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恋姫三國史  作者: 桜惡夢
543/915

         参


昨夜、最後にスミエラ様を“目撃した”と証言をした一人の兵士。

その姿を、声を、名前を、経歴を思い起こす。


目撃の事を話していた時の悲痛な表情。

それはスミエラ様を無事を願いながら、己が失態──異変に気付けなかった事を心底悔いている物だった。

しかし、その表情(かめん)の下に隠されていた本当の表情が見える気がする。

陛下の、侍女達の、我々の心配や苦悩・焦燥を嘲笑い北叟笑む狡猾な姿が。



「──っ…」



両手に感じた鈍い痛み。

それが意識を逸らし、己が拳が強く、強く、強く。

握り締められていたという事に気付いた。


ゆっくりと両手を目の前に上げて見詰める。

じんわりと掌と爪・指先の間から滲み出る血。

無意識の内に握り込む事は珍しくはない。

ただ、爪が掌に食い込んだ事は初めてかもしれない。

それも緊張から、ではなく悔しさから、では。


あまりにも強く、握り込み過ぎていた為だろう。

両手が固まってしまったと思う程に、開こうとしても言う事を聞かない。

というよりは弛緩している様な状態だろうか。

開こうとする意思に反して力は入らないのだから。

似た様な感覚の経験が無いという訳ではない。

ただ、直ぐに対処出来無いという事が判るだけだ。



(…くそっ!、一体自分は何を遣っているんだっ…)



自分の両手が、まるで今の“無力な己”を表している様で腹が立つ。

八つ当たり──と言うには少しばかり可笑しいのだが己が両手を思いっきり卓に叩き付けて、痛め付けたい衝動に駆られてしまう。

勿論、そんな事をした所で状況が変わる訳ではない。

単純に自分の遣り場の無い憤怒と苛立ちを打付けて、発散したいというだけ。

とても幼稚で、短絡的な、感情任せの行動。

それだけでしかない。



「あまり思い詰め過ぎると身体を壊しますよ」



そう声を掛けられ、両手に自分以外の掌が触れている事に気付いた。

顔を上げれば、目の前ではヒエイが苦笑している。

彼女自身、そうは言っても無理な事なのだと、頭では理解しているのだろう。

これが立場が違えば彼女も自分の様に考え、感じる。

その可能性は低くはないと思っているだろうから。


自分の左手から右手を離し左手を添えている右手へと優しく重ねてくる。

握り込んだままで開かない右手の指に触れ、ゆっくり開く様に導いてゆく。

同じ様に、左手も。


開かれた掌には滲む血と、爪の痕が残っている。

それを見ていると不思議と冷静になれる気がする。

感情のままに突っ走っては痛みと傷痕しか残らない。

そう言われている様で。



「先に治療をしましょう」


「……すみません…」



そう言って今にも真っ赤に為りそうな顔を逸らすと、彼女の提案に小声で答えて大人しく従った。




冷静になり、改めて笑顔で言われると恥ずかしい。 俯いて大人しくしている事しか出来無い現実が余計に羞恥心を掻き立てる。

…怪我をして、母親や姉に治療されながら心配されて申し訳無く思う様な。

そんな気分がした。



「何を考えていたのか…

その見当は付きます

ただ、その目撃した人物は先ず無関係でしょう」


「……え?、あの、それは一体どういう事ですか?」



思考が彼方此方へと逸れた為だろうか。

胸中で渦巻いていた感情は今も消えてはいないものの先程までよりは落ち着いた様に感じられる。

或いは、自分の意識自体が悪い方向への集中が解けた為なのかもしれない。


あっさりとした彼女の声を聞いても、驚く事も動揺も思う程ではなかった。

もっと大きな反応をしても可笑しくはないと思う。

…あまりにも急に、色々と起こり過ぎたから、という可能性も無くはないが。

兎に角、すんなりと言葉を受け入れられていた。



「先程も言いましたが…

彼女の性格・人柄としては擦れ違ったりする場合でも声を掛けたり、挨拶をする事は普通では?」


「…ええ、まあ…」


「という事は、件の彼女を“目撃した”と言う人物は文字通り“姿を見ただけ”だという事です」



…彼女の言いたい事が直ぐ理解出来無い為、無意識に小首を傾げてしまう。

別に勿体振っているという訳ではないのだろう。

飽く迄、自分に考えさせる事が大事なのだから。

言われたままを口にしても説得力は薄くなるし、何か予想外の質問をされた時に答えられなくなってしまう事態になると、自分の影に彼女達の存在を勘繰られて気付かれてしまう可能性が出て来てしまうから。

