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恋姫三國史  作者: 桜惡夢
521/915

4 無月夜の哭蝶 壱


 other side──


深い、深い深い底の見えぬ闇が何処までも続く。

しかし、落ちていくという訳ではない。

そう…これは恐らくだが、水の中へと“沈んでいる”感覚なのだろう。

実際に経験した事が無い為飽く迄も聞いた話を参考に想像しての事、だが。


ただ、水の中に潜る感覚は少しだけだが、判る。

顔を水に浸けた時の感覚に似ているらしいから。

だから、深い深い淵へと、沈んでいると判る。


桶に汲んだ水に顔を入れて息を吐き出せばゴボゴボと泡立ち、その泡は水面へと上って行く。

それと同様に今、口から、鼻から溢れ出る息が沢山の泡となって闇の中を一方に上って行く。

其方らが水面なのだろう。

だから、反対側に向かって進んでいく身体は深淵へと沈んでいるのだろう。


しかし、慌てはしない。

これは“非現実(ゆめ)”。

最近いつも見ている、夢。

訳の判らない、意味不明な闇に沈むだけの夢。

故に“ああ、またか…”と呆れた様に思うだけ。


初めての時や見始めた頃は恐怖心を抱いていた。

だが、どんなに足掻いても足掻いても抵抗は無意味でただただ只管に身体は沈み続けていくだけ。

それでも恐怖から声を出し何かを言おうとするけれど何故か全て泡と為るだけで全く声に為らない。

水の中に居る様な感覚だが他の音は何も聞こえない。

ただ、自分の吐き出す息が泡と為り、浮かんで行く、その音だけが響いている。


これが無害な、理解不明な夢だと判ってからは恐怖は薄れてゆき、今は特に何も感じる事は無くなった。

この夢の意味に付いても、一時は考えてはみたもののさっぱり判らなかった。

だから、“そういう物”と一度結論付けてしまえば、考える事も無くなった。


そうすると可笑しなもので何処か心地好くなってくるという感覚になる。

その感覚に浸っていると、日頃の悩みや苦しみなんて綺麗に忘れてしまえる。

何時までも、何処までも、この闇の中に沈んでいたいとさえ思う様になった。


しかし、夢は夢でしかなく軈て必ず覚めてしまう物。

その時は必ず来てしまう。

夢の中で“眠る”かの様にはっきりとしていた意識が遠退いてゆくと夢は終わり“在るべき(げんじつ)”へと戻ってしまう。

それがいつもの目覚め方。

この夢の終わり方。


いっそ、全てを忘れても、このまま夢の中に居たいと馬鹿な事を考えてしまう。

そんな、出来もしない事を割りと本気で。


だが、それは不可能。

何故なら──まだ自分には現実(そこ)へと戻る理由が存在しているのだから。

だから、有り得ない。

もし、それが無くなったら──目覚める事の無い。

永遠の(ねむり)へと沈み続ける事になるだろう。

そうなったら、の話だが。


まあ、今は目覚める時まで浸っているとしよう。

この“優闇(ゆめ)”に。



──side out




「──っ!」



在る“世界”が変わっても長年の習慣──死活問題に直結する事だけに特に重要──として染み付いている感覚が有る。

眠っていても、本の僅かな“揺らぎ”や気配に対して臆病で人見知りな猫の様な敏感な反応。

即座に意識が覚醒する。


俺から本の僅かにだけ遅れ“祓禍”と同じ感知機能を解放済みの皆の“纉葉”が静かに鳴る。



『──っ!?』



それを聞いて、昨夜は──と言っても俺の感覚通りの時間なら眠りに就いてからまだ2時間も経っていないのだろうが──荒れていて宥めるのが結構大変だった三人が飛び起きる。

そう訓練していたのだから咄嗟の反応ではなく身体に染み付いた反射行動。

“敵”に対する警戒体勢。



「──きゃあっ!?」


「──ちょっ、うわっ!?」



──が、自分達の状況等は忘れていたのだろう。

飛び起きて、身構えようと体勢を取ろうとした時点で足元に踏ん張りが利かずにバランスを崩す愛紗。

寝台の端で、しっかりと、なんて意識的に遣らないと難しい事だから当然の結果だと言えるだろう。

そして、反射的に伸ばした左手で隣に居た翠の右手を掴んでしまい、巻き込んで一緒に床に落ちた。


中々に良い音を立てて床で伸びている二人。

床に打付かった際に出した奇妙な声に関しては二人の名誉の為に心の奥に静かに仕舞って置こう。

忘れてやらないのか?

