弐
孫策side──
久し振りに会った妹から、暗殺未遂の話を聞いた時は腹が立った。
しかし、その直後に彼女が口にした言葉を聞いて頭が真っ白になった。
だが、“冗談”だと思って軽い態度で返す。
──否、本当は違う。
私がそう“思いたかった”だけの事。
それは直ぐに解った。
妹の初めて見せる顔。
真剣な、強い意志が籠った真っ直ぐな眼差しで。
“冗談”ではない。
それなら、妹は私達の──私の元から離れる。
それこそ冗談ではない。
もし、妹が“孫家”の為に自分を犠牲にする様なら、私は止めなけば。
叱り、正さなければ。
そう決めて見詰める。
「…本気で言ってるの?」
「私が冗談でもこんな事を言うと思いますか?」
そう間髪入れずに返されて黙るしかなかった。
黙って見詰める。
真面目で、生真面目で…
“糞”が付く程の堅物。
そんな妹が“冗談”で言う事ではない。
それが解るだけに質が悪く私を悩ませる。
しかし、聞き流せも無視も出来無い以上、妹から話を聞かなければならない。
私は肯定し、深く溜め息を吐きながら椅子の背凭れに寄り掛かる。
私は腹を据える。
「ちゃんと説明して」
そう言って話を促す。
妹の口から語られたのは、意外な事だった。
私や末妹に対する劣等感。
そんな感情・表情は微塵も垣間見せる事は無かった。
…いや、違う。
きっと誰にも見せたくない部分だった筈だ。
けれど、それを口にした。
それを“誰か”が見抜き、受け入れてくれた。
彼女の浮かべた微笑みが、物語っている。
嬉しく思い、感謝する。
しかし、一方で痛む。
私は妹の想いに気付けず、知らず知らず追い込む事をしていたのかも。
そして、姉として何一つもしてやれなかった事が。
けれど、謝ったりするのはお門違い。
その“資格”さえも私には無いだろう。
それでも、妹を大切に思う事だけは許して欲しい。
──手放したくない。
そう思う私も居る。
三姉妹一緒に、生きて行き孫家を再興したい。
同じ夢を──“道”を。
だけど、それは我が儘。
自分勝手な独占欲。
妹が己が意志で歩むのなら姉として送り出す。
それが、今の私の精一杯。
(何処の誰かは知らない
でも、ありがとう…
そして、妹をお願いね…)
少し複雑な心境から苦笑。
それでも心は晴れやかだ。
──side out
other side──
早朝、自分の温もりが残る布団にくるまっての二度寝というのは癖になる。
一度でも経験してしまうと抗い難い誘惑に変わる。
(まぁ、私の場合は昔から朝が弱いんですけどね〜)
布団の中に居ても眠るとは限らない。
寧ろ、頭は冴えている。
(今日は何をしてお嬢様で遊びましょうかね〜)
お嬢様“と”ではない。
お嬢様“で”だ。
お嬢様の反応、何も知らぬ無邪気な“お馬鹿”な姿は実に愛くるしい。
この間の地方商人を相手に間違った知識を得意そうに語っていた。
まあ、その知識をお嬢様に教えたのは私だけど。
(ああ、あのお嬢様の姿で御飯三杯は行けますね)
ついでを言えば、お嬢様の機嫌を損ね無い様に曖昧な反応をする者達の滑稽さが愉快でもある。
「失礼します、張勲様
孫策様が御見えです」
部屋に入って来た侍女から意外な人の名前を聞く。
ちょっと…いや、かなり、珍しい事だ。
「孫策さんが?」
「はい」
布団にくるまったままで、訊ね返す。
侍女は此方の態度になれた様子で落ち着いている。
大抵の相手なら後回しか、出直して貰う。
しかし、孫策さんはそうは行かない相手だ。
二度寝を諦めて起きる。
「私に、ですか?」
「いいえ、袁術様に謁見を希望されています」
「そのお嬢様は…
当然、寝てますよね〜」
「いつも通りです」
淡々と答える侍女。
流石に古株なだけあって、とても慣れている。
「それでは、私はお嬢様を起こしてきますので〜
孫策さんにお茶でも出して待ってて貰って下さい♪」
右手の人差し指をピンッと立てて笑顔で言う。
「既に、その様に…
ですので、お早く」
それだけ言うと、一礼して部屋を後にする侍女。
「仕事が早いですね〜」
手際の良さに感心しながら身支度を整える。
着なれた仕事服の袖に腕を通しつつ考える。
(孫策さんから謁見に来るなんて珍しいですよね〜
何の御用ですかね?
