7 世界感染 壱
深淵から浮かび上がる様な感覚の中、意識が目覚めて四肢へと広がる。
ぼんやりとした思考。
気怠く重い身体。
何気無く、動かそうとした左手に感じた違和感。
それを引き金として記憶の奔流が一気に甦る。
「──ああ、そうか…」
思わず右腕で視界を塞ぎ、塞き止めようとする。
しかし、溢れ出す感情を、涙を抑える事は出来無ずに右腕を、頬を濡らす。
色々と有った疑問・謎。
その多くの解答となる鍵を漸く手にした。
それはあまりにも悲しく、けれど優しい真実。
「…俺が二人の子供か…」
魄──“小鳥遊 純和”の親ではないけれど…
魂──俺という存在の親。
血の繋がりこそ肉体的には無いけれど、確かに二人は俺の両親だ。
黒龍王──堕ちた天龍王の力を喰いきれたのも必然、波長が似ていたのも必然、この世界へ“戻って来た”事も必然だったと言える。
二人を見た時に感じていた親近感は単に自分達の事と重ね合わせていたからだけではなかったという事。
本能的に理解していた。
だから、抱いた。
もう一組の両親に対しての敬愛の感情を。
「…大丈夫、俺は生きて、命を繋いでいくから…
だから、どうか安らかに」
右手を胸の真ん中に当てて祈る様に語り掛ける。
其処に在る二人の魂に。
返る言葉は無い。
既に自我は失われていても可笑しくない位に時は流れ同化も進んでいる。
それでも、胸の奥に暖かく陽光が当たった。
気がせいかもしれない。
けど、それで十分。
皆にも言って来た事だ。
「過去から現在へ…
現在より未来へ…
繋がれ、繋がる意志こそが本当の命の輝きだ」
痛みを優しさとして前へ。
過ちを戒めとして前へ。
悲しみを強さとして前へ。
別れを決意として前へ。
全てを──糧として前へ。
「歩み続けるだけだ」
奪った命が、奪われた命が無意味な物に成らない様に生きて、生きて、生き抜き示し続けよう。
それが俺の意志だから。
静かに一息吐くと、思考を切り替えて右手を左腕へと伸ばす。
左腕は脱臼をしている様に全く動く事は無い。
動かせないとも言える。
ただ、痛みは無い。
…否、一切の感覚その物が機能していない。
「…当面使い物にならないみたいだな…」
まあ、当初からノーリスクだとは思って無かったし、左腕一本が一時的に不能なだけなら上々だろう。
ただまあ、華琳は兎も角、皆が納得するかどうか。
少しだけ、憂鬱だな。
“影”の中から懐中時計を取り出して見てみると──午前6時14分。
まだ朝の鍛練中か。
部屋──寝室の壁に掛かる手製のカレンダーへ視線を向けて見る。
十二月の日付が並んでおり全ての日数が揃っている。
このカレンダーは一日毎に過ぎると薄れる仕掛け。
それが綺麗なままだという事は今日は十二月一日。
「…思ってたより短かくて済んだみたいだな」
少々気怠さは有るが身体に異常は見られない。
氣も問題無い様だし。
掛け布団を捲り、起きると寝台を降り身仕度をする。
眠っている間の事は華琳がしてくれていたんだろうが多少照れ臭い。
幾ら夫婦で、お互いの裸を知っていても恥ずかしいと思う事は有る。
言ったらネタにされるから絶対に言わないが。
身仕度を終え、寝室を出て裏庭に向かう。
良く知る氣の気配を感じて不思議と安堵する。
そんな自分に思わず苦笑。
惚れた弱み、だろうな。
気合いの入った掛け声が、木製武器の搗ち合う音が、歩を進める毎に近付く。
それは俺──“曹子和”の在るべき日常。
帰るべき場所。
生きていく世界。
「おっ、遣ってるな」
だから、自然といつも通り笑顔が浮かぶ。
「──雷華!?」
『──子和様っ!?』
華琳が真っ先に反応して、一瞬遅れて皆が声を揃えて叫び此方へ向かって一斉に駆け寄ってくる。
反応を冷静に見ていると、性格や経験の差が判る。
感情を自制して控える者と制御が出来ずに抱き付いて来る者とに別れる。
因みに華琳は前者。
昔は猫まっしぐらみたいに飛び込んで来てくれたのにちょっと寂しいぞ。
「少女は恋をして女に成る生き物だもの、同然よ」
──と、読心からの返し。
流石は我が奥様。
一発でしんみりとし掛けた雰囲気を壊してくれる。
アシストし甲斐が有るってもんだよ。
「出来ればそういう役目は珀花か灯璃にして頂戴…」
そう言って、華琳が呆れた様に溜め息を吐くと一様に苦笑を浮かべる面々。
まあ、これで俺が無事だと理解出来ただろうな。
「皆、元気で何よりだ」
「そういう貴男は?