こんな面白いネタを忘れる理由が何処に有りますか。

いつか“二人だけの時”に揶揄うのに使いますよ。


その二人を寝台の上を這い移動して見下ろす螢。

“…痛そうです…”という感想が横顔から窺える。

まあ、実際に寝台の下から聞こえる苦悶の呻き声から考えても痛いのは確かか。

不意打ち、だからな。

うん、それは痛いだろう。


俺?、寝台に寝たままだ。

だって今まで右側に愛紗、左側に螢、身体の上に翠が覆い被さる形で寝ていた訳ですから、飛び起きるとか出来無いんですよ。

だから、飽く迄も意識だけ覚醒しただけ。


二人と螢の違いは…まあ、軍将と軍師の差、だろう。

身構えるより状況の把握を優先する軍師の反応に対し軍将は安全の確保──要は防衛体勢を取る事を優先し身構えてしまう。

その結果だと言える。


ただまあ、咄嗟の事だから仕方が無いのだとは言え、一糸纏わぬ姿で身構える、というのは如何な物か。

そして、螢さんや、貴女も早く服を着なさい。

目の遣り場に困ります。




状況が状況なので揶揄いも巫山戯たりもせずに直ぐに服を着て、身仕度を整えて閉じられている部屋の窓を静かに開いてみる。

ギイィ…と木材の窓が軋み古ぼけた洋館の扉的な音で若干のホラー感を演出され思わず悪戯したくなるが、其処は頑張って自重する。


すると、1cmも無い隙間を通り抜けて室内に白い靄が這う様に入ってくる。

それを今は気にせず、窓を開き切った。



「…何だよ、これって…」


「…濃霧、でしょうか…」



窓から身を乗り出しながら外を見回した後、目の前に広がる光景を見て、思わず翠と愛紗が呟いた。

その気持ちは理解出来る。


真っ白な、雲海を思わせる厚く、深い、濃密な靄だと思しき存在が、都の全てを包み込んでいた。

否、それはまるで白雲へと飲み込まれ、沈んでいると錯覚しそうな光景だ。

ただ、緩やかにではあるが靄らしき白は、微風に游ぐ紫煙の様に流れている。

しかし、上へ上へと、上る気配は感じない。

横へ横へと、這う様にして広がりながら、水が溜まる様に濃度を増している。

そんな印象を受ける。

開いた窓から壁や床に沿い這う様に室内に入って来て消える事無く溜まっている様子から見ても“異質”と容易く判断出来る。

如何に砂漠特有の寒暖差の激しい気候だとは言ってもこんな事は起きはしない。

“何か”が有る証拠だ。


今の時間帯はまだ夜明けに程遠い深夜。

纉葉では午前0時を回って3分と経っていない。

空を見上げれば当然の様に黒天が其処には在る。

ただ、雲が厚いのか星一つ見当たらない。

だが、奇妙な光景であると“その手の知識”が有れば直ぐに理解出来る。

月の光さえも届かぬ深闇で有りながら、何故か周囲の建物の姿が見える。

それも意外と、はっきり。



「…この靄、ですか?…」


「…みたいだな」



同じ様に気付いた螢が俺を見て訊ねてくる。

本の僅かではあるが、件の靄は発光している。

右手を伸ばし触れてみるが特に何かの害が有る様には感じられない。

そのまま掬い取る様にして掌に乗せ、上げてみる。

気持ち、ひんやりと感じ、けれど重みは全く無い。

まあ、靄──気体としての質量感は有るが。

ゆっくりと、煙の様に下に流れ落ちて行くだけで靄は消える気配は無い。

発光をしている、消えないという二点以外は目立った特徴は無く、無害っぽい。

まあ、氣を使ったりするとその点も違ってくるのかもしれないのだが。




 関羽side──


目の前の光景だけでも十分異常だと思う。

しかし、悲しむべきなのか喜ぶべきなのか。

この程度の光景では私達は思考を混乱・停止させるに至らない。

…普段、これ以上の現実を目の当たりにしながら──否、体感しながら、鍛練を重ねているのだから。

本当に今更ながらに私達も普段を逸脱しているのだと実感させられる。

…そう思うと何故か、若干凹むのは内緒です。


真っ白な靄が飲み込む都の上へと視線を向ける。

そして、息を飲む。