……はっ!、まさか──)
脳裏に浮かんだ考え。
思わず身震いする。
「…きっとそうです!
ついに孫策さんもお嬢様の“魅力”の虜にっ!」
きっと我慢出来無くなってこんなに朝早くに謁見しに来たに違いない。
「ああ〜、お嬢様〜
今行きますからね〜♪」
私は弾む足取りでお嬢様の部屋へと向かった。
──side out
other side──
「お嬢様〜、朝ですよ〜
起きて下さ〜い♪」
それは聞きなれた声。
城内で一番、一緒に自分の傍に居る者の声。
いつも通りの、楽しそうな声を聞くと安心する。
「…ぅみゅぅ…」
しかし、眠気は別。
今はまだ寝ていたい。
「もう〜、お嬢様ったら…
早く起きちゃって下さい
孫策さんが来てますよ〜」
「……んみゅ?…」
──孫策?
彼女が何の用なのじゃ。
そんな事を考えていると、身体が揺すられる。
「ほらほら〜♪
早く起きないと、お布団を取っちゃいますよ〜?」
寒いから止めて欲しい。
そして諦めて。
孫策には出直して貰う。
それが良い、そうしよう。
「も〜、仕方無いですね〜
お嬢様、あんまり寝てると布団にくるまったまま牛になっちゃって、猟師さんに追い掛け回された挙げ句に捕まって、皮を剥がれて、食べられちゃいますよ?」
──な、なんじゃとっ!?
何と恐ろしい事なんじゃ。
「──お、おおお起きっ、起きたのじゃっ!
わ、妾はぱっちりはっきり目も覚めたのじゃっ!」
両手両足で布団を撥ね除け寝台の上に座る。
「──とか、言ってる人は居ませんけどね〜♪」
右手の人差し指をピンッと立てながら笑顔で言う。
「………………」
「御早うございます♪」
そこで漸く気付く。
彼女──七乃の嘘だと。
「な、七乃ーっ!!」
折角の睡眠を邪魔されて、両手を振り上げる。
妾は怒ったのじゃ。
「お主は──ぅわぷっ!?」
「はい、お着替え〜♪」
寝間着を捲り上げられて、一気に脱がされる。
外気に晒される肌。
服が奪われ、部屋の空気が冷たくて身震いする。
「…なな、な、七乃ぉ…」
「大丈夫ですよ〜
ちゃんといつもと同じ様に温めてありますから〜
ささっ、お嬢様〜♪」
何も言わずとも妾の思った事を理解し、温かい衣装が着せられる。
晒されていた肌が包まれ、安心する。
(流石は七乃じゃ
妾の言いたい事を誰よりも判っておるのじゃ)
妾には七乃さえ居れば何も心配はいらない。
改めて、そう思う。
身支度を整えられながら、七乃が用意させた蜂蜜水をゆっくりと飲む。
(それにしても…
こんなに朝早くから孫策は一体何の用なのじゃ?)
そんな事を考えていると、眠くなってきた。
──side out
孫権side──
袁術の居城に着くと侍女に案内された一室。
てっきり謁見の間で待つと思っていた分、拍子抜け。
しかし、既に日は高いにも関わらず袁術はまだ部屋で寝ているらしい。
よくそれで太守が勤まる。
…いや、だから、か。
実質的に此の宛や南陽郡を治めているのは袁家だ。
袁術ではない。
袁術は所詮、御輿。
だから袁嗣の様に袁家内で野心を抱く者が出る。
「御待たせ致しました
間も無く、袁術様が御見えになられます」
「そう、ありがと」
侍女の言葉に姉様が笑顔で労いを返す。
姉様は慣れているのか…
或いは気にしないのか。
余裕なのは凄い。
正直、私は緊張している。
上手く出来るか。
その不安をお茶を口にして一緒に飲み込む。
「御待たせしました〜♪
──って、あらら?」
「…ふあぁ…んみゅ…」
其処へ明るく──というか能天気だと言うべき態度で現れたのは確か…張勲。
手を引かれながら来たのが太守の袁術だ。
「孫策さん、其方らは?」
「覚えてないの?
