参
「──っ──っ…」
驚き──開いた口のままに唇は何かを紡ごうとする。
しかし、ビュレエフさんは表情に大きく歪ませ苦渋を浮かべながらも息を飲んで歯を食い縛った。
反射的に出掛かった言葉を理性が強引に押し止めた。
そう受け取れる反応。
その自制心に対して密かに胸中で拍手を送る。
下手な発言はこの場限りの会話という問題ではなく、国家間の政治的な問題へと発展・飛躍をする可能性が多分に含まれるからだ。
普段、俺と漫才をしている灯璃や珀花でも公の場では自制心を働かせている。
今は国内での公務が殆んどとは言え、普段から意識し出来無ければ意味が無い事だったりするからな。
その辺りは俺も二人だけに限らず厳しくしてますよ。
ビュレエフさんが訊く事を押し止めたのは事の内容が明らかに国家レベルであるという事を察した為。
それも、一商隊ではない。
今朝の時点で、この都内に居た六商隊全てに、だ。
その事を理解してしまえば真っ先に脳裏に浮かぶのは“国交断絶”だろう。
“その国──ローランから全員引き上げろ”と命令が下ったのと同じだからだ。
勿論、実際には似て非なる解釈をしている訳だが。
馴染みの無い“国営商人”という立場の説明を聞いて即座に思考・判断に正しく適用・反映出来はしない。
それが当たり前の反応。
だから、彼に非は無い。
“自分の迂闊な言動により僅かに残っている可能性が有るかもしれないそれが、此処で完全に潰えてしまうかもしれない”という様な思考をしてしまうとしても誰も責めはしない。
寧ろ、宅の面々からならば称賛の声が上がるだろう。
俺の“意地悪”に対して、善戦していると。
ただ、此処で引き下がって良いのか、どうか。
それは意見が別れる所だ。
何故なら、此処から先では個人の能力だけが頼り。
一対一の、真剣勝負。
勝てる見込みではない。
“絶対に勝つ”という強く揺るぎ無い意志。
それだけが物を言う領域。
──とは言うものの、俺も必要以上に苛め様だなんて思ってはいない。
だから、此方から今の件の説明はするつもりだ。
「先ずは、誤解の無い様に言って置きます
此度の帰還命令は此方──ローラン国との国交自体は無関係の物になります」
「…っ…本当、ですね?」
俺の言葉に安堵と不安とが混ざり合った表情を見せ、それでも意を決して確認の言葉を口にした。
今、心拍数を計ったならば凄い事になっているかも。
並の人物で有れば逃げるか気絶している所だ。
…いや、もしかしたら今の話にすら達していないかもしれないな。
それだけ彼が優秀であると言う事が出来るだろう。
俺は安心させる様に笑みを浮かべて小さく頷く。
「ええ、本当ですよ」
その一言を聞いて、大きく息を吐き出した。
だが、流石に今までの話の流れで学習したのだろう。
ビュレエフさんは油断せず直ぐに意識を引き締めた。
…出来れば、もっと叩いて鍛えたい所だな。
本当に良い人材だと思う。
稀有な男性の人材だし。
まあ、取り敢えず今は彼の健闘に応えましょうかね。
小さく息を吐いて俯くと、笑みを消し、真剣な表情で彼を真っ直ぐに見る。
“まだ、全てではない”と言外にも感じさせる。
「ですが、結果的に両国の国交・貿易に対し一時的な物とは言えど、影響が出るという事も確かです
ただ、陛下も曹魏の民の、商隊の者達の安全を第一に御考えになられた上での、御決断であるという事には御理解を頂きたく思います
決して、このローランとの関係を悪化させたい、とは思っては居られません」
──と言って頭を下げる。
それは暗に“自分は陛下の名代として来ています”と臭わせる為の素振り。
当然ながら、そんな事実は存在していない。
実際には陛下──華琳から西域諸国に対する書状等も一切出てはいない。
抑、そんな物は必要ですらないのだから。
当然と言えば当然の事。
これは飽く迄も、俺個人の現場での独断による言動。
其処に華琳の責任は微塵も介在してはいない。
…お前は夫だろうって?
