9 潜み蠢く災 壱
此方を──俺の姿を見て、声を上げた男。
驚いてはいるが、その顔に浮かぶ感情は嫌悪に類する物ではない。
寧ろ、好意的な感情だ。
その歩みを進める内に。
その距離が縮まる内に。
驚きは薄れ、目尻には涙が浮かんでいた。
曾ては伸び放題だった髪も短く切り揃えられており、所謂、“角刈り”になって精悍な印象を受ける。
黒髪に混じる白髪は年齢を感じさせるよりは、風格を彼に与えている。
また無精髭も綺麗に剃って清潔さが増している。
と言うか、以前は髭を剃る余裕も気力も無かったので仕方が無い事だろう。
しかし、曾ては行き倒れも同然だった人物だとは今の彼を見て思う者は少ないと言えるだろう。
元々長身で細身だったが、“もやし”と言っても誰も否定しない様な身体付きのひょろっとした印象だった彼であったが、今目の前に居る彼は別人の様だ。
気候上、長袖長丈の衣装に身を包む事が殆んどだが、衣服から覗く手や首元等を見る限り、鍛えられている感じが見て取れる。
但し、武の鍛練等に因ってという訳ではない。
農家や漁師の男性の様に、日々の生活に因って自然と必要性に伴って鍛えられた筋肉だと言える。
それも当然と言えば当然の事なのかもしれない。
行商人として共に旅をし、苦楽を分かち合ってきた、親友を亡くした失意の先で一から遣り直した。
行商人として続ける為には語学力が必要不可欠。
けれど、残念ながら彼には其方らの才能は無かった。
しかし、商人としての才はあの時、自分が感じた様に確かに有った訳で。
彼は此方に戻って来た後、祖国の地に根差した商家を立ち上げた。
そして、商人として着実に成長し、大きくなった。
何しろ、このコーカンドで一、二を争う大商家であり大宛──フェルガナ内でも五指に入る大商人だ。
別に贔屓目ではない。
それだけの努力を重ねて、彼は今に至る地位と実績を築いたという事。
そんな些細な切っ掛けが、自分との出逢いだった。
ただそれだけの話で。
「御久し振りですね
御元気でしたか?」
笑顔で再会を喜びながら、右手を差し出し彼と握手を交わそうとする。
「はい、この通り御陰様で無事に帰り着く事が出来、家族とも再会出来ました
これもヒエイ殿のお陰です
本当にっ、本っ当ーにっ!
有難う御座いましたっ!」
そう言いながら彼は両手で俺の右手を包み込みながらしっかりと握り締めると、深々と頭を下げる。
そんな彼の後ろ側に見える驚愕している人々。
恐らくは彼の商家に所縁の者達や客なのだろう。
中には普通の一般人も居るかもしれないが。
彼程の人物が見知らぬ──肌の色も含めて、明らかに“余所者”に頭を下げれば当然の反応だろうな。
事情を全く知らない愛紗達ですらも驚きを隠せないで戸惑っているのだから。
仕方が無い事だと思う。
関羽side──
コーカンドの都に入ると、素直に驚いていた。
魏内──旧・漢王朝領時も変わらないのだが、涼州と并州は緑が少ない方だ。
それは地形的な問題も有り仕方無い事だとは思う。
それでも、同国内の東西で極端に違う事は無い。
幽州の東端と涼州の西端。
その差が大差無い様に。
勿論、南北の差は別だ。
幽州と交州では自然環境・存在する動植物の種類等はかなり異なるのだから。
…交州に行った事?
