弐
思い掛けない真実。
それが良い意味であろうと人は衝撃を受ける。
その程度は内容であったり個々の性格等にも因るので一概とは言えない。
ただ、どういった物であれ精神や思考に動揺を与える効果は有ると言える。
「彼奴と初めて有った時、互いに理解していた…
決して、歩み寄れぬとな」
そう言いながら近付いても糞女の反応は鈍い。
と言うより、無反応だな。
一応、此方の声は耳に届き聞こえてはいる筈だ。
自分の声を、言葉を、遮る存在は無いのだから。
しかし、その様子を見れば茫然自失となっている。
動揺する事は想定内だが、こうまで効果が有るとは…ある意味では予想外だ。
まあ、悪い事ではないので特に気にはしないがな。
「だが、彼奴は甘かった
お互いに──いや、お前も含めて相容れない存在だと理解しながらも、下らない妄想を懐き続け、情けを掛けてきた…
或いは、国や民を巻き込む事を恐れたのかもな…」
そう話し続けながら近付く此方に対し、反応は無い。
警戒はしているが…恐らく演技ではないだろう。
単純に事態に付いて行けず混乱している、というのが実際の所だろうしな。
此方にとっては好都合。
態々、正気に戻す手伝いをしてやる必要も無い。
「その結果が、この様だ」
「──っ!」
──と、その瞬間だ。
此方を射殺すかの様に鋭い眼差しと殺気を向ける。
それは意識的にではない。
無意識の抵抗だろう。
言葉を発していない時点で此奴が正常ではないという事は理解出来るからな。
「そして、全てが終わる
──いや、始まる訳だ」
抑え切れない歓喜。
それが身体にも現れる。
釣り上がる口元、小刻みに震えている肩や腕。
上擦り、大きくなる声。
それは今にも溢れ出して、自分を飲み込みそうだ。
だが、今少しの辛抱。
それは成し終えてからだ。
右手を背後に回し、腰紐に括り付けていた皮袋を取り外し、態と視界に入る様に目の前に持ってくる。
燭台の明かりに照らされた皮袋は下側が大きく膨れ、見た目にも十分に、重みを感じさせている。
その膨らみ張っている皮の表面がグニャリと波打つ。
それを見た、糞女の表情が初めて大きく歪んだ。
中身に気付いた様だ。
「この量を用意するのには少々手間取らされたが…
それだけの価値は有る」
燭台を足元に置き、左手で皮袋の口を握り締めながら右手で口を縛っていた紐を解いて緩める。
僅かに空いた隙間を察知し皮袋は大きく蠢き出す。
「王女は賊徒に連れ去られ監禁されていた洞窟内にて“不幸な事故”によって、その生涯を閉じるのです
ククッ…その様に後世には伝えられる事だろう」
そう言うと、糞女は奥歯を噛み締める様に唇を結び、此方を睨み付けてきた。
だが、全てが手遅れ。
此処に、我が悲願は成る。
「──それはどうかな?」
『────っ!!??』
唐突に響いた声。
それだけでも驚愕するには十分だと言える。
何故なら、此処に入るには自分の部屋を通る以外には方法が存在しない。
その自分の部屋の入り口も内側から閂をして閉じた。
もし、力任せに打ち破って入って来たのだとすれば、この地下道の中に、その際生じる轟音が鳴り響く事に為るのだから、気付かない筈が無い。
この地下道は非常時の為に用意された脱出用だ。
当然、出口は存在する。
都から北東に進んだ場所、岩山に幾つも存在する浅い洞窟の一つに繋がっている事も確認している。
ただ、この出口は内側から開かなければ開ける事自体不可能な造りだ。
当然ながら、確認後に閉め忘れたという事は無い。
つまり、自分達二人以外に此処に誰かが居るという事自体有り得なかった。
しかも、その“誰か”が、有り得ない事だった。
「──っ、ぐぁはっ!?」
あまりの事に動揺・混乱を起こしてしまったが直ぐに思考を破棄し、切り替えて背後に振り返った。