そうならない為にも自分で考え理解する必要が有り、自分が感じた疑問等も言い訊ねる事で、訊かれた時の対処法にも繋がる。



「つまり、その人物は直接“彼女であるかどうか”を確かめたという訳ではなく“彼女らしき姿”を見た、というだけの可能性も十分考えられる訳です」


「──っ!」



スミエラ様を“目撃した”と証言したから真犯人──或いは真犯人に協力をした可能性が高い。

そう思ってしまうだろう。

だが、彼女の言う様に単に目撃しただけ、の可能性も十分に有る。

…いや、これが陽動ならば真犯人による“時間稼ぎ”なのかもしれない。

そう考えれば、証言者へと疑惑の目が向く事も計算に入っていると思える。

同時に、この事件が綿密に計画された物であるという事が理解出来る。

そう、恐ろしくローランの内情に詳しい者による犯行計画である事が。




可能性としては今の説明で十分に理解出来る。

しかし、目撃した人物から全く怪しまれないとなると真犯人は“子供を使った”事になるだろう。

そうだとすれば赦し難い。

子供を利用するなど決して有ってはならない事だ。


だが、城内に子供が居れば目立たない筈も無い。

或いは、子供を隠しながら連れ込む事も難しい。

本当に幼い、小柄な子なら可能かもしれないが。

勿論、単独犯ならば、だ。

複数犯であれば、門兵等に共犯者が居れば可能な事。

不可能ではなくなる。


自身の憶測に対し、胸中に再び渦巻き始める激情。

それに呑まれない為にも、彼女へと意識を向ける。

ヒエイは小さく頷いて見せ先程の自分の考えが決して間違いではないと示す。



「彼女の事を知っていれば姿を偽るという事が如何に難しい事であるのか…

それは態々言うまでもない事でしょう

けれども、彼女らしき姿を目撃させるだけ、であれば然程難しくは有りません

そう、例えば──」



そう言って彼女が何気無く顔を向けた方に自分も続き振り向いていた。

視界に入ったのは閉じらた普通の木の窓。

その意図は判らない。


顔を戻せば彼女は少し遅れ此方へと向き直った。



「──其処の窓を開けて、通りを歩く人々の中に居る特定の人物の姿──普段の見慣れた格好をした人物を見付けて、その者が自身の思った人物か否かを貴男はその場にて判別をする事が出来ますか?」



言われて、想像してみる。


もし、窓を開け通りを見て普段の巡士隊の副隊長服のスミエラ様の姿をしている人物を見付けたとしたら…

恐らくは疑わない。

普通にスミエラ様を見たと“思い込む”だろう。

後で会った際に、その事を確かめるなり話題にすれば確認する事は出来る。

だが、彼女の言った通り、その場での判断は不可能。

その真偽は判らない。



「高低差、或いは遠近感は人の感覚を狂わせ易い物…

更に僅かな間しか認識する事が出来無かったとすれば人は無意識に記憶の中から該当する情報を引き出して“勝手に補ってしまう”、という事が有ります

判り易く言えば、同じ様に造られた衣装を着た兵士が“それらしく似せた衣装”を着て擦れ違ったとしても見慣れている者達は大抵が違和感を持たない、という感じでしょうか…」






