漆
これで試練は終わり──とそう思った次の瞬間。
全身の肌が粟立つ。
右手を引き抜き飛び退くと警戒体勢を取って女の姿を静かに見据える。
「──良い反応だわ」
「──っ!?」
女の口から漏れた声に私は驚くしかなかった。
仮に全く別人の声が出ても大して驚きはしない。
それ位は術の効果範囲内と十分に考えられる為。
では、何故驚いたのか。
「やっぱり“自分”の声を聞いたら驚くわよね?」
そう言う女の身体は全身に亀裂──罅が入ってゆく。
パラパラと砂が落ちる様に今までの姿が剥がれて行き露になった姿は──私。
曹孟徳だった。
両者に違いが有るとすれば向こうは漆黒の双眸な事。
それ以外は確かに私。
先程私が貫いた筈の場所も幻覚だったのかと思う位に綺麗になっている。
仕組みを理解しようにも、知識・情報不足。
終わってから雷華に訊くとしましょうか。
一息吐き、左手を腰に当てもう一人の自分を見る。
「…最後の最後に“鏡”の要素が来るとはね…」
「あら、意外かしら?」
「いいえ、寧ろ納得出来る回りくどさだわ」
不敵な笑みを浮かべながら答えると向こうも同じ様に笑みを浮かべる。
本当に、思考や性格までも同じだとしたら厄介。
向こうの手の内が解る様に此方の事も見抜かれる。
なら、この試練の意図する所は一つしかない。
「今の己の限界を超える…
そういう事よね?」
「ええ、その通りよ」
そう彼女が言うと私の──私達の目の前へと、それは不意に現れた。
それは私が使っている物と全く同じ形の大鎌。
武器まで用意してくれると普通なら罠だと勘繰る所。
勿論、そんな小細工をする必要など無意味でしょう。
この試練が私の考えている通りの物なら…ね。
「貴女は私の“写し身”…
それは何処まで再現された物なのかしら──ねっ!」
大鎌に手を掛けず真っ直ぐ彼女に向かって疾駆。
先程の隙を突いた不意打ちとは違って、相手は此方に意識を集中させている。
なら、静かに仕掛ける必要などない。
真っ向勝負。
繰り出すのは右の正拳。
“硬化”して防ぐ可能性が有る以上、初手に貫き手は危険なだけ。
それでも速度・威力は十分高いと言える。
が──パシンッ!、と良い音を響かせて彼女の右手で受け止められる。
「せっかちね」
「…成る程ね」
小気味良い音とは裏腹に、力が往なされる感覚。
間違い無い、と確信する。
彼女の実力は本物だと。
クンッ…と、彼女は右手を引き落とし私の体勢を崩し懐へと引き込む。
その流れに逆らわず前へと右足で踏み切り、肘を畳み変則の肘鉄を放つ。
彼女は右手を放し、左手で肘鉄を払うと右足を上げて私の鳩尾を目掛け膝蹴りを放って来た。
解放された右手を膝に当て蹴り上げる勢いを利用し、自らも左足で地を蹴る事で後方──大鎌の有る所まで飛び退いた。
着地し、互いを瞳に映してフッ…と笑い合う。
「追撃、出来たでしょ?」
飛び退く時、空中で警戒をしていたが追撃する素振りを全く見せなかった。
舐めているのか。
普通はそう思う所だ。
「判っているでしょ?」
彼女の言葉に小さく笑う。
私の一撃が“小手調べ”と判っているからこそ無駄な追撃はしなかった。
追撃しても仕留める事など無理なのだから余計な事で消耗をしない為。
それは同時に彼女の体力や氣は有限だという証。
まあ、尽きたからと言って私の勝ちとなるかは微妙な所でしょうけど。
こうして情報を与えるのも五分の条件と示す為であり完全には勝利条件ではない事を暗示している。
「相手に取って不足はないみたいね」
「ええ、お互いにね」
静かに笑い──大鎌の柄を右手で掴み、前へ。
『哈っ!!』
ガキンッ!!、と振り抜いた大鎌の刃が打付かり合い、鍔迫り合いになる。
互いに氣はまだ未使用。
今は純粋に膂力のみ。
氣炎・氣氷は互いに相殺、司天も同じだろう。
つまり、只でさえ大食いな司氣の技は不用意に使うと自滅し兼ねないという事。
戦局を良い方に変える程の効果は期待出来無い。
使われたら相殺する為には仕方無いけれど。
問題が有るとすれば一つ。
相手の体力・氣の量が一体何れ位なのかという事。
