弐
俺に対しての敬語。
だが、それは尊敬や立場に起因する物ではない。
根は真面目そうだが。
警戒心に因る物だろう。
昨日のシャマラフさんとの遣り取りを見ていた事から来ている様だな。
…ちょっと遣り過ぎたか。
まあ、今更な事だが。
彼──ビュレエフさんは、諦めた様に小さく息を吐き視線を外して俯く。
しかし、直ぐに切り替えて顔を上げて此方を真っ直ぐ見詰めてきた。
「…何時から、私が貴女の後を付けているという事に気付いていたのですか?」
そう真剣な表情で問う。
尾行をしていた身としては自身の失敗の反省点を訊き参考にしたいのだろう。
その際にプライドが高いと訊く事すら出来無い上に、逆ギレしたりする様な輩も偶に居たりする。
そういった相手に対しては容赦無く潰すんだけどね。
個人的には今の彼みたいな向上心の有る人物は好印象だったりする。
しかも、此方に悪い事だと認識しつつも、仕事としてそう思われる事を覚悟して臨んでいる姿勢も良い。
“仕事だから”と言い訳を最初に口にして“この件の責任は私には有りません”とでも言いたげな無責任な真似をしない点も高く評価出来るだろう。
人材、という意味でならばローラン国の将来は明るいのかもしれないな。
取り敢えず、今は彼に対し答えてあげますかね。
「今朝、最初に宿を出て、“彼処”に向かった時から──ですね」
小さく笑みを浮かべながら余裕の有る態度をして見せ短く偽り無く答える。
それを聞いて“マジか…”とでも言いそうな雰囲気で右手で顔を覆って項垂れるビュレエフさん。
多少なりとも──というか国内では十指に入る辺りの実力は有るという話だし、その事実によるショックは大きいのかもしれないな。
まあ、気付かれたにしても二度目の外出以降、或いは此処に来て、という感じで自信が有ったのだろう。
それだけに俺から言われた事実に対する衝撃は意外と精神的にダメージを与える結果になったみたいだ。
うん、悪気は無いよ?
飽く迄も、向上心有る者に成長の糧に為ればと思って率直に言っただけだから。
単純に打ちのめすつもりで言うのなら、もっと苛烈で容赦無く言うしね。
「…つまり、今までの事は私の独り善がりだった…
そういう事ですか…」
「其処までは言いませんよ
後、無理に敬語を使い話す必要は有りません
普段通りで結構です
“その程度の事”で全てを決め付けはしませんから」
「…御気遣い、感謝します
ですが、一応は私の方にも仕事の責任が有りますので現状のままで行きます
これが御不快の様でしたら変えますが?」
「大丈夫ですよ」
「では」
そう言って互いに笑む。
真面目では有るが一辺倒な対応はして来ない。
柔軟で、状況を見た上での冷静な判断が出来ている。
その事に内心でも笑む。
とは言うものの、この場で長々とは話し込めない。
何時、何処で、誰に、話を聞かれるか判らない。
「話が長くなる様でしたら場所を変えますが?」
「…いえ、御気遣い無く
此方からは然程は御時間を取らせませんので」
「そうですか」
ふむ…此方からは、ね。
つまり、俺が訊く可能性もきちんと考慮しているって事になる訳だ。
これは“長くなる様な事は話す気は無い”という意味での牽制かな?
或いは、単なる嫌味か。
…何方らも、かな。
まあ、訊きたい事は確かに時間が掛かりそうだしな。
さて、どうしようかね。
取り敢えずは彼方の質問に答えながら考えますか。
「単刀直入に御訊きします
今朝、彼処に行かれたのは何故でしょうか?
