参
靄の中を進み、10分程で外壁の真下に到着する。
声を掛け、紐を手繰り寄せ三人と共に壁面を駆け上り外壁の上へと立つ。
宿屋を出た時よりも確実に靄は量を増していた。
足元から凡そ1mと少し。
その高さにまで満ちている靄が都の殆んどを飲み込み白に染めていた。
「まさか…これ程とは…」
「今の率直な感想を言えば“絶景”、だな…」
「…凄いです…」
そう呟く愛紗達の気持ちはよく判る。
靄の中の都、と言うよりも“雲海の中の都”と言った方が相応しく思える光景。
特に、“未来”を知る俺の立場からすれば余計に。
淡く発光する靄に飲まれた白に染まるローランの都。
しかし、靄の上に出ている部分は現在に有る者達には“普通”の事なのだろうが自分の価値観では歴史的な建造物と言える物であり、マチュピチュなどの自然と過去の調和による神秘的な絶景を作り出し、見る者に何かを語り掛ける様な雰囲気を持っている。
時間が、状況が、許すならゆっくりと酒と料理を手に眺めていたいと思う。
華琳が相手ならば語り合う事も出来るだろうし。
じっくりと楽しめる筈だ。
それだけに惜しく思う。
小さく息を吐き、胸中から願望を追い出すと思考を切り替え、周囲へと視線を巡らせる。
都は靄に覆われている。
だが、外壁から外には全く靄が漏れ出してはいない。
夜中だし外壁部分の門扉は閉じられていて当然だが、靄が漏れ出す程度の隙間は十分に有るだろう。
それなのに外に漏れ出した痕跡が全く無いのであれば答えとしては単純。
その上、都全体を覆う程の巨大な結界の類いの存在は見られない。
となれば、可能性としては大きく絞られてくる。
恐らくは、この靄その物が一種の結界としての役目を果たしている。
そういう事なのだろう。
また、靄が“都の中”から涌き出ている、という点も踏まえれば靄が外に出ない理由も想像が付く。
この靄は“隠れ蓑”であり都を覆う為の物、という所だろうな。
由って、気になるとすれば靄よりも頭上の方だろう。
宿屋の窓から見上げた時、十分に違和感は有った。
ただ、彼処からでは全体が把握出来無かった事も有り一旦置いておいたが。
頭を動かして見上げたなら其処には“蓋”をするかの様に存在する黒天。
見事な程に、空を感じない“人為的な”黒天が。
(やれやれ…これじゃあ、“箱庭”擬きだな…)
他者を、自種族以外の命を“家畜”程度にしか認識していなかった連中の“狩り”に酷似した方法に嫌悪感が膨らむ。
ただ、それを抱いたままの思考は拙い為、深呼吸して吐き出してしまう。
「…雷華様、あの空は?」
自分の右隣に立ち、黒天を見上げている螢が気付いた様に静かに訊ねる。
その声に反応して愛紗達も頭上へと視線を向けて──思わず息を飲んだ。
この黒天を見て絶句しても何も可笑しくはない。
寧ろ、当然の反応だろう。
平然として居られる者は、自分同様どっぷり浸かった“其方”の業界人位だ。
「この靄を造ってる目的が“食事”だって事だな」
そう言うと三人が此方へと瞬時に振り向いた。
言い方に驚いた訳でも無く自分達の身の危険を感じたという訳でもない。
“それならば、のんびりと様子を眺めて話をしている場合ではないですよね?!”という抗議の意味で、だ。
その気持ちは理解出来るし悪い事だとは思わない。
ただ、それが正しい事とも言わない。
「焦って動いても目の前の事態は変わらない
寧ろ、可能性を潰す場合の方が多いだろうな
だから、今は先ず冷静且つ迅速に情報を収集し、分析する事が先決だ」
冷たい言い方にはなるが、一を切り捨て九を助ける。
そういう判断が出来る方が本当の“最善の結果”へと繋がったりする物。
九死に一生と似た様な物と言ってもいい。
非情なまでに冷静になれば見えない物も
見えてくるという物だ。
