弐
other side──
主の居なくなった宮殿。
不気味な程の静寂が包み、松明の一つも存在しない為深々とした闇が広がる。
その奥深くの一室。
玉座の置かれた間の中に、二つの人影が有った。
その内の一人。
白い装束に身を包み眼鏡を掛けた者の前には光を放つ水晶の様な球体が有った。
青白く冷たさを感じさせるぼんやりとした光を受けて眼鏡が逆光で曇る。
その眼差しは窺えない。
しかし、同じく光を受けた表情は口元に笑みを浮かべ楽しむ様に見えた。
──が、数瞬の間に表情は大きく変化していた。
茫然・驚愕・狼狽・困惑・屈辱──そして、憤怒。
ガジャァンッ!!、と静寂の中に響き渡る破砕音。
先程まで有った光は失われ居る筈の二つの人影を闇が飲み込んでしまう。
一瞬の静寂。
小さな筈の溜め息が意外と大きく聞こえた。
カカヂッ、カチヂッ!、と音が鳴る中で深い闇の中に暗闇を照らす別の明かりが点される。
それは別段珍しくもない、普通の灯明。
右手に持った油皿を燭台へ近付けて灯心に火を移す。
先程までとは違う赤橙色の明かりが辺りを照らす。
下方へと視線を向ければ、砕け散った球体の残骸。
もう使い物にはならないと誰の目にも明らかだった。
それを睨み付ける様にして俯いている。
その表情は怒りに染まり、両手を強く握り締めながら肩を震わせていた。
「…言い訳が出来無い程に見事な敗北だな、于吉」
「っ、それ──くっ…」
“于吉”と呼ばれた眼鏡を掛けた者は小さく声を出し反論しようとしたが言葉を飲み込んだ。
そう、今更何を言った所で全て言い訳にしかならないのだから。
今の一戦は完敗だった。
それは観ていた俺よりも、術者自身である于吉の方が深く理解しているだろう。
確かに“様子見”としての意味合いが強かった。
だから、油断は有った。
それは俺も于吉も否定する事は出来無い。
しかし、手を抜いたという訳ではない。
個人的には気に入らないが于吉の“人形”共は決して弱くはない。
寧ろ、厄介だと言える。
正直、初見で見破る真似は俺には不可能だろう。
だが、奴は違った。
確かに取り囲んだ瞬間こそ警戒した様に見えた。
しかし、次に動いた時には躊躇は感じなかった。
いきなり見抜いた、という訳ではないだろう。
幾つかの可能性に絞り込み初撃を以て確信した。
そう考えるのが妥当。
ただ、それで理解した。
奴は──曹純は俺達の思う以上の強敵だと。
洛陽に来たのは曹純だけ。
だが、逆に好都合だ。
他の二人は、いつでも始末する事が出来る。
しかし、曹純だけは違う。
時間が経てば経つ程に奴を始末する事は困難になる。
その力量・才能は二人とは比べ物にならない。
故に、曹純に全力を傾けて始末出来る今を逃せない。
「で、どうする気だ?
まだ“人形遊び”を続けて醜態を晒すか?」
挑発する様に問う。
けれど、真意は怒りに我を見失い掛けている大馬鹿を冷静にさせる為。
まあ、意固地になって奴に仕掛けるなら構わない。
もう一度直に“痛い目”を見れば目も覚めるだろう。
死んだら死んだ、だ。
自業自得だしな。
「…っ…何時になく意地悪じゃないですか、左慈?
