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恋姫三國史  作者: 桜惡夢
347/915

        漆


ググッ…と奥歯を噛み締め有りったけの力を身体から絞り出す。



(邪魔すんじゃねぇっ!!)



四肢に絡み付き、行く手を阻む闇を振り切って深淵で燻っている“残火”に手を思いっきり伸ばす。

右手の人差し指の指先へと僅かに触れた。



(────っ!!??)



脳裏を駆け抜けて行くのは数多の“見知らぬ”光景。


幼い子供達と一緒に遊び、笑っていた。

両親と他愛無い会話をして笑っていた。

気の合う仲間と馬鹿を遣り笑っていた。

──掛け替え無い“友”と笑っていた。


その中には先程の目の前に居た男の姿も有った。


一瞬だったのか、或いは、暫しの間だったのか。

その不思議な現象の正確な時間は判らない。

ただ、一つだけはっきりと判った事が有る。



(あれは一体“誰の記憶”だと言うんだ…)



垣間見た光景は間違いなく“誰か”の記憶だ。

それが意味する所は自分の中に“誰か”が居る。

或いは、“誰か”の中へと自分が存在しているか。



(…そんな事が…)



“有る訳がない”とは言う事が出来無かった。

俺は知っているのだから。

そういう事が出来るだろう特異な力の存在を。

それを持ち得る存在を。



(──っ、ぐあぁっ!?)



突如襲い来る激しい頭痛。

先程感じた全身を握り潰す様な痛みとは違い、意識を押し潰し消そうとする様に容赦無い痛み。

しかし、そんな自分の事に無関係な様子で“身体”は目の前の男──甲範へ向け攻撃を繰り出している。

その状態は異常でしかなく明らかに“自分”の意志と違う“誰か”の意志が存在している事を物語る。


まるで“疑念を抱くな”と言っているかの様な頭痛も仮説を裏付ける様に思え、同時に自分の中に有る事の全てに対し不信感を募らせ“あの御方”への懐疑心が強まってゆく。



「──何度でも問い掛け、答えを求めよう

左慈、お前は“あの時”の様に逃げるのか?」



思考の海に、痛みと闇へと沈みそうになれば甲範から声が掛けられる。

それは言外に“逃げるな”と言われている様だ。



「だから何言ってんだっ!

俺は逃げてねぇだろっ!」


(“あの時”…の様に?)



訳が判らないと苛立って、叫んでいる“身体”と違い“自分”は痛みに耐えつつ必死に考える。

甲範の言う“あの時”とは一体“何時”の事なのか。

先程垣間見た光景の中にはそれらしい物は無かった。

思い当たらない訳ではなく“其処には無い”と何故か確信を持てた。

そして、“それ”は何処か別の場所に存在している。

そう、直感した。




“それ”が有る場所。

その可能性が一番高いのはやはり深淵の奥底だろう。

もう一度、あの闇の中へと潜っていく必要が有る。

だがしかし、それに対して恐怖が付き纏う。



(さっきは無我夢中で特に何も考えなかったが…)



今はそうではない。

自分が抗っている力に対し“死”を感じてしまう。

どうしようもなく強く。


“あの御方”に対し抱いた疑念は膨らみ続ける一方。

けれども、それとは反対に自分の疑念に対して疑問を持つ自分も居る。


──何故、“あの御方”がそんな真似をする?

仮に、自分の考えが正しい物だったとしてもだ。

“あの御方”に利が有ると思えない。


──自分の中に居るだろう“誰か”とは誰だ?

仮に、“あの御方”が身を奪い取るつもりだとすれば俺は存在していない。

別の“誰か”を入れる器に使うとしても、俺が今でも存在しているのは変だ。

だとすれば、“誰か”とは“自分”の可能性が高い。


──では、その“自分”は何だと言うのか?

