捌
「……………………へ?」
「──少しばかり、此方が早かったようね?」
間抜けな顔を見せる袁紹に余裕の笑みを浮かべながら言葉を続けた。
響き渡った轟音の発生源は袁紹達の背後。
予期せぬ事に騒付く敵陣。
当然の反応、と言うべきか背後へと振り返った。
勿論、袁紹自身も。
──だが、実に拙い行動と言わざるを得ない。
既に袁紹が攻撃を宣言した後という事を誰一人として気に留めていないのか。
今、この瞬間に逆に此方が一斉射撃を仕掛けたのなら無防備に被害を出すという事を理解していない。
拙いを通り越して、愚鈍と言うべきかもしれない。
(まあ、そういう風に私も意識を誘導したけど…
せめて、少し位は此方への注意と警戒を強めていても良いのだけれどね…)
胸中で呆れながら、相手の反応を静かに眺める。
実際に不意打ちの斉射など遣る気は微塵も無い。
意味が無いもの。
「…な、何が…貴女っ!
一体何をしましたのっ?!」
我に返った袁紹の声を受け敵軍の全視線が私一人へと向けられた。
其処に宿る畏怖の念。
言い表せない恐怖を抱き、息を飲む音が聞こえる様な気がしてくる。
其処に僅かに愉悦を感じる辺りは、私自身の生来の質でしょうね。
雷華も似た様な物だけど。
「何をしたの、と訊かれて対峙する相手が親切丁寧に教えてくれると思っているのだとしたら滑稽ね
此処は“戦場”なのよ?
子供染みた“ごっこ遊び”がしたいのだったら御家に帰って遣りなさい」
「キィイィイイィーッ!!」
嘲笑う様に罵倒する。
耳障りな金切り声を上げる袁紹は放って置いて敵陣の様子を見詰める。
というか、先程から袁紹の事は見てはいない。
どうせ新しい反応も期待は出来無いでしょうね。
それだったら雷華と灯璃の遣り取りの方が増し。
何気に新しい試みなんかも織り混ぜているもの。
まあ、そんな事はさて置き優しい私は、質問に答えてあげましょうか。
「けれど、何も知らないで死に逝くのも憐れよね
だから、今回だけは特別に教えてあげるわ」
思いっきり上から物を言う態度をしてみせる。
因みに、此処で袁紹が何か言って噛み付いて来たなら教えないつもり。
…流石に何が起きているか判らない事に対して警戒を働かせているみたいね。
大人しく黙っているし。
「貴方達の後方──其処に何が有るのか…判る?」
私の声に再び背後を見遣り考える者、近くに居る者と顔を見合わせる者、対象が多過ぎて悩み者。
様々な反応を見せる。
先程の袁紹の指示は思考の片隅に追いやられている事でしょう。
誰しも“未知”に対しては無防備になる物だから。
僅かに間を置く。
考えるだけの間を。
「判り易く言いましょう
貴方達は此処へ来る途中、一体何処で、どんな作業をしたのかしら?」
そう問い掛け、記憶の糸を手繰らせる。
早い者であれば既に解答に辿り着いているでしょう。
それは大して難しい事ではないのだから。
ただ、その解答に至ったと同時に恐怖は倍増する。
「…あ、貴女…まさかっ!?
