陸
ヒエイの言葉を心静かに、けれど深く受け止める。
“国の外”から見た印象は自分達では気付かない様な些細な事でも“歪み”だと思えたなら、判る。
だから、とても大事な事。
それと、きちんと向き合う事も忘れてはならない。
そう思いながら、息を吐き思考を切り替える。
「…貴女が知っている事は確かに“表向き”の話です
民の間には知られてはない裏の話は存在します」
そう言って、間を開ける。
勿体振っている訳ではなく単純に気楽に話せる類いの内容ではない為だ。
今はもう知る者は少ない、“時の流れ(れきし)”へと埋もれてしまった事実。
そして──我々の贖罪だ。
「…貴女は都内に有る湖の事は御存知ですか?」
「…あのロプノール湖の事でしたら…一応は」
そう彼女が口にしたと共に脳裏に浮かぶ、都の東側に存在する巨大な湖。
それはこの国の根幹であり必要不可欠な存在。
気安く近付く事は許されず幾重もの防壁に覆い囲まれ厳重に管理されている。
その姿を外側から眺める事ですら出来無い事も有り、“幻の湖”とさえ呼ばれ、ある意味では怪談の一つに挙げられていたりもする。
自分も今の立場になって、過去に一度だけ、眼にする機会が有った。
その姿を目にした時には、思わず涙が溢れた程だ。
美しさ、とかではない。
ただただ、その存在自体が我々の血に語り掛ける。
血が教えてくれる。
その存在が如何に尊い物で掛け替えが無いのかを。
溢れ出しそうになる感情を息と共に飲み込む。
そうしなければ正面に話す事も出来無くなる。
そういう話なのだから。
「…遠い遠い昔の事です
この辺りには──いいえ、西域と呼ばれる国々の地は今とは比べ物に為らない程豊かな緑が有り、幾つもの河川が存在し、湖や沼地も存在していたそうです」
現在からは想像する事すら難しい景色が有った。
そう言い伝えられている。
しかし、それを証明出来る証拠や痕跡は無い。
少なくとも、ここ数百年の話ではない。
仮に、それが事実だとするのであれば、その姿が世に存在していたのは、もっともっと、気の遠くなる様な遠い昔の事なのだろう。
ただ、そう有って欲しい。
その様に願った人々による“作り話”の可能性もまた否定は出来無い。
“そうだ”と肯定する事も同じく出来無いのだが。
それは西域に生きる人々が一度は聞いた事が有る話。
それが記憶なのか、或いは願望なのか。
誰にも判らない昔話。
けれど、その先に有るのは現在へと続く悲劇とは違い血生臭い惨劇である事は、殆んど知られてはいない。
闇に葬られた真実を。
語られぬ深き罪を。
多くの者は知らないまま、日々を生きている。
「何故、どういう理由から緑が、河川、湖や沼地が、失われてしまったのか…
それは誰にも判りません
本当に存在した過去なのかでさえも判らない事です」
伝承や昔話の内容の真偽を確かめる事は至難。
けれど、その事に関しては然程重要ではない。
その真偽がどうであっても我々の生活や価値観が何か変わる訳ではない。
ただ、“そうだったのか”という感想を抱くだけ。
その程度の事でしかない。
しかし、そうではない。
これを民が知ってしまえば今までの価値観が明らかに変わってしまう。
そういう内容の話が有る。
「ですが、我々ローランの民にとっては話す事でさえ禁忌とされている深き闇に葬られた歴史が有ります
そして、その話は彼等──“渇く赤”とも深く関わる物でも有ります」
そこまで言って、ヒエイの眼を真っ直ぐに見詰める。
声に、言葉にはしない。
眼差しで“それでも貴女は訊きたいですか?”と言う様に問い掛ける。
彼女は全く視線を外さず、逸らしもせずに、ゆっくり静かに頷いて見せた。
こうなる気はしていた。
彼女は好奇心で気安く内に踏み込む真似はしない。
それは昨日・今日の彼女を見ていて理解していた。
だから、覚悟はしている。
自分の知る事を伝える。
その意味を含めて。