“また逃げるのか?”との言葉から推測出来るのは、何かしらの“出来事”から目を逸らした。

つまり、現実を受け入れる事が出来無かった。

そう考えていいのだろう。


だから、甲範は問う。

“また”繰り返すのかと。



(………畜生が……)



正直、心は揺れる。

“そんな事を態々思い出す必要は無いだろ?”と思うだけで痛みが薄れる。

まるで、そうする事こそが正しいかの様に。

受け取り様によっては己を守る為に痛みという形で、“警告”していると考える事も出来るだろう。


“そうまでして、思い出す意味は有るのか?”と頭の中で静かな声が囁く。

甘く、優しく、楽な誘惑。

傾いてしまえば、どんなに気楽だろうか。

“傾いてしまえ”と背中を押してくる手が有る。


それでも──



(──俺は逃げねぇっ!)



決意と共に再び闇の深淵へ潜って行く。

勢いのまま、余計な事など一切考えずに。

少しでも何かを考えれば、闇に捕まってしまう。

そうなれば二度と真実へは手が届かなくなる。

俺は──負けてしまう。



(──認められねぇっ!)



戦わずに負けるなんて事、絶対に許容出来無い。

だから、どういった結果が待っていても構わない。

何も遣らずに“逃げる”事だけは絶対に、嫌だ。


深い、泥沼の様な闇の中、埋もれている光を見付けて右手を必死に伸ばす。

そして、脳裏を閃光の様に情景が駆け抜けた。





(────っ!!!!)



──思い出した。

“隊長”の言う“あの時”とは何なのか。

何が起こったのか。

あの忌まわしい日の事を。


だがしかし、その中に未だ抜け落ちた部分が有る。

其処に“誰か”が居るとは理解している。

けれど、誰なのかは判らず“空白”のままだ。



(そんなにも俺は思い出す事を怖れているのかっ?!)



どうしても受け入れられぬ何かが有るだろう。

そう直感的に理解した。

そしてそれは自分の意志を以てしても突き崩せない程強固な“拒絶(かべ)”が、立ち塞がっている事も。



「──糞がっ!」



行き場の無い苛立つ激情を打付けるかの様に振るった右の拳を“隊長”の右手がしっかりと受け止めた。



「──っ!?」



──有り得ない。

それが真っ先に俺の脳裏に思い浮かんだ事だった。

“あの時”──数年前に、甲範という人は確かに死を迎えたのだから。

生きている筈なんて絶対に有り得ない事だ。


何かの見間違いだ。

そう思い目蓋を閉じて頭を左右に振って“幻想だ”と自分に言い聞かせる。

未練を振り払う様にして、目蓋を開ける。

すると、目の前に居たのは眉根を顰めながら、此方を見詰めていた曹純。

──訳が判らなかった。

いや、曹純の“此奴は一体どうしたんだ?”といった眼差しの方が正しいのかもしれない。

それでも目の前の曹純から視線を外して左右、上下、後ろを確認した。

“隊長”の姿も、声も。

何処にも存在しなかった。

当然と言えば当然。

死者が蘇る事などない。

于吉の傀儡でさえ蘇るとは呼べないのだから。


──と、其処で不意に頭が理解してしまった。

当時は何も判らないまま、疑う事も無かった。

しかし、何か可笑しいとは思っていた。

その謎が唐突に解けた。



「──っ…」



ギリギギッ…と噛み締めた歯が鈍く鳴る。

握っている右の拳も一層に強く硬く握り締める。



(──そういう事か…)



繋がらなかった糸が。

絡まったまま解けないで、放置されていた糸が。

今、漸く解けて繋がった。


于吉の傀儡の術。

それが全ての鍵だった。


ずっと、自分の側に有って疑う事さえしなかった。

ずっと、その為に尽力し、動いていた。

だが、その実は残酷だ。

一体どんな気持ちで于吉は俺を見ていたのだろう。

その胸中は判らない。


ただ確実に事の全てを知り嘲笑っていた存在が確実に居る事は間違い無い。




真相を理解したからなのか記憶上から抜け落ちていた存在を思い出した。


──何拉。

俺の大親友の存在を。



(──あの糞野郎がっ!!)



