漆
それが誰なのか。
名を知りたいという衝動は急激に膨らんでゆく。
そして、それを抑えるには自分の意思力はあまりにも脆弱だった。
「──っ──っ!?」
“それは一体誰ですか?”と声が出そうになった。
その瞬間だった。
あまりにも然り気無くて、一瞬理解する事が出来無い程に前触れも無く、自分の間合いの内へと、ヒエイは入り込んで来ていた。
立ち止まったまま本の少し上半身を左に傾けながら、前屈みになる様に腰を折り顔を下から覗き込む。
その、急過ぎる接近により出掛けた声を詰まらせて、動揺から反射的に息と共に飲み込んだ。
そんな自分の様子を見て、彼女は右手の人差し指だけ立てたまま唇へと当てる。
「それは誰かに聞いて良い事では有りませんよ?
貴男自身が気付かなくては容易く無意味・無価値へと成ってしまう物です」
そう言われて、恥じる。
気持ちの高揚は有ったが、それに任せて訊いてもいい事ではない。
彼女の言う様に自分自身で気付かなくてはならない。
それは、“同じだから”と安易に触れてしまったなら容易く失われてしまう物。
自分が、この想いを抱き、信じて歩み続ける事。
そうすれば、その人物とは孰れ必ず出逢える筈だ。
今は、それだけで十分。
独りではないと知った事で前に進む事が出来るから。
そう納得した此方の心中を察したのだろう。
彼女は姿勢を戻すと後ろへ一歩、軽やかに跳ぶ。
それは先程まで彼女が居た場所であり、話をしている自分達の距離だった。
偶然か、意図的にか。
それは判らない。
ただ、一つだけ、はっきり判る事が有った。
まだ、話は途中なのだと。
だから、彼女は戻った。
逸れてしまっていた内容に“これで、終わりです”と区切りを付けて、在るべき本来の話へと引き戻した。
(…それは判ったが…)
だが、既に政治的な部分の要点は話してしまった。
それ以外に彼女が自分へと求めている内容は無い筈。
そう考えて、悩む。
一番手っ取り早い方法は、彼女に訊ねる事だろう。
でも、それは本の少し──いや、かなり、恥ずかしい気がしないでもない。
悪い事ではないのだけれどつい先程は自分の気持ちを吐露したばかりだ。
何と言うか、その…まるで彼女に甘えているかの様な気持ちになってしまう。
別に彼女にそんな気は無いのだとは思うが。
さて、どうしたものか。
「貴男自身の彼等に対する印象や評価、抱く想いを、聞かせて頂けますか?」
…本当に心を読めるのかもしれないと思ってしまう。
実際には、そんな事は無いのだろうけれど。
或いは、自分はそんなにも判り易いのだろうか。
…それはそれで凹むが。
取り敢えず、今は気持ちを切り替えてからだな。
大きく、ゆっくりと深呼吸をしてから、口を開く。
「貴女も知っている通り、今の彼等は他の賊徒と同じ略奪者に過ぎません
ただ、それでも少なからず曾ての誇りを受け継いではいるのでしょう…
商隊を襲い、荷を奪っても決して人を攫う真似はせず極力商隊の者を傷付ける事もしません
勿論、だからと言って肩を持つ気は有りません
その略奪行為は犯罪です
赦してはならない事です」
そう言いはしたが、今のは建前としての言葉だ。
自分の立場・役職であれば決して容認は出来無い存在であり、行為なのだから。
故に、その言葉はそういう意味での意見と見解だ。
何より、本心という事では既に自身の理想を彼女には話してしまっている。
その点だけ考えてみても、自分が彼等の存在その物を否定・拒絶してはいないと彼女は理解している。
だから、それが建前であるという事も判っている筈。
此処からが、本題だ。
もう一度、深呼吸をして、気持ちを整えて、始める。
「…もう二十年以上も前の話になります
当時、このローランの都は過去に類を見ない程の脅威に脅かされていました
それは他国からの侵略と、都を狙った賊徒の襲撃…
ローランの歴史上、最大の危機だったと言える時代に自分は産まれました
