伍
孫権side──
蛇と蛙、死んだ振り…
それらが意味するのは私が“見逃された”という事。
“戦場ではよく有る事”と彼は言った。
それは戦場に在る臆病者が己が身可愛さに勝敗を捨て生き延びる事だけを考えた行動に他ならない。
勿論、一概に悪い事だとは言い切れない。
しかし、私にとってみれば赦せない事だ。
(…私は…情けを掛けられ生き延びた…)
彼は私を自由に出来た。
依頼通り連行する事も…
私を弄ぶ事も…
そして、殺す事も。
しかし、彼は何れでもなく私を“見逃した”。
私を殺す必要性は無い為、可能性は低い。
しかし、他は別だ。
特に依頼に関しては。
依頼を失敗・放棄すれば、彼は信用を落とす。
にも関わらず、彼は依頼を放棄したのだ。
それが意味する事は──
「…“価値”すらも私には無いの?…」
思わず声に出した呟き。
その言葉が頭の中に響き、何度も、何度も繰り返す。
屈辱、憤怒、苦渋、悔恨…
良い感情は一つとして湧く事は無い。
“生きている”という事も今は安心や安堵ではなく、ただただ苦々しいだけ。
(…死んだ方が──)
“増しだ”と考え掛けるが姉妹や家臣の顔が浮かび、それを振り払う。
“生きて戻る”そう決意をした筈だ。
どんな屈辱。・恥辱を受け様とも構わないと。
(…でも…私は…)
しかし、心は揺れる。
“理想の自分に、酔い浸りたいだけなんだよ…”
頭に谺する彼の言葉。
理解していた。
判っていて、目を背けて、“正しい事”と自分を騙し納得させていた。
…いや、正当化していたと言うべきなのだろう。
だからこそ、私は恐怖感に苛まれた。
隠していた“弱い自分”を暴き出される事に。
都合の悪い事実に目を背け続けた“身勝手な自分”を知られた事に。
姉妹や家臣…皆に見限られ“不要な存在”だとされる可能性に。
だが、それすらも浅ましい考えだと判っている。
判っていて、縋る。
(…私は…私は…)
終わりの見えない問答に、解を求め続ける。
ポツッ…と右手の甲を何か冷たい物が濡らした。
それに続き、ポツポツ…と周囲から何かが落ちている音が聞こえ始める。
それが雨だという事を頭の隅では理解していた。
しかし、私は気付かない。
出口の見えない思考の中、私は動く事も出来ず…
ただただ、立ち尽くす。
空を、大地を染める雨。
私も染めて、呑み込んだ。
──side out
滝に戻ると孫権の愛馬から本気で睨まれた。
“連れて戻る”と言った為仕方無い事だが。
「大丈夫、生きているよ
彼女は新野に向かう筈だ
だから、お前も途中までは連れて行く
その後は彼女を待つも良し迎えに行くも良し
好きにすればいいよ」
そう言うと怒りを鎮めて、納得してくれた。
その忠誠心は素晴らしい。
真っ直ぐなのは主従揃ってなのだろう。
(孫権も、この子みたいに割り切って考えられれば…
尤も、それが出来無いから闇を抱えてるんだが…)
自己完結して苦笑。
その背に跨がり、氣を使い強化を施す。
いきなりの変化に驚くが、自分に害が無いと理解。
切り替えの早さは見事だ。
「さあ、行こうか」
新野へ向けて駆け出した。
森を抜ける辺りに来た所で孫権の氣が移動していない事に気付く。
脚を止め、背から下りる。
(怪我は…してないな
感知出来る以上は自害した可能性もない
となると…)
“動けない”のではなく、“動かない”のか。
(…いや、彼女の性格なら“動けない”可能性も十分有り得る事だな…)
“重症”だとは思ったが、此処までとは。
小さく溜め息を吐く。
「…ん?」
ふと、鼻に付いた匂い。
空を見上げれば先程までの青さが嘘の様。
灰色の雲が広がる。
(今日は降りそうに無いと見てたんだが…外れたか)
そう考えて、ふと思う。
あの“一燃え”が原因ではないだろうな?と。
「考えても仕方無いか
予定変更だ
今から、御主人様を迎えに行ってくるから…」
そう言いながら周囲に見て雨宿りが出来そうな場所を見付ける。
「彼処の岩陰、判るか?