“非公式”でならば以前に雷華様の定期採取に同行した事が有る。
まあ、飽く迄も自然の中に限定されてはいたが。
無いとは思ってはいるが、絶対に気付かれない、とは言い切れない為である。
気付かれても問題の少ない西域諸国とは事情が異なり交州等にて認識される事は今後の流れにも関わるので避けて然るべき事。
(まあ、そういう事よりも今はコーカンドの緑豊かな街並みの方なのだがな…)
私達はコーカンドに観光に来ている訳ではない。
そう頭では判っていても、私でも人並みには好奇心が有るというものだ。
周囲に視線が全く行かないという事は無い。
雷華様も特に咎めない為、翠と螢はキョロキョロして表情をころころと変える。
螢に関しては私達が身内で慣れているからというのが判別可能な理由だが。
そうしながら歩いて行くと商家らしき店舗の店先にて此方を見て凄く驚いている男性が居た。
景観の違いは有るけれど、衣装的には長袖長丈という共通点の有る事。
そして、江水辺りから南に多い褐色の肌よりも色黒の肌をしている事。
それを除けば、海千山千の曹家直属の商人にも通じる雰囲気を持っていると一目見て感じ取る。
その歳の頃は三十後半から四十半ば位だろうか。
長身で細身ではあるのだが軟弱さは窺えない。
…武の気配はしないが。
そんな男性に対し雷華様は笑顔で話し掛けて握手。
相手の男性の様子からして雷華様が“男性”なのだと知っているのでしょうね。
雷華様の反応は自然ですし苛立ちは有りませんから。
ですが、雷華様。
多分、気付いておられない──と言うより、考えたくないのかもしれませんが、その方の後ろに居る人々は雷華様に対し頭を下げている事ではなく──いえ、それも有るとは思うのですが、それよりも“美しく麗しい女性に”と思っている筈ですよ。
言葉には出しませんが。
私でも、雷華様が見知らぬ女性に対し、男性みたいな態度を取れば驚愕するとは思います。
だから、後ろの人々の今の気持ちは察せます。
雷華様、自業自得ですのでどうか機嫌を悪くしないで対応して下さい。
──side out
…はて、何だろうか。
後ろに居る──恐らくは、愛紗だと思うのだが。
…何か、癇に障る気が。
…まあ、今は気にしないで遣る事を遣るんだけど。
何なんだろうな。
気には為るんだよな。
遣る事が終わったら、宿で愛紗に訊いてみるか。
訊くは一時、だからな。
「いえ、それ程の事では…
私はただ、当たり前の事をしたに過ぎませんよ」
「そんな事は有りません!
貴男に助けて頂かなければ私は間違い無く死んでいた事でしょう!
仮に、運良くあの船内では飢え死にする事が無かったとしても、此方に帰る事は出来なかったでしょうし、その結果、やはり何処かで行き倒れ飢え死にしていたでしょうから…
貴男に出逢えなければ私は祖国の土を踏む事は絶対に出来なかったでしょう
大袈裟だと思われるのかもしれませんが…
私にとっては間違い無く、貴男は大恩人なのです」
──と、熱く、熱く語られ拒否反応から反射的に足が後退りをしてしまいそうになってしまう。
勿論、気合いで自制して、反応を抑え込んだけど。
暑苦しいマッチョが相手のシーンではないのだけれど同じ位に気が滅入る。
いや、悪い奴ではない。
これは飽く迄も俺の方の、個人的な問題な訳で。
華琳が居れば“捻くれ者の貴男には逃げたくなる様な真っ直ぐさね、折角だから爪の垢でも貰ったら?”と揶揄う様に笑みを浮かべて言うのだろうな。
…逆の立場でも俺は華琳に言うと思うし。
ただね、俺には打算が有り手を差し伸べた訳で。
決して、純粋な善意に因る行動ではない訳ですよ。
其処がまあ、何と言うか、もどかしい訳でして。
要するに“俺ってそんなに持ち上げられる程御立派な人格してませんからね?”と声を大にして言いたい。
言っても反論・否定されてしまうのだろうけど。
だって、こういう印象って自分以外の持つ印象の方が無駄に強固。
結局は此方が折れない限り謙遜しているだ何だかんだ言われ続けるからな。
特に彼とか後ろの三人とか性根が真っ直ぐな人物程、先に折れはしない。
悪意が無い、恩義から来る偶像に因るから余計に厄介なんだよな。
とは言うものの認めるのは後々に面倒な事に為る様な気がしないでもない。
なので、この場でどうにか多少でも印象を変えておく方が良いだろう。
個人的な精神衛生上でも。
「覚えていますか?