少なくとも、貴女は都には昨日初めて来られた、と…
そう昨日言われました
とするならば、あの場所を知っているという事情には疑問を抱いてしまいます
その辺りの説明をして頂く事は出来ますか?」
当然と言えば当然か。
だから、尾行をされている時点で予想出来た質問。
それだけに驚く事は無い。
とは言え、此処で如何様に見せるかで、与える印象の操作や思考の誘導が出来るという事実も有る訳で。
一旦、ビュレエフさんから視線を外して俯く。
本の少しだけ、考え込んで悩む素振りをし、一瞬だけ彼をチラ見してから、決心した様に小さく頷く。
そして、顔を上げると彼を真っ直ぐに見詰める。
「…判りました
ですが、お話しする内容は他言無用に御願いします
何しろ、我が国の国益にも関わる事ですので…」
──と、ちょっと脅す様に真剣な表情で重々しく言いビュレエフさんの意識へと緊張感を生ませる。
同時に“下手に他言すれば曹魏はローランに対しての国交・貿易を断絶する事も可能性として有り得る”と言外に思い込ませる。
元々、宅が他国との間にて国交・貿易関係を持つのは数百年単位での超長期的な国家維持の為の一つ。
だが、宅は単独で国として存在し続けられる事もまた事実だったりする。
よって、現状では必ずしも他国との国交・貿易関係を締結・維持をする必要性は皆無だと言える。
だから、これらは対外的な印象操作でも有る。
他国に“絶対的な存在”と認識させない為の。
其処が政治の面倒臭さだ。
面白さでも有るけどね。
「先ず、あの宿の事ですが私共魏の商人の間では実は有名だったりします」
「…有名、ですか?」
俺の話に不思議そうな顔で訊ね返すビュレエフさん。
そう思うのも仕方無い事。
確かに珍しい宿屋形態だが異国で有名だと言われれば“どういう意味で”なのか気になる所だろう。
「御存知かどうかは私共も定かでは有りませんが…
あの宿屋形態は魏の商人の要望に応える形で、此方の宿屋を経営していた人物が開業した宿屋です
ですから、ローランに来る商隊は必ず彼処を利用し、彼方の宿屋の経営者さんも私共魏の商隊を優先・優遇して下さっています
そういった経緯を持つ為に此方に行商に出る商隊には必ず教えられる訳です」
これは嘘ではない。
宿屋にとって旅人や商隊の存在は欠かせない。
特にローランの様に国民が一都市内に全て住んでいる場合には自国内の宿泊客は先ず期待出来無い。
宅の保養地にしても普段と違う場所だから注目を集め人気にも為る訳だしな。
態々宿泊料金を払ってまで同じ都内で宿屋に泊まろうなんて考えはしない。
…え?、浮気や密会の場に使わないのかって?
いやいや、そんな事したら言い訳出来ませんって。
小さな島の中で、周りには知人しか居ない様な状況でそんな真似しますか?
先ず遣らないでしょ。
せめて、出張とかアリバイ工作出来無いとね。
いや、俺はしませんよ。
そんな事した日には総出で搾り尽くされますから。
とまあ、そんな訳で宿屋の経営者にとって宅の商隊は大口の御得意様。
しかも、一度毎に得られる利益は他の宿屋と比べれば桁違いだと言える。
極端な話、宅以外の他所の商隊を宿泊させる必要すら無くなってしまう程だ。
加えて、宅の商隊によって都に流通させられる品々は民の生活を向上させているという事実も有り、国王や貴族、要職に有る者達への発言力も高まっている。
勿論、勘違いして欲を出し自滅する様な愚かな人物を選んだりはしていない。
商人として、信頼を置ける人物を選んで、だ。
「…その様な経緯が有って出来た宿屋だったとは…
私は知りませんでした」
「意外と知らない人の方が多いと思いますよ?
