肆
動かなくなったアムニタを見下ろしながら近付くと、傍らに屈んで胸元に右手を伸ばし──服を破る。
「──なっ!?」
「──っ!?」
「うげっ…何だよ、これ…
気持ち悪ぃな…」
驚く愛紗や螢の反応よりも真っ先に“嫌悪感”を出す翠の反応に胸中で苦笑。
ある意味、大物だよな。
しかし、その反応も当然と言えるのかもしれない。
破れた服の隙間から見えるアムニタの身体。
その胸元──心臓の位置に皮膚が赤黒く腫れ上がった痣の様な物が有った。
それは人面の様にも見え、“怨念”を連想させるには十分だと言えた。
「…これが、今回の騒ぎの元凶、ですか?」
小さく息を飲んだ愛紗が、色々と浮かんでいるだろう疑問や質問を抑え込んで、今一番重要な点を訊ねる。
こういう時、素直な意見は良くも悪くも質問した者の得たい事“だけは”、知る事が出来る。
ただ、その内容が必ずしも必要な事だとは限らない。
その時と場合によっては、貴重な時間や機会を無駄に消費する事にもなる。
だから、こういう状況での第一声は色々な事を踏まえ判断出来る者がすべきで、本来は軍師の役目になる。
勿論、螢の様に、ある程度情報を収集し整理してから動くタイプ等も居るので、必ずとは言えない。
そういった時に愛紗の様に文武官として通用する者が一人居ると大違い。
的外れな質問等はしないし脱線し難いからだ。
「このローランの騒動の、だけどな」
「大宛の方は別ですか…」
早期解決に至らず“残念”という様に小さく溜め息を吐く愛紗。
だが、その一方で嬉し気な雰囲気を滲ませているのを見逃しはしない。
しかし、其処を突っ突いて揶揄うか悩んでしまう。
反応は良いだろう。
それは期待通りだと思う。
ただ、話が脱線してしまう点だけが気になる。
「──って事は、もう暫く一緒に旅が出来るんだな
良かったよな、愛紗」
「──っ!?」
──と、俺が逡巡する間に翠が躊躇せず指摘した。
それを受けて、愛紗の顔が一瞬で朱に染まった。
冷静に聞いていられれば、“良かったよな”と言ったという点から翠自身も同じ様に思っていると受け取る事が出来るのだが。
愛紗の様な生真面目さんは其処に“後ろめたさ”等を感じてしまう訳で。
心中を見透かされた感じを強く意識してしまう。
それにより、焦る訳だ。
「な、なななっお前は一体何を言っているのだっ!
我々は速やかに事を解決し戻るべきこそが最良であり果たすべきで──」
そして、始まる言い訳。
黙って聞いていると一応は筋が通る尤もらしい言葉が列挙されるのだが。
実際は結構、突っ込み所が多かったりする訳で。
そういう所を悪気は無く、容赦も無いまま翠みたいなタイプは切り返す。
後はもう、御決まり。
愛紗の羞恥心が爆発するか運良く翠が納得して退くか二つに一つとなる。
そんな訳で、二人賑やかに喋っているのを放置して、俺は俺の仕事をする。
アムニタの胸にくっきりと浮かんでいる人面相に向け右手を伸ばし、触れる。
その瞬間、人面相が生きた人間の様に口を開けた。
正確には、アムニタの胸の皮膚や肉が、ガァパッ!と割れて中の臓器が丸見えの状態になる。
そして、左右の肋骨が俺の右手に噛み付く様に動き、迫って来た訳だ。
ただまあ、予想の範疇の事だったりする訳で。
特別驚いたりもしない。
俺は勿論、他の三人もだ。
愛紗は必死に翠に言い訳中だったりするし、翠も話を聞いている状態。
螢は普段通りの様子で今も目の前の状況を冷静に観察していたりする。
…何だろうね。
目の前で必死に抵抗をする今回の元凶が不憫で憐れな気がしてならない。
せめて、相手が違ったなら“見せ場”が有ったのかもしれないのに。
──ふと、そんな事を考え“噛ませ犬”という言葉が脳裏に浮かんでいた。
まあ、其処までの影響力は俺達に無かった訳だけど。
そうこうする間に右手から体内へと至近距離で氣弾を撃ち放った。