私が止めていた河水の堰を崩しましたのっ?!」
珍しく袁紹が正解を言い、同時に敵軍の全員が事態に気付いて顔を青くする。
曹魏は雷華の方針により、その領地の南北には河水と江水が天然の国境線として存在している。
また東は海が広がるのみで他領と接してはいない。
その上、例の隔壁が有る。
つまり、宅と戦おうとする以上は西側にて陣を敷き、此方を“外”へと誘い出す事が必要不可欠な訳よ。
さて、其処で問題。
曹魏と陸続きで接するのは僅かに二州の領地のみ。
司隷と荊州だけ。
当然、荊州で戦うとなれば主導権は領主である袁術が握る事になるでしょう。
それは袁紹としては絶対に認められない事。
かと言って、先に袁術へと攻撃を仕掛けてしまっては兵数だけでなく、兵糧等も大きく消費してしまう事は言わずもがな。
同時に袁術の手勢に限らず己の手勢も減ってしまえば自軍が不利になる事程度は家臣達からも言われて理解しているでしょう。
だからこそ、袁術との間に同盟を結んだのだから。
その結果、司隷が決戦地に選ばれるのは必然。
加えて司隷は現在、誰かの領地という訳でもない為、遠慮無く戦える。
まあ、後々の事を少しでも考えているのなら配慮した行動を取るでしょうけど…
其処は袁紹・袁術だもの。
何も考えてはいない。
お陰で此方は楽だけれど。
で、更に細かく場所を選ぶ事になると、北側の陽武は河水に近い上に、南側にも支流が流れている事も有り場合によっては“退路”を失ってしまう。
それを避ける為に河水から離れている官渡を選ぶ事は始まる前から判っていた。
…いえ、違うわね。
雷華の方針自体が最初からそうなる様に仕向けられた領地計画だった。
“歴史”を知っていようと現実が必ずしも同じ通りに進むとは限らない。
けれど、自分の思う通りに進める事は十分に可能。
十全である必要はない。
ただ、“要所”さえ違えず運ぶ事が出来れば良い。
宛ら、盤上を俯瞰しながら一手一手を詰める様に。
確実に進めれば至れる。
官渡が決戦地となった時、最低限の退路は確保される事は間違い無い。
尤も、それは西側へ抜ける場合の退路か、袁術を頼る退路になるのだけれど。
それは置いて置くとして、結局の所、袁紹軍にとって河水に進路を遮られる事に変わりはない。
なら、どうするのか。
答えは至って単純。
河水を塞き止めてしまえば良いだけの話。
幸いにも今は冬。
水量は一年で最も少なく、当然ながら水位は低い。
その作業は意外と容易く、時間も資材も少なく抑える事が出来るでしょう。
それに塞き止めるとしても完全に塞ぐ訳ではない。
完全に塞いでしまったら、自然決壊の危険性が有る為飽く迄も流れを弱める事が目的となるわね。
そうする事で進軍を容易に出来る上、いざ開戦しても広く展開する事も可能。
また選局によっては此方を河水の流路上に誘い出して堰を切れば、状況を一変し大打撃を与えられる策にも転用が出来る。
北に退路を取る事も出来て良い事尽くし。
遣らない理由は無かった。
それ故に、格好の獲物。
斐羽と流琉の直属の部隊が袁紹達が動くよりも前から并州にて待機していた。
それは単に堰を破壊する為だけではなく、破壊後には伏兵──今回の場合にだと別動隊が居るという事実を相手に教える事も目的。
勿論、戦力としても動かす事も出来るから挟撃とかも可能でしょうね。
後は開戦の時間──此方の設定した時刻に合わせて、私が舌戦で調整。
因みに“纉葉”は使わずに体内時計で、よ。
一々見ながら遣っていたら怪しまれるから時計の方も見てはいないわよ。
さて、その堰を崩した事で如何な利が生じるのか。
先ず一つ目に、恐怖心。
明確な事象を視認出来無いというのは不安を煽る。
“想像”と憶測の中でしか判断出来無い事は思うより恐怖心を生み出す。
その恐怖心が戦場では特に物を言うのよね。
二つ目に、退路の限定。
塞き止めていたからこそ、一時的に水位が増す。
水が流れた後も足場は悪く動き辛くなる。
それに袁紹軍の兵達は全て冀州から来ている。
その事実は“逃げ帰る所が無くなった”という結論を殆んどの者に連想させる。
これら二つだけでも十分に士気を下げ戦意を殺ぐ事が出来るでしょう。
だけど、雷華が狡猾なのは此処からなのよね。
我が夫ながら惚れ惚れする位に容赦無いわ。
三つ目、疑心暗鬼。
袁紹軍は退路を失った事で“死”が濃厚となる。
