陸
王宮に到着した時には既に主要な顔触れが揃っておりスミエラ様の捜索開始前の動揺と緊張の支配していた雰囲気とは全く違う空気が場に満ちていた。
苛立ち・焦燥感・無力感・憤怒・憎悪…行き場の無い感情が混ぜ合わさり今にも弾けそうな程に張り詰め、其処に本の僅かに、小さな刺激さえ有ればあっさりと溢れ出す。
暴れ出すだろう。
そんな、危うく、不安定な状態が目の前に有った。
(…っ…こんな状況では…この後、何がどうなっても一色に染まってしまう…)
そう、“狂気”という熱に染め上げられ、一歩間違えば暴徒と化して国その物を侵しかねない。
しかも、その一押しになる内容が今から言い渡される可能性が高い。
それはつまり、抑えたり、回避する手を打つ時間も、策を練る時間も無いという事を物語っている。
(…可能性が有るとすればアラドの存在だけか…)
とは言え、その第一条件は彼が正気を保っている事が出来ていれば、だが。
他の誰よりも、陛下よりも長い時間を共にしてきた、アラドにとっては亡き妹の様に大切にしていた存在。
そのスミエラ様が行方不明となった今、誰よりも己を責めているだろう者だ。
到底、普段の彼の冷静さは期待は出来無い。
(…せめて、言い渡される内容が穏便に事態を運べる物である事を願う…)
目蓋を閉じ、スミエラ様と国の未来の無事を願って、その時が来るのを待つ。
俯いたまま、静かに佇む。
暗闇の中、周囲の騒付きが耳の奥へと響き入る。
普段であれば、鬱陶しいと思ってしまう雑音。
それが、今だけは心地好く感じられる。
その雑音が思考を妨げて、余計な事を考えずに済んでいるのだから。
(ああ、そう言えば昨日の書類がまだ残っていたか…
確か、隣近所に住む夫婦が揉めているんだったな…
外よりも内で起きる問題の方が細々していて面倒だと熟思わされるよ…)
──と、暫くしたら周囲が唐突に静まり返った。
それが何を意味するのか。
嫌でも思い出し、現実へと意識を引き戻す。
観念して目蓋を開く。
ぼやけた視界がはっきりと景色を映してゆく。
自分の足元が見えた後に、ゆっくりと深呼吸する。
そして、顔を上げる。
多くの同胞の姿の向こう、自分達よりも高い所に立つグレナディン王子の御姿を見付けた。
そして──その傍らに立つアラドの姿を。
まるで、感情が抜け落ちた様だと思える程に、静かで冷たい顔をしたアラド。
しかし、その裡に煮え滾る憎悪を感じる事が出来た。
その瞬間、この国の未来が赤と黒の業火に染まった景色を見た。
──side out
other side──
スミエラ様が巡士隊に入り自分達と同じ立場になって働いている。
その事を知った時の自分はまだ若かったと言える。
物凄く驚き──喜んだ。
何しろ、スミエラ様は国の王女様という立場の御方。
如何に兵士よりは格上でも只の一巡士に過ぎぬ身では拝謁する機会でさえ生涯に一度有るかどうか。
勿論、それは多少大袈裟な表現だとは思うが。
ただ、それ位に縁の無い、遥か高い雲の様な存在には違いないのだけれど。
そんなスミエラ様が自分と同じ仕事をしている。
それを嬉しく思わないなど有り得なかった。
同時に、こうも思った。
“スミエラ様は我々国民の事を深く大切に思っていて下さるのだな”…と。
だが、月日が流れて行き、自分も様々な経験を積んで成長した事で初めて知る、新しく見えてくる真実。
考え方が出来る様になる。
スミエラ様に巡士をさせるという事は、自分達を含む全ての国民の怠慢だと。
そう、気付いてしまう。