いや、ほらね?、生き物の口腔内って基本的には弱点だったりする訳ですよ。
火炎を吐くドラゴンだって御口を閉じたら自滅するし珍しくない話でしょ。
幾ら、直接攻撃を受けない用心して“心臓の裏側”に本体を隠していても。
氣で貫通したり、曲げたら全く意味が無い訳でして。
タスマニアデビルの上げる叫び声よりも少し甲高い、でも嗄れた絶叫を上げて、本体の姿を人前に晒す事も無いままに、今回の元凶は塵一つ残さずに消滅する。
同時に“寄生”されていたアムニタの身体も塵と化し人の形を失った。
螢が羽衣を元に戻し、俺が結界を解くと同時だった。
今まで世界から隔絶された空間だった路地に周囲へと同調するかの様に強い風が吹き込み、アムニタの塵を手を引いて連れ去るが如く巻き上げて、運び去った。
その風の後を追う様にして残っていた外套が宙に舞いバサバサッ…と音を立てて飛んで行った。
鳥が飛び立つかの様な。
そんな情景を重ねながら、空高く、小さくなってゆく姿を見詰める。
その生命が決して無意味で無価値な物に成らぬ事を。
胸中にて、静かに祈る。
路地で“此方の領分”たる一仕事を終え、宿に戻って事の成り行きを見守る。
まあ、“見守る”という程でもないのだが。
其処は、言わぬが花だ。
決して、ローランで唯一、場違いな程にのんびりした雰囲気でまったりしている事を正当化しているという訳ではない、決して。
「──でさ、雷華様
結局は何だったんだ?
アレって孵化させなくても良かったのか?」
寝台に俯せになってまま、スティック・ビスケットを右手の親指と人差し指にて摘まんで口へと運びながら翠が訊ねてくる。
普段は厳しい愛紗が先程の舌戦?によって、戦闘不能状態に陥っている事も有り誰も咎めはしない。
まあ、これがもしも人目に触れる場所だったりすれば俺や螢も注意すりだろうし流石に翠も自重する。
宿の部屋という、一時的な私室に近い空間だからこそ許容されている訳だしな。
因みに愛紗は布団ツムリ。
「ああ、それは大丈夫だ
感情等を糧にして力を増すという部分では同じだが、アレは孵化の必要は無い
と言うか、既に“成体”と呼んでいいからな」
「…それはつまり、アレはその力を増す事は有っても姿形を変えたり、後天的に特異な能力を発現したりはしないという事ですか?」
俺の隣に座り、翠と同様にスティック・ビスケットを食べている螢が訊く。
翠が複数本摘まむのに対し螢は一本ずつ摘まむ。
性格が表れていると思うが決して口には出さない。
翠が拗ねるだろうから。
別に悪い事ではないのだが翠は普段の言動に比べて、中身はかなり乙女だ。
“私は女らしくないし”と言う割りには“女らしく”扱うと嬉しがるからな。
翠の可愛いらしい一面だ。
決して口には出さないが。
「正解──と言いたいが、少しだけ認識が違うな」
「…認識、ですか?」
こてん…と小首を傾げつつぽりぽりと栗鼠の様に食べ進める螢の姿は凶悪だ。
思わず抱き締めたくなる。
勿論、二人きりだったり、他にも妻達が一緒に居ても普通の団欒中だったら特に我慢はしない。
衝動に任せて抱き締めて、撫でている所だろう。
ただ、今は布団ツムリ中の愛紗が居るからな。
流石に気を遣う訳です。
もし仮に此処で遣ってたら色々と大変だろうからな。
この後、何事も無いのなら愛紗復活の打開策としても有りだと言えるのだが。
現状では難しい訳です。
と言うか、まだローランは騒動の真っ最中だからね。
つい忘れそうだけど。
「確かに“生きた呪具”、という点では同類だ
何方等も世に災いを招き、争乱の起因になるしな」
そう言うと、螢も翠も──布団を被ったままの愛紗も頷いてみせる。
愛紗に関しては布団が少し上下しているのだが。
其処は追及はしない。
アレ等が何なのか。
どういう存在なのか。
詳しくは理解出来ずとも、世にとって“良くない物”という事だけは判る。
判っているからだ。
「んー…簡単に言えばだ
