参
ご主人様が上手く前向きな事を言ってくれたお陰で、桃香様達の遣る気にも良い意味で刺激になりました。
その結果に、内心で密かに安堵します。
場合に因っては、桃香様の意志を挫く事になるだろう可能性も有り得ましたし。
…本当に良かったです。
「…で、今の所どうなのだ朱里よ?
動いたのは曹魏だけという事は無いのだろう?」
盛り上がる、ご主人様達を他所に私に馬を寄せて来た星さんが静かに訊ねる。
流石に星さんは判っているみたいですね。
頼もしい限りです。
「…曹魏に敗れて敗走した袁術さんは荊州の江南部に何とか逃げ延びた様です
ですが、己が客将であった孫策さんが独立をした為に領地を失ったみたいです
嘗ての恩に報いて殺す事はしなかった様ですが…」
「此処に来て、か…
しかし、孫策にしてみれば戦わずして独立が出来る訳だからな…
この機会を見逃す理由など先ず無いだろう」
そういう事です。
それに多分ですが以前から江南の州領では袁術さんに気付かれない様に独立へと向けた動きは有った筈。
そうでなければ、此処まで見事に事は運びません。
実際、孫策さんは独立時に邪魔になる筈の袁術さんと戦わずに決着しました。
それは大きな意味を持った勝利だと言えます。
何故なら、孫策さんが長く袁術さんから不遇の扱いを受けているという事を民は知っているのですから。
加えて、袁術さんの評判は荊州の民の間では悪い事で有名ですからね。
恩義に報いる形で殺さずに見逃したというその行動は高く評価されるでしょう。
そして、良好な風評を得た事を追い風として、素早く領地の拡大を図る筈。
彼女もまた時代の申し子の一人と呼べる英傑です。
必ずや、動くでしょう。
「孫策が此方に──益州に侵攻して来る可能性は?」
鋭く率直に問題点の核心を訊ねてくる星さん。
ですが、それも当然です。
北──江北の領地は全てが今や曹魏の国領と成った訳ですからね。
必然的に孫策さんの矛先が向くのは荊州の東西に有る益州か揚州になります。
交州へは揚州を獲ってから向かわないと不可能に近いですからね。
「…正直、可能性としては全く無いとは言えません
ですが、揚州の州牧である劉表さんの一団は孫策さん──孫家にとって因縁深い相手の様ですから…
優先するのは其方らかと」
「…親の仇、か…」
どうやら星さんも知らない訳ではない様ですね。
孫策さん達姉妹の母親──“江東の虎”孫文台。
彼女を暗殺した事によって対立関係は何方等かの死を以てのみ終決する。
此処で、なのか。
或いは続くのか。
私達としては暫くは続いて貰いたい所ですね。
此方を気にする余裕が無い程度で構いませんから。
──side out
other side──
──十二月二十三日。
──下らない。
実に下らない世の中だ。
いっその事、一思いに誰か全てを破壊してしまえ。
そう思ってしまう。
何気無く頭上を見上げれば昨日・一昨日──遠い昔に見た空と何等変わりの無い青い天が広がっている。
それは時が──その状況が違ってさえいれば心地好く感じるのかもしれない。
だが、生憎と、晴れ渡った空とは対照的に心は深々と暗雲に覆われている。
(…天よ、何故無辜の民をこうも苦しめるのだ…)
そう声に出して問うた所で返る答えは無い。
天は変わらず頭上に在り続ける。
ただそれだけだ。
決して、地上の事に関わる事など有りはしない。
それ故に天は等しく尊い。
──無慈悲な迄に、な。
(…生まれ育った地を離れ自由を求める事もまた道の一つなのだろうな…)
だが、そう簡単ではない。
既に親類は死に絶え血縁の者は一人として居ない。
この地に自分を縛り付ける家族は無い。
しかし、縁とは必ずしも血ではない。
時には血よりも深く、尊い絆で結ばれる事も有る。
例を上げれば、夫婦だ。
夫婦とは基本的に他人。
同族間や血縁の有る場合も無い訳ではない。
ただ、概ね、他人だ。
他人として生まれ育って、出逢い、様々な事を経て、夫婦と成る。
その様に考えれば、故郷を簡単に離れられない理由の一つ位は有るのだろう。
尤も、自分にそんな相手は居ないのだがな。
と言うか、その様な相手が居るのであれば、天に対し愚痴る様な真似はしない。
…まあ、過去に気になった相手が居なかったと言えば嘘になるのだが。
ただ、自分の求める条件を満たして居なかった。
ただそれだけの話だ。
(…ああいや、一人だけ、我が心を焦がして止まない者が居るではないか…)
名も知らぬ、あの強者。
だが、本能で感じる。
自分を満たす者など他には居ないだろうと。
尤も、今何処に居るのかも判らないのだがな。
全く…我ながら不器用だと言わざるを得ないな。
そう思いながら苦笑する。
──と、此方に向け近付く慌ただしい足音を聞いて、小さく溜め息を吐く。
それと同時だった。
壊れ飛びそうな勢いで扉が開け放たれ、一人の人物が部屋に飛び込んで来た。
「大変です桔梗様っ!