静かに目蓋を閉じてから、ゆっくりと息を吐く。
そして、目蓋を開ける。
「…今から凡そ一千年前、この地には幾つかの部族の人々が住んでいました
曾て、あのロプノール湖は共有財産として大事にされ全ての部族が平等に扱える様にされていたそうです
…しかし、ある時期を境にそれは崩れました
その原因が何で有ったかは我々には判りません…
ただ、それにより部族間に闘争が起きた事は確かです
闘争は瞬く間に広がって、ロプノール湖を奪い合って血で血を洗う状態が長きに渡って繰り返されました…
その結果、曾ては十数もの数が存在したという部族は僅か五つにまで減っており多くの命が失われました…
とは言え、中には別の地へ移り住む事を決めた部族も居たのだとは思います
戦い続けて滅亡するよりは生き延びる事を選んだのは有り得るでしょうから…」
少しだけ、違う事に意識を傾けて紛らわせる。
過去の事だとは言っても、重い事実には変わらない。
出来る事なら酒の一杯でも飲みたい気分だし。
素面で話すのは厳しい。
…話した事も無いしな。
本当、止めたいよ。
胸中で弱音を吐きながらも叶わない事だと理解して、改めて気合いを入れる。
「…ロプノール湖の覇権を巡る闘争の末に残ったのは最も多い部族でも三百人、最も少ない部族は百人にも満たなかったそうです
当然ですが、そのままでは正面な戦いにすらならない事は理解出来ます
其処で最も多い部族以外の四つの部族は共闘する事を決めて、自分達にとっては最も危険な共通の敵を先に排除しました
その戦いの裏で、内二つの部族は人数を増やす為にもこの闘争に勝利する為にも単独では不可能…
仮に叶ったとしても一族は血が絶えて滅亡してしまう可能性が高いという事は、冷静に考えれば判ります
そう考えて婚姻関係を結び部族を統一しました
それを知った残る二部族も同様に婚姻関係を結ぶ事で対抗しました
人数的には五分五分となり闘争は最終局面を迎えます
全てに決着を着ける…
そう考えられていた中で、予期せぬ事態が起きます
相手勢力に対抗する為にと婚姻関係を結んだ片方──最も人数が少なかった部族からすれば、将来的に見て自分達が虐げられるという可能性を強く感じていたのでしょうね…
彼等は共闘関係に有る筈の部族にさえ気付かれないでロプノール湖の周囲を覆う為の壁を築く為に、密かに煉瓦を造っていました
当然の事ですが、戦場にはロプノール湖に影響の無い様にと十分に離れた場所が用いられていました
その為、誰にも気付かれず彼等はロプノール湖を覆う壁を築き上げました
そして、彼等は他の勢力を相手にしてロプノール湖を人質にして戦って、勝利を収めました」
其処まで一気に話し切って大きく一息吐く。
最終的な戦いに関しては、ロプノール湖という絶対に影響を及ぼせない存在故に無理な攻撃は出来無い。
加えて、生活に於いて最も重要となる水源を失っては身体的にも厳しくなる。
長期戦は不可能となる。
更に、ロプノール湖を奪い占拠した彼等は一族の数を増やす為に敵の女性のみを無条件に受け入れていた。
勿論、壁の内部へと潜入し内側から門扉を開けようと画策した事も有った様だが予想もし易い可能性だけに女性達は簡単に捕まる。
そして、見せしめに殺され内外の女性に恐怖を与えて支配・服従させた。
未来の無い、自分の一族と運命を共にしようと考える女性は少なかった。
加えて、勝てば取り戻せるという考えも有っただろう男達は女性を積極的に敵の元へと送り出していた事も一因だと言えるだろう。
ただ、極限状態だった故の判断力等の低下・危機感の欠如も有ったのだろうな。
「そして、ロプノール湖を手に入れた部族は他部族の女性達を迎え入れた事で、時と共に増やしました
その中でも純血──元々の一族同士の子孫は尊ばれ、王公貴族となりました
侵略してくる敵とは戦い、城壁を着実に拡大して…
そうやって長い時間を掛け現在のローランという国に成った訳です」