確実な事ではない。
しかし、人心の──それも集団心理に於ける恐怖心は容易く伝染する。
“戦場では臆病な者程生き残る事が出来る”といった話も間違いではない。
けれど、それは正確には、“正常な判断”が出来て、という大前提の上で。
少なくとも今の袁紹軍には難しい事でしょうね。
そうなると、袁術としては無意味に付き合いたいとは思わないでしょう。
当然、さっさと自領に向け逃げ帰ろうとする筈。
しかし、此方が仕掛けない以上は自ら進んで離脱する動きは出来無い。
下手をすれば袁紹軍からの八つ当たりを受ける場合も有り得るでしょうね。
袁紹の性格からしても。
一方で袁紹は兎も角として袁紹軍の兵達の脳裏には、“袁術が自分達の事を囮に使って、逃げ延び様とするのではないか?”といった憶測が生まれる。
これが宅や孫策の所の様に信頼や忠誠で統率のされた軍隊なら違うでしょうが、彼等は徴兵により無理矢理集められた兵が大多数。
手柄も生きていてこそ。
最優先は自己の生存。
とすれば、袁紹の命令など正面には聞かない。
寧ろ、自分が生き残る為に最前線に立つ事を何よりも拒絶する事でしょう。
互いが互いに牽制し合い、総兵数の多い袁紹軍の方が動かないとなれば袁術軍は絶対に動けなくなる。
更に四つ目、巨影。
実際の所、目に見える数は彼方の方が遥かに多い。
しかし、“見えない影”が彼等を怯ませている。
堰を破壊した別動隊。
だが、その規模は判らず、他には居ないという確信も確証も存在しない。
ただ、彼等が見ているのは“現在”の事実からだけの影ではない。
これまでに積み上げて来た曹孟徳と曹家・曹魏が成し得てきた事実こそが彼等に巨大過ぎる威影を見せている。
単なる一時的な策ではなく着実に築き上げた物が故に生半可な事では拭い去れぬ圧倒的な存在感を生む。
(戦わずして勝つ、ね…)
それは理想的な勝利。
政治的に、であるのならば可能ではある。
交渉というのは、その為に行われる物。
ただ、それもまた戦である事に違いないのだけど。
…その辺りは空気を読んで言うべきではないわね。
ただ、結果として言うなら“刃を抜かずして殺した”と言えるでしょう。
驚愕している袁紹を見上げ大きく口角を上げる。
見えていないでしょうから私の気分的な物。
…ちょっと、馬鹿馬鹿しくなってきたわね。
「ええ、そうよ
河水の堰は破壊したわ」
「くっ…で、ですがっ!
此処に居る私の軍勢を前に勝てるなどと、夢の中でも思わない事ですわよっ!」
一体何を根拠に自信満々に言えるのかしら。
…ああ、“見えない物”を見ようとする才覚も無いし理解出来る知性も無いから“目の前に有る存在しか”見えない訳ね。
仕方が無いとは言っても、さっさと終わらせたいわ。
胸中で深々とした溜め息を吐きながらも表には出さず話を続ける。
「あら、面白いわね
妄想を見ているのは貴女の方ではなくて?」
「──なっ!?、貴女っ!
私が貴女に勝てないとでも仰有りたいのっ?!」
…正直、素で驚いたわ。
まあ、偶然でしょうけど、あの袁紹の口から“私には勝てない”といった類いの言葉を聞けるなんてね。
世の中、本当に予期しない出来事も起きる物だわ。
「…ふふっ、貴女にしては珍しく理解が早いわね
どうしたの?
櫓の上で足でも滑らせて、頭でも打った?
それとも曇りに曇っていた目が見える様になった?」
ただ、これ以上は引っ張るだけ時間の無駄ね。
此方の準備は問題無いし、そろそろ始めましょうか。
「おーっほっほっほっ!
目が曇っているのは貴女の方でしてよっ!
その目を凝らしてよーっく御覧なさいなっ!
貴女の目の方が節穴という事を御知りなさいっ!
猪々子さんっ!
さあさあっ!、遣ぁーってお仕舞いなさいっ!」
自信満々に得意気に袁紹が再びの号令を出す。
が、他の櫓に動きは無い。
袁紹の高笑いだけが静かに響き渡っている。
「おーっほっほっほっ!
おーっほっほっほっ!
おーっほっほっ──…ほ?
ど、どうしましたのっ!?
何故射ちませんのっ?!
早くお射ちなさいっ!!」
漸く、異変に気付いて櫓の上から叫ぶ袁紹。
けれど、誰も応えない。
それは当然の反応。
無能で暗愚な袁紹に従って死にたくはないから兵達は動く事は無い。
金で動く兵は金が尽きれば縁を切る物。
金品も、権力も、名声も、命有っての物種。
彼等は今、己が命の選択を迫られている。




