表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恋姫三國史  作者: 桜惡夢
535/915

        伍


拍子抜けの質問だと言えばそうなのだろうな。

何しろ、お風呂の有無だ。

あれだけ真剣な表情からは流石に想像が出来無い。


しかし、要は習慣の違い、なのだろうな。

勿論、世の女性が身嗜みを気にしている事は古今東西問わず万国共通だろう。

経済的な余裕が有れば、と一言付く場合も少なくない事も確かではあるが。

そういった意識は常に有るという意味では、世の女性共通だと言えるか。


それはさて置き、この事をどう言ったものか。

…変に余計な事は考えずに有りの侭を言うべきだな。



「…その、大変言い難い事なのですが…

この辺りでは水は貴重です

我が国は都内に巨大な湖を有してはいますが、使用は厳しく制限されています

その為、“お風呂に使う”という事は殆んどと言っていい程に有りません

当然ですが宿屋には勿論、お風呂の有る一般家庭など一軒も存在しません」



そう、はっきりと言う。

彼女の表情に僅かに浮かぶ落胆の色に心がズンッ…と鈍く痛んでしまう。

しかし、仕方が無い。

どうしようも無い事だ。

こればかりは御国柄の違いとして素直に受け入れて、諦めて貰う他無い。



「…殆んど、というのは、国の王公貴族の様な一部の限られた身分の方であれば可能、という事ですか?」


「っ!?、そ、それは…」



“納得はしても、簡単には諦めはしない”と口以上に彼女の視線が語る。

その眼差しを見た瞬間に、思わず一歩後退った。

と言うか、我ながら一歩でよく堪えたと誉めたい。

叶うなら逃げ出したいし。



(女性の美に対する欲求は凄まじいからな…)



