弐
孫権side──
街を出る際、通りで馬車を見掛けた。
珍しい形だった事も有るが係留されていた馬達に目を引かれた。
「栗毛、鹿毛、薄墨毛…
四頭全て違うなんて滅多に見ないわね…」
普通は同一の毛色に揃える傾向が強い。
こういう言い方は悪いが、“寄せ集め”を嫌ってだ。
だが、あの子達は店先にも関わらず非常に落ち着いた穏やかな様子だった。
(元来、馬は臆病な性格をしているものだけど…
あの子達に、そんな様子は全く感じなかったわね)
四頭で…“仲間”と一緒に居るというだけではない。
恐らくは、主人に対しての信頼と忠誠心が高いが故に落ち着いていたのだろう。
「少し、羨ましいわね…」
そう呟きながら、跨がった慶閃の首筋へと右手を伸ばし、撫でる。
僅かに首を回し、此方へと目を向けた慶閃。
心配してくれているのが、眼差しから伝わる。
「ありがとう、慶閃…
私なら大丈夫よ…」
そう笑顔で返す。
羨望は信頼関係。
今の自分が孤立しているが故の感情だと判っている。
(折角、気分転換する為に出て来たのに気落ちしては意味が無いわね…)
そんな自分に小さく苦笑。
「さあ、行くわよ慶閃!」
態と声を出す事で、思考を無理矢理切り替える。
慶閃も嘶き、駆け出す。
風を切って疾駆する。
全てを忘れ去る様に。
一刻程、気儘に走った。
何もかも忘れ…
ただ思うが儘、自由に。
久し振りとあってか慶閃も楽しそうで何より。
来て良かったと思う。
新野から離れた山林の中、小川の辺りで休憩。
靴を脱ぎ、小川の水に足を浸けると冷やりとし感覚が火照った身体に心地好い。
昼食にと持参した小籠包を膝の上に広げる。
冷めてはいるが今は大して気にもならない。
五つ有る内の一つを右手で掴んで口へ運ぶ。
「…ん…丁度良い甘さね」
中の小豆餡は上品な甘味で後味も、くどくない。
水筒に入れ持って来た緑茶にも合う事だろう。
静かな森の中でゆっくりと“お茶会”を楽しんむ。
「…そう言えば、あの時もこんな感じだったわね…」
ふっ…と笑みが浮かぶ。
今はもう、記憶の中…
思い出の中でしか叶わない懐かしい日常。
それは母が健在だった頃、妹がまだ一歳になる前。
私が四歳になったばかり。
父が存命だった時の記憶。
家族が一緒だった思い出。
懐旧と郷愁に浸る中、ふと気になった事が有る。
母は孫家の女傑として名を天下に知られた。
だが、父に関して知る者は極めて少ない。
それ所か、実の子供である自分達でさえ、父の素性は知らない始末。
精々、血縁者は自分達姉妹だけだという位だ。
私が五歳の時、流行り病に掛かり他界した。
父の死後、母を悲しませる事が無い様にと思い出話もしなかった。
その唯一知っていただろう母も二年半前に他界。
謎のままになった。
ただ、何故か、今になって記憶の片隅から甦る。
「“守人”…」
幼い日に、たった一度だけ父が言った言葉。
それが“守人”。
何を以て、そう呼ぶのか…
或いは、何を守っているか何も判らない。
ただ、何故か気になった。
しかし、一族として役目を受け継ぐのならば自分達に知らされている筈。
そう考えると個人的な事を指していた可能性が高い。
「…お母様の護衛?…」
自分で口にして置きながら有り得ないと否定。
あの母が、誰かに護られる姿は想像出来無い。
(…寧ろ、逆かしら…)
母に護られる父。
その構図なら納得出来る。
武官ではなく文官寄り。
ただ、どんな仕事を熟していたのかは不明。
いつも笑顔が絶えない人で怒られた記憶も無い。
穏やかで、温かな雰囲気の中に居る人だった。
いつだったか…
姉が、母に“馴れ初め”を訊いた事が有った。
その時“三日は掛かる”と言われて断念したが…
あれは、はぐらかされたと考えるべきだろう。
そうまでして隠す何かが、父には有った。
それなら辻褄も合う。
「一点を除いて、ね…」
父の言った“守人”。
それだけが矛盾する。
仮に父が嘘を言っていたとするのなら、何の為か。
