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恋姫三國史  作者: 桜惡夢
527/915

         漆


 関羽side──


──四月二十七日。



「………んぅ……っ……」



現へと浮かび上がる意識。

しかし、気持ちの良い朝、という訳ではない。

肺に溜まっていた熱気。

それを息が詰まる様に感じ一息に吐き出す。

その自分の吐く息ですらも鬱陶しく感じる暑さだ。

小鳥の囀り、なんて定番の心地好い目覚ましは無く、ジットリとした寝汗により強い不快感を覚えながらの起床となった。


念の為に、何事も経験、と雷華様に言われ氣を用いず昨夜は就寝していた。

無意識にでも使わないのは日々の習慣に因る物だ。


いつもであれば、寝起きのぼんやりとする中で思考し今日の予定を思い浮かべて意識をはっきりとさせる所だったりする。

…(雷華様との)予定の無い休みの日には微睡みながら睡魔に負けて、つい二度寝してしまう事も有る。

それはそれで心地好い物。

まあ、習慣化している事も有って長々と寝ている事は先ず有り得ないが。


暑さ故、なのだろう。

特有の気怠さを感じながら何とか身体を起こす。

動く事すら億劫な朝なんて雷華様に出逢う以前の頃の“重い日”位だろう。

風邪は引いた事が無いので実感が伴わない。


ギシッ…と軋む寝台。

慣れない──と言うよりは慣れ過ぎてしまった普段の寝台との違いなのだろう。

身体の彼方此方が軽く痛み筋肉が固まっているのだと実感させられる。

筋肉痛ですら久しいのに、こういう形で、と言うのは気分的に複雑だ。


寝台の上を見れば翠と螢が未だ眠っている。

翠はだらしなく寝衣を乱し時折呻く様に声を上げる程寝苦しそうにしている。

それでも、私程には寝汗を掻いてはいない。

生まれ育ちの違いなのか、単なる体質なのか。

一方、螢の方は平気そうにスヤスヤと眠っている。

…氣は使ってない様だ。

ついつい、確かめてしまう辺りは仕方無いと思う。

本当に寝苦しい暑さだから疑ってしまったのだ。


閉じられたままの窓。

その隙間から中に差し込む日差しが右腕に当たる。

肌がチリチリとした熱さはまるで夏の昼の様だ。

季節はまだ春の筈なのに、国が違うだけで此処までの違いが有るとは。

…まあ、曹魏でも南北での気候の違いは有るのだが。

これは、その比ではない。


日差しを避ける様に身体を動かしつつ、部屋の中へと視線を巡らせる。

雷華様の姿は無かった。

既に出掛けられた様だ。


“旅の間は出来る範囲内で時間の感覚を現地の人々に合わせて生活する”という方針も有って、昨夜の様に“情報として必要な場合”以外は“纉葉”を見ない事になっている。

とは言え、曹魏国内ならば大凡の時間は判る。

しかし、この暑さも有って現状では感覚が狂っており定かではない。

ただ、有る意味この感覚が正しい事でも有るのだから慣れとは厄介な物だ。




寝台から下り、先ず寝汗が染み込み肌に貼り付く服を着替える事にする。

ここまで寝汗を掻いたのは此処数年の記憶には無い。

着替え等の入った皮袋──見た目は普通だが、雷華様特製の逸品──を取ろうと近付いた時、皮袋の傍らに氣により保温されていると思しき水桶が“三つ”有る事に気付いた。

しかも手拭付きで、だ。

きちんと確かめて見れば、私達三人各々の氣に合わせ調整されている事も判る。

明らかに“起きたら使え”という意図を感じる。

それは雷華様の気遣い。



「全く…困った人ですね」



そう呟きながらも口元には自然と笑みが浮かぶ。

決して嫌な気分ではない。

寧ろ、その優しい気遣いをとても嬉しく思う。

だって、自分が寝苦しくて寝汗を掻いた状態で起きて服を着替え様とした所で、先ず身体を綺麗にしてから新しい服を着る事が出来るというのは普通に嬉しい。

それだけでも十分なのに、その様に気遣って水桶等を用意してくれていた相手が宿屋の者等ではなく自分の最愛の夫であれば妻として嬉しくない訳が無い。

勿論、時と場合に因っては有難迷惑な事も有るのだと思いはしますが。

少なくとも私個人としては嬉しい限りです。


──但し、である。

普通に妻の立場からすれば“そんな事をしなくても”だとか“それは私達の遣る仕事ですから”などと夫に言いたくなる所でしょう。

主に妻として立つ瀬が無いという理由からですが。

そうでなくても、普段から家事等が好きな雷華様には複雑な気持ちなのに。

まあ、今では大分、私達に任せて下さってはいますが基本的に“自分で出来る事は自分で遣る”というのが当たり前の方ですからね。

それを知っているだけに、強くは言えません。

逆に“御好きな様に”とも言えませんしね。

自主的に自重して頂ければそれが一番な訳です。



(実際の所は華琳様による“御説教(おはなし)”にて自粛されましたが…)