そんなに私を虐めるのが、楽しいですか?」
一瞬、噛み付かんばかりの殺気を漏らしたが、直ぐにそれを鎮めてみせる。
そのまま、いつもの口調で人を揶揄う様な態度に戻り薄ら笑いを浮かべる于吉。
ただまあ、直ぐには意識を切り替えかれないらしい。
長く見慣れているからこそ普通との違いも判る。
その胸中の悔しさもな。
だが、優しくしてやろうと思ったりはしない。
寧ろ、普段の仕返しをする絶好の機会だろうからな。
傷口に塩を塗り、抉る様に遣り返してやる。
「お前を“虐められる”時なんて滅多に無いからな
物凄ぇ楽しいな」
「全く、貴男という人は…
素直じゃないですね」
──ん?、何だこれ。
于吉の奴が苦笑を浮かべて俺を見てきやがる。
“困った人ですね〜”的な生温かい眼差し。
それを見て直ぐに身体中が粟立つ感覚を覚える。
「そんなに私を虐めたいのでしたら“閨”で幾らでもさせてあげますよ?」
「死ねっ!!」
于吉の言葉と共に反射的に右手を迷わず振り抜く。
顔面なんて狙わない。
確実に仕留める為に身体の中心──鳩尾を狙う。
より確実に獲物を殺るには弱らせるのが定石。
頭狙いは二流の手口だ。
「っと、危ないですね…」
しかし、普段は文官染みた動きしかしない癖に無駄に体捌きの良い于吉は軽々と後方に飛んで避ける。
逃げられると追い掛けたい衝動に駆られるのは動物の狩猟本能なんだろうな。
追い詰めて殴り飛ばしたい気持ちが沸き上がる。
だが、此処で馬鹿を相手に時間を無駄には出来無い。
腹は立つが──その怒りは今は飲み込んでおく。
今は優先すべき事が有る。
──side out
于吉side──
理由は定かではないのだが以前よりも使える氣の技が限られていた。
いや、寧ろ大概が使用不能となっている。
それでも“あの御方”から授かった“力”のお陰で、これまでは問題無く作戦を進める事が出来ていた。
左慈からは“人形遊び”と称された傀儡の術。
これも以前と大差は無い。
しかし、良質な“素材”が手に入らなかった事も有り傀儡その物の出来としては十分とは言えなかった。
“天の御遣い”を相手にし勝てるとは思っていない。
否、“適格者”を、だ。
それでも、多少は苦しめて戸惑わせられる。
そう信じていた。
けれど、蓋を開けて見ればどうだろうか。
あの男──曹純は傀儡達を全く苦にする事無く全滅。
挙げ句に“あんな言葉”を吐いてみせた。
(…誰が“低能”だと?)
感情に任せて“遠見”用の水晶球を破壊してしまうが気持ちは昂る一方。
収まる気配はしない。
砕け散った破片を踏み砕き躙り潰しても無駄だ。
心の奥が騒付く。
深く、暗い、焔が揺れる。
全てを焼き尽くしながら、飲み込むかの様な黒い焔。
それは憤怒や憎悪といった感情を火種とする情焔。
思考が奴一色に染まる。
奴を殺す為にはどうすれば良いのだろうか?
奴を跪かせるには?
奴を後悔させるには?
奴を見返すには?
奴を追い込むには?
奴を絶望させるには?
奴を、奴を、奴を、奴を、奴を奴を奴を奴を奴を奴を奴奴奴奴奴奴奴奴奴奴──
「で、どうする気だ?
まだ“人形遊び”を続けて醜態を晒すか?」
「──っ!?」
その左慈の一言が現実へと自分を引き戻した。
反射的に反論し掛けるが、それは飲み込む。
直ぐには冷静になれないが平静を装い、いつも通りに振る舞う程度には、何とか落ち着きを取り戻した。
左慈に揶揄われる、という稀少な体験は今まであまり感じた事の無い感覚を胸の奥に抱いた。
(左慈を虐めるのも良い物なのですが…
私が左慈に虐められるのも悪くはありませんね…)
基本的には主導権を握り、左慈を振り回したい。
しかし、偶にならば逆転も有りかもしれない。
否、有りでしょう。
尤も、素直じゃない左慈を“その気”にさせるのは、中々に大変ですが。
それはそれで過程も含めて楽しめるでしょう。
苦労すればする程に成した達成感・充足感・幸福感は大きくなりますからね。
少々気が急いた、と言うか踏み込み過ぎましたかね。
左慈に本気で殺され掛けて内心は焦ってます。
まあ、今の流れは私に非が有りますからね。
怒る事も出来ませんけど。
本音を言えば、もう少し位揶揄い所ですね。
左慈と戯れ合いたいという気持ちも有りますが、今は優先すべき事が有りますし我慢しましょうか。