単に見栄を張ってか。
──いや、それはない。
抑、威厳等を求める人ではなかった。
というより、権力や威光と無縁の人だった。
(こんな事なら、お母様に訊いて置けば良かったわ)
“後悔、先に立たず”とはよく言った物だ。
大きく溜め息を吐き、空を見上げる。
澄んだ空の“青さ”は何を映すのだろうか。
そんな物憂げな事を考えていた時だった。
ガサッ…と背後で茂みが、小さく音を立てた。
「…慶閃、戻ろうか…」
気付かない振りをしながら立ち上がり、慶閃の側へと歩み寄った。
森の中を駆ける。
しかし、慶閃には不慣れな場所には違い無い。
(このまま走れば脚が…)
その“先”を連想し、唇を噛み締める。
そうはさせない。
目の前に見えた手頃な枝に狙いを定め、下を通過する直前に慶閃の背中から飛び上がって枝を掴む。
そのまま身体を一回転させ着地する。
急に軽くなった事に気付き慶閃が止まり、振り返る。
「行きなさいっ!」
此方へ向かい踏み出そうとした足を止め逡巡。
その瞳が強く訴える。
けれど、その意志を認めず私は見詰め返す。
大きく嘶き、森の外へ向け走り出す慶閃。
人でなくとも…
言葉は通じなくても…
その想いは伝わる。
(そう、それでいいの…
貴方は無事に生きてね…)
大切な母の愛馬の忘れ形見でもあり、自分にとっては実の姉妹以上に親い存在。
だからこそ、死なせない。
死なせられない。
「頭あっ!、馬がっ!」
「放っとけっ!
生きてりゃ餌で釣れる!
それより女だっ!
絶対ぇ逃がすなよっ!」
「判ってまさあっ!
久し振りの女ですぜ?!
逃がしゃしませんてっ!」
森の中に響く下衆な会話。
耳障りな上に腹立たしい。
腰に佩く直剣の柄に右手を掛けて深呼吸する。
「誰が、逃げるだと?」
怒りを、感情を抑えた低い声で言い放つ。
「居たぞ!、此方だっ!」
「逃がすな!、囲めっ!」
私に気付いた男達が口々に叫び、仲間が集まる。
私を中心にして陣取る敵は約三十人。
服装に統一性は無し。
市井の民とも違う薄汚れた格好は生活の荒んだ様子を物語っている。
剣や斧、鉈に槍…
一応武器は持ってはいるが何れも状態が悪い。
粗悪品ではなく劣化。
そして先程の言動からして“賊徒”に間違いない。
恐らく、此奴等が街で噂の“物騒”の正体だろう。
「此奴は上玉じゃねえか…
その物騒な物を捨てな?
大人しくすりゃあ命だけは助けてやっからよぉ…」
連中の頭目らしき男が前に出て来て言う。
周りの男達は、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら此方を見ている。
「…舐められたものだ」
「ああ?、何だって?
よく聞こえねえぞ?」
右斜め後ろから右手を耳に当てて“もう一度言え”と言わん格好で近付く。
「貴様等では釣り合わんと言っていたのだっ!」
そう叫び、身体を右に捻り右手を振る。
抜き放った刃が間抜け面の男の首を切り裂いた。
肩で息をしながらも周囲を見回して“討ち漏らし”がないか確認する。
「…はぁ…はぁ…
どうやら、残っては居ないみたいね…」
そう呟いて、一つ深呼吸。
乱れた呼吸を整える。
「あ〜あ〜、情けねえ…
もうちっと使えねえのか…
やっぱ、雑魚は雑魚だな」
「──誰だっ!?」
唐突に響く声。
その軽薄な台詞も気になる所だが、剣を構える。
ガサガサ…て茂みを鳴らし姿を現す齢三十程の男。
私が倒した賊徒の屍を踏みながら近寄る。
兵士崩れにも、賊徒にも、傭兵にも見える服装。
ただ、先程の賊徒より腕は立つだろう事が、姿勢から窺い知れる。
私を見る男の目に既視感を覚えた。
それは、私達姉妹に対して“母の姿”を重ね見る者の眼差しだ。
「…成る程な、流石に娘だ
よく似てやがる…」
「…貴様、何者だ?」
母を知り、自分に近付き、尚且つ“敵意”を持つ。
正直、良い答えを期待する方が難しいだろう。
「俺か?
