捌
other side──
──十月十八日。
袁紹の使者の齎した報から既に十日が経過した。
時代が動いた事は確か。
だが、世の中が動いたかと訊かれれば“違う”と私は答えるだろう。
民という立場から見れば、国の頂点である皇帝が死に漢王朝という“区切り”が無くなった。
たったそれだけの事。
結局、その後も州牧なり、太守なりが彼等の住む地を領地と治める以上、極端な変化は起きない訳だから。
それは諸侯にとっても同じ事だと言える。
漢王朝という巨大な組織が失われ、分裂した現状。
今後、どうするのか。
要は誰かの麾下に入るか、誰かと協力するか、或いは単独で立つのか、だ。
その選択を迫られているが直ぐに事を起こす馬鹿など居ないだろうからな。
故に、今暫くは波立つ事は無いだろう。
漢王朝の崩壊は疾うの昔に察していた事。
具体的に言えば世に曹操の名が轟いた時点で、だ。
あの様な大胆不敵な真似を平然と遣って退けた者が、“御飾り”に過ぎぬ皇帝に従い続けるとは思えない。
間違い無く、“次の世”を切り開き牽引して行く。
そういう存在だろう。
正に“時代の申し子”だ。
それを認めざるを得ない程狡猾且つ苛烈な印象を世に知らしめた。
…まあ、中央の馬鹿共には判らなかった様だがな。
ただ、あの老獪な翁の孫娘というだけの事は有る。
流石と言うべき才器。
いや、既に祖父を凌駕したと言っても良いか。
尤も、あの老翁が臣として生涯を貫いたのは情に由る所が大きいだろう。
三代に渡って皇帝に使え、長年施政に携わってきた。
それ故に自らが立つという選択肢は思い付いていても実行に移す気にはならない心情だったのだろう。
そう考える老翁の気持ちは判らなくはない。
軈て沈むと判っている船を直し続けても無駄。
それならばさっさと破棄し新しく造った方が良い。
ただ、物とは違うからこそ終わるのを待っていた。
ただそれだけの事。
情が移ってしまったという事も有るのだろうがな。
個人的な事を言うのならば漸く目障りだった翁が死に自由に動ける様になって、“さあ、これから”という時に孫娘──曹操の台頭。
我々にとってみれば邪魔者以外の何者でもない。
曹操が遣ってくれた一件のお陰で、拡大を図っていた我が“商売”が自粛・縮小せざるを得なくなった。
誤算もいい所だ。
だが、それでも事が露見し潰されなかっただけでも、良しとしている。
曹操を恨んだ所で仕方無い事なのだからな。
自分達が遣っている事が、悪事で有る事は他の誰より我々自身が理解している。
それを勘違いしている内は生き残る事は出来無い。
これは“そういう”者達の生きる世界なのだから。
その覚悟無くしては決して生きてゆく事は出来無い。
「…如何なさいますか?」
此方を見詰め静かに訊ねる鳳季の視線に目蓋を閉じ、一度状況を整理する。
我々にとって置かれている現状は良いとは言えない。
北に曹操の魏が立ち塞がり西には袁術──ではなく、その客将に甘んじ力を付け牙と爪を磨き続ける孫策。
はっきりと言って最悪だ。
お陰で“商売”にはならず身動きも取れない。
戦力という点で言えば全く無いという訳ではない。
しかし、一戦凌ぐ程度ならまだしも、連戦出来る程に精強ではない。
だからこそ、黄巾の乱でも反董卓連合でも参加せずに居たのだからな。
黄巾の乱の最中に起こった反乱によって家臣を失った影響も少なくはないが。
このまま領地を維持出来るとは思ってはいない。
我々にとって──いいや、孫策にとっては我々は亡き母・孫堅の仇だ。
孰れ必ず、戦う事になる。
それは孫策が、孫家が在る限り避けられない事。
宿怨なのだから。
曹操に関しては微妙だ。
ただ、迂闊に此方から手を出さなければ攻め込んでは来ないとは思う。
もしも、そのつもりならば我々は疾うに終わっているだろうからだ。
また問題事は外ばかりではなかったりする。
この地の豪族や山越族だ。
連中を交渉で従えるという事は困難だと言える。
