拾
「こう見えても結構夜目が利きますから大丈夫です」
ふと思い出した己が言葉。
しかし、意識する部分とは自分の発言ではない。
此処から交わした彼女──ヒエイとの会話の内容。
其方らが主な部分。
それは彼女を巡士隊の館に案内し、質疑応答した後に宿へと送っていた時の事。
“宿に戻るだけですからね
護衛は必要有りませんよ
宿までの道も館に行くのに一度通って覚えました”と言って遠慮していた彼女を“そうは言ってても貴女は初めて来たのでしょう?
貴女なら訊ねながら宿まで辿り着けるでしょうけど、私達にも立場が有るのよ
仕事の一部だと思って今は私に送られて貰えない?”と言って説得し、宿までの護衛をして送っていた。
確かに、そういう場合には護衛・案内の名目で監視に付く事も仕事の一部。
実際、私自身以前に密かに尾行したり隠れたりして、監視した事が有った。
宛ら隠れ鬼・追い鬼という遊びをしているみたいで、不謹慎だけど“面白い”と内心では思っていた。
尤も、それは最初だけで、直ぐに嫌になったけれど。
ただ、彼女の場合には私の希望でも有った。
と言うよりも、正直に私の気持ちを言えば、少しでも長く彼女と話していたい。
そう思っていたから。
もし、翌日が休暇で仕事が無ければ、昼より少し前に彼女を訊ねて、ゆっくりと話が出来るのに。
そう思ってしまった位に。
私は彼女の存在に不思議と惹かれていたのだから。
だけど、現実は非情で。
翌日にはしっかりと仕事が入っている訳です。
だから、彼女を送るという名目で話す時間を作った、というのが本当の所。
職権濫用?、濫用という程の事では有りません。
飽く迄も、序で、です。
態々自分の本音を言う必要有りませんしね。
で、そんな訳で歩きながら雑談をしていた訳です。
その仮定で“如何に貴女が巡士隊の副隊長と言っても女性一人で行動をするのは危ないのでは?”と訊かれ“都の中だと問題が起きる場合は殆どが朝や昼間で、夜は平穏な物ですからね
気候等の関係でどうしても活動するのは日中になる為夜間は飢えた賊徒でさえも滅多に活動しませんからね
だから、安全です”と言い思い出した言葉に繋がる。
そして、彼女は言った。
「夜目が利く、というのは“暗闇でも見える”という意味と勘違いされますが、正確には“人よりも僅かな量の明かりで視認が可能”という事です
例えば、深い洞窟の奥とか窓も無い蔵の中に入って、明かり無しでは碌に足元も見えないでしょう?
夜の山や森林で見えるのは月明かり等の光が有るから可能な事だったりします
ですから、本当の暗闇では視界は失われます
そういう時には視覚以外の情報が大事になりますよ」
そう言っていたのを実際に体感して、納得する。
確かに、この暗闇の中では視覚は頼りにならない。
少しでも情報を集めようと色々と考え、試みる。
先ずは味覚──無意味。
何の情報を得たいのか。
次に触覚。
此方は触れられなければ、情報は得られない。
その為、精々この壁や床の素材や硬さの確認程度。
他には肌に触れる空気から湿気を感じる位。
後は、自分が縛られている事に関係する内容。
…まあ、一応就寝する時に着ていた服はそのままだと判っているので一安心。
流石に裸されて縛られて、牢屋に入れられている姿を見られたりしたくはない。
色んな意味で終わりだし。
(──て、どうして此処であの人が出るのよっ!?)
