35 吉い縁は糸の如く
張任side──
洛陽に着いたのは日没まで残り僅かという夕闇の中。
私達は曹操殿に紹介された都の西部に有る宿屋へ着き部屋を取った後、一室にて集まっていた。
今後の相談の為。
──と言うのは建前。
その実は愚痴り合いと言う方が正しい。
「“また”と言うのも既に慣れてきたな…」
「“仕方が無い”と言えばそれまでですが…
個人的には複雑です」
冥琳と泉里が溜め息を吐きながら溢す言葉に思春達が頷き合う。
まあ、私と紫苑は其処まで排他的ではない。
独占欲が無い訳ではないが飛影様が決められる事なら反対する理由が無い。
勿論、必要が有れば反論もするのだが。
「しかし、曹操殿は兎も角皇女殿下は無い…筈…」
「うぅ…飛影様だと何故か言い切れません…」
思春と珀花が“可能性”に頭を抱えている。
蓮華殿の例も有る。
私も“無い”と絶対に言う事は出来無い。
「でも、流石って言うか…
お姫様、綺麗だったよね」
灯璃の言葉に皇女様の姿を思い出してみる。
美しい深緑の膝まで伸びた癖の無い長い髪。
夕日を思わせる橙色の眼。
背丈は思春や曹操殿と同じ位で可愛らしい。
言葉に、仕草に然り気無く表れる気品。
灯璃ではないが“お姫様”と呼ぶに相応しい方だ。
自分には無い女の魅力。
羨ましく思わなくはないが拘りはしない。
私は私らしく在る。
それで良いのだから。
「その“お姫様”ですら、射止める飛影様は誑しでは済みませんね」
「射止められた私達が言うのもどうかと思うけど」
紫苑の言葉に蓮華殿が苦笑しながら言うと皆も思わず苦笑を浮かべた。
結局は認めてしまう。
“惚れた弱み”とは本当に上手く言った物だ。
コホンッ…と冥琳が咳をし話を愚痴から切り替える。
長々とは続けられない。
「取り敢えず、私達は今の状況から下手に行動しない様に気を付けよう」
「そうですね
飛影様は勿論、曹操さんに迷惑を掛ける事態は避けて然るべきです」
「それで…具体的には?」
冥琳・泉里の言葉に灯璃が判らない様で訊ねる。
そんなに難しい事は言ってないでしょうに。
二人も溜め息を吐き呆れていますよ。
「飛影様達が戻られるまで問題を起こさない様にし、大人しくするだけです」
『え?、それだけ?』
私の説明に対し声を揃えた珀花と灯璃。
二人に説教が始まったのはいつもの事。
──side out
━━洛陽
皆とは洛陽の手前で分かれ俺は栗花に乗り三人で都の外門を潜って入った。
劉曄は孟徳と一緒に愛馬の絶影に乗って。
青鹿毛の馬体は実に美しく凛々しく見える。
性格は主人に似て気高い。素直に甘えるのは逆だが。
外門に着いた際に城へ向け伝令が走った為、皇帝には劉曄の無事が伝えられた。
結果、城門に着くや否や、劉曄は城内に連れて行かれ俺達は別室へ通された。
今頃は皆も宿に着き休んでいるだろうか。
実に羨ましい事だ。
これから皇帝に謁見すると思うと面倒臭い。
明日で良いだろうが。
休ませろやゴルァ…。
「顔に出てるわよ
頑張って“作り”なさい」
「せめて“隠せ”にしろ
露骨過ぎだろうが…」
不機嫌を隠していない俺を孟徳が窘める。
言ってる事はあれだが。
まあ、不機嫌なのはお互いなのだろう。
今夜は荒れそうだな。
恨むぞ、皇帝。
「…確認しとくが、お前の交渉はまだだな?」
「ええ、そうよ
接触前に殿下が行方不明になって捜索が始まったから結局は予定のままね」
「なら、白紙にしとけ」
「今回の恩賞?」
「いや、“発端”を使って“交渉”するだけだ」
そう言うと小さく驚き──溜め息を吐く。
「…皇帝を相手に対等だと思えるのは貴男位よ
勝ち目は有るのかしら?」
「皇帝も人の子、人の親だ
十二分に有る──というか勝てない“勝負”をする程無謀じゃないからな」
「…そうだったわね
貴男に“無謀”と言う程、無意味な事は無かったわ」
何気に失礼な事を言われた気がするが…まあいい。
「劉曄に他言無用と言って有るから謁見は人払いして行われるだろう…
時間も時間だしな」
「捜索隊も戻るには時間が掛かるでしょうしね
“邪魔”は入らない?」
「出世と保身しか考えない老害や豚共が皇帝の命令に背くと思うか?」
「無いでしょうね」
「そういう事だ」
既に“場”は作って有る。
後は席に着くだけ。
それで粗決まりだ。
「私の件は兎も角として…
殿下の事はどうする気?