とは言え、それを不幸だと言うつもりは有りません
どんな時代に産まれようと争乱からは逃げられない、という事はローランの地に生まれた者ならば誰しもが感じる事でしょうから…」
そう言いながらも、心では“もしも…”と願う辺り、人間という生き物は弱くて愚かな存在なのだろう。
この世界の支配者気取りで闊歩しながら、実際は凄く脆弱な心身なのだから。
群れている事により強いと錯覚して有頂天になって、威張り散らしているだけ。
そう思えば、実に滑稽だ。
そして、その考え方も全く的外れという訳でもないと個人的には思っている。
世の多くの権力者は自身の身の丈に相応しくない程の権力を有している、という事が言えるだろう。
それは個人の能力ではなく社会的・組織的な状況下で発生する特異な影響力だと言い換える事が出来る。
その特異な影響力こそが、権力を生み出す。
要因は様々だとは思う。
だがしかし、権力を得るに相応しいかどうか。
それは伴わないのが現実。
欲深く、強い野心を抱き、私利私欲を求める為だけに権力を望み、求め、欲し、手にしてしまう世の中。
それが正しいと言うのなら世界は、人々は、時の中で狂っているのだろうな。
「血と煙の臭いが街を染め怒号と騒音が響く毎日…
そんな中で産まれ育つと、あまりにも死が日常過ぎて人が死ぬ事が当たり前で…
其処に悲しみを感じる様な道徳観が介在しない思考が普通になるんです
兎に角、自分と家族の命が無事でさえ有れば、他人が何人…何十人…何百人…と死のうが関係無い
そんな事を、気にしている余裕も、必要性すら無い
ただただ生きる事だけで、生き残る事だけで、必死な日々だけが其処には有った訳ですからね…」
記憶を辿る必要すら無い。
あの頃の日々は、情景は、今も鮮明に思い出せる。
決して忘れる事の出来ぬ、絶対に忘れてはならない、色褪せぬ事実。
それが有るからこそ。
自分は道を踏み外す事無く今を生きていられる。
そう、思っている。
意識が記憶へと傾いていた事に気付き、我に返る。
そして、正面に佇む彼女の姿に目を奪われる。
話を聞いていた筈の彼女は気付けば目蓋を閉じたまま僅かに俯いていた。
その静かな雰囲気に思わず息を飲んでしまった。
幸い、大きく喉が鳴る様な事は無かったが。
決して、気圧されたという訳ではない。
どう、例えて、表現すれば良いか解らない。
ただ静かに瞑目している、それだけで感じる存在感に本能的に緊張している。
そういう感じだろうか。
「…戦を知らない子供達は心の何処かで命を軽んじ、自らの行いの責任でさえも負う事の出来無い愚者へと堕落してしまうものです
他人を傷付ける事の意味、罪の意識、自らの社会性、それらを理解しないままに無意味に年月を重ねて行き身体だけが大きくなる…
平和な世の中というのは、戦乱の世の中よりも遥かに命の尊さを教え理解させる事が難しいのでしょう
栄華を築き、何百年と続く筈だった巨龍達は外敵ではなく、その身へと巣食う毒蟲によって喰われ終わってしまいました
考え様によっては争乱こそ人が死を正しく認識出来、命を尊ぶ為には必要不可欠なのかもしれません…
それはもしかしたら必要悪なのでしょうね…
人が他人を思い遣る為に、真に戦争が愚行である事を理解する為には…
矛盾してはいますが…ね」
そう言った彼女の眼差しは悲哀を奥に隠していた。
どんなに綺麗事を言っても現実が伴わなくては言葉は虚言・妄言でしかない。
施政に携わる者が国の歩む道を決める事は確かだ。
しかし、必ずしも民が国に従う必要は無いだろう。
国の歩む道が間違いならば声を上げて、拳を挙げて、正しい道へと向かえる様に抗えば良いのだから。
何もせず、受け入れたなら異議を唱える権利は無い。
戦う事を放棄したが故に。
自らの言動に責任を負えば誰にでも出来る事だ。
戦う覚悟を持てば。
そう、誰にでも。