可能性としては四つ。
先ず、この部屋へと入って来た時点での私と等量。
これだと少し消耗している分が差になる。
次に今の姿に成った時点の私と等量。
この場合なら全くの五分。
正直、助かるわね。
三つ目、私の最大値の時と等量の場合。
これは消耗している分だけ此方が分が悪い。
最後に全く関係無い場合。
良い方でなら私よりも下、悪い方なら私よりも上。
…可能性的には一番高いと思うのが三つ目。
次に一つ目でしょう。
試練の内容から考えれば、緩くはない筈。
一つの悪手、読み間違いが命取りになるわね。
ぐっ…と力を込め、瞬時に腕を引いて往なす。
──が、やはり考える事も同じだった様で体勢を崩す事は出来ず、互いに後ろに一歩だけ下がる。
大鎌は刃を下に鋒が相手に向かっている。
普通はこのまま切り上げる所では有るが、敢えて一度後方に大きく振る。
その反動を利用して右足を軸に左足を振り抜く。
ガンッ!、と左脛の脚甲が打付かり合う。
今度は拮抗する事なく離れ左足が弾かれて戻る反動に捻っていた上半身を乗せ、右足を踏み締め重心を左へ僅かに傾ける。
体重を乗せた一撃。
──ギッギギャギャンッ!!
搗ち合う二つの刃は火花を散らしながら互いに互いを滑らせて擦れ違う。
刃が離れた時、私達もまた互いに背を向け合う。
このまま左足を踵から振り抜いて無防備な胴や頭部を狙う事も出来る。
しかし、それをしたとして有効かと訊かれれば、否。
互いに相殺し合うか或いは刎ねられるだけ。
つまり、良い事は無い。
故に仕掛ける事はしない。
そのままの流れで回転。
加えて加速し、重く、速く二撃目を振り放つ。
──ギャギャギャンッ!!
先程よりも接触し合う間は短くなり、音もより高く、鋭くなっている。
続く三撃目。
互いに目が合う。
それだけで理解し合える。
“自分同士だから”という正常下では有り得ない事が起こした摩可不思議。
けれど、その感覚は決して嫌な物ではなかった。
寧ろ楽しいとすら思う。
四撃目、五撃、六、七──数を増す程に回転の速度は高まり、重さと鋭さを更に増加させる。
何処まで耐えられるか。
氣を使わずに、というなら私の最高は二十六回。
当然、氣を使えば数字上は簡単に超えられる。
でも、そうじゃない。
威力を求める為だけならば最初から氣を使っている。
これは相手が居るとは言え文字通り自分自身との戦いなのだから。
「──っ…」
ギシッ…と四肢が軋む音が身体の中から響く。
今、二十を越えた所。
“やはり…”と内心思う。
雷華のお陰で停滞していた身体の成長が進み、身長も以前より伸びた。
骨も筋肉も丈夫に成った。
まだ成長は続いているけど今は関係無い。
(此処で怯めば“先”へは至れないわよっ!?
そんな事を赦せるのっ!?)
自らを叱咤する。
現状で満足など無理な話。
私の目指す場所はまだまだ遠く、高いのだから。
その場所へと至る為にも、こんな事で躓けない。
グッ…と奥歯を噛み締め、より強く意識する。
──二十三回目。
この辺りまでなら今の私は十分に耐えられる。
思考する余裕も有る。
──二十四回目。
搗ち合う刃の衝撃を受けて腕が、肩が、掌が僅かだが痺れを帯びる。
それでも、まだ行ける。
──二十五回目。
完調の時なら兎も角として僅かでも身体に疲労が蓄積していれば限界と言える。
普段の鍛練ならば此処から先へは無理はしない。
怪我をしては意味が無いと判っているから。
でも、今は止まれない。
この先へと至らなければ、私は一体何の為に此処まで来たのか判らなくなる。
そして──二十六回目。
「──っ、ぅくっ…」
思わず漏れる声。
刃の接触は粗一瞬。
しかし、その一瞬の衝撃は今までよりも大きく、重く身体の芯にまで響く。
大鎌を持つ両手・腕・肩の感覚が麻痺した様に感じ、身体を支える軸たる右足、加速を続けて来た左足にも痛みと弛緩する感覚が襲い今にも倒れ込みそう。
──良く頑張ったわ。
──貴女は十分遣ったの。
甘い──優しい心の囁き。
脳裏を過るのは笑顔で私の頭を撫でる雷華の姿。
“幸せ”だと感じる絵。
(──巫山戯るなっ!!)