理想という美を追い求める姿勢は一種の狂気だろう。

それ自体を悪い事だなんて思いはしないが、何事にも適度という物が有る。

度が過ぎれば善行も傲慢、正義も支配へと変わる。

いや、別に女性の美意識が恐ろしいという訳では──ああいや、恐ろしいな。

正直に言って自分には先ず理解し難い価値観だ。

“其処まで遣るのか?”と呆れを通り越して感心すら覚えてしまう者も居る。

…その先は、狂気だが。


まあ、要するにだ。

彼女も、凄腕の商人である前に一人の女性。

拘る部分は違ってはいても“綺麗で居たい”という、その思いは同じ様だ。

流石に狂気と言う感じではないのだが、先程まででの彼女の存在感というのか、圧倒されてしまう雰囲気が印象強かったのだろう。

後退ったのは其方らの方が主な要因だと思う。


そう思うと、今、目の前でお風呂を求めている彼女は可愛らしく思える。

歳相応──と言っても実際には年齢は知らないが──に見てしまう。

その要望を叶えて遣りたくなってはしまうが、現実は無理な物は無理だ。




だからと言って、簡単には引いてくれないだろうし、無茶を遣りそうだ。

商人というのは無理難題に直面すると余計に遣る気を漲らせる者が多いし。

しかも、交渉事は彼女達の主戦場なのだから。

厄介事の予感しかしない。



「貴女なら判っているとは思いますが、一応念の為に言って置きます

このローランでお風呂──入浴は王族以外には同等かそれ以上の国賓の方にのみ許されている事です

先程も言いましたが、水は貴重な物です

また、湯を沸かす為に使う薪も此方では高価です

それらを大量に使用する為王族の方であっても滅多に入浴はなさいません

ですので、“交渉しよう”等とは考えないで下さい

御願いしますから」



そう話して、頭を下げる。

彼女に了承の返事が貰えるまで頭は上げない。

上げるつもりはない。

此処で押し切らなくては、彼女は確実に交渉に入る。

そう確信させる程に彼女の眼差しは本気だ。

もしかしたら、その才能を遺憾無く発揮して、纏めてしまうかもしれない。

可能性としては十分に有り得ると思えてしまう。

しかし、そうなった場合は両国の歴史上に異色として記されてしまうだろう。

“お風呂協定”とか。

正直に言って、そんなのは一国民として嫌過ぎる。


なので、是が非でも彼女に引いて貰わなくては。

頭を下げる程度で済むなら幾らでも下げよう。

彼女が国王や重臣の方々と交渉する事を避けられるのであれば、誇りなど此処で捨て去ってしまえる。

今は、そういう状況だ。


それに勝算は有る。

ここまでされて我を通す程彼女は愚かではない筈だ。

何より、商人である以上は信頼関係を重んじる筈。

此処で我が儘と秤に掛けて失う真似はしないだろう。

…それを厭わない程ならば此方も諦めが付くしな。

そうなったら止める方法は力強く以外には無い。

それは魏国との国交断絶、最悪は戦争に至る道。

故に、止められはしない。

“お風呂戦争”勃発よりは協定の方が増しだしな。



「……はぁ…判りました

どうか、頭を御上げ下さい

私も自分の我が儘を通して両国の関係を悪化させたいとは思いませんので…

我慢する事にします」


「有難う御座います」



彼女は胸中の願望(ねつ)を吐き出す様に、大きく息を吐いて明言してくれた。


魏の国王が信頼し一任する彼女なのだし判ってはいた事ではある。

だが、素直に安堵する。

本当に、引いてくれた事に身体の力が抜けそうな位に心から一息を吐く。




少しだけ、恥ずかしそうに頬を染めながら、ヒエイは一つ咳払いをする。

仕切り直し、なのだろう。

そのあまりの印象の違いに胸中で苦笑する。

例えるなら、聡明で強かな見目麗しい大人の女性と、純粋で無邪気で可愛らしい少女の様、だろうか。


ただ、一度後者の顔を見て知ってしまうと前者に対し感じていた圧倒される様な存在感は薄れてしまうのは仕方が無いのだろう。

全く緊張感が無い、という訳ではないのだし。



「では、改めまして…

二つ目の質問なのですが、昨日、私共を襲っていた者──“渇く赤”について、教えて頂けますか?」


「…………」



そう言われて、一瞬だが、頭が真っ白になった。

そして、我に返ると様々な憶測と可能性が思い浮かび焦りを生み出す。


それでも、どうにか平静を保ったまま、対応する事が出来る状態にはある。

その事に少し、安心する。



(…しかし、“渇く赤”について知りたいとは…

彼女は一体どういうつもりなんだろうか…)



