユーシアちゃんはしっかりしてて偉いわね
ほら貴方も少しは見習って遊んでばっかりいないで、家の事を手伝いなさい”…
そういう事を言う訳です」
それは、ある意味よく有る有り触れた話。
彼女や彼女の家族には全く悪気や非は無い。
しかし、それが逆に面倒な要因でも有ったりする。
親や祖父母が自慢するなら聞かされる方は嫌気が差し適当に流したりするが。
一部、変に対抗心を燃やし“あの子にだって出来るのだから頑張りなさい!”と強要する親等が居る。
こういう親等は子供よりも“自分の為に”と加えると納得出来てしまう。
要するに周囲からの評価や世間体ばかり気にしている自己顕示欲の塊だから。
或いは、下らない自尊心の塊だと言えると思う。
この傾向は女性の方に多く見られると思う。
一種の嫉妬だからか。
それとも劣等感と優越感が原因なのか。
その辺り、明確には原因を定義出来無いだろう。
微妙な問題だからな。
ただ、それは世間の考える以上に重大な事だろう。
時には虐待に繋がる場合も有ったりする社会問題だと個人的には思うのだけれど何故か教育問題等としては取り上げられない。
“そんなのは家庭の問題で社会的には関係無い”等と考えいるのだろうか。
実際には、学校より家庭に原因が潜んでいる事が多い様に思うのが教育問題だと考えているんだがな。
まあ、少なくとも宅では、そういう問題が見えたなら最優先で改善するがな。
経験を積んだ老者は強く、有能だと思う。
だが、時代を切り開くのは常に若き者である。
若き芽を育てる為にこそ、老者は尽力をすべき。
老者達が権力に溺れている社会には碌な未来は無い。
彼等は知るべきだろう。
落葉は肥やしと為り初めて真価を得るという事を。
ユーシアさんの話の展開が何と無く、見えてしまう。
正直、話を聞いている方も複雑な心境になる。
そういう類いの事だと。
「…それでも、私自身から意識して──両親や家族、周囲から褒められたいとか認められたいから、という理由が有っての事でしたら良かったんでしょうね…
そういう“態とらしさ”が有れば“嫌われるだけ”で済む単純な話ですから…
…ですが、私自身には全くそういう意識が無いという事が事態を拗らせます」
「…所謂、“他人は他人、自分は自分”と考えたり、言い訳する事で親等からの強要を躱そうとする
それにその相手は普段から遊ぶ事が無い──或いは、遊ぶ事が少なくなった者…
気にする事も無い、という風に考える訳です
別に、自分達を困らせたり嫌がらせをしているという訳でもないですからね…」
どうしようかと悩んだが、敢えて此方からも会話へと加わる事にした。
彼女だけに喋らせるには、話の内容が陰湿だからな。
彼女の精神的な負担の軽減という意味合いも含めて。
「そうなのでしょうね…
しかし、親等からの小言や強要は増える一方で…
勿論、言っても無駄な事と言わなくなる方も居るとは思いますが…」
「当時、貴女の周囲に居た大人達は執拗に繰り返し、子供達に強要していた…
勿論、自主的にさせる事が目的でしょうから、体罰や暴力の類いは極力行わない方向で、でしょうけど…
子供からしてみれば、毎日毎日毎日毎日毎日…
同じ事を言われ続ければ、鬱陶しいという度を越えて憤怒に変わるでしょう
日々積み重なった苛立ちも合わせ、その矛先が貴女に向けられてしまった…」
「…はい、その通りです」
それは予期しない、という事の方が難しい流れ。
まだ十歳前後の子供達から見れば大人は怖い訳で。
必然的に弱い相手に対して矛先は向けられる。
しかも、彼女は妹の世話を好んでしていた為、友達は居ないに等しい状態。
つまりは孤立無援。
助ける者は先ず居ない。
攻撃しても反撃されたり、誰かが告げ口をしたりする可能性も低い。
そう、考えた訳だ。
時代も、世界すらも違うが“いじめ”問題というのは根幹部分は変わらない。
その遣り方と陰惨さだけが変わるだけで。
そして、解決も改善も無く軈て忘れ去られ、無意味に繰り返される。
犠牲者の、遺族の叫び声は届かないままに。
世間は“他人事”のままで終わらせてしまう。
そういう事が当たり前の、歪んだ社会に生きていると全く気付かないままに。
此方から話の流れを読んで口にしたからだろう。
ユーシアさんの口から当時有った事が語られるという事にはならなかった。
正直、詳細を聞きたいとは思わないし、それを彼女に話させたいとも思わない。
ただ、肝心な部分に繋がる起因だけは聞けた。
それだけで十分だろう。
この手の話は聞いていると憤怒と殺意しか沸かない事だからな。
「…内容としては暴力等は有りませんでしたので…
それが不幸中の幸いかと…
子供でも、私が痣や傷痕を負えばバレてしまうという事位は判りますからね…」
「嫌な知性ですけどね…」
つい、出てしまう本音。
愚痴に近い一言。
自分でも不要な失言だとは口にした後で思う。
…何で、出たかな。
それを聞いて彼女は驚き、反射的にマフメドさんへと顔を向け──理解した様にクスッ…と笑った。
今までの話の内容と異なる彼女の仕草に場の空気が、呆気に取られてしまう様に容易く弛緩した。
それは当事者である彼女が場の空気の中心である事と彼女が生まれ持つ本質的な母性の影響なのだろう。
後、多分実際に子供も居る母親なんだと思う。
今の華琳達には出せない、“深さ”を感じるしな。
だから、俺も無意識に口が滑ったんだろうな。
マザコンじゃないけど。
マザコンでは有りません。
「宅の人が貴方を信頼する理由が判った気がします」
不意に優しく微笑みながらそんな事を言われた為に、俺とマフメドさんは思わず顔を見合わせる。
「……」
「……」
数秒、無言のまま見合って同時に視線を外した。
多分、思春期の男友達との下らない馬鹿な事で、妙に盛り上がっている様な所を姉か母親に見られた様な、そんな感じだと思う。
何とも言えない羞恥心と、ふふっ…と笑う彼女の声が妙に心の奥に響いている。




