1 日々、徒然に非ず 壱
──四月十日。
春と言えば──そう、桜。
色彩の少ない冬を越えて、野山を染める様に咲き誇る姿には自然と目を奪われ、見入ってしまう魅力が有る春の代名詞だろう。
その姿は見る者の大多数に美しく映る事だろう。
しかし、単に美しいというだけではない。
特に日本人にとっては最も深く心象へと根付いている光景だと思う。
四月に入学、三月に卒業。
幼少の頃から長く基本的に同じサイクルを繰り返す為必然的に春に対する印象は“始まりと終わり”という生命の根幹を意識させる。
そういった事も一因として出来上がったイメージ。
それが“日本人の桜”なのかもしれない。
写真一枚の光景にしても、文化・風俗・歴史を知れば違って見える事も有る。
人は在るが侭に見ていると思っていても必ず何らかの心象を重ねているもの。
ただ、それが情緒であり、風情であり、一際に特別な美しさを生むのだろう。
「──ちょっと珀花っ!
独り占めしないでよ!
私まだそれ食べてない!」
「フフフフッ…徐公明よ、甘い、甘いのです…
此処は戦場、弱者に食べる甘味は無いのです!」
…相変わらずの賑やかさに思わず溜め息が出る。
勿論、嫌いではない。
慣れたというのも有るが、これが自分の“日常”だと心から断言出来るから。
ただ、花見をしている時は桜の花を見る事を楽しめと個人的には言いたい。
押し付けはしたくないので強くは言えないが。
「ならば、此方に有る物はお前の分は要らないな」
「御免なさい!
少し調子に乗りました!」
──と、あっさり土下座し冥琳に赦しを請う珀花。
その際の変わり身の速さと無駄に綺麗な姿勢に対して見事と言わざるを得ない。
…変な方向に学習・成長をしているのは恐らくは俺の影響ではないと言いたい。
「なら、他の誰の影響だと言うのかしら?
心当たりは全く無い訳?」
「…すみません、心当たり有り過ぎます…」
「馬鹿をするな、とは私も今は言わないわよ
でも、程度を躾なさい」
いやいや、華琳さん貴女、躾って、ストレートな…。
…間違ってはいないけど。
「…直ると思うか?」
「……ごめんなさい」
「──ちょっ、雷華様!?、華琳様も!?
酷いと思います!」
「異議を唱えるのであれば先ずは己を正せ、馬鹿者」
「みぎゃんっ!?」
ゴンッ!、と良い音を立て冥琳の拳骨が珀花に落下。
まあ、それ一発で済むなら冥琳にしては優しい方だ。
因みに、泉里は手を出さず徹底的に説教をする。
珀花的には冥琳より泉里の方が苦手らしいな。
まあ、説教をされない様に努力しろって話なんだが。
中々に難しい事だろうな。
国内某所──とか言う程に特別な場所ではないのだが一応、曹家の私有地。
一般には立ち入り禁止。
そういう意味では特別か。
風物詩とは言え“此方”に花見の習慣は浸透している訳ではない。
花を愛でる、という感覚も意外と希薄だったりする。
まあ、時代的にそういった事に意識を向ける余裕など無いからだろうが。
他所に比べれば、平穏だと言い切れる曹魏の国情。
尤も、他所と言っても今は群雄割拠も終盤。
曾て漢王朝の領だった地の覇権を巡る戦いも既に世に三勢力のみとなった現在。
曹魏の治安状況は群を抜き良好だと言える。
「孫策は無事に交州を得て建業に戻った後は益州との州境の警備を強化中だな」
「当然でしょうね
北側──つまりは曹魏との国境は江水が有るもの
此方の侵攻の意思の有無は関係無く、陸地とは違って直ぐには攻め込めない…
だったら、その陸地である益州との州境に対し注意を向けるべきだもの
劉表の事も有るしね」
華琳の言う通り。
孫策の選択は当然だ。
俺が孫策の立場だとしても曹魏に対し不必要な警戒を見せる事はしない。
それは“悪印象”を与え、後々の会談や交渉に際して悪影響を齎すからだ。
尤も、孫策達に対しては、連合軍の際に与えた印象が今も根深く残っている筈。
余程の事が無い限り曹魏と戦争を構えようとは思わないだろうからな。
「並行して造船に力を入れ始めたのは水軍の整備でも有るのでしょうが…」
「将来的な貿易を見据えてなのでしょうね」
冥琳と雪那の言った様に、造船にも着手している。
とは言え、小野寺は船舶に詳しい訳ではないらしく、“こんな感じで…”と絵を描いてアイデアを提供する程度に留まっている。
それでも現行の船舶よりは性能は上がるだろう。
但し、技術者の力量次第、という上での話だが。
「交州の特産品は漢王朝の領内では珍しいからな
十分に商品になる筈だ」
「植物関係は何でも各地で採取してきて普段から栽培・研究をしている貴男には言われたくないと孫策達は思うかもしれないわよ?」
「……否定出来無いな」
それは俺の趣味では有るが事実、国益にも結び付いて成果を出している。
そういう意味では趣味とは呼べないかもしれない。
交州や南蛮の植物も以前に採取しているし、現在でも定期的に採取・調査の為に出向いてもいるからな。
“売り”にしようと考える立場の者からしてみたら、いい迷惑だろう。
止めるつもりはないが。
「劉備の方はどうなの?