雨宿りしながら待ってな」
其処を差しながら言う。
しかし、従う様子が無い。
まあ、仕方無いか。
一度は約束を違えた。
簡単に信頼は出来無い。
「約束を破ったのは事実、言い訳はしない
その代わり、という訳ではないけど…
彼女の“苦悩”を少しだけ軽くしてやる
だから、もう一度だけ俺を信じてくれ」
心当たりがあるのか…
暫し逡巡する。
主人が抱える“もの”…
それが、自分ではどうにも出来無いと判っている。
それでも主人を想う。
だからこそ、懸ける。
もう一度だけ、信じて。
そう、瞳から伝わる。
言葉を違えはせず果たすと誓って別れた。
孫権の元へ向かう途中から雨粒が落ち始める。
(…通り雨、にしては長く降りそうな感じだな…)
出来れば外れて欲しいが、多分無理だろう。
孫権の居る所に着く頃には空は曇り、辺りを雨の音が包み込んでいた。
少し離れた位置に身を隠し孫権の様子を観察。
別れた時から“一歩”も、動いていない。
俯いたまま雨に打たれ続け雨宿りする気も見えない。
ただただ、葛藤の中で迷い続けている。
(泣けば楽になるだろ…)
そう思わずには居られず、見ていて痛々しい姿。
しかし、自分が一因である事も確かだ。
泣けない理由。
自尊心の強さも有る。
だが、それより自分自身の“身勝手”な考えが赦せず苦悩している。
楽になる事を由とせずに、自問自答を繰り返し自分を追い込んでいく。
それ自体は悪い事ではないのだが…
彼女は度が過ぎる。
そして、性格的な相性から悪循環になっている。
(最早“繋がり”ではなく柵や枷でしかないな…)
そう言えば、孫権が才能を発揮するのは孫策の死後。
孫策の存命中は、劣等感に苛まれていたとも一説には云われている。
(……方法は二つ…)
孫家の為に身を粉にすると決めて、自尊心を捨て去り愚直なまでに尽くす。
(それが出来るのなら今の孫権は居ないか…)
不器用で真面目。
自他に厳しく、それでいて孤独を嫌う。
己の“弱さ”を見せる事を由とせず、己が“理想”を求め、演じる。
その結果が、今の彼女だ。
(…歴史ではない、か…)
“此処”に来て、関わりを持って決めた事。
“歴史”を当て嵌めて事を判断しないと。
興覇・漢升・儁乂…
彼女達と出逢い、その命に触れて感じた。
彼女達は“現在”に生きて在るのだと。
それは孫権も同じ。
彼女が進む道を違えれば、“歴史”は異なって行く。
“正史”から外れる。
だが、そんな考えは所詮は“傍観者”の物。
“生きる者”にして見れば関係無い。
“歴史”は“現在”を生き在る者達が紡ぐ。
(…“また”だな)
そう思い、自分に苦笑。
しかし、気分は良い。
言うだけ言って放置する。
それよりも自分らしい。
(“責任”は取ってやる)
選ぶのは彼女だが…
その“答え”の可能性から目を逸らしはしない。
そう、覚悟を決めて彼女の元へと向かった。
大地を、草木を、身体を…
在る物全てを、激しく叩く雨音の中、彼女に近寄る。
「風邪を引くぞ?」
何事も無かったかの様に、然り気無く声を掛けた。
僅かにだが、孫権の身体が小さく反応した。
しかし、それだけ。
沈黙し俯いたままだ。
「聞こえないのか?