まあ、“そういう状況下で本当に其処まで冷静で居る事が出来るのか?”なんて訊かれれば、“絶対に”と断言は出来無い。
それは心構えや知識の域の範疇を越える事。
積み重ねた数多の経験が、培われた強靭なる意志が、有って初めて可能な事。
単純な論理的思考だけでは決して掴めはしない。
死戦場から先に有る未来の可能性は。
尤も、生き死にを常とする時代に生まれてきただけに皆を疑いはしない。
まだまだ甘さは有る。
それでも、切り替えるべき時には切り替えるられる。
そう出来る様に教えたし、皆努力を重ねている。
それを証明する様に三人が揃って深く長い息を吐く。
そう、それで良い。
持て余す感情は飲み込んで抑えるより、吐き出す方が簡単に処理出来る。
多大な精神を消耗してまで制御する必要は無い。
一旦、自分の思考・心から排除してしまえばいい。
逃げずに向き合うべき時は遣っては為らない事だが、戦場等で即座に対処をする必要が有る場合には効果的だと言える方法の一つ。
効果に個人差・向き不向き等は有るだろうが。
それは仕方の無い事だ。
人の心の御し方に、万能や絶対は無いのだから。
「…“食事”が目的で有るという事ですが、民の方に“死気”が見られないのはどういう事でしょうか?」
冷静になった愛紗の質問。
その内容に内心で笑む。
ちゃんと状況が見えている様で嬉しくなるからだ。
表には出さないけどな。
「眠り、というのが重要な点になるだろうな」
「……貘、ですか?」
そういう話が好きなだけに色々と聞かせてもいた螢。
眠り→夢→食事→夢喰いと連想した結果だろう。
良い読みだと言える。
「生命力その物ではなく、精神力や感情を喰らうなら民を眠らせている状況にも説明が付くからな…
勿論、飽く迄も可能性だ」
それ以外の可能性も十分に考えられる事だ。
それ一択という訳でもないのだからな。
「まあ、それはそれとしてその貘ってのは眠らせたらどうやって精神力や感情を食べるんだ?
少なくとも此処に来るまで大きな負の氣を持つ気配は感じなかったし…
現状だと都の中に居るのかどうかも判んないしな…」
貘を知らない者からすれば“夢喰い”という代表的な代名詞すら想像し難いのは当然の事だろう。
僅かな情報だけを聞いて、想像するまでに至れるのは俺や華琳にだって困難。
まあ、眠らせている状態の対象から感情を喰らうなら“夢を見させて喰らいたい感情を抱かせる”と考える事が出来無くはない。
ただそれにも、ある程度の予備知識は必要になる。
術者の家系や一族にとって受け継がれる知識が如何に大切であり、重要なのか。
それは直面してみて初めて理解出来る事だろう。
少し話は逸れてしまうが、現代社会に於ける義務教育に関しても言える事。
有名な高校や大学を出た、という事ばかりが優先され“本当に社会に出て必要な知識や能力”が養われて、身に付いているのか。
それを確かめはしない。
何かしら問題が起きてからバッシングするだけで。
教育の基本的な理念自体が腐敗し、歪んでいる事実に気付かない振りをし続け、“誰か”の声に賛否する。
それだけの社会自体が既に破綻しているのだと。
何故、誰も気付かない。
何故、何も変わらない。
それは結局、責任転嫁する事しか考えていないから。
自らが、責任を負う覚悟で行動する者が居ないから。
現状維持は問題の解決には何の意味も為さない。
停滞は衰退の兆候。
人が人として、正しく在り生きる事を望むのならば。
人を活かす事を大事にする社会構造を築かなくては。
…うん、本当に関係の無い事なんだけどね。
立場上、って事です。
そんな事を考える俺の隣で螢が翠に説明する。
「…貘というのは人々から悪夢を食べるとされている伝説上の獣だそうです
…その姿や呼び名には諸説有るそうですし、存在自体善し悪しが微妙です」
「へー…ん?、何でだ?