確かに、国の未来を担われ我々民を導いて下さる以上スミエラ様が我々の日常が如何様な物であるか。
それを知って頂く事自体は意味が有る事だと思う。
だが、その一方では我々が国民として国の王女であるスミエラ様を御支えする事が全く出来てはいない。
その事実を物語っていると判ってしまった。
そう考えたのは自分だけに限らないのだろう。
きっと、多くの巡士達が、兵士達が、民達が。
同じ様に思った事だろう。
けれど、理解は出来ても、直ぐに変われる事ではなく簡単に変える事が出来る事でもなかった。
それが自分達の住む“国”という物なのだと。
初めて理解した訳だ。
それでも…そう、それでもスミエラ様が我々の元へと歩み寄って下さった事実は我々にとって大きな大きな意味を持っていた。
少しずつでも構わない。
だから、スミエラ様を支えスミエラ様の理想の国を、その実現を。
全力で支え、叶えたい。
そう思う様になった。
尤も、実際のスミエラ様を知ってからは“王女様”に対する世間一般の印象とか想像が如何に間違っている──いや、当て嵌まらない事なのか、という実際には知りたくはなかった現実も知る事にはなったが。
スミエラ様の巡士達所属が公然の秘密となった頃には“お転婆姫”の様々な噂が巷を賑わせてもいたしな。
だってさ、一対一で闘って勝てるのはビュレエフ隊長だけだからな。
強過ぎるんだよな、我々の敬愛する王女様はさ。
まあ、“そんなだから嫁の貰い手が無いんだよ”とか言ってはならない。
そう言ったが最後…必ずやスミエラ様の耳に入り──その先は口に出来無い。
まだ死にたくはないしな。
そんなスミエラ様を拐える輩なんて、そうは居ない。
だから、正攻法ではなく、何かしら卑怯な手段により連れ去ったのだろう。
故に、赦せない。
絶望に見付け出して殺る。
多くの者が同じ思いを抱き此処に居る事だろう。
そんな張り詰めた空気の中グレナディン王子が我々の前に姿を現した。
ビュレエフ隊長と一緒に。
「皆、妹の為に尽力を頂き兄として感謝する」
先ず、一言目にそう言って王子は我々に頭を下げた。
その姿に胸が苦しくなる。
まだ、自分達は何も成果を上げられてはいない。
その事実がもどかしい。
一時は王位継承権の問題で不仲を疑われた御兄妹。
だが、王子が継承権を自ら放棄した事で疑惑は消え、安心した事を覚えている。
王子も今、その胸の中では犯人に対して燃える怒りを抑えている事だろう。
そう思うと殊更に犯人への憤怒と憎悪が増す。
王子が姿勢を戻すと我々を一度見回された。
「つい先程の事になる
ビュレエフ殿の隊によって都内に潜伏していた三人の“渇く赤”を発見した」
『────っっっ!!!!!!』
王子の言葉を聞いて全員が佇むビュレエフ隊長の方に視線を向けた。
だが、当のビュレエフ隊長自身の表情は冴えない。
寧ろ、悔しさと怒りだけが滲んでいる様に見えた。
「…だが、その者達は直ぐ自害をしてしまった…
妹の事を聞き出す事は愚か捕まえる暇無かったと…」
王子もまた、無念さを押し殺しているのだろう。
一度、我々から視線を外し肩を小刻みに震わせている姿を見て胸中を察する。
「しかしっ!、これにより“渇く赤”の犯行であると思って間違いないっ!
よって、これより最低限の都の守りを残し全軍を上げ“渇く赤”の完全掃討戦を開始する事とするっ!
そして、作戦の総指揮官をビュレエフ殿に御任せし、全権を委ねる事とするっ!
私は此処に皆に願うっ!
妹の為に!、国の為に!