再び南蛮に遠征しなくてはならなかったのよね?」
「あー、その件か…」
華琳に訊かれ、思い出す。
何とも間の抜けた話だ。
南蛮大王を名乗った孟獲が南蛮の統治者だと思い込み倒すと南蛮の環境に耐える事が出来ずに早々と遠征を止めて引き上げてしまった劉備達一行。
一度南蛮に行けば気持ちは判らないでもない。
何の備えも、対応策も無く挑めば間違い無く死ぬ。
運が良くても重症だ。
それは外傷に限らず体内に対しても言える事。
宅みたいに氣が使えるって訳ではないし、華佗が同行している訳でもない。
そういった意味では十分に有り得る事だろう。
そして、盛大な勘違い。
確かに孟獲は南蛮の森林を支配している。
但し、正確には一族全体の戦士を束ねる総大将とでも言うべき立場。
実際に一族全体を束ねて、南蛮を統治している存在は代々“祝融”の名を継いだ族長だったりする。
故に孟獲を従えただけでは不十分だった訳だ。
情報不足って怖いね〜。
まあ、そうなった要因にも問題が有るんだけどな。
それは劉備達の問題だからどうでもいいんだけど。
「まだ行ってない状態だな
先ず、正式な使者を出して会談の約束を取り付ける
当然だが孟獲を使者にする事は出来無い
一族以外の者でなければ、使者とは認められない
例え、臣従していてもだ
そして会談には劉備自身が赴かなくてはならない
これはまあ、当然の事だし態々言う事ではないが」
「その当然が出来無い輩も少なくない時代だけどね」
「…せめて、“だった”と言いたい所だけどなぁ…」
それが難しい事は判る。
だからこそ、皆も苦笑し、何も言わないのだから。
ちょっと権力や地位を得た成り上がり者は勘違いして礼節を欠く事が多い。
その結果、得た物を綺麗に失う事も珍しくはない。
以前の劉備達であったならそうなっていただろう。
色々と経験した事で少しは成長したという事だな。
その調子で今後も頑張って貰いたい所だ。
「まあ、その辺りに加えて病等への対策が遅れている状態だからな…
交渉が纏まるのは早くても今月末辺りだろうな」
「…微妙な所ね」
本当、評価し難いよな。
とは言え、人材不足の中で頑張っている事は確か。
主に諸葛亮と趙雲がな。
劉備達には、一層の努力を期待したいものだ。
何故か、微妙な空気になり皆の視線が彷徨う。
誰が悪い訳ではない。
ただ、何と無く、なんだ。
「…そう言えば、雷華様
八面爺の樹の“アレ”とは何だったのですか?」
話を逸らす意味か、単なる興味・疑問からか。
そう、稟が訊ねてくる。
「あっ、それ、私もずっと気になってました」
その話の流れに乗る様に、声を上げた流琉。
空気を読め過ぎるってのも気を遣い過ぎて大変だな。
後で労ってやろう。
「先ず八面爺の樹は八つに分れた幹を持つ樹でな
それが八つの樹が集まって見える事に由来する
樹齢は約六百五十年になる大陸屈指の古大樹だ」
「六百五十年…」
「途方も無いですね…」
「って言うか、よく今まで伐られずに生きてるよね…
特別な理由が有るのかな」
樹齢を聞いて驚きを見せる皆の中で灯璃が鋭い一言を呟くと半数程の視線が俺に先を促す様に向けられる。
「その背丈は10m程だが幹や枝が直径1mを越える太さをしている
普通の山や森林であれば、目立つが南蛮の環境下では他の木々に紛れてしまう為見落とす事も多い