曇天、と言うのであれば、普通に納得出来る。

だが、そうではない。

確かに其処に空は在る。

しかし、一切の光の無い、水底の様な深淵を思わせる“闇天(そら)”が、だ。

まるで、本来の空との間に遮る様に“蓋”をされた。

そんな風に思ってしまう。


ただ、素直な感想としてはとても驚いている。

曾て“黄巾の乱”に於いて真の元凶であった怪異──“望映鏡書”。

その孵化した姿を彼の地で目の当たりして以来だ。

ただ純粋に“恐怖”を齎す存在を見る事は。


…まあ、抑、その数自体が少ない存在だ、と雷華様が仰有っていたので遭遇する機会は滅多に無いだろう。

それに、今回の旅その物も居ると判ったからだ。

そういう意味で言えば別に今更驚く事ではないのだが上手くはいかないものだ。

運が良いのか悪いのか。

何方らとも言えないが──いや、悪いのだろうな。

普通に、考えたならば。


華琳様や一部の面々ならば一切迷わず“運が良い”と言うのでしょうね。

稀少な機会、である事には私も異論は有りませんし。

尤も、該当の“被害者”が居る以上は公言する事ではないでしょうが。



「…雷華様、あの空と靄は何れも同じ存在に因る仕業なのでしょうか?」


「んー…少し微妙だな」



疑問に思った事を訊ねれば雷華様は目の前に有る靄を右手で捏ねたり混ぜたりと弄びながら言われる。

…無害っぽいのは私達にも判りますが、もう少し位は警戒しましせんか?

とか思っていた矢先の事。


あっ、こら、螢っ!

雷華様の真似をして万が一何か遇ったらどうする!

…何?、その時は雷華様に助けて貰います?

いやまあ、確かにそうだと私も思うが…って、違う!

そういう話ではなくてだ、私が言いたいのは──



「って言うと?」



──などと、無言のままに螢の手を掴んで視線だけで会話していると、雷華様の言葉に訊ね返す翠の声。

それに私も螢も我に返り、雷華様の御意見を聞こうと意識を傾ける。


──って、螢!

だから気軽に靄に触るのは止めないか!




何とか螢に止めさせると、雷華様は苦笑し、翠からは“何やってんだよ…”とか言いた気な呆れ顔をされて見詰められていた。

…出来る事ならば、寝台で布団を頭から被って朝まで寝てしまいたい。

物凄く、恥ずかしい。



「まあ、迂闊に触るなって愛紗の言い分も判るけど…

現状だと“触れずに”って無理難題だからな

浅慮・無警戒なのは困るが確かめる為には仕方無い事だって言えるし…

だから、其処まで神経質にならなくても良いよ」


「…はい、判りました」



そう言って私の頭を撫でる雷華様の左手の感触に今は全神経を集中させる。

主に、羞恥心を塗り潰して平静を取り戻す為に。



「…ったく…それで?」



呆れた翠の声も今は無視。

と言うか、気にしない。

気にしたら逃げ出したくて仕方無くなりますから。



「何方か、或いは何方も、必ずしも“本体”の力とは限らないって事だな」


「…それって、つまり…」


「分身・分体って可能性は十分に有り得る事だな

確かに氣の質や反応からは負の存在だろうが…

それにしては弱い

お前達に俺が遣って見せた物よりも弱いだろ?」



そう言われてみると確かに気配は弱く、小さい。

ただ、靄に紛れるかの様に彼方此方から無数に感じる事も有って、直ぐに素直に頷けないのも確か。

判断が難しい所です。



「まあ、兎に角、外に出て色々と確かめてからだな

此処に居て全てを理解する事が出来る程度の事なら、態々出向きはしないしな」



“…ああ、確かに”と声に出さずとも私達三人の心は一致していた。

雷華様が私達を伴ってまで態々演じての事。

見ただけで判るのなら態々遣って来はしない。

しかも、まだ目的地以前の場所なのだから。

情報が少ないのは当然の事だったりする。




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