無茶な要求をされる様子が容易に想像出来る。
かと言って、お互いに事を構えるだけの勝因も無く、睨み合いになっているのが現状だったりする。
そして、もう一つが領地。
正確には地形的な問題。
領地を拡大するには戦闘を避けられない。
それは先の豪族・山越族の事だけではない。
北と西に曹操・孫策。
残る内、東は海。
因って南に行くしかないが船を使うのが妥当。
しかし、江賊や北の海賊が行き場を無くして南下し、横行しているらしく商船も往来を控えている。
また、陸路も有るには有るのだが過酷な山越えになり出兵するだけでも費用的に割りが合わない。
つまり、行くだけで無謀な事になる訳だ。
そうなってくると、鳳季の提案した方針が最善か。
静かに目蓋を開くと鳳季を真っ直ぐに見詰める。
「現状、進行具合は?」
「凡そ八割といった所です
持て余していた“商品”も運良く手付かずの方を好む買い手が見付かりまして、先の連合軍の最中に…」
「そうか…」
捨てるよりは金になる方が安くとも意味が有る。
それは良い結果だ。
だが、今のままでは我々も“不安”を残すな。
「…鳳季、実は一つ遣って貰いたい仕事が有る」
そう言って手招きし鳳季の耳許で事の内容を告げる。
話を聞き、驚きを見せるが頷いて見せると息を飲んで鳳季は頷き返した。
上手く行けば我々にとって良い流れになるだろう。
──side out
Extra side──
/北郷
遠くの方で騒々と聞こえる話し声の様な物が気になり沈んでいた意識が浮かぶ。
ゆっくりと、何故かとても重い目蓋を何とか開く。
まるで寝ている間に誰かに接着剤でも使われて目蓋をくっ付けられたみたいだ。
“良い子は真似しちゃ駄目だからね?”的な悪戯。
…いや、もう悪戯って域を越えてるだろうけどさ。
「………ぅ……っ……?」
僅かに開いた目蓋の隙間。
睫毛という日除けが外れた途端に眩しくて思わず顔を右側に背けた。
それはまるで暗い真夜中に無理矢理起こされ寝起きの顔にスポットライトを最大レベルで当てられたとでも言うような感じ。
実際の経験は無いんだけど例えるとしたら、だ。
何度か瞬きし、ゆっくりと少しずつ目蓋を開いていき漸く目が慣れる。
それまでに2分程度か。
ぼんやりとした意識の中、異常な程の気怠さが身体を支配している事に気付く。
視界に映っている景色から考えると天幕の中だろう。
そう思い頭を動かして見て間違い無いと確信を得た。
天幕内には自分以外の他は誰も居ないみたいだ。
耳を澄ますと外からは声や物音が聞こえている事から皆が居るのは確かだな。
──ただ、どうして自分が天幕で寝ているか。
その事が判らなかった。
「……ぃ……ぃ…ぁ…?」
何気無く呟いた声。
しかし、言葉には成らずに掠れた声と、喘息の呼吸を思わせるヒュー、ヒュー…という音だけがした。
その事には誰よりも自分が驚いていた。
喘息を患った記憶は無いし気管支や肺等の病気も同様だったからだ。
それでも、反射的に右手を喉元に、左手を胸元に対し当てたのは、そういう事を真っ先に疑ったから。
こういう事になる原因。
その最たる物として。
「──っ!?、っ!!??」
しかし、その途中で右肩に鈍い痛みが走った。
無意識に押さえ様と伸ばす左手もまた痛んだ。
連続した予期せぬ痛みに、身体を捩った。
「──っ!?、っ〜〜〜〜」
そしてまた、身体が痛む。
身を捩った拍子に動かした両脚──より正確に言うと軽く曲げた太股が痛い。
そんな痛みの連続を受けて丸まる様な格好のままで、じっとする事を選んだ。
(何なんだよこれって…
何で、こんな痛みが…)
訳が判らなかった。
少なくとも自分の記憶上に思い当たる事は無い。
そりゃあ、鈴々との鍛練で打ち身や筋肉痛は経験した事は有るけどさ。
明らかに痛みの質が違う。
もっと鈍く、深く、なのに引き裂く様な痛み。
(抑、今の俺ってどういう状況なんだ?)