一番、精神的にキツい所を話した後なので、今の話はあっさりと言えた。
聡明な彼女の事だ。
話し始めた辺りで、大凡の内容は予想出来ただろう。
それに…こう言ってしまうと何だが、決して珍しい話という訳でもない。
ある意味では、何処にでも存在している歴史の一端。
戦争という行為の闇だ。
故に、自分達の祖先だけが悪だとは思わない。
それが、戦争という物。
その行為を悪と断じる事が出来るのは、その歴史上に一切の闘争に類する行為を遣った事が無い存在のみ。
しかし、そんな存在なんて何処にも存在はしない。
何故なら、我々は己以外の命を糧として生きる存在。
食事の行為その物が、既に命を奪うという行為。
我々は悪の上に成り立ち、悪を為し生きている。
それすらも理解出来ぬ者に悪を語る資格は無い。
…まあ、この考えも自分の中に留めるべき事。
他者に求めはしない。
理解とは、そういう物だと思うのだから。
──と、気が抜けたからか余計な事を考えていた様で胸中で苦笑する。
「…では、彼等は…」
静かに、続きを促す様に、彼女の声が聞こえる。
意識を彼女へと向け直し、話の続きへと戻る。
「恐らくは今、貴女が思い浮かべている通りです
彼等──“渇く赤”の者はロプノール湖を巡る闘争に破れ去った三部族…
その生き残った者達の間に産まれた子孫の末裔です
長い時間の間に他の部族の血筋も混じってはいるとは思いはしますが…
彼等は間違い無く、我々と“同じ血を持つ民”です」
そう、我々と同じだ。
それが、どういった経緯で有ったにせよ、同じ部族の血を受け継いだ末裔。
故に、我々がローラン国の民で有るのならば、彼等もローラン国の民と言える。
しかし、彼我の立場は違い彼等は国民とは見なされず敵とされてしまう。
城壁の内側と外側。
その生まれた場所の違いで我々は別の存在となる。
ただ、こう考える事自体が恵まれた環境下に生まれた自分の自分勝手で安っぽい偽善なのかもしれない。
そう、思ってしまう。
「…貴男の考えている事は私にも判る気がします
戦争などは、起きなければ起きない事が最良です
しかし、国という枠と境が有る限りは不可能な事…
我等の国、曹魏も今でこそ国として機能していますが元々は漢王朝の領地…
勿論、建国の際に持ち得た領地は亡き皇帝陛下より、現国王陛下が賜わった地
それに関しては誰であれ、如何なる非難も受ける由は存在しません
ですが、皇帝陛下亡き後、群雄割拠の時代に世は至り各勢力によって覇権争いが行われています
…今もまだ、ですね
そして、その群雄割拠にて新たに領地を得た事もまた確かな事実ですから…」
そう言った彼女は苦笑こそ浮かべてはいるが、何処か悲哀の色を感じさせる。
戦争という物の愚かしさを理解しながらも、時として必要悪でもあるという事も理解しているが故に。
そう思わせる表情だった。
「…先代のローラン国王は彼等を国民として受け入れ共存を願っていました
その理想は志半ばで倒れ、途切れてしまいましたが…
個人的には、その理想こそローランの国としての未来だと思っています」
何故、なのだろうか。
彼女に、誰にも言った事が無い自分の理想を、思いを語ってしまっている。
それを不思議には思うが、決して嫌な気はしない。
失敗だとも、悪い事だとも思いはしない。
彼女は暫しの間黙ったまま此方を見詰めていた。
そして、ふっ…と力を抜く様に笑みを浮かべた。
「…それが実現出来たなら素晴らしい事ですね
そして、少なからず貴男と同じ様にローランの未来を願っている方も居ます」
「………え?」
それは意外な言葉だった。
故に、呆然となる。
正直、そんな突拍子も無い事を考えている者が他にも居たとは思わなかった。
曾てならば兎も角。
今の彼等──“渇く赤”を受け入れようだなんて事は民でも中々考えない筈だ。
英雄は過去の偶像。
それが現在なのだから。