貴男だから気付いていない筈は無いでしょ?」
「…まあ、な…」
こればかりは、どうなるか俺にも言い切れない。
個人の自由だから。
「大変ね、“色々”と」
「ああ、そうだな
“色々”と大変だ」
自業自得に苦笑。
謁見の為に呼ばれたのは、その直ぐ後だった。
other side──
我が娘・劉曄が行方不明になったとの報せを聞いた時心の臓を握り潰される思いだった。
直ぐ様、捜索を命じた。
だが、胸中では諦めていた部分も有る。
理由は二つ。
一つに娘の生来の病弱。
そして、もう一つ…
“継承”争いだ。
次子・長男の劉辯に皇帝を継がせ様とする連中…
特に母の何梁が企てた可能性が高い。
だとすれば、生存は絶望的だと言えた。
(比奈衣…
お前に何と言えば良いのか私には判らない…)
謝罪では済まない。
何を言っても言い訳にしか聞こえない。
最愛の妻を亡くし孤独から逃げる様に色に溺れた。
結果、最愛の娘を失えば、自業自得だ。
全ては我が身の不徳。
我が心の弱さ。
病床に伏す我が身も孰れは死に逝く宿命。
しかし、願いが叶うのなら我が身を差し出してでも、劉曄の無事を願う。
そう、唯一心に祈る。
「し、失礼致しますっ!
姫様が──姫様がお戻りになられましたっ!」
「──っ!!」
駆け込んで来た侍女の言葉に目を見開く。
彼女の表情を見る限りでは無事だった様だ。
「おぉ…そうか…そうか…
戻って…くれたか…」
思わず溢れた涙。
安堵からか、己が贖罪故か定かではない。
ただ、今は無事を喜ぶ。
「只今、此方へ御通ししております」
「…判った
御苦労、下がってよい」
一礼して侍女は退室。
室内が静寂に戻る。
(…比奈衣、お前が守ってくれたのか?…)
返る事の無い問い掛け。
それでも、してしまうのは未だ色褪せね想い故か。
未練か、罪悪感か。
気付けば悪い事ばかり考え自分を責めている。
(…私は弱い…弱いな…)
思わず浮かぶ苦笑。
だが、劉曄に会うのだから気持ちを切り替える。
自嘲ならいつでも出来る。
「失礼致します」
その声に顔を上げる。
扉が開き、その姿が視界に映った。
「おぉ…曄…よくぞ無事に戻ってくれた…」
「御父様、御心配をお掛け致しました」
頭を下げる必要など無い。
お前に非は無いのだから。
「御父様、実は私を助けて下さった方が私の病の事を教えて下さいました」
劉曄の口から出た言葉は、衝撃的な事だった。
「…それは本当か?」
驚く私の問い掛けに劉曄ははっきりと頷いた。
──side out
侍女に案内され城内を進む廊下に違和感を感じる。
周囲の気配や雰囲気からは威圧感が感じられない。
寧ろ、静かな印象だ。
行き先は謁見間ではなく、皇帝の私室かもしれない。
劉曄の気配が場所を動いていない事からも。
チラッ…と隣の孟徳を見て確認してみる。
すると“多分ね”と視線で返してくる。
病床に伏しているとの噂を聞いてはいたが…
其処まで“重い”か。
面倒な予感がする。
「失礼致します、御二方をお連れ致しました」
侍女は扉を開け脇へ避け、俺達を中へと促す。
孟徳に続いて入った所で、侍女は扉を閉めて下がる。
人払いされている様だ。
「御無沙汰しております」
「久しいな、孟徳…
息災で有ったか?」
「はい」
丁寧に挨拶する孟徳。
そう言えば、祖父の曹騰は劉宏を含めて三代に仕え、信頼を得た大宦官。
その“直系”の孫となれば気にも掛けるか。
「其方らの者が?」
「はい、私の夫で──」
「曹子和と申します」