思い出したからこそ心中に沸き起こる憤怒と憎悪。

それは正に信じていた者に裏切られたが故の感情。


“あの御方”などと敬称し信頼していた自分が如何に愚かだったのか。

何も知らないまま良い様に扱き使かわれていたのか。

考えただけで腹が立つ。


だが、それ以上に己自身を赦す事が出来無い。

友を、仲間を信じられずに“生きる事”しか考えずに逃げてしまった弱さが。

それが無理だったとしても“仇討ち”が出来無いまま消えるしかない事が。

悔しくて仕方無い。



(…これも報いなのか…)



全てを理解したが故に。

“俺”は先程までとは比較出来無い程に一方的に闇に絡め捕られて飲み込まれていっている。

抗おうとすればする程に、闇の中へと引き摺り込まれ動けなくなってゆく。

これが“あの日”の罪だと言うのであれば俺に逆らう事は赦されないだろう。

ただ、それでも──



(…畜生がっ…せめて…

せめて、曹純に彼奴の事を教える事が出来れば…)



一矢を報いられるのに。

例え、“俺”が取り込まれ消えてしまっても曹純なら彼奴を討ち滅ぼしてくれる気がするから。

その為には曹純に于吉への警戒を伝えなければ。

于吉の“切り札”は確実に曹純を破滅させる。

それだけは避けなければ。



(……っ…情けねぇっ…)



それなのに何も出来無い。

自分の無力が忌々しい。


──強くなりたい。

今程、それを望んだ事など無いだろう。

その結果死んでしまっても全く構わない。

消え掛けの自分の命程度を代償に叶うのなら安い。

彼奴に一泡吹かせる為には曹純は欠かせない。



(──っ!、そうかっ…

そういう事だったのか…)



何故、俺を“手駒”として選んだのか。

その選定には条件が有った事は確かだろう。

だが、俺の役目は曹純──邪魔な“天の御遣い”達を始末する為じゃない。


“世界”に護られているが故に殺す事は出来無い。

しかし、破滅させる事なら可能だったりする。

それこそが彼奴の目的。

それを遂行させる為に俺は“護衛”として選ばれた。

“天の御遣い”達を確実に破滅させる為の術を行う、生命を代償とする術者──“于吉”を守る為に。





(糞糞糞糞っど畜生っ!!、糞野郎がっ!、何処までも腐ってやがるっ!!)



于吉は確かに俺から友を、仲間を、絆を奪った。

それは間違い無いだろう。

しかし、その全てが于吉の意思だとは限らない。

いいや、よく考えてみれば解る事だった。

それすらも彼奴の意思だ。


もし仮に俺が于吉を憎み、殺そうとしていたとすればその時点で闇に取り込まれ消えていただろう。

そうなっていたら俺は傀儡同然だった筈だ。

邪魔になるのだから。



(…あの馬鹿、何も知らず術を使っちまうのか…)



例え操られていたとしても于吉が殺った事は事実。

けれど、その于吉も彼奴の犠牲者なんだと思ったら、憎みきれない。

そして何より、于吉に術を使わせる事を阻止出来れば彼奴の目論見を崩せる。

それが無理でも、曹純さえ避難させる事が出来れば。



(…だが、その為には…)



動けなければならない。

此処でどんなに考えても、実行出来なければ無意味。

何にも成らない。



「──左慈、諦めるの?」


(──っ!?)



聴こえた、その声に意識は引き寄せられた。

顔を上げる様にして意識を向けた時、自分は闇の中に居る筈なのに確かに見た。

目の前に居る──何拉を。


有り得ない事。

再び現れた“幻影”を見て俺は頭が真っ白になる。

“あの時”、確かに何拉は死んでしまった。

既に于吉に殺されて傀儡になっていたかもしれない。

それでも、俺の剣によって身体を貫いたのは事実。

屍だったとしてもだ。

だから、俺の前に現れたりしてくれないと。

そう、思っていた。


何拉を見た瞬間、雨が頬を伝い流れてゆく。

自分でもどうしようもなく降り注いで。



「左慈は忘れたの?」



──何を?

お前の事なら…言い訳しか出来無いが。

いや、皆の事もだけど。



「その強さは何の為に?」



────っ!!

何拉の一言が先程の願望を俺が“俺”である根幹を、呼び起こす。

それは遠い日の記憶。

何気無い日常の一場面。

他愛無い会話の一つ。



「──大丈夫、信じて」



ああ、そうだな、何拉。

もう二度と疑いはしない。



「──独りじゃないさ」



判ってるって、隊長。

今も皆が共に在る。


だから──見ていてくれ。




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