──直後、白んだ視界。
続け様に襲う、右の頬への大きな衝撃。
その衝撃に身体は逆らえず振り返った際の捻りも有り変な風に身体は回転。
壁際へと倒れ込んだ。
それでも、気を失ったりはしなかったのは幸いか。
頬に有る熱と痛み、口内に感じる血の臭いと味が。
自分の意識を強めている。
右手を石畳に付き、身体を起こしながら確認する。
燭台は落としてしまったが左手に持つ皮袋からは手を離していなかった。
無意識に、なのだろう。
その危険性を知っているが故の事かもしれないが。
それだけは、安堵する。
少し頭がフラつく感じだが殴られたのだし、仕方無い事だと思う。
他には異常は感じない。
「………ぇ?……え?…」
そんな中、聞こえた声。
自分と同じ様に──いや、それ以上に驚愕し、事態が理解出来無いでいる糞女。
それはそうだろう。
何故、どうして、此奴が、此処に居るのか。
まるで理解が出来無い。
「……た、隊長…?」
「“遅よう”だ、お姫様
しっかり目を覚ませよ?」
そう言って奴──アラド・ビュレエフは糞女を見て、普段と変わらぬ笑みをして糞女を拘束していた荒縄と皮袋を右手に握る剣により簡単に切り裂いた。
──side out
ビュレエフside──
間一髪、という所だった。
スミエラ様の拘束を解き、此方の様子を窺っていると思われるグレナディンへの警戒は怠らない。
己の甘さが如何に無意味か嫌という程に痛感したし。
…まあ、本当の事言えば、実際はグレナディンが牢の格子に急接近していた所を目撃していたりする。
つまり、それよりも以前に牢屋が見える所にまで来て潜んでいた訳だが。
(しかし、此処までとは…
彼女が我々の敵ではなくて本当に良かった…)
とは言え、互いに国に属し仕える一人に過ぎない。
今後の両国の関係次第では敵対する可能性も有る。
勿論、個人的な意見だが、そんなつもりはない。
それはスミエラ様も同じ筈だろうしな。
だから、其処までの心配はしてはいない。
慢心・油断はしないが。
「…何故、此処に居る?
“渇く赤”の掃討戦の為に軍を率いて都の外へと出た筈のお前が何故っ?!」
冷静だった口調も話す内に語気が強まっている。
それも仕方無いだろうな。
逆の立場だったとしたら、理解すら出来無い。
ただ、苛立ちだけを募らせ困惑するだけだろうから。
「此処へは“俺”の部屋を通ってしか来れない!
しかもお前が出て行くのを確かに見届けたのだ!
仮に戻ってくるにしても、隊の中にも、全ての門にも監視を置いていた!
それなのに何故だ!
何故、お前は此処に居る!
何故なんだっ!」
ゆっくりと身体を此方へと向けると、壁に凭れながら立ち上がるグレナディン。
そのまま、感情に任せて、声を荒げている。
自分を“俺”と称する姿は初めて見た気がする。
それだけ目の前に居る男は用心深く慎重だったという事なのだろう。
敵ながら見事だと思う。
「一応言って置くが、先にお前の部屋から入っていた訳ではない
それならば、スミエラ様を先に助けているからな」
そのままにして誘き寄せる囮にする真似は──いや、スミエラ様自身が遣りそうな気がするのは考えない様にしよう、うん。
「だったら…まさかっ!?
あの出口を開けて入ったと言うのかっ?!
馬鹿なっ!、有り得んっ!
そんな事が──」
「──俺が此処に居る
それが全てだと思うがな…
それとも、お前は悪夢でも見ているというのか?」
「──ぅぐっ…」
野望が叶うという、その目前で全てが崩れ去る光景は正に悪夢だろう。
だが、これは現実だ。
紛れも無く、俺は居る。
彼女の協力無しには決して辿り着けない場所に、な。
「馬鹿な馬鹿な馬鹿なっ!!
有る訳が無いっ!