ガリリッ!!、と噛み締めた奥歯が鈍く鳴る。
一歩間違えば砕けそうな程強く噛み締める。
(そんなのは“私の雷華”じゃないわっ!!)
私を甘えさせてはくれても甘やかしたりはしない。
私が望んだ“覇王の道”は生半可な覚悟で歩む事など不可能な過酷な道。
そんな私を覇王に至らすと口にしたのが雷華。
師にして、最愛の夫。
その雷華が志半ばで逃げた私を笑顔で撫でる事なんか絶対に有り得ない。
私が逆の立場だとしたら、絶対に失望する。
失望されたくない、なんて以前の問題。
そんな私を私自身も絶対に赦せる訳がない。
「──ぁあぁああぁあああーーーーーっっ!!!!!!!!」
咆哮と共に消え掛けていた四肢の感覚を呼び起こす。
痛み?、痺れ?、疲れ?、そんな物は後回し。
右足に…まだ力は入る。
左足で地を蹴る。
両手で柄を握り締めながら腕を、肩を動かす。
回転している間は1秒にも満たない筈なのに。
とても長く感じる。
弱音・誘惑・葛藤・逡巡…
人の心が脆い事を知り得て私は一つ強く成った。
そして実感する。
この一瞬の感覚を私は良く知っている。
自分の限界を超えた証。
この先は“未知”の領域。
本の僅かでも踏み込む事を躊躇えば遠退く。
勇気こそが開拓者の証。
「──哈あぁああっ!!!!」
今、私が超えたという事は彼女もまた超えた可能性が有るという事。
“勝った”“貰った”等の油断は一切しない。
──二十七回目。
その刹那の邂逅は今までに体験した事の無い物。
しかし、今までと明らかに違うと感じ取る。
互いに弾き合い、高め合うこれまでとは違った。
相手の力が破綻する感触が刃から伝わった。
──二十八回目。
一瞬の逢別の間に彼女側は氣を使おうとする。
しかしだ、加速した私には練氣から発現までの時間はあまりにも遅過ぎる。
刃が触れ合った瞬間。
彼女の大鎌の刃を切り裂き破壊した。
同時に彼女の体勢は崩れ、回転は止まっていく。
──二十九回目。
隙だらけになっている──なんて相手ではない。
大鎌を捨て氣を両腕へ集め胸の前で交差させて防御に集中していた。
その腕に対して振り抜いた刃が切り付ける。
手応えは有った。
しかし、刎ねたと確信する事は出来無かった。
(緩めたら駄目っ!!)
限界を超えて既に三回。
精神が肉体を引っ張り上げどうにか耐えてきた。
しかし、もう肉体の限界は目前──いや、過ぎているかもしれない。
もし次で決めきれなければ動く事さえ儘ならない様になる可能性も有る。
生まれる迷い。
だが、半端な状態の攻撃で通用するとも思えない。
なら、今私がすべき選択は唯一つだけ。
迷いを捨て去り、只一心に全身全霊で刃を振るのみ。
──三十回目。
既に、切り裂く感触さえも瞬きよりも短い。
回転は止まり、佇む。
右手を離れ、振り抜かれた大鎌は左手に握られたまま伸びきった左腕に寄り添い刃からは湯気の様な白煙が立ち上る。
フッ…と吐いた息が白い。
超高速の回転で体内は熱を帯びると思う事だろう。
しかし、実際にはある点を越えると急速に体温を奪い始めてゆく。
凍傷が起きたりはしないが一時的に四肢が縮こまった様に硬くなる。
故に、以前なら使う場面と回転域を限定していた。
その問題点を解消したのが他でも無い氣だった。
氣による肉体活性。
本来は強化が主体の技法を転用して失った熱を素早く取り戻す事が出来る。
襲い来る疲労感の中で私は氣を使い身体を動く状態に戻していった。