私の妹の──」
「孫仲謀です」
張勲の問いに姉様の言葉を遮って名乗る。
此処で私を印象付ける事で主導権を握る。
「孫権さん、ですか?
…あれ?、どうして此処に居るんでしょうか?」
張勲の顔に困惑と焦燥感が浮かんでいる。
「今日来たのは、妹の事で話が有ってね」
「どんなお話ですか?」
「実はこの娘が孫家を出る事になったのよ」
「…………え?」
予期しない事に張勲が私を見て目を見開く。
「常々、自分の未熟さから見聞を広める為に私は旅に出たいと思っておりました
母が亡くなって二年半…
姉様が当主となり袁術殿の助力も頂いて、漸く孫家も落ち着きを取り戻しました
ですので、今が良い機会と思い決心した次第です」
最もらしい理由に加えて、現状で孫家が袁術に対して恩義を感じているかの様に言う事で警戒心を解く。
「私が“補佐”をしていた新野の県令・袁嗣殿からも“人手は十分”と御言葉を頂き、引き継ぎも問題無く終わっております」
「そ、そうですか…」
その上で“事後”で有ると断言する事で後押し。
「当主である姉の孫策から暇の許しを頂きましたので御挨拶に伺った次第です」
大胆に、しかし、丁寧に。
礼節を忘れずに進める。
一気に与えられた情報から困惑する張勲。
これで彼女は封じた。
後は袁術に言質を取る。
「袁術殿、私は孫家を離れ生きる事になります
孫家の家臣として戻る事は二度と無いでしょう」
私が孫家を離れるに当たり“計略”ではない事を暗に示して置く。
勿論、事実でも有るが。
そうする事で孫家に一切の非が無いと印象付ける。
まあ、寝惚けている袁術に言っても意味が無い。
これは張勲に、だ。
「私は孫家を離れる身では有りますが…
袁術殿、どうかこれからも孫家への御助力の程を…
宜しく、お願い致します」
そう言って私は深々と頭を下げる。
「…ぅにゅ?…そうか…
…判ったのじゃあ…」
側近の張勲が思考停止した隙を突いて仕掛けた結果、袁術は“反射的に”言葉を口にした。
「ありがとうございます
では、私達はこれで…」
そう言って一方的に会話を終わらせて席を立つ。
今更慌ても遅い。
後から呼び戻す様な真似は立場的な自尊心が有るから出来無い。
言質を取ってしまえば私の事に後から文句は言えず、私も孫家を離れている以上“関係の無い事”に出来、今回の一件を理由にして、孫家をどうこうする真似は不可能になる。
これで、完了だ。
城を出た所で姉様と別れるつもりだった私達は抱擁を交わす。
「…寂しくない、と言えば嘘になるわね」
「…私は孫家を離れます
もう、私は…孫家の者ではなくなります」
私も寂しくない訳がない。
それでも、進むと決めた。
「姉様…“あの人”は私にこう言ってくれました
“姉妹の、家族の“絆”は一つとは限らない
歩む“道”が違おうとも…
同じ場所に居らずとも…
私達が“姉妹”である事、同じ両親から生まれた子…
母様の“娘”である事は、決して変わらない”…と」
「……そうね」
静かに頷き合い──
「姉様…」
「蓮華…」
『また、会いましょう』
笑顔で告げた。
別れと──再会の言葉を。
去る姉様の背中を見送り、私も歩き出す。
楽しい事、嬉しい事ばかりではないだろう。
それでも、其処が私が在り“生きる場所”だ。
空には中天に掛かる太陽。
青を彩る白が流れる。
活気を見せる街の中で──私は静かに微笑む。
私の“新しい家族”と──
愛する人の姿に。
──side out。