丁寧に名乗り一礼。
どうやら、経緯は劉曄から聞かされている様子。
話は早そうだ。
「…娘から聞いた
娘の病は本当に氣が原因で起きているのか?」
真剣な表情で訊ねる。
皇帝ではなく父親の顔だ。
「はい、間違い無く
そして治療法もお話しした二通りしか有りません」
「…其方が此処に留まる訳にはいかぬか?」
「それは出来ません」
目を見て、即答する。
敢えて否定のみを口にする事で理由に興味を向ける。
「…どうしてもか?」
言外に権力をチラつかせる言い方だが、本意では娘の恩人に遣りたくはない事が窺える辺り悪人になりきる事は出来無いだろう。
「陛下、此度の経緯は既に御存知でしょうか?」
「概ね聞いておる」
「では、此方を」
そう言って賊の頭目が所持していた書状を手渡す。
受け取って読み進める内に手が震え出す。
「…何と身勝手な…」
怒りに打ち震える。
我が子が巻き込まれた事も有るが、親としてもだ。
書状の内容は単純。
商売敵の娘を拐って脅し、店を潰させる旨。
そして、それに加担するは自らに仕える宦官の一人となれば殊更だ。
「この様な輩は今や各地に跋扈しております
当然、我が妻の預かる地も例外では有りません」
そう言って顔を伏せる。
“その先”を相手に勝手に“思い込ませる”為に。
さて、此処からが本番。
皇帝相手の“交渉”だ。
「私が残る訳にはいかず、また殿下に氣を御教えするとしても数日では不可能…
一番現実的な方法は定期に処置を施す事かと
幸いにも一度処置をすれば一月は問題無いでしょう」
「…ならば孟徳に洛陽での地位を用意すれば──」
「陛下」
権力を持ち出す皇帝に対し真っ直ぐに見据えながら、言葉を遮る。
「その以上を仰れば陛下も件の者達と同じになります
孟徳が今の任を離れれば、間違い無く民が“犠牲”となりましょう…
そうなれば罪を背負うのは孟徳と殿下です
それでも陛下は“続き”を仰られますか?」
普通の者では権力に怯み、言えぬ言葉だろう。
だが、生憎と俺は権力には屈指はしない。
此方の言いたい事を理解し劉曄を見て目を瞑る。
「…其方の言う通りだな
すまぬな、今言った言葉は忘れてくれ」
皇帝が頭を下げる。
一生に一度、お目に掛かる事も無い場面だろう。
今は感動も出来無いが。
頭を上げ、改めて此方へと顔を向ける。
「子和、定期的にと言うが具体的には?」
「最小限で月に一度…
また治療を継続した後には二〜三ヶ月に一度で十分な状態になるかと…
発熱等の症状が頻繁に出る様でしたら、直ぐに御呼び頂ければ参ります
明日、明後日に命を脅かす事にはならないとだけは、断言出来ます」
複合する要因は別だが。
それは治療の範囲外だ。
「そうか…
ならば、それが──」
「御父様」
決断し掛けた所へ意外にも劉曄が口を挟んだ。
「どうした?」
「それよりも、もっと良い方法が有ります」
劉曄の言葉に嫌な予感。
隣の孟徳も同じ様で気配に揺らぎが窺えた。
「それは?」
「私がひ──子和様の元に嫁ぎます」
「なっ!?」
目を見開く皇帝。
激レアな表情だろうが今は此方も驚愕中だ。
「御父様、御二人を此処に御引き留めするよりも私が御一緒した方が良いかと
子和様が傍に居て下さるのですから病も安心です」
そう言って微笑む劉曄。
目が合うと僅かに頬を赤く染めてはにかむ。
(これは予想を斜め上まで突き破ってくれたな…)
胸中で苦笑し、隣の孟徳を見ると“ほら見なさい”と言わんばかりに睨む。
これも自業自得かと諦め、筋書きの修正に掛かる。