何故か、“もしも”の話を想像したら浮かんだ場面に自分でも戸惑ってしまう。
何と言うか…色々と拙い。
思考を切り替える様に頭を左右に振って、払拭。
気を取り直して、嗅覚。
取り敢えず、臭い。
食物だとか動物の死骸等が腐敗して出る鼻を刺す様な異臭ではないのだけれど、不快感は十分にする。
物凄く、黴臭い。
(此処が普段人の出入りも風や空気の出入りも無い、という証拠でしょうね…)
とは言え、自然の洞窟だと黴臭さは意外と少ない。
不思議と黴臭さは人の住む近くに程多い。
正確には、人の手が加わり放置や密閉された場所に、だったりするのけれど。
(そうなると此処が洞窟の可能性は低いですね…)
洞窟の中に造られた牢屋、という可能性は有る。
けれど、都周辺に存在する洞窟の類いは全て調べられ確認が行われている。
それは賊徒が根城にしたり利用したりしない様にする予防策でも有ったりする。
放置していては悪用される可能性が有る。
そうなる前に、危険な所は出入り口を崩し洞窟自体を使用不可能になる様に先に潰してしまうから。
勿論、存在する洞窟全てを潰している訳ではない。
飽く迄も危険性の高い物に限って、という話。
場合によっては避難場所や休憩場所として使えるから全てを、とはいかない。
潰すにも人と時間と資金が必要になるしね。
だから、比較的安全な物は幾つか残されている。
その中に、こういう牢屋の有る洞窟は存在しない。
勿論、定期的に見回りして確認も行われている。
つまり、急造の牢屋という可能性は限り無く低い。
此処が洞窟の可能性も。
逆に言えば、此処は確実に人工的な場所でありながら誰にも知られていない場所だという事になる。
そんな場所に心当たりなど有る筈もなかった。
ただ、少しだけ暗闇の中に見えてきた気がする。
本当に僅かな光だけれど。
そして、最後に聴覚。
此処が何処かは判らないが例えどんな場所であっても“完全に何も聴こえない”という事は無い。
もし、私の耳が聴こえない様に為っていれば別だけど確認した限りでは、十分に聴こえていると思う。
自分の靴底で床を擦る音や身体を動かした際に起きる衣擦れの音が聴こえる以上一応は正常な筈だから。
しかし、不気味な程に何の音も聴こえない。
いや、正確に言えば自分に起因する音以外には何も、と言うべきなのだろう。
それ故に、恐怖心を煽る。
(…一体何だというの…)
普通に考えれば此処が敵の根城、或いは隠れ家という位置付けなのだろう。
そうだとすれば、最低限の見張りとか留守役が居ても不思議ではない。
寧ろ、居て当然だと思う。
そして、足音や話し声等、何かしらの音が聴こえるし情報も得られる。
だが、現実には皆無。
だからこそ、余計に自分が置かれている現状の特異な異常さにも気付く。
洞窟等でも地中深くに続く場所では天井や壁や足元に水気が有ったりする。
浅い場所は熱や風によって乾燥してしまっているけど深部には確認出来る。
つまり、水滴が滴り落ちる音等が聴こえる訳だ。
他にも僅かな穴が有るなら風の音もするだろう。
蟻等の小さな虫が居れば、歩き回る足音が。
蠅等の羽の有る虫が居れば飛び回る羽音が。
蜥蜴や蛇等が居れば地面を這い擦る様な音が。
蝙蝠が居れば鳴き声だとか色々と聴こえる事だろう。
しかし、何も聴こえない。
そんな、普通ならば些細な事だと思う音すら無い。
聴こえるのは自分の呼吸や鼓動、身体を動かす音。
有るのは、それだけ。
ただただ、自分だけ。
自分しか存在していないと錯覚してしまいそうになる程に音が存在しない。
正直、私は静寂という物がこれ程に人の心を掻き乱し不安を煽る物だとは一度も思わなかった。
考えさえもしなかった。
日々、自分が生きている。
その事実を周囲に存在する音が教えてくれている。
そう、今になって思う。
普段は“煩い、鬱陶しい”とさえ思っている喧騒すら今は愛しく思える。
何気無い、有り触れた音。
無駄に不快感な雑音。
そんな物ですらも、失って初めて価値が有ると判る。
人は音に生を感じる。
故に、“死者の沈黙”等と先人達は喩えただろう。
全ての音を失うという事は死を意味する。
己が鼓動の音を失った時、人は確かに死ぬのだから。
気が狂ってしまいそう。
それが率直な感想。
勿論、それが意識が有るが故の事なのだと。
頭では理解をしている。
要は静寂も意識しなければ気になりはしない。
“凄く静かだし、寝るには最適な環境だわ”と考えて再び眠ってしまえば余計な事は考えなくて済む。
そう、眠ってしまえれば。
不思議な物で眠ろうと思い横になると意外と眠れず、“寝る・寝よう・寝たい・寝ないと・寝なければ”と思えば思う程に意識して、逆に眠れなくなる物。
ただ、現状に関して言えば静寂が死と直結してしまい“眠ったら死”と本能的に感じているのかもしれない。
それ程に厳しい状況。
肉体よりも精神が先に窶れ死んでしまいそうに思う。
儘ならない状況に苛立つが幸いな事に、その苛立ちが気を紛らわせてくれる。
そして、気付く。
憤怒の感情は心と思考から冷静さを奪い去る。
良い事とは言えない。
しかし、冷静さを失う事で視野や思考が狭まるという事は、“他の事柄が大して気にならなくなる”という風にも解釈出来る訳で。
意外な対処法に思い至る。
(兎に角、腹の立った事を思い出せばいいのよっ!)