「…今と比べれば地獄だと言う事も出来る日々…
それでも、城壁に護られた都は平和だったと言えます
生活は苦しい物でしたが、誰も生きる事を嘆いたり、諦めたりはしていない…
命の輝きが、確かに其処に感じられた時代でした」
彼女の言葉に流される様に過ぎ去りし日々を思い出し今と比較してしまう。
勿論、現在に対して不満が有る訳ではない。
ただ、少しだけ人々の間に“平和慣れ”している様な印象を偶に受ける。
それは自分達が常に戦場に立つ事を職務とするが故の感覚なのかもしれないが。
だからこそ、思い出す。
「…あの日、城壁の中から一部が崩され、都へと敵が雪崩れ込んで来ました
気が付いた時には血を流し家族を失っていました…
そして、敵が自分を見付け右手の赤黒い血の滴る剣を振り上げた時、死を覚悟し目蓋を閉じました
ですが、自分は死ぬ事無く生き残る事が出来ました
悪としか思っていなかった彼等が、敵を倒し、我々を助けてくれたのです
“英雄”と呼ばれた彼等に幼かった自分は憧れて…
けれど、彼等の示した様に彼等の行いが悪である事を理解したからこそ、自分は今の仕事を選びました
何時の日にか、彼等の様に立場を越えて、苦境に有る同胞を助けられる様に成りたいから…」
あの日の出逢いが。
差し伸べられた手が。
自分にとっての原点だ。
「…まあ、それが出来る程立派には、未だに成れてはいませんけど…」
ただ、胸の奥から染み渡る様に広がった熱に当てられる様に、口にした本音が恥ずかしくなる。
多分だが、彼女は自分より歳は下だろうから。
…歳下、だよな?
…女性は見た目通りだとは限らないからな。
いや、下手に歳とかの事は訊いたりはしないけど。
「まだ、というだけです
貴男がそう成りたいと思い歩み続けていれば、孰れは成れる時が来ますよ
その理想が軈ては芽吹き、この国の未来へと繋がると私は思います
信じて、頑張って下さい」
“だから”とは言わない、その一言が胸を熱くする。
別に、彼女に惚れたという訳ではなくて。
信じられている。
そう感じる事が出来た故に遣る気が溢れてくる。
彼女と出逢えて、話せて、心から良かったと思う。
──side out
「──とまあ、そういった感じらしいな」
そう言うと、テーブル上に並んだ料理の一つを小皿に取って口に運ぶ。
そんな俺を見ながら同様に料理を食べている愛紗達が静かに話を聞いている。
あの後、ビュレエフさんに“見張りは引き上げる”と言われてから別れた。
宿屋へと戻ってみれば彼の言った通りに見張っていた者達は居なかった。
その後、愛紗達と予定通り昼食の為に外出。
情報収集する傍ら見付けた料理店へと遣って来た。
其処で、ビュレエフさんの話も含めて街で得た情報を三人に話していた所だ。
「…何か有りましたか?」
此方を見て話を聞いていた愛紗が料理を飲み込むと、不思議そうに訊ねる。
それで自分の口元に笑みが浮かんでいる事に気付く。
「いやな、宿敵とも言える賊徒の事を話している筈が実に嬉しそうに話していたものだからな…」
「…ああ、成る程…」
それが悪い訳ではない。
思春という身近な例が居る俺達だから判る事だ。
“賊徒だから”というのは差別でしかない。
きちんと個人を見た上での評価が大事だ、と。
「でも、そんなに嬉しそうだったのか?」
「ああ、幼い子供が自分にとっての憧憬を語る様に楽しそうにな」
まあ、彼自身も彼等の事を英雄だと言っていたしな。
間違いではない。
「この後はどうします?
適当に観光しますか?」
「観光したいか?」
『今は、したくないです』
愛紗の質問に訊ね返せば、三人揃って拒否で一致。
意外と螢もキツい様だ。
それに小さく苦笑する。
余程この暑さが堪えているんだろうな。
まあ、氣を全く使わないと厳しいと思うしな。
宿屋に帰ったら少しだけど室内を冷やして遣るか。
熱中症は避けたいしな。