「…もっと言えば、衣装に穴が空いていたりしても、ある程度相手を観察するか偶然、其処に視線や意識が向かないと気付かない…

という感じでしょうね」



少々難しい説明だったが、その例えを聞いて納得。

…もしかしたら自分の顔に“判らない”と出ていたのかもしれない。

そう思うと少し恥ずかしい気がするが…忘れよう。


確かに、その状況であれば本人は本物だから衣装には意識が向き難い。

言い方を替えれば、衣装が本物だったなら、その姿の者が全くの別人だとしても本人だと思い込むだろう。

それが僅かな時間の出来事だったなら尚更に。



「…昨夜、最後に城内にてスミエラ様を“目撃した”と証言をした者の話では、王宮内の曲がり角だったと言っていた筈です」


「廊下を歩き、曲がり角を曲がってしまうまでならば本の僅かな時間でしょう

加えて、人影に気付いても深夜では直ぐに背格好まで把握は出来ません

その目撃者が彼女の姿だと認識出来てから直ぐに姿を消してしまったなら衣装の印象が残るだけ…

或いは、その姿が消えて、見えなくなってから然程も言った様に思い当たる姿を思い出し“彼女を見た”と思い込んだか、でしょう

何方らにしても言える事は目撃者となった件の人物は偶然目撃した訳ではなく、真犯人により目撃者として意図的に選びだされた…

つまり、彼女の連れ去りは随分前から練り上げられ、計画されていた事です

そして、それが出来るのはある程度自由に王宮の中で行動が出来る地位に有り、怪しまれない人物です」



はっきりと、憶測・推測の域ではなく断言する彼女に思わず息を飲んだ。

確証は無い、と言いながら確信を持って疑わない。

そんな明確で揺るぎの無い意思を感じ取ったから。



「…かなり、狭く限られた範囲内の人物ですね…」



彼女の言葉によって一気に容疑者と為り得る対象者が絞り込まれた。

その事に対する本音が声に出てしまった。

つい思わず、ではあったが紛れも無い事実でもある。

今まで影しか見えなかった相手の輪郭が、色が、姿が目の前に現れた瞬間だ。

否応にも緊張感が高まり、自分の為すべき事に対するとてつもない重圧が急速に襲い掛かってきた。

しかし、此処に来た時より立ち向かう気持ちが奥から湧き上がってくる。



「では、其処から更に先に踏み込んでみましょうか」


「………………え?」



無邪気な子供が遊びながら浮かべる笑顔の様に。

実に楽しそうに。

そんな、とんでもない事を彼女は平然と言った。




…何故、だろうか。

現在、目の前に居て微笑む彼女が世にも恐ろしい鬼の様に思えてしまう。


…いやまあ、女性の笑顔は美しく可愛らしい物だが、時として背筋を凍て付かせ怯まされる事も有るから、決して、その見た通りの物ではないという事は判る。

よく、知っている。

だから、あまり話の続きを聞きたくは思わない。

…それは出来無いのだが。



「先程、王宮内を自由にと言いましたが、それを夜間出来る上に怪しまれない、という事になれば王宮内に居ても全く不自然ではない事になります」



…確かに日中に比べ夜間は王宮内に居るだろう人数が圧倒的に少なくなる。

その中で、何食わぬ態度で動き回れる人物となれば、身分・役職を問わずに見て凡そ二十人程だろう。

更に、先程までに上がった人物を対象から外せば──残りは半分以下になる。



「また、陛下を含め多数の人物に対しての言動が特に不審に思われない人物…

加えて、陛下にあの勅命を出す様に進言──いいえ、上手く誘導出来た人物…」



…此処まで来れば、陛下の出した勅命が可笑しな物で矛盾していると判る。

その様に仕向けられる上、陛下に事の次第を報告し、勅命の意見を出せる人物が怪しいのだとも。


まだ残っていた数名の姿が脳裏から一斉に消え去り、一人の姿を明確に晒す。



「…何より、彼女の存在を誰よりも疎ましく思う者」


「…グレナディン王子…」



その名を口にすると同時に幾本も絡まり合っていて、バラバラに見えていた筈の全ての糸が解け、その実は一本だったと判った。

そんな感じで、話の実体が浮かび上がって見えた。


聞かされていた彼女の話にこれ以上は無いという程に全てが該当する人物。

そして、実際に事を為せる可能性が最も高い人物。

まだ確証の無い事なのに、そうとしか思えない。

他に彼女の言葉に該当する人物は居ないのだから。




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