「まあ、左慈の言う通り、このまま続けても無意味に手駒を失うだけでしょう」
少し距離を置いた場所──左慈の間合いの外──から仕切り直す様に言う。
事実、左慈が止めなければ私は手駒を全て注ぎ込んで曹純を攻撃した筈です。
それは今も尚心の奥で燻る情焔が物語っている。
ふと、考える。
今までに自分がこんなにも感情的になった事が過去に有っただろうか。
そう思い記憶を辿る。
(…記憶に有りませんね)
だが、思い当たらない。
少なくとも、今回と同じかそれ以上の激情を胸の奥に抱いた事は無い。
ただ、何故なのだろうか。
妙に気になってしまう。
左慈に対する“想い”とは全くの別物でしょう。
しかし、激情という点では“激しい感情”であるなら同じだと言えるだろう。
けれど、自身が左慈に対し寄せている“想い”は何か違うと感じる。
──否、確信出来る。
尤も、それが“何”なのか訊かれても困るけれど。
正直、何と言っていいのか判らないからだ。
(まあ、世間一般的に言うのでしたら、この気持ちを“愛”と呼ぶのでしょう)
そう、一人で納得する。
そんな私の様子を見ていて理解出来無い左慈は眉根を顰めて睨んでくる。
別に言ってもいいのですが確実に話が逸れますね。
その結果、苛ついた左慈が八つ当たりするのは私だと思います。
勿論、そうはさせませんし逆襲して揶揄うなり何なりしますけどね。
「…何をニヤついてんだ?
到頭、頭もイカれたか?」
「貴男への“想い”になら狂っても構いませんよ」
──とか言いたいですね。
「やっぱ先に死ねっ!!」
「おっと…」
…言いたいとか思ってて、つい口に出ていましたか。
無意識って怖いですね。
でもですね、左慈。
そんなにも怒らなくたって良いじゃないですか。
照れているのは判りますが偶には素直になってくれて構わないんですよ?
いつも意地っ張りな貴男も疲れたりするでしょう。
…そうですね。
この作戦が終われば二人で旅行でもしましょうか。
…ええ、良いですね。
是非そうしましょう。
今から楽しみです。
ちょっと思考が逸れた事で死に掛けてしまいましたが何とか回避しました。
左慈、本当に危ないです。
「ふんっ…で?
“人形”共が役に立たない事が判ってる以上、次策は考えて有るんだろうな?」
少し乱れた呼吸を整えると左慈が訊ねてきます。
その乱れた息遣いもまた…ああ、拳を握らないで。
ちゃんと集中しますから。
「有るには有りますよ
尤も、次策、というよりは最終策ですけどね」
そう返すと、少し意外気な驚きの表情を見せる左慈。
まあ、左慈の言いたい事は何と無く解ります。
普段、他者を弄ぶ様に策を考える事を楽しむ私が自ら“敗北”を認める。
そう、取れなくもない言葉ですからね。
「私は彼を侮っていました
彼には幾ら小細工をしても無意味に終わるだけです
ですから、出し惜しみせず“切り札”を使います」
そう言うと左慈の表情から余裕は消え、抜き身の刃を思わせる鋭く濃密な殺気が漏れ出してくる。
“それだけの相手”という事を理解してくれたからと頼もしく思う。
「私はこれから“術式”の準備に入ります
傀儡達を使って玉座の間に誘導はしますが…」
「全部使い切る、か?」
「ええ、一応は僅かなりの仕込みをしておきますが、期待はしないで下さい
少しでも効果を出せたなら十分でしょうからね」
多分、あの言葉通りならば彼は“傀儡の術”について知っているか、見当を付け見抜いているでしょう。
誘導、と言っても此処への道標に近いですね。
実に忌々しい事ですが。
「私の術が完成するまでは左慈一人で彼を足止めして貰う事になります」
「はっ、上等だ
寧ろ解り易くていい
それに…足止めじゃなく、殺しても構わないだろ?」
右の拳を左の掌に打ち付けパシンッ!、と快音を闇に響かせて笑みを浮かべる。
ただ、その姿を見ていると“負け犬”感が強まる。
何故なんでしょうかね。
何時に無く不安です。
「…左慈?、私が言うのも何なんですが…
油断をしていると痛い目に遇いますよ?」
「お前と一緒にするな
油断など俺には無い
お前の方こそ、万が一にも俺が死んでも取り乱して、術をしくじるなよ?」
考えたくは無いですけど、しっかりと頷いた。
──side out