今し方此方に近付く砂塵が確認されましたっ!」
その人物は妹同然に想い、育て上げている愛弟子。
…いや、馬鹿弟子か。
もう少し落ち着きが出れば良いのだがな。
「落ち着けい、焔耶よ
こうも騒々しくては昼寝も碌に出来ぬではないか」
「昼寝なんてしている場合では有りません!
敵ですよ!、敵襲ですよ!
叩き潰さなくてはっ!」
…やれやれ、何故にこうも短絡的なのか。
好戦的なのは自分に似たのかもしれないが。
…育て方を間違ったか。
興奮する焔耶を他所に私は再び溜め息を吐く。
「…で、何処の馬鹿だ?
まさかあの劉璋が重い腰を上げたか?」
「いえ、劉の旗印ですが、見た事は有りません」
…劉?、荊州──違うな、今は揚州の州牧だったか。
悪い噂の絶えない劉表。
奴だろうか。
…いや、それも違う。
焔耶は劉表の旗印を以前に見て知っている筈だ。
見間違えはしないだろう。
旗印を変えているとすれば劉の字を刻む必要も無い。
となれば、その劉の旗印を掲げている者は二人以外の劉姓の人物という事。
…だが、心当たりが無い。
「ふむ…一体何者だ?…」
何気無く呟く。
こんな状況の益州に好んで遣って来た以上侵略者には間違い無いだろうが。
果たして、今の益州を獲る事に意味や価値を見出だす様な輩が何を望むのか。
正直、思い浮かばない。
「その敵の数は?」
「凡そ一万かと」
「一万、か…」
決して少なくはない。
だが、多いとも言い難い。
それが更に厄介だ。
敵の数が少ないのであれば何処かの戦で敗走した輩の可能性が高くなり、対応も大きく絞られる。
逆に多いのであれば単純に侵略者と捉えられる。
ただ、好き好んで現状での奪取の理由に悩むが。
一万という数は何方らにも取る事が出来ると言える。
故に判断が難しい。
もしも、狙った上で兵数を調節したのなら大した者と思うがな。
だが、無視は出来無い。
となれば、必然的に選択は限られてくる。
「…まあ、仕方有るまい…
抑、民に累が及んでしまう事は避けるべきだ
焔耶よ、撃って出るぞ」
「はいっ!」
嬉々とした顔で準備の為に部屋を出て行く焔耶の姿に苦笑しながら、窓の方へと顔を向け、映る城壁の先に居るであろう敵を睨む。
民に手は出させない。
そう心に誓いながら。
──side out
劉備side──
━━武陽県
道中、特に問題も起きずに私達は予定していた通りに目的地となる場所の城壁を目視出来る所まで来た。
「…そう言えば朱里ちゃん
此処──健為郡を治めてる人って誰なの?」
「あ〜…そう言えば、全然聞いてないの〜」
祥阿郡の時は事前に色々と朱里ちゃんから説明も有り教えられていた。
でも、今回は何も聞いてはいないという事に、今更になって気付いた。
…もしかして説明するのが面倒臭いからって訳じゃあないよね〜。
私達とは違うんだし。
そんな事を考えながら顔を朱里ちゃんの方へと向けた私が目にしたのは、何処か気不味そうな表情で俯いた朱里ちゃんの姿。
それを見て、私の頭の中に冗談のつもりで笑い流した先程の考えが過る。
嫌な汗が頬を伝う。
………………え〜…っと…ち、違うよね?、ね?