宿屋というのは普通の民に縁の薄い物ですからね」
「確かに…」
だからこそ、付け入る隙が有ったりするのだが。
その辺りの事は観光事業に意識が向かう様な経済状況でなければ判らないしな。
本当、勿体無い話だよな。
他愛の無い話を挟んだ為か少し緊張感が緩んだ。
それを見逃す程、俺は甘い考えは持っていない。
必要な時には、特にだ。
「とは言え、この程度では国益に影響はしません
肝心なのは此処からです」
「──っ!」
ビュレエフさんが俺に対し訊いた事とは“あの宿屋の事を何故知っていたのか”というだけの事だ。
当然だが、そんな情報では此処が受ける損害は無いに等しい事だと言える。
それを聞いていたのならば今の説明で“可笑しい”と感じるのが普通だろう。
しかし、残念な事に緊張でビュレエフさんの判断力は低下していた。
だから、気付かなかった。
そして、油断していた。
それが俺の一言で認識し、一気に引き締まった。
「先ず、私共魏の商人とは大きく言えば二つに分ける事が出来ます」
「二つに、ですか…」
「はい、一つは此方や他の国々の商人と同様に個人で利益を得る事を主体とした一般的な認識の商人です」
まあ、“一般的な”、とか言っても宅の中ではという事なんだけどね。
諸外国にまで宅の者と同じ価値観や認識を求めるのはあまりにも酷だろうな。
…宅の普通が世界の基準に為った日には世界平和など容易い事だろうな。
戦う必要すら無く、だ。
まあ、無理だろけどね。
遣る気も全く無いし。
「一般的な認識というのはどういう事ですか?」
そう訊ねるのも当然。
俺がビュレエフさんの立場だったとしても、同じ様に訊いた事だろうしな。
だってほら“訊くは一時、訊かぬは一生の恥”だし。
「そうですね…
我が国では当たり前なので説明するとなると少々私も困りますが…ふむ…
基本的には商人になる事は誰にだって──庶民にでも可能な事ですよね?」
「ええ、まあ…
簡単な事ではないですが、可能では有りますね…」
そう言って何とも言えない表情をする気持ちは一応は理解出来るつもりだ。
ビュレエフさんの言う様に為るだけなら誰にでも可能なんだが、問題はその後。
伝手や財力が無ければ先ず商いにすらならない。
それを無視するなら特異な価値の商品が必要だろう。
普通には無理だけどね。
…慣れって怖いよね。
それが“当たり前”の事に為れば為る程に、一般的な普通からは遠ざかる。
やれやれ、困ったもんだ。
「曹魏では商人になる──商売をする権利を得るには国王である曹孟徳様を含む審査会の承認を得なくては正式な商売は出来ません」
「…正式な、という事は、そうではない闇商人の様な輩は居る、と?」
「いいえ、曹魏でその様な馬鹿な真似をすれば即座に捕まり処罰されます
まあ、闇商人という存在は乱世であるが故に非合法な商いで利益を生む者達です
現在の曹魏の様に国として安定してしまっては其処に付け入る余地は無くなり、当然ながら得られる利益は有りません
そうなれば大人しく其処を立ち去るのが彼等です」
──とか何とか言っても、実際の所は容赦無く探して狩って狩って狩って狩って狩りまくって、始末した。
というだけ、なんだけど。
流石に言えません。
血生臭過ぎますからね。
「そういう訳で曹魏内では商売は全て国家承認という形に為ります
そして交易を主とする者を商人と定義しています
その中で、先程の個人での商いを行い利益を得る者を“自営商人”と言います」
「…成る程、そういう形も有るのですね」
そう言って感心出来るのは彼の美点だろうな。
普通は兎に角質問ばかりを繰り返し勝ちだろうし。
自分で考える、という事が重要だからな。
「そして、もう一つの商人とされるのが“国営商人”という事になります
此方は簡単に言えば国外に出て交易を行う商人の事を主に指しますね
勿論、それ以外にも国内で商いをしている者達も含む訳なんですけれど…
その両者の違いは王家──つまりは曹孟徳様の御家が運営する建国以前から有る商家組織に属しているのかどうかになりますね
因みに、国営商人が組織に属している商人です」
これも別に説明しても特に問題の無い情報。
だけど、此処からは重要な話になる。
「そして、私があの宿屋に行った理由ですが…
国からの早急な帰還命令を伝える為です」
「──なっ!?」
流石に予想外の事だろう。
ビュレエフさんは驚いて、目と口を大きく開けたまま固まってしまった。
まあ、普通に考えたならば他国の者に教える様な内容ではないしな。
ビビりもするわな。