俺は“殺し屋”だ
手前ぇの殺しを請け負って此処に居る…判るな?」
そう言って男は腰に佩いた柳葉刀を右手で抜いた。
「…誰の差し金だ?」
「答える必要有んのか?
手前ぇは死ぬんだ…
知った所で無駄だろ?」
無駄だと判ってはいたが、つい訊いてしまった。
恐らく、男の言う様に私は此処で死ぬだろう。
──否、死ぬ可能性が高いと訂正しよう。
まだ諦めるのは早い。
男の方が格上だとしても、万が一の可能性に懸ける。
「それは遣って見なければ判らないだろう?」
意識を集中させ正眼に剣を構える。
「…良いじゃねえか
そうでなきゃ愉しめねえ…
おらっ!、行くぜっ!」
不敵に笑い、男が駆け出し柳葉刀を振り下ろす。
それを後方へ飛んで回避、着地と同時に突きを放つ。
「おっと!」
ガギンッ!、と鈍い金属音を響かせ男は柳葉刀の腹で鋒を受け──逸らす。
「おらっ!」
「──くっ!」
そのまま下から私の腕ごと弾き飛ばす様な突き上げ。
一瞬、持って行かれそうになるが、どうにか堪える。
一旦、脇へ飛び距離を取りしっかりと柄を握り直す。
「どうしたんだ?
ほら、来いよ?」
柳葉刀で右肩を叩きながら左手で挑発してくる。
(その余裕と油断が貴様の命取りだっ!)
右足を強く踏み込み今度は此方から仕掛ける。
「はあーっ!」
左上段から切り下ろすが、男は後ろへ退き難無く躱し嘲笑を見せる。
その顔に怒りを覚えた。
だが“冷静さを失うな”と己を戒め、攻撃を続行。
小さく舌打ちした男を見て“挑発”だった事を確信。
同時に、男が“搦め手”で仕掛け様としている事から自分の予測より実力が低いだろうと思考を修正。
(一気に畳み掛けるっ!)
自分の方が疲労している事など判りきっている。
ならば、長引かせる訳にはいかない。
幸い、男の技量は自分より下だとも判ってきた。
男の顔に焦燥が浮かぶ。
決めるなら、今しかない。
上段からの一撃。
男は寝かせた柳葉刀の腹に左手を当てて受け止める。
だが、それは想定内。
私は直ぐに剣を手前に引き刃を滑らせる。
そして、腰を落とし右足を踏み込んで、一気に身体を延び上がらせた。
剣は柳葉刀を下から弾き、ガギャンッ!、と大きな音と共に男の手から離す。
「しまっ──」
「貰ったっ!!」
無手且つ、反動で仰け反り無防備な男の懐へ向かって左足を踏み出す。
「──っ!?」
──が、左足は何も捉えず足元が抜け落ちた様になり体勢が崩れる。
(──穴っ!?)
それは先の賊徒との一戦で生じた三寸程の窪み。
普段なら気にもしない──いや、大して危ないと思う事もない。
しかし、今だけは致命的な存在だった。
どうにか体勢を立て直そうとして身体を捻る。
だが、逆効果。
余計に悪くなり──転倒。
俯せに倒れ、剣も落としてしまった。
「くっ…──っぁがっ!?」
直ぐに起き上がろうとした瞬間に右足首を襲う激痛。
「運が無かったな…」
背後へ目を向ければ足首を踏み付け、男が私の直剣を持って突き付ける。
私は死を覚悟した。
「………殺せ」
「ああ、殺してやるさ
その前に手前ぇを犯してな
くくっ、ははははっ!」
「くっ…外道が…」
これから自分の身に起こる事に歯噛みする。
「さて、今からたっぷりと愉しませて貰うぜ…
恨むんなら手前ぇの母親を恨むんだな…」
男の身体が、顔が、手が、気配が近寄る。
連想してしまう末路。
その恐怖に耐え切れずに、私は反射的に目を瞑った。
「はい、其処まで〜♪」
唐突な明るく場違いな声に目を開け私は呆然とした。
──side out