「?、どうした、桃香?」
「──へっ!?、べべ、別にどうもしてないよ?」
「なら良いけど…体調とか悪いなら無理するなよ?」
「うん、大丈夫!
ご主人様、心配してくれてありがとう♪」
余計な事を考えていたら、ご主人様に勘違いをされて心配されちゃった。
…その事は恥ずかしいけどちょっと嬉しくも思う。
でも、現実に引き戻された思考は再び不安に苛まれ、緊張しながら黙って静かに朱里ちゃんの言葉を待つ事しか出来無かった。
「…今まで黙っていた事は申し訳有りません
私の勝手な判断によっての秘匿ですので懲罰の覚悟は出来ています」
「だ、大丈夫だよ!
誰にだって言い難い事って一つや二つ有るもん!
だから仕方無いよね!
懲罰だなんて朱里ちゃんも重く考え過ぎだよ!」
深々と頭を下げて皆に謝る朱里ちゃんを見て、慌てて庇う様に発言する。
出来る限り明るく振る舞い責める様な重苦しい空気に為らない様に頑張る。
と言うか、面倒臭いだけで懲罰って駄目だから。
そんな事を言い出したら、私やご主人様、星さん達も死罪になっちゃうから。
…はい、ごめんなさい。
今度からは真面目に仕事に励みます。
だから赦して下さい。
「桃香様…そう言って頂き有難う御座います
本当は話して置きたかったのですが、士気に関わると思って黙っていました
本当に済みませんでした」
「──ぁ…其方なんだ…」
朱里ちゃんの言葉を聞いて思わず出た一言。
言った後で気付き、焦る。
ただ、聞いた人が居なくて本当に良かったと思う。
だって物凄い勘違いしてて恥ずかしいんだもん。
コホンッ…と、咳払いして思考を切り替える。
主に羞恥心を忘れる為に。
「それじゃあ、朱里ちゃん
説明してくれるかな?」
「はい、判りました
此処健為郡は現在、益州の中でも唯一の中立地です」
「中立?、それってつまり劉璋に付かないけど反抗もしてないって事か?」
「はい、その通りです
その為、無理に攻撃したりしなければ彼方から攻撃を仕掛ける事は有りません」
ご主人様の言葉を肯定して更に付け加えた説明を聞き“へぇ〜…”と皆と一緒に感心する。
──と、其処で疑問が頭に浮かんだ。
「…あれ?、それだったら私達が今遣ってる事って、逆効果なんじゃないの?
此方から攻撃しなかったら攻撃もされないんだったら話し合いが出来るよね?」
「ああ、そっか、確かに」
私の言葉を聞いて納得する様に頷くご主人様。
でも、朱里ちゃんは静かに頭を左右に振る。
「残念ですが難しいかと…
確かに桃香様の仰有る通り話し合いは可能だとは私も思います
ですが、飽く迄も話し合うだけでしょう
健為郡を獲る為には結局は戦う事になると思います」
「…その理由って?」
「現在、健為郡には正式な太守や都尉は居ません
ただ、一人の将が民からの支持と信頼により健為郡の領主的な立場に立っている状況だったりします
そして、その人物とは──彼の“三弓”の一人である“破撃”の厳顔さんです」
「えっ!?、嘘っ!?」
「あの“破撃”なのー!?」
「何とっ…」
私や沙和ちゃん・星さんが驚いている中、ご主人様と鈴々ちゃんは首を傾げ──
「…それって誰?」
「…それって誰なのだ?」
──と、一緒に呟く。
それを聞いた瞬間、私達は“えええっ!?、何で二人共知らないのっ!?”と思ってしまった。
けど、落ち着いて考えると当然の反応だったりする事に気付く。
ご主人様は“天の国”から遣って来ているんだから、知っている筈が無い。
その一方で、鈴々ちゃんはそういう事に疎い。
興味も持たない。
だから、知らない。
二人共、知らなくて当然。