天幕で一人で寝ていた。
これが気怠さだけだったら熱射病とか風邪という様に体調を崩した可能性の方が強かっただろう。
だが、この痛みが告げる。
これは病気の類いではなく明らかに“負傷”だと。
(…え〜と…俺が覚えてる所までだと…)
兎に角記憶を辿って見る。
先ずだ、気が付いた時には“この世界”に居た。
で、目の前に桃香達が居て話を聞いて“天の御遣い”という事で“御輿”を遣る事を引き受けた。
その後、白蓮の所に行って暫くお世話になった。
そうこうしていると世間を黄巾党が騒がせて、それを討伐する為に義勇軍として独立した。
…黄巾の乱の中では関羽が桃香の──劉備の元を去り曹操の麾下に入った。
黄巾の乱が終息した途端に俺達は行き場を無くして、困っていたら桃香の助けた貂蝉達のお陰で冀州所属に変わった平原県の県尉へと桃香が着任。
慣れない仕事等に追われる忙しい日々を送っていたら袁紹から檄文が届いて…
それで俺達は……そうだ。
反董卓連合に参加した。
そして──
「──っ!?」
ズキッ!、と頭が痛む。
外傷というよりも内側。
脳が痛んだ様な感じ。
「……ぁ…」
不意に視界に入ったのは、自分の左手。
其処に刻まれている甲から掌へと“貫いた”傷痕。
ズキッ、ズギンッ…と痛む頭の中に断片的に浮かんだ光景が有った。
何かは判らない。
それなのに身体が震える。
「──っ!?……ぁ…っ…」
右肩が、両の太股が痛み、頭に浮かび上がる断片的が加速してゆく。
無意識に押さえた額。
其処で右手の指先が捉えた違和感に気付く。
包帯が巻かれている。
それはつまり、其処に何か“怪我”をした──
「…………ぁ…」
パキンッ…と、甲高い音が聞こえた気がした。
“何か”が壊れ、外れた。
そんな風な音が。
「──ぁぁァア゛あ゛ァ゛亜゛阿゛ぁ゛あ゛ァ゛阿゛亜゛ア゛亜゛ァ゛阿゛ぁ゛ア゛ぁ゛ア゛阿゛あ゛ァ゛ーーーっ!!!!!!!!!!!!!!」
映画館等密閉された空間の扉を開けた時、空気の波が生まれるのと同様に。
無意識下に抑え込んでいた記憶という大量の情報が、津波の如く押し寄せて俺を飲み込んだ。
そして全てを思い出した。
声が出ない事など忘れて、ただただ力の限り叫ぶ。
喉の奥が切れて血を吐いてしまっても構わない。
叫ばずには居られない。
そうでもしなければ自分が壊れてしまいそうだった。
圧倒的な“死”の恐怖に。
「──御主人様っ!?」
バサッ!、と天幕の一部に有る出入り口を捲り上げて中に飛び込んできた桃香。
顔を見た訳ではない。
と言うか、そんな事をする余裕なんて無かった。
それでも入って来た人物が桃香だと判ったのは誰より信頼しているから。
誰より近くに感じるから。
だから、直ぐ様、今自分が一番して欲しい事を桃香は遣ってくれる。
“どうしたの?”なんて、訊いてくる事も無い。
俺を理解し、感じてくれて行動してくれる。
頭を抱え、震えている俺を両腕で優しく抱き締めて、その胸元へ頭を沈める。
たったそれだけの事。
それでも、その温もりが、鼓動が、存在が。
自分が生きているという事を実感させてくれる。
安心させてくれる。
自分の両腕を桃香の背中に回し、しがみ付く。
離れない様に、強く、強くしっかりと。
それに応える様に、桃香は左手は背中に回したままで右手で後頭部をゆっくりと優しく撫でてくれる。
その感触に、温もりに。
幼い日の母親を重ね合わせ泣き出してしまう。
情けない、なんて事は既に言えない状況。
気にもならなかった。
溢れ出る感情を抑える事は必要とされず、有りの侭に全てを晒け出す。
それは泣き声、と呼ぶには獣染みた印象を受ける。
しかし、獣の様な雄々しい雰囲気は全く無い。
寧ろ、力無く、弱々しい。
今にも消えてしまいそうな灯火の様にも思える。
ただ、降り頻る雨音の様に如何なる言葉も受け付けず流れ行ってしまう。
そう感じる様な声が響く。