力を貸して欲しいっ!!」
王子の言葉に、我々は拳を突き上げ、咆哮を上げた。
その熱狂のまま我々は王宮を後にし、戦の準備へと取り掛かる。
少しでも早く。
しかし、慌てず手を抜かずしっかりと装備を整えて。
腹を空かせた獣の様に。
その心身の内から溢れ出す渇望を抑えながら。
己が爪牙を血に染める様を脳裏に思い浮かべる。
──side out
グレナディンside──
“渇く赤”の完全掃討戦の命令を出した後、真っ直ぐ今居る部屋へと向かった。
そして、事の次第を話す。
「──という事です
少しでも早く、と思った為事後報告となってしまった事は事実ですので言い訳は致しません
処罰は如何様にも…」
そう言って頭を下げる。
勿論、罪悪感など自分には微塵も存在しない。
事後報告?、そんなものは当然の様に狙って遣ったに決まっているではないか。
奴を少しでも早く都の外に追い遣らねば此方に捜索の手が及ばないとも限らない訳だからな。
「……いや、構わぬ…
アラドに全権を任せたなら必ずやスミエラを見付け、救い出してくれる…
…御苦労、下がってよい」
「はっ…失礼致します」
安心した様に寝台に身体を横たえ、目蓋を閉じた姿に対し苛立ちを覚えながらも一礼して側を離れ、部屋の扉に向かって歩く。
(ふんっ、死に損ないが…
さっさと死ねば良い物を…
しぶとく生きおって…)
つい先程まで対面していた相手は現国王──つまりは自分の父親である。
しかし、継承権を放棄した時より、親子という関係は字面だけの物となった。
まあ、親子としての関係は糞女が産まれた時に破綻しているがな。
尤も、自分が王位継承権を放棄したという事により、狙い通り“叛意は無い”と思わせる事が出来ている為警戒心は皆無だ。
一応は親子・兄妹だという関係と意識、此方の態度が功を奏しているのだろう。
馬鹿馬鹿しい事だがな。
だが、それもこれも全ては彼奴が──ビュレエフさえ居なければ、疾うに王位も国も自分の物に出来ていた筈だったが…まあいい。
何もかもが今日までだ。
そう、全ては、今日。
在るべき者の元に戻る。
思わず釣り上がる口角。
背後の用済みの老い耄れに気付かれる事は無い。
だが、他の者は別だ。
今はまだ、気付かれる事は避けなければならない。
部屋を出ると、扉を静かに丁寧な仕草で閉める。
扉から少し離れた場所にて待機している女が二人。
話中、部屋の外に出ていた世話役の侍女達だ。
その二人から擦れ違う際に一礼され“父上を頼む”と一言気遣う振りをしてから歩き去ってゆく。
そして、向かう。
準備を終え、掃討戦の為に出陣をする軍隊達を見送る為に。
都の南の門扉のへと。
今の所、自分を疑っている者は一人としていない。
唯一、その可能性が有った者が居るには居る。
彼奴──ビュレエフだ。
だが、その奴も老い耄れと似た様な物だった。
尽く自分の邪魔をし続け、しかし決して密告する様な真似はしなかった男。
あの糞女の真の守護者。
その甘さに気付いたが故に王位継承権を放棄したが、見事に効果が有ったな。
その分、時間は掛かったが今は此方に疑惑を向けたり敵意を持ったりはしない。
“渇く赤”という丁度良い生け贄も居た事が上手く働いている。
(全く…これまでに幾度と“彼奴さえ居なければ”と思わされてきた事か…)
アラド・ビュレエフ。
奴との因縁は“あの日”、初めて出逢った時からだ。
糞女が産まれてから全ての中心に居た自分から何もかもが失われた。
だが、下手に糞女に何かをしようものなら、叱られ、咎められるのは自分の方。
つまり、自分と糞女とでは糞女が産まれて瞬間から、互いの上下関係は決まっていた訳だ。
何という理不尽だろうか。
先に産まれた筈の自分が、庶子だからという下らない理由で虐げられる。
それを理不尽だと呼ばずに何を理不尽だと呼ぶのか。
だから、決めた。
全てを糞女から奪い返し、自分が間違いを正すと。
だが、自分には力が無い。
己の保身や私利私欲にしか興味が無い公貴族共でさえも、自分には興味を全く示さなくなった。
勿論、連中を利用はすれど信用しようとは此方だとて微塵も思ってはいない。
飽く迄も、駒としてだ。
しかし、そういった信用が置ける存在の必要性。
それも理解はしていた。
そんな時、将来を期待され老い耄れの評価も高いとの噂になった者が居た。
噂の其奴を手中にする事が出来れば──そう思って、笑顔で近付き握手をした。
その瞬間に理解した。
此奴は自分の敵だと。
決して、自分には従わぬ、相容れぬ存在だと。
糞女と同じ、自分の未来に立ち塞がる邪魔者だと。
はっきりと、理解した。