それとも…俺の言葉なんて聞きたくもないか?」
“自分に都合が悪いから”
そう暗に含ませて言う。
こういう言い方をすれば、彼女の性格上、無視する事なんて出来無いから。
「………私に…構うな…」
雨音に消え入りそうな声。
拒絶すらも弱々しい。
「構うな、と言われてもな
従う理由が有るか?」
そう返しながら、一歩ずつ近付いて行く。
逃げようとはしない。
…いや、出来無いのか。
拒絶しようにも、動く事もままならない。
それは肉体的な問題でなく精神的な物。
「………私は……」
「理想と現実の矛盾なんて誰でも一度は抱える事だ
だが、気付く者は少ない…
何故だか判るか?」
孫権の言葉を遮り問う。
黙して考え──俯いたまま小さく息を飲んだ。
それで“理解した”のだと判断出来た。
「真実とは時として都合の悪い物でもある
そして、多くの者は矛盾に気付かない振りをする
目を逸らし、口を閉ざし、耳を塞ぎ…“無かった事”にしようとする
決して消えないのにな…
滑稽だと思わないか?」
態と嘲笑する様に言って、“挑発”した。
感情を強く揺さ振る事で、彼女の本心を…“素顔”を引き出す為に。
「……ぁ…………ぃ……」
「何だ?、聞こえないな
はっきり言ったらどうだ」
「…っ…それなら…
それなら、私はどうすれば良かったのよっ!?」
顔を上げ、睨み付けながら叫ぶ孫権。
「仕方無いじゃないっ!
私には姉様みたいに武才が有る訳じゃない…
シャオみたいに皆に好かれ可愛がられる愛嬌もない…
人を惹き付ける魅力も…
私は…何も…無い…
私には何も無いのっ!
何一つも無いのよっ!!」
“自己否定”を感情のまま吐露する。
固く、目を閉じて俯く。
ギリリッ…と、噛み締める奥歯が鳴る。
握られた両の拳から落ちる雨滴は赤く染まる。
その葛藤が、その渇望が、まざまざと伝わる。
「……それでも…
それでも私は母様みたいになりたかった…」
弱々しく呟いた一言。
其処に込められた思いは、憧憬と尊敬だった。
劣等感・疎外感・孤独感・嫉妬・羨望・恐怖・失望…
周囲からの期待と重圧…
比較される不安と屈辱…
それらが行き着いた先が、“自己嫌悪”“自己否定”だったのだろう。
だから、求めた。
幼き日に抱いた憧憬…
死後も尚変わらぬ尊敬…
その“母親”を重ねた──“理想の自分”を。
「無い物強請りだな
姉妹の母親譲りの奔放さ…
姉の様な“覇者”の武才…
妹の様な愛嬌と闊達さ…
どれもお前に無い物だ」
そう言うと俯いた頭が更に下がってしまう。
「だが、そればかり求めてどうするんだ?
どうやっても手に入らない物を望み続ける?
あまりにも不毛だろ?」
訊ねる言葉に返事は無い。
しかし、聞こえてはいる。
孫権の目の前に立ち止まり見詰める。
「だったら、探してみろ」
「…何を…探すのよ…」
近付いていなければ雨音に掻き消されただろう。
けれど、その声を聞いて、口元を綻ばす。
「お前にしかない物を」
「…私にしか…ない物…」
小さな声で反芻する孫権。
その頭を左手で撫でながら右手を腰に回して、身体を抱き寄せる。
「考えるなとは言わない
その苦悩は、お前にとって確かな糧になる
それに他人の所為にせず、自問自答する姿勢は尊い
だけどな、悩み過ぎだ
悩んで、考え、彷徨って…
そのまま迷子になってる」
腕の中に抱く孫権の身体は賊と戦っていた時に比べ、とても小さく感じる。
「もう少し気楽に考えろ
人生に絶対の“正解”など有りはしない
有るのは常に“選択”する事だけ…
最良や最悪でさえも結果を見た上の結論に過ぎない
後悔もまた同じだ
その“選択”が正しいのか間違いなのか…
それは“後付け”の評価
“選択”その物に正否など存在しない
“選択”とは可能性の一端でしかない」
「…可能性の…一端…」
咀嚼する様に、ゆっくりと呟く声は先程より明確。
持ち直してきた様だ。
「“選択”は、常に変化し続ける…
結果を恐れて避ければ減る事も有るだろう
だが、増える事も有る
故に必ずしも悪くなるとは限らない
時に人の予測を超える事も少なくない
だからこそ必要になのは…
“選択”する上で何よりも大切なのは──」
顔を上げる孫権。
その双眸を見詰める。
「信じる事だ」