あの時の雷華様の落ち込み方には今でも胸が痛む。

遊びたいのに遊べない。

外に出たいのに出られないという子供の様な表情。

御説教をされた華琳様すら罪悪感に顔を曇らせる程の事でしたからね。

雷華様も公的な部分ならば判っていらっしゃいますが私的な部分で制限をされるとは思わなかった様です。

…私達、妻の“見栄”だと言えますからね。

任せて下さる様になった事自体は嬉しいのですが。

文句一つ言わずに理解して下さった雷華様には素直に感謝しています。




氣に因る保温を解き右手で手拭を掴むと、ゆっくりと水桶へと浸す。

ひんやりとした心地好い、けれど冷た過ぎる事も無く温過ぎる事も無い。

正に絶妙な冷え具合。

水桶に浸した右手だけでも“暫く、こうしていたい”なんて思ってしまう。

これを逆に遣ろうとすれば至難だと言える。


はっきり言ってしまえば、単騎単独で適当な国を一つ陥落させる事の方が遥かに容易い事だろう。

今の私達であれば戦働きは何よりも簡単だからな。

勿論、飽く迄も例え話だ。

実際には、御二人の意志に反する事である為、絶対に有り得ない事だ。


そんな事を考えながらも、手拭を搾って縁に掛けると寝汗で濡れた寝衣を脱いで裸になる。

外気が素肌に触れただけ。

それだけでも、僅かにだが解放感を感じる。

一応、全裸ではなく、先ず上半身だけにする。

来客は無いとは思うのだが念の為、である。


手拭を取り、先ずは顔を、次いで髪へと拭いてゆく。

順番に身体を拭いていけば心地好さから暑さに対する鬱陶しさですら薄れてゆく気がしてしまう。

我ながら単純なものだ。

だが、気持ち良い事は確かだから仕方が無い。


上が終われば、下へ。

同性、妻同士とは言っても何と無く寝台の方を向いて翠と螢の様子を確認。

未だ二人共に寝ている事に安堵して息を吐いた。

そんな自分に気付き思わず苦笑してしまう。

別に御風呂にだって一緒に入っているし、互いに裸を見た事が無い訳ではない。

ただ、何と無く、だ。

何と無く、気にしてしまうのだから仕方無い。

…いや、寧ろ、こういった場所と状況だからなのかもしれない。

これが雷華様の前でなら…いや、逆に無いだろうな。

恥ずかしくて堪えられずに逃げ出す気がする。

私には紫苑達の様な真似は無理だしな。

…御酒でも入っていたなら別かもしれないが。

いや、別に遣りたいという訳ではない。

飽く迄も可能の話だ。


──と、変な方向に向かう思考に気付き、頭を左右に大きく振って消し去る。


さっさと下も脱いで手拭で拭き終えて、着替える。

脱いだ寝衣や下着を洗濯物専用の皮袋へと入れると、自分の使った水桶を二人が誤って使わない様に離した場所へと移動させる。


其処で、ふと思う。

二人が身体を拭いている時自分はどうしようかと。

流石に、それを眺めている様な趣味は無いが。

若干、気不味い気がした。




着替え終わると窓の傍へと向かって歩き開こうとして両手を掛けて──気付く。

未だ寝台で寝ている二人に日差しが当たる事を懸念し振り向いてみる。

すると、寝台の丁度自分の寝ていた場所にだけ窓から差し込む日差しが届く事に気付いてしまった。

その微妙な運の無さに対し僅かに苛立ちを覚える。

誰が悪い訳ではない。

本の少しだけ、運が悪い。

ただそれだけなのだが。

それでも、不満に思うのは人間だからなのだろう。


しかし、雷華様の気遣いに一番最初に気付き、味わう事が出来た事実を思えば、些細な事だろう。

雷華様絡みの“一番”なら他の何よりも価値が有る。

幸福の前の不運。

それは幸福をより良い物に高めてくれる隠し味だ。


二人の事を気にする必要が無いと判れば躊躇う理由は特には思い浮かばない。