いやいや、今は一商人。
しかも、実在しない、な。
うん、我ながら悪い奴だ。
「……では、何故、彼等に帰還命令が出たのです?」
躊躇い、逡巡しながらも、ビュレエフさんは俺に事の真相を訊ねてきた。
それは覚悟をしての事。
“場合に因っては祖国から背信行為とされても祖国と民の未来の為に、貴女方に御協力を致します”という意味での、覚悟を。
我が身可愛さしか持たないなんちゃって王公貴族には先ず出来無い覚悟だ。
こういう人物が要職に居る国は未来が有る。
その才器を見極めて登用・任命出来る者が国政に深く関わっている証拠だしな。
その点だけを考えても十分ローランとの国交・貿易に価値は見出だせる。
ゆっくりと頭を上げると、先程までとは真剣さの違う重苦しさを感じさせる様な重圧感を醸し出しながら、ビュレエフさんを真っ直ぐ見詰めて、間を置く。
此処から先の内容は殊更に重要で、重大だと。
話を始める以前に感じさせ覚悟を持たせる為に。
僅かに唇を開き、吐息にも満たない僅かな浅い呼吸。
そして、ゆっくりと静かな口調で話を始める。
「…ビュレエフ殿は私共の行商先が何処までに及ぶか御存知でしょうか?」
いきなり核心を話す真似は此処ではしない。
相手や状況によっては逆に核心から話す方が効果的な場合も有るのだが。
今回──ビュレエフさんに関しては此方の方が効果を期待出来るだろう。
いきなり答えを提示しては簡単に納得されて終わり。
それでは効果が薄い。
一度、此方に対して大きく深い疑念を抱かせる程度で丁度良い位だ。
そして、順序立てて説明し彼自身に色々と考えさせる事に意味が有る。
彼の思考の内容には正解、或いは正解に近い物も多分含まれる事だろう。
だが、大半は外れる訳で、その分だけ、様々な憶測が脳裏に思い浮かぶ筈だ。
それに伴う不安や不信感は緊張する度合いが高ければ高い程に高まる訳で。
その状態からの、反転。
煽るだけ煽り高めた不安や不信感に対して、少しずつ導く様に手掛かりを与えて正解へと誘ってゆく。
その結果、どうなるか。
“此方から譲歩している”という印象を植え付ける事によって、彼の中の此方に対する警戒心を大きく削ぎ信頼度を高められる。
勿論、その途中で何か一つ失敗すれば不安や不信感は倍化では済まない。
恐らくは、二度と此方への信頼は得られなくなる。
そういう遣り方だ。
ハイリスク・ハイリターンなのは確かではあるが。
遣っても良い状況なのか、どうなのかは意見が割れる所だとは思う。
普通は遣らないだろうな。
だからこそ、普通の遣り方では得られない程の価値がその先には有る訳だ。
まあ、褒められた判断とは俺自身も言い難いけどね。
そんな俺の思惑になど全く気付きもしないで、真剣な表情で問いに対して考えるビュレエフさん。
その姿を見ていて思う。
華琳達が端から観ていたら絶対に俺を“悪徳商人”と呼ぶだろうな。
俺自身でも、そう思うし。
ただ、こういう立場の方が俺自身としては楽しいし、気が乗ったりもする。
正義の味方、英雄、勇者…
古今東西に有る彼等彼女等による物語。
その一つに加わろうなんて思った事も無い。
“もしも”と考えるだけで笑ってしまう。
まあ、他人が自分の言動を如何様に感じ、受け取るかまでは否定はしない。
信仰・宗教の本来在るべき姿と同じく、それは他者に強要し求める理解ではなく自己の中に存在する物。
“偶像”の形は人各々自由なのだから。
我が道には悪が在るのみ。
その在り方もまた自由。
勿論、自由に伴う責任等は負わなくてはならない。
そうでなければ、自由とは呼べないのだから。
「…羅馬にまで行っているという話は今の所は聞いた事が有りません…
ですから其方らで言う所の我が国を含む西域諸国内、ではないかと思います」
“そう思う根拠は?”とか切り返したくなる。
これが人材発掘・登用絡みでの問答だったら、絶対に遣ってる所だけどね。