あの時、貴男が荷物として所持していた全くと言える程に価値の無い品々を…」
そう返すと彼は先程までの勢いが嘘の様に黙り込む。
決して、罪悪感が有るとか嫌な思い出だから、という事ではない。
ただ、その事を思い出すと必然的に亡くなった友人の姿を思い出してしまうからなんだろうと思う。
性根が真っ直ぐだからこそ複雑な心境だろうから。
その友人の死が有った故に今の自身の成功が有る。
その事実を受け入れ難いのだろうから。
「あの時、正直に言えば、貴男は商人としては甘いと思いました
商人は利に聡く、交渉には私情を挟まぬ事が鉄則です
己が利を放棄してまで民に手を差し伸べていたという貴男方は甘い…
ある意味、商人としては、失格だと言えるでしょう」
厳しい意見だとは思う。
しかし、それもまた一つの商人という者の形なのだと俺は考えている。
そして、彼も判っている。
判っているからこそ静かに俯いてしまった。
恐らく、今の彼の胸中では亡き友人に語り掛ける様に幾つもの言葉が去来して、返事の返らぬ声が谺して、苦悩している事だろう。
その姿を見て、改めて今、彼を好ましいと思う。
「ですが、商人も人です
人の道を外れてしまっては商人とは呼べません
“商いをする人”ではなく利を貪る獣に成り果てては元も子も有りませんから
私は、貴男方の在り方を、心から好ましいと思います
そして、そんな貴男だから亡き御友人は貴男の元へと私を導いたのでしょう
貴男を死なせたくない…
貴男に生きていて欲しい…
貴男に、自分では見る事が叶わなかった祖国の未来を見届けて欲しいと…
想いを託したのでしょう
そういう想いが起こしたと私は思っています」
「…彼奴が…ラフシャンが私を…私に…託した?…」
そんな気配は無かった。
これは完全な俺の作り話。
しかし、そういう風に思う事で納得出来てしまうのも人間という生き物だ。
葬儀・葬式とは死者の供養だけではなくて、残された生きる者達の為に有る。
「貴男方によって救われた沢山の貧しい民の想いが、亡き友人の貴男への想いが私と貴男を引き合わせた
そういう事だと思います
だから、貴男は貴男の道を真っ直ぐに歩んで下さい
きっと、それを亡き友人も望んでいる事でしょう」
「…っ…はい……はいっ…
有難う…御座いますっ…」
…少々、盛り過ぎたのか、泣かれてしまった。
まあ、これで俺に対しての美化補正は薄れた筈。
……薄れたよね?
更に上乗せされてたりは…うん、無いと思いたい。
馬超side──
相変わらず、雷華様以外は言葉が判らないから会話の内容がさっぱり判らない。
まあ、それも今更な事だし特には気にしない。
気にならないって訳じゃあないんだけどな。
ただ、ローランでの時とは違う意味で今回は雷華様が何を言ったのか。
それが気になってしまう。
だってさ、どう見ても歳が私達より倍近いだろうって大の大人が衆人環視の中で泣き崩れるとかって。
普通、有り得ないだろ。
しかも、最初は何か物凄い雷華様に感謝して尊敬して崇拝してますって感じが、雷華様の言葉で一転して、後悔なのか、苦悩なのかははっきりしないけど俯いて変な緊張感の有る雰囲気に為ったと思ったら、だ。
あまりに変化が大き過ぎて口調や語気、表情や態度で会話の雰囲気を察している私達には付いて行けない。
軍師の螢は──どうしてか貰い泣きしているし。
言葉は判らないから勝手に色々と想像したんだろう。
でもな、あの流れから何をどう想像したら貰い泣きが出来るんだろうな。
私には理解出来無い。
或いは、単純に泣いている男の姿を見て、か。
(悪い意味での涙じゃない事は理解出来るし…
それに雷華様だからな…)
雷華様が泣かせる場合は、大抵が“人誑し”としての側面が強い。
私自身も経験者だからな。
その効果は知っている。
ただまあ、二人の様子から考えると曹魏へと引き込む意図は無いんだろうな。
単純に、過去の何かに対し“後押し”をした。
そんな所なんだろう。
しかしまあ、大の大人さえ簡単に泣かすとか。
雷華様、凄過ぎだろ。
と言うか、容赦無いな。
──side out。