木製の窓を開けると視界を眩しい日差しが白に染め、反射的に逃げる様に光とは逆の方に顔を逸らしながら目を細めた。

当然と言えば当然か。

朝になっているとは言え、強い日差しが日常的に有る気候の国だ。

その為、身を守る為に家や建物の壁は厚い。

それにより、室内は曹魏の普通の家屋の室内と比べて暗くなる様になっている。

これも生活の知恵だな。


そんな風に感心しながら、左手を掲げ影を作りながらゆっくりと目を開く。


むわっ…とした熱い空気が窓から入って来る。

たったそれだけの事でも、肌に汗が浮かんでくる。

頭巾付きの外套を羽織るか“日傘”でも持っていない状況では外出は控えた方が良さそうだと感じる。

砂漠だけが厚い場所という訳ではない様だ。


昨夜の様に窓から眺めれば全く違った景色が有った。

人々は日除けの為だろう。

似通った格好をしているが個性──違う色や柄・意匠が無いという訳ではない。

そんな人々が日差しの中で行き交っている。

それだけを見れば、普通の街の賑わいと変わらない。

これが本来の、この都の、この国の姿なのだろう。


思えば都に入り宿に着いた時点では迂闊な行動を避け大人しくしていた事も有り窓も開けていなかった。

あの時は夕暮れの中だった事も有り、見ていたのなら綺麗な景色の都が見えたのかもしれない。

そう思うと少し残念だが、同時に今日の夕暮れの時が楽しみになる。




その景色を見詰めながら、昨夜の事を思い出す。

そして、感じる違和感。


都の人々はまるで“何事も無かった”かの様に平然と過ごしている。

自分達の身に何が起きたか気付いてすら居ない。


その事を理解した瞬間に、全身に悪寒が走った。

反射的に両腕で身体を抱き締める様にする。

自身を守ろうとしたのか、或いは震えを抑える為か。

何方らかは判らない。

ただ、脳裏に浮かんだ事に恐怖した事は確かだ。


夜が明けて──朝が来る。


それは当たり前の事だ。

止まない雨は無い。

明けない夜は無い。

死なない命は無い。

ただただ、万理の下に。

それは当然の如く訪れる。


──だが、その“外”へと誘う存在が居る。

私は、私達は知っている。

あの“望映鏡書”であり、昨夜の黒と白の蝶達。

そして、その“大元”が。

それを齎す存在なのだと。


“ずっと、このままで…”という想いを抱いた事は、誰にでも有るだろう。

それが具体的にはどの様な物であるかは人各々異なり違っている。

だが、大抵の場合は自身が“幸せ”や“心地好さ”を感じている時だろう。


私にも覚えが有る。

雷華様と二人きりで過ごし甘く、暖かな一時。

その時間が“永遠に続けば良いのに…”と願った事は一度や二度ではない。

しかし、“二人きり”なら私達の間に子供が出来たり孫が出来る事も無い。

そのままで“世界”からは切り離され、閉ざされて、隔絶された隔離世。

“それが願う世界か?”と訊かれたなら、否。

断じて、否だ。


確かに、そう願う事は有り考えたりもする。

だが、それは“一時”故に価値が有ると言える。

不運が隠し味なのと同じ。

日常の中の“特別”だから大切で、大事に想う。


もし、“明けない夜”へと飲み込まれたとしたら。

私は何一つ疑う事すら無く“夢を見続ける”のだろうと思うと怖くなる。

そして、それが如何に歪で危険な事なのか理解する。


曹魏の為、だけではない。

だが、世界の為、などとは言いはしない。

雷華様ならば特に。

ただ、後の世の者達に──子孫へと繋ぐ為に。

“禍根”は断ち切る。

私達の手で、必ず。



──side out。



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