興味本意、という理由では先ず有り得ないだろう。

全く無いとは言わないが、自分達が被害に遭った以上他人事ではない。

当然だが、世間話の範疇に収まりはしないだろう。

それに彼女の才能ならば、ある程度は既に歩き回って民から訊いている可能性が高いと言える。

となれば、必然的に此方に訊きたい内容とは、民には知られていない類いの物と言っていいのだろう。

…確かに、存在はする。

勿論、話してしまった所で簡単にどうこう出来る様な事でもない。

だから、別に構わない。

そう思えるのも確かだ。


但し、別の問題が有る。



「…教えると言いましても具体的には、どの様に事を御知りになりたいかにより変わるのですが…」



取り敢えず、大雑把なまま話す内容を此方に丸投げにされている状態から脱する事が大事だろう。

それは会話の責任が此方に有るのと同じだからだ。

そんなのは御免蒙る。

なので、彼女自身に此方に訊きたい内容を明確にして提示して貰う。

その方が、余計な事を話す可能性も下げられるしな。


出来れば、彼女の訊きたい内容が平凡で穏便な事だと嬉しいのだが。

こればかりは流石に彼女に委ねるしかない。

彼女を相手に交渉(とくい)分野で遣り合おうだなんて考えたくもないしな。

それに、下手な真似をして事態を悪化させてしまえば後悔するだけだ。

だから今は大人しくして、流れに身を任せる。

強く、願い、祈りながら。





「彼等に関してローランの民が知っている程度の事は私も既に知っています

ですから、民も知らない、政治的な(そういう)部分に関して、ですね」



そう、はっきりと言い切るヒエイの表情に躊躇い等は全く感じられない。

やはり、こういった類いの駆け引きには相当に強いと思って良さそうだ。

そうなると、誤魔化すのは愚策だろうな。



「…判りました

ですが、話す前に念の為に確認する意味で貴女の知る“渇く赤”の事を話しては頂けないでしょうか?」



ともすれば、時間稼ぎだと思われても仕方が無い事を今、自分は言った。

そんなつもりは無くとも、そう受け取られてしまう事は十分に考えられる。

それでもだ。

彼等の事を話す前に言って置かなくてはならない。



「ええ、構いませんよ」



しかし、此方の懸念などは無意味だと言わんばかりに彼女はあっさりと承諾。

…いや、聞き入れて貰えたのだから良い事なんだ。

そう、良い事、なんだが…何と言うか…今の気持ちはとても複雑で、上手く言い表せない様な気分だ。


まあ、深くは考えない事が一番手っ取り早い方法なのだろうけれど。

綺麗さっぱりに、とは中々出来なかったりする。



「現時点で私がローランの方々から聞いて知っている彼等の姿は、一言で言えば“纏悪の英雄”ですね

彼等の行いを肯定する事は出来ませんが、最も有名な事件に於いて彼等が示した思想と価値観には個人的に感心しています

中々、居ませんからね

自己の言動の責任を負い、その上で尚も悪の道を歩み続ける、という事は…」



そう言うと言葉を切って、笑みを浮かべながら彼女は静かに目蓋を閉じた。

その姿は何処か神々しくて思わず息をする事も忘れて魅入ってしまう程だ。

それは何気無い仕草なのに人を超越した存在みたいに感じてしまう。

声を掛ける事は勿論として自身の呼吸でさえも彼女の邪魔になるのではないかと思ってしまった。


ただ、偶々吹いた微風が、自分を正気に戻した。

冷静になって彼女を見れば何かを思い出している様な雰囲気を纏っていた。


今彼女が何を想い、考え、思い浮かべているのか。

それを知る術は無い。

けれど、その何処か何かが彼等へと通じているのだと何と無く理解出来る。

もしかしたら彼女の過去に遭った出来事に起因をする感情なのかもしれない。


そう思うと、改めて彼女に声を掛ける事は出来無いと理解してしまう。

…男の弱味、だろうか。

或いは、彼女ならば性別を問わないかもしれない。

そんな事が頭に浮かんだ。




何れ位の間だったのか。

実際には僅かに数瞬程度の事だったのかもしれない。

しかし、それを感じている身としては事の後からしか理解は出来無かった。


ふぅっ…と、彼女の唇から漏れ出た小さな吐息。

その瞬間に止まっていると錯覚してしまいそうだった時間が動き出したかの様に意識が解放された。


彼女に気付かれる可能性を理解しながらも、胸の中の空気を大きく吐き出した。

気を遣う余裕など無い。

ただただ、動かない様にと気を張っていたのだから。

呼吸と共に緊張も失われ、どっと疲れが身体の内から全身へと広がってゆく。

その感覚に、心から今直ぐ家に帰って寝台に寝転んで思いっきり眠りたい衝動に駆られてしまう。

本当に僅かな時間の中で、昨日までの人生の分以上に気疲れした気がする。



「…ですが、そんな彼等も“過去”なのでしょう

この国の民の口からも今の彼等に対しての非難の声は少なく有りません

正直な事を言えば、私自身昨日の彼等と民の話に聞く英雄(かれら)とでは直ぐに結び付けられません

寧ろ、“曾ては…”と付け加えられた方が納得出来るかもしれませんね」


「…そう、でしょうね」



彼女の言葉が重い。

伝説(かこ)は美化されて、実態(いま)からは遠く離れ独り歩きしている。

そう言われた様に感じた。


勿論、彼女にそう思わせる意図が有るのかどうかなど知る由も無い。

ただ、もしかしたら自分の本音(こえ)かもしれない。

そう思ってもしまう。


先王の理想を今でも自分は支持している。

それが如何に困難な事かは今の仕事や立場になったが故に理解出来る。

同時に、その理想の実現がこの国の更なる繁栄の礎に成るだろう事も、だ。


その相反する考えの結末が大きな分岐点なのだろう。

自分一人では出来無いが、自分一人にも出来る事。

それが何なのか。

見付かれば…きっと。

答えは出る。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