流石に自重します。
「ええ、その通りです
現状では漢代より以前から西域と呼ばれる諸国までが私共の行商先です」
「…現状では、ですか」
特に強調した訳ではない。
それでも、しっかりと俺の言葉を一言一句逃さぬ様に注意・集中して聞いている事には感心する。
自身の考え・答えを言って肯定された直後は気が緩む瞬間でも有るからな。
その姿勢に、御褒美として答えて遣っても良いのだが──今は止そうか。
クスッ…と小さく微笑み、ビュレエフさんが今脳裏に思い浮かべているであろう考えが、全くの間違いではないという事を暗に肯定し話題を流してしまう。
話せば大分脱線するしな。
「先程の宿屋の件の様に、私共は御互いに協力をして本の少しでも商隊が安全に往き来する事が出来る様に様々な工夫や配慮を駆使し高めております
勿論、その中には貴男方や西域諸国による自国の治安情勢の安定・向上に対する努力・尽力も含まれます
それは当然の事なのですが其処が他国である以上は、我が国の力が簡単に通じず及びません…」
他国、という部分を僅かに強調する事で“此方の中で他国に対して政治的に介入をする気は無い”と思わせ然り気無く意識下に考えを刷り込んで置く。
当然だが、華琳達に言った通りに必要が無い限りは、下手な介入はしない。
どういう道を歩もうとも、それは各国の自由だ。
また、“我が国の力”と、微妙な言い回しも追加。
“介入をする気は無い”と思わせた直後の“武力”を窺わせる発言。
単独で取れば威嚇だろう。
だが、前者と組み合わせる事によって、此方の意図を察する事が出来る。
“介入をする気は無いが、我が国の民に害が及ぶなら如何なる手段を用いる事も躊躇いはしない”と、受け取る事が出来るだろう。
それを明言はしない。
飽く迄も窺わせるだけ。
だが、ある意味では交渉の暗黙の了解だろう。
“言わずとも判るな?”と悪代官が手を組んだ商人と悪巧みをしているシーンの表情の様に、である。
それを理解しているが故にビュレエフさんは俺を見て静かに息を飲んでいた。
「その為、私共──いえ、陛下にとっては国の乱れは何よりも懸念すべき事…
そう言えば、何が原因かは御判りですよね?」
「…っ…」
俺の言葉に表情を強張らせ意識せずに歯を食い縛り、両手を強く強く握り締めるビュレエフさん。
国の乱れ、と言われて何も思い当たらない。
そんな国は西域には無い。
何かしらの問題を抱えて、それでもギリッギリの所で踏ん張っている。
そんな国が殆んどだから。
ただ、少しだけ勘違い。
いや、早とちりかな。
「先程も言いましたが別にローランに問題が有って、という事では有りません
此度の帰還命令の原因とは大苑──フェルガナ国での内乱の兆しです」
「…フェルガナで内乱?
そんな話は聞いた事が…」
自身の懸念を訂正された為安堵した所に意外な真相を告げられて戸惑う気持ちは判らなくはない。
しかも、彼自身は国内では内外の治安に関して言えば最前線に居る立場だ。
そんな情報が入っていれば知らない筈が無い。
だからこそ、戸惑う。
「私共商人にとって現地の方々との会話は商売を探し求める上では、欠かす事の出来無い物です
その土地の方々が何を望み欲するのかを知る事により利益を生む訳ですからね
当然、その際には商売とは無関係の話も聞きます
そういった話の中には稀に話をしている本人でさえも気付かない些細な、しかし重要な情報が含まれている事が有ります
私共商人はそういった話を組み合わせる事で、逸早く異変を察知します
商隊の安全が第一ですし、もし外れても笑い話で済む事ですからね」
そう言って苦笑する。
だが、理解は出来る筈だ。
その商人の憶測を聞き入れ実行に移せるのが魏王──曹孟徳である、という事を言いたいのだと。
…惚気じゃないから。
単なる事実だから。
…ああでも、惚気も否定は出来無いのか。