人から“悪夢”を食べるんだったら、貘って善い存在なんじゃないのか?」
「…確かにそうだな」
翠の疑問に同意する愛紗。
何気に翠って勘が良いし、根が素直だから都合良くは考えないんだよな。
だから、違和感や矛盾にはかなり敏感だったりする。
…決して、本人に“感覚が子供っぽいから”だなんて言ってはいけない。
(子供の様な)純粋さが故に感じる事なのだから。
思いはしても口に出してはならない。
「…悪夢と聞いた場合には大抵の人は“悪い物”だと判断しますが…眠りながら見る夢は人の“心の情景”なんだそうです
…だとすれば、貘の食べる悪夢というのは心の欠片と言い換える事が出来ます
…そんな心を食べてしまう存在を本当に“善い物”と呼べますか?」
螢の切り返しに対し二人は眉根を顰めて黙る。
そして、小さく首を真横に振って否定する。
三人の遣り取りを見ながら内心で苦笑する。
別に二人の事を責めているという訳ではない。
それは二人も判っているし意識してもいないだろう。
螢にも悪気は全く無い。
ただ、軍師という立場上、御説教する者が多い事実は否定出来無い。
そして、理詰めで説明されぐうの音も出ない位にまで言われたりすると、自然と身体が反応してしまう様に為っても不思議ではない。
…誰が、とは言えない。
俺自身も多少の心当たりが無い訳ではないから。
でも、其処まで追い込んだ遣り方はしてない…筈。
いや、敵を相手にだったら容赦無く遣るんだけどね。
まあ、螢が気にしていない事が幸いだろうな。
もしもそうでなかったら、気不味くなっている所だ。
と言うか、それで将師間に亀裂が生じていれば今頃は宅は空中分解している。
軍将側も“軍師全員が同様ではない”という事は理解しているだろうしな。
“そういう性格なんだ”と割り切っているから互いに変な溝は出来ていない。
今の愛紗達の反応も経験に基づく反射行動。
其処に他意は無い。
愛紗達の気持ちも判るが、説明する側の気持ち判る。
それだけに何方らが、とは言えないんだよな。
…宅の皆が理解有る面々で本当に良かったと思うよ。
俺には容赦無いけど。
「今、螢が言った様に夢を媒介として精神力や感情を喰っているから、民は深く眠らされているんだろう
それは実際に見ただろ?」
助け船、ではないが下手に話が拗れない様に今の内に続きを促して意識を逸らし此方に向けさせる。
「で、どうやって喰らうかという質問だが…
まあ、その遣り方としては大きく分けて三つ有る
一つ目は対象への直接接触による吸収だな
この場合は物理的──身体への接触になる
二つ目は対象の夢の中へと入り込んで、だ
愛紗と翠は“追体験”した事が有るから似た様な物と思えば判り易いだろう」
そう言ったら納得しながら微妙な表情をされた。
まあ、大事な記憶と想いを害悪と“似た様な物”だと言われたら複雑だろうな。
ただ、俺にも他意は無いし判り易い例えが他に無くて出したに過ぎない。
…後でフォローはするが。
「で、三つ目は遠隔による吸収になるな
前の二つは特定の対象から大きく喰らうのに対して、後の場合、不特定多数から少しずつ喰らう事が多い」
勿論、施行者の力によって大量に喰らう事も可能だが今回は低いだろう。
「状況から考えると三つ目という事になりますね」
「そうするとだ、都を覆う靄が“隠れ蓑”って事にも説明が付くだろ?」
「確かになぁ…だったら、貘っぽい敵は今、都の中に居ないって事か…」
「…いえ、居ると思います
…確かに都に大きな気配は有りませんでした
…でも、逆に言えば小さな気配は沢山有りました
…不特定多数から少しずつという事でしたら…」
「…成る程な、巨体である必要も無い、か」
愛紗の言葉に螢は頷く。
得られた情報を冷静に考え組み合わせて行けば、必ず何かしらの形が見える。
それが必ずしも正しいとは限らないだろう。
だが、その肯定は正否には関係無く経験として得られ成長の糧となる。
失敗を怖れずに進む事。
それが成長と成功に繋がる確かな道と成る。