人間、誰しも生きていれば腹の立つ事など多々有る。
そして人は根に持つので、そういった事は誇張される程にまで覚えている。
自分の事を子供だと判断し“お嬢ちゃん、お使いか?
小さいのに偉いんだね”と言って御菓子を差し出した人の良さそうな御爺さん。
悪気は無いのだろう。
それだけに不愉快だった。
隊長に隠していた御菓子を食べられた事も有った。
そう言えば、あの時にした“好きなだけ奢る”約束は果たされていない。
これは取り立てなくては。
あっ、そう言えば美人だと評判の鍛冶屋の娘に笑顔で話し掛けられて、鼻の下を伸ばしてもいた。
それから他にも──
「…………………?……」
──ふと、何か聴こえた。
そんな気がして、反射的に耳を澄ました。
「────っ!?」
すると、確かに聴こえた。
小石が当たる様な音。
それは次第に大きくなり、此方へと近付いて来ている事を物語っていた。
今、自分は碌な抵抗もする事が出来無いだろう。
それが判っているからこそ嫌でも緊張が高まる。
思わず息を飲んだ事により喉が鳴った。
彼方に聞こえたかどうか、それは判らない。
しかし、私自身からすれば“聞こえたかも…”という可能性だけでも、恐怖心を煽るには十分だと言えた。
──side out
程普side──
予定していた仕事が一通り片付き、残っている仕事が相手の有る話し合いという事も有って、予定している時間まで大分有る事も有り街に出ようと決めた。
ただ、その前に仕事着から私服に着替える為に私邸に戻ろうと城内を歩く。
──と、廊下の端に立ち、静かに空を見詰めて佇んだ華琳様を見付けた。
その視線の行方──方角を理解して、納得する。
「颯、言って置くけど別に心配はしていないわよ」
視線を外す事の無いまま、此方の心中を見透される。
…まあ、相手が誰か判れば私達は大抵その表層程度は理解出来ますからね。
特に驚きはしません。
「では、新しい方でも?」
「それこそ無駄な心配ね
あれだけ身持ちの固い男は滅多に居ないわよ
散々苦労させられたのだしそれは貴女達が一番理解をしているでしょう」
「…そうでしたね」
言われてみて、納得する。
あまりにも今が満たされて少々気が緩んでいるのかもしれませんね。
そういう意味では、私達は華琳様を“追い越す”には未熟なのでしょう。
私達は“与えられる事”に慣れ過ぎてしまっていて。
「一緒に旅をしてみたい
そう想う娘は多いわね
私だって出来る事なら暫く仕事も放り出して、二人でのんびりしたいと思うわ」
以前よりも華琳様は私達に本音を仰有って下さる様になったでしょうね。
それは私達自身にとっても言える事なのですが。
「ただ、それは別にしても今回は行きたかったわね
数少ない“討滅”の機会だったし、ね…」
「──っ…」
その横顔に浮かんだ微笑に背筋が瞬時に凍え付く。
言い表せぬ本能的な畏怖に身体が動かなくなる。
そして、改めて思う。
やはり、この方こそが最も近い存在なのだと。
──side out。