両者の違いは有限か無限
その一点だな」
「違いは有限か無限…ってそれってつまり今回の場合アレには“上限”が有ったって事になるのか?」
「まっ、そういう事だな」
そう言うと翠は食べ掛けを右手に摘まんだまま布団に顔を埋める様に突っ伏し、螢も珍しく大きな溜め息を吐いて項垂れていた。
丸まっていた布団ツムリも塩で溶け掛けの蛞蝓の様に張りを無くしている。
まあ、その気持ちは判る。
何しろ、あの“望映鏡書”と“同等なんだろうな”と三人は考えて対応していた訳だからな。
それが実は最初から今回は上限が有って、孵化させる必要性も無かったと判れば脱力もするだろう。
──但し、だ。
「もしも、最初から上限が有ると孵化の必要が無いと判っていたなら、お前達の対応は違ったのか?」
『…………』
そう訊けば、三人は無言で“…それはない、と思う”という感じを滲ませる。
実際、知っていたとしても今の三人に出来る対応策は結局は変わらない。
違いが有るとすれば、精々緊張感の度合いだろう。
もう少し気楽に遣れた。
その程度の差でしかない。
しかし、その僅かな違いに実は大きな意味が有る。
「俺自身、あらゆる事柄に精通している訳ではないし知らない事の方が多い
もし全知を求めるのならば“永遠の命”を得ても尚、不可能だと言える
何故なら、過去の数だけ、未来の数だけ、不知の事は存在するのだからな
到底、追い付けはしない」
時間を止め、過去の全てを知っても尚、把握するより遥かに早く世界には新しい事象や情報・知識が次々と増え続けるのだから。
追い付けたとしても一瞬。
次の一瞬では既に遅れる。
「“最善の判断”は知識に依存する物ではない
そして、必ずしも結果的に最高であるとも限らない
だからこそ、積み重ねる
だからこそ、力を尽くす
それを覚えていて欲しい」
人間は楽を望む生き物だ。
便利になるのは良い事だ。
だが、忘れてはならない。
それらが必ずしも“世界”にとっての最高ではない、という可能性を。
それを忘れた時。
“世界”は必ず人間に対し牙を剥く事を。
「…あれ?、雷華様?
結局の所、アムニタってさ操られてたのか?
それともアムニタの意思で動いてたのか?
あと、アムニタの状態ってどうだったんだ?」
顔を上げた翠が思い出した様に訊ねてきた。
少々説教染みた事を言われ不機嫌に為りそうな所だが流石に慣れている様で。
ちゃんと俺の言いたい事を受け止めて、向き合える。
それが出来る様に成長し、血肉と成っている。
それを嬉しく思う。
まあ、恥ずかしいから面と向かっては言わないが。
「アレは寄生した対象から糧を得る事はしない
しかし、一旦寄生されると生きた“人在らざる者”に存在が変質してしまう
肉体ではない、という点が少し厄介な所だな
だから普通に氣を探っても人間としか感じないしな
だが、存在が変質した以上普通には生きられないし、死んでしまえば塵と成って消え去るしかない」
それは見た通りの結末。
つまり、寄生された時点で助かる術は無いという事。
勿論、俺達夫婦位に成れば寄生自体を赦さないが。
普通は無理だと言える。
それだけでも普通に考えて十分な“災い”だろう。
「基本的な行動の判断等はアムニタ自身の意思だな
但し、アムニタの攻撃性や破壊衝動を強めていたのは間違い無いだろうな」
「へぇー…ん?、でもさ、その割りには表立って動く感じは無さそうだった様に見えたんだけどな…」
「ああ、それは精神侵食が思った程は進んで無かったというだけだな
アレ自体が、目覚めてから然程経ってなかったから、なんだろうけどな」
そう説明すると翠は納得しスティック・ビスケットを食べながら、布団ツムリを弄り始めた。
普段の集中力は子供並み。
だが、それで助かる。
実は今回の件は俺にしても予想外だった。
その為、色々とバレそうな危険性が有った。
さらっと翠が流してくれた事には感謝だ。