そんな事出来る訳がっ!」
右足を石畳へ何度も何度も叩き付け、癇癪を起こした子供の様に喚く。
感情的になった事が無い。
だから、今の懐いた感情を持て余しているのかもな。
飽く迄、推測だが。
「…おい、立てるか?」
グレナディンからは視線を外さずに、右斜め後ろ側に座っているスミエラ様へと話し掛ける。
一応、奴の足音に紛れ込む程度の声量で、だ。
口調が丁寧ではない点は、長年の習慣の様な物だ。
他者が相手や公式な場では話は別なんだが基本的には“自分の部下”として扱い接している。
だから、今も意識しないと普段通りに言ってしまう。
まあ、今更気にする様では“保護者”なんて務まらないからな。
「……?……おい、聞いて──っ!」
一瞬、本の一瞬だった。
反応の無いスミエラ様へと注意が傾いた一瞬の隙。
其処を狙い、閃く銀閃。
本能的に自分に向けられた殺意ではないと察知すると反射的に右手に握っていた剣を振り上げながら身体をスミエラ様を庇う様にして滑り込ませていた。
ギャリンッ!、と刃が鳴り──左肩に走る衝撃。
突き出された凶刃を下から当てて逸らせはした様だが勢いは殺し切れなかった。
その為、受けた反動により左手に持っていた燭台を、手放してしまった。
其処までは普通だった。
左手から零れ落ちた燭台は垂直には落下しなかった。
クルクルと回転しながら、落下していた。
その為、なのだろう。
目の前に有る憎悪に染まるグレナディンの顔が暗闇と明かりの間を巡る。
日向から暗闇へ。
暗闇から日向へ。
まるで往き来している様に奴の顔が明滅する。
ただ、不思議とそれが妙に“遅い”のだと感じた。
全てが、“視える”、と。
本来なら振り上げた時点で精一杯だった右腕。
けれど、今だけは動かせる気がしていた。
その感覚を信じ、遣るべき事だけに集中する。
グレナディンの一撃を受け瞬間的に止まってしまった右手を右肩を押し込む様に強引に前に出し、右足へと体重を掛けて踏み込む。
そして、力の限り、右腕をただ愚直に振り抜く。
──カァンッ!、と甲高い金属音を響かせて、燭台が石畳の上で跳ねた。
刹那、世界は有るべき姿に戻り、急に加速してゆく。
燻る炎と、巡る炎。
双色の灯火に彩られた中に二つの血華が舞い散った。
自分ではなく、その背後にスミエラ様だけを見ていた狂気に染まっていた双眸がゆっくりと此方を向いた。
真っ直ぐに交わる視線。
その眼差しを見た瞬間──己の最大の過ちに気付く。
「…お前さえ…居なければ…俺は…俺の野望は…」
そう呟きながら、睨み付け一歩、また一歩と、身体を揺らしながら後退る。
そして、壁に背中を打付け凭れ掛かる様にして下へと擦り落ちてゆく。
同時に握力を失った左手が皮袋を手離した。
ドサッ…と音を立てた後、開いた口からは十数匹ものサウク・シャブ(冷たい夜)という名の蛇。
噛まれれば必ず死ぬという猛毒を持つ事でも知られ、小柄で細身、真っ黒な鱗に覆われた身体は枯れ落ちた小枝にも見え、迂闊に手を出して噛まれた結果、命を落としてしまう事も有る。
身体の割りに頭が縦長で、口が大きいのも特徴だ。
臆病な為、此方から下手に刺激しなければ逃げて行く事も珍しくはない。
その蛇達が、落下した際の衝撃で攻撃的になっており側に居たグレナディンへと躊躇無く、牙を剥いた。
手の指に、手首に、喉に、鼻に、耳に、噛み付く。
宛ら蟻が群がっている様な光景に寒気がした。
「…お前が…ぉ…ぁ……」
その状態で、苦痛ではなく憎悪に満ちた表情をして、右手を伸ばしていた姿には哀れみを感じていた。
あの時──握り合った手を離す事無く、正しい道へと導けていたら。
もしからしたら、現在とは違った今が在った可能性も否定は出来無い。
兄妹が争う事無く、互いに手を取り合えた。
そんな可能性が。
(…いや、違うな
そう思う事で己の責任から逃げたいだけだろうな…)
何が正しいのか。
その瞬間は、選んでいる。
だが、考えてしまう。
違った選択の先に生まれる筈だった可能性を。
力尽きて、だらりと伸びた右手には何も無い。
ただ独り、己の野望だけを抱き永遠の眠りに就いた。