──で、その特徴は何より樹皮が異常な程に硬い事と繊維密度の高さだな
その為、普通に遣ってたら切る事は出来無い
と言うか、逆に斧なんかは刃毀れしたり割れるな
当然、矢なんかも刺さらず弾かれる程だ」
「…何、その非常識な樹」
「…雷華様みたいな樹」
『…ああ、確かに…』
珀花と灯璃の呟きを聞いて皆が納得する様に頷く。
其処で納得されると何だが腹が立つが、言い返せない自覚も有る。
だがな、お前達だって既に非常識側だって事忘れてるだろ。
俺の事は言えないぞ。
「なら、孟獲の言っていた“アレ”とは戦術の事?」
さらっと華琳は俺の抗議の視線を無視すると訊ねる。
いや、慣れてます?
でもね、もう少しは広げて構ってくれてもいいんだと思うんですけどね。
あっ、でも、揶揄う方には行かなくていいから。
真面目な方向でお願い。
「はいはい、説明した後で皆で構ってあげるわよ」
“だから早く言いなさい”と続きが聞こえる。
別に“皆で”じゃなくても──あ、はい、言います。
「樹を利用する戦術という考えも間違いじゃあない
ただ、孟獲が言ってたのは南蛮域にのみ棲息している“蛭”の事だ」
そう言うと全員が顔を顰め嫌そうに睨んできた。
訊いたのはお前達だから。
それを忘れるな。
あと、そういう反応をするだろうから俺も説明せずに居たんだからな。
其処、大事だからな。
「…あまり聞きたい話ではないみたいだけど…
参考までに訊いておくわ
…それって当然、普通じゃないのよね?」
本気で嫌そうな顔をしつつ知的好奇心と“予備知識”から一応は訊いておこうと決意したのが伝わる。
華琳だけでなく皆から。
蛭って医療にも使われてた事も有るんだけどな。
…言わない方が良いか。
「南蛮の固有種だな
“蠱金蛭”と涅邪族では呼ばれてる」
「…意外に綺麗とか?」
“小さい金”という意味で受け取ったらしく、珀花が期待を込めて訊いてきた。
なので、笑みを浮かべ──
「蠱は害虫の意だ
つまり、金色の害虫だな」
「…うわぁ…」
何を想像したのかは各々に違うから判らない。
ただ、基本的には不快感を覚える物だろう。
静かに俯いているから。
「通常時は土色をしていて背に鶯色の縞模様が入った姿をしている
縞模様は虎縞だが規則的な物ではないから、個体毎に違っている
体長は成体で凡そ10cm、大きい物でも15cm程だ」
「…それだけを聞いたならちょっと変わった蛭よね
しかも、今の所は“金”が関係無いし…
戦術的運用が可能な理由が有るのよね?」
考えたくはなくても元来の質から考えてしまう。
それを乗り越えての思考。
素直に感心するよ。
「蠱金蛭も血を吸う訳だが血を吸っている時、体表の土色が金色に変わる事から名が付いている
その吸血時に対象に痛みを感じさせない様に麻酔性の体液を流し込むんだが…
これが少々厄介でな
結構、睡眠効果が高い
一回で約一時間程なんだが一匹でも大人を落とす
それに複数襲われたら先ず目を覚まさず──死ぬ
死に方は様々だろうがな
涅邪族には何故か蠱金蛭が噛み付かない事も有って、運用可能って訳だ
因みに、南蛮の環境下から離れると二日と持たず死ぬという特徴も有る」
そう付け足しては見たが…効果は今一の様だ。
仕方無いか。