左腕の事、誤魔化せるとは思ってないでしょ?」
軽〜いスパーリングの筈がいきなり本気の真剣で切り返された。
「あ〜…まあ、何だ…
心配しなくても暫くしたら元に戻るから大丈夫だ」
そう言って笑顔を見せると渋々と言った感じで華琳も納得してくれた。
「時間的に終わりか?」
「ええ、そうね」
「それなら、朝食までの間華琳を借りて行くな
俺の所為で無理させたから一応診とかないとな?」
そう言うと華琳は少しだけ拗ねた様に視線を外す。
「…別に大丈夫なのに…」
「はいはい、文句言わない
それじゃあ後でな」
『はいっ!』
愚痴る華琳を拉致って再び寝室へ向かって戻る。
左腕が使えないから右手で華琳の左手を握る為、普段とは定位置が逆。
それでも、振り解こうとはしないのは御互いの想いの現れだから。
黙ったまま互いの存在を、温もりを感じ合いながら、寝室まで歩いた。
「留守中変わった事は?」
寝室に入って結界を張ると華琳に率直に訊く。
こういうのは回りくどいと話が進まないからな。
「特に無かったわよ
泱州は何処も平穏その物、各政策・計画も順調過ぎて前倒しになってる位だわ
他に気になる事と言えば…
…そうね、貴男の事が巷で噂になってる事かしら」
「…俺の事?
まさか病に臥せってるとか広まってる訳か?」
「違うわよ
第一、私達がそんな真似を許す訳無いでしょ?
貴男が“天の御遣い”って称されてるのよ
何でも、“管輅”とか言う占い師の予言らしいわよ」
…………………………は?
この娘、今、何て言った?
“天の御遣い”?
やだやだ、何それ?
物凄く怪しさ満点だろ。
確かに“管輅”は易者的な感じでも伝えられるけどさ人物評論家と言う方が近い気がするんだよな…って、そういう問題じゃないな。
「…なあ、華琳?
お前、信じてるのか?」
「…あのねぇ、私が信じる信じ無いは別にしても民の間に広まってるって事よ」
呆れた様に言う華琳だが、気付いていないのか。
かなり危うい事だぞ。
「…華琳、良く考えろ
“天の御遣い”なんてのは取り様によっては“天子”だとも言える…
そうなれば、“何”を意味する事になる?」
「それは………──っ!?」
訝しむ様な表情をしながら考える華琳の表情が一変。
どうやら気付いた様だ。
華琳が気付いたのと同時に本当に微細な反応だったが周辺に氣の歪みの様な物を感じ取った。
(…何かしらの術か?)
状況から判断・推測すると洗脳・刷り込み・強制認識辺りだろうか。
そう考えると華琳の反応や思考も頷ける。
しかし、華琳が影響されるレベルの術となると厄介な事になりそうだな。
曹操side──
雷華に指摘されるまで私は全く気付いて居なかった。
可能性を考慮しなかったと言うよりも、思考する事が無かった。
言われて考えに至ってみて思わず血の気が引く。
“天の御遣い”を天子だと受け取られると皇帝に対し反意・謀叛だと思われても可笑しくない。
まあ、陛下は雷華の事なら笑って納得される事だとは思うけれど。
周辺の反応は違う。
此処ぞとばかりに糾弾して粗探しをしたりする筈。
曹家としては痛くも痒くも無いし、泱州内だけならばある意味で真実だけど。
今まで築いてきた物が全て水の泡に成り兼ねない。
そんな馬鹿事は御免よ。
「華琳、“巷で噂”だって言っていたが…
それはいつ頃広まった?」
訊かれみて戸惑う。
私はいつ・何処で・誰からその噂を聞いたのか。
どうやって知ったのか。
全く判らない。
それは異常であり、恐怖を覚えずにはいられない。
以前、雷華に話術の関連で催眠術という物を聞いた。
恐らくは、その類い。
しかし、何も判らない事に変わりはない。
「…日記は何処だ?」
「──っ!、今出すわ」
雷華の一言で思い出す。
そうだったわね。
“こういう時”の為の備えとして雷華から毎晩日記を付ける様に言われている。
その日の心境だけではなく噂話等の事は必ず書く様にしているから書いていない筈が無い。
「少なくとも、俺が倒れる前までは無かった事だ」
「二十五日から後ね」
雷華が影響を受けていない事も何かしらの要因ね。
だとすれば特殊な術か。
雷華には絳鷹が有るし。
仮に倒れ掛かっていようが取り込み中だろうが雷華が気付かない訳が無い。
其処からも時期は絞れる。
そう考えながら日記を開き読み返して行く。
「…そんな…どうして…」
しかし、十一月三十日──昨夜の日記にも何も書いて無かった。
それはつまり、手掛かりが無い事を意味している。
「華琳、大丈夫だ」
「雷華…」
茫然としていた私を優しく抱き締めてくれる。
雷華の温もりが、匂いが、鼓動が、存在の全てが私を満たし、染めて行く。
交錯・混乱していた思考が真っ白に塗り潰される。
でもそれは、悪い意味での思考の放棄ではない。
一旦、白紙にする事により冷静さを取り戻す為。
異常な思考を放棄する事で正常な思考へ回帰する。
──side out
右腕で抱き寄せた華琳。
落ち着きを取り戻した様で一安心する。
「察しは付いてるだろうが何らかの術と見て良い
施行時期は十一月三十日と十二月一日の狭間…
月と日の両方が共に黎明を迎えるからな」
「…貴男に効いてないのはどうしてなの?
眠っていたからというのは理由としては弱いわよ?」
「氣の強弱・総量の線か…
もしくは、俺が“部外者”だからかだろうな」
「それって…」
華琳が顔を上げ、悲し気な表情で抗議しようとするが右手で華琳の頭を撫でて、その先を遮る。
「結論を急ぐな
兎に角、今は情報が欲しい
華琳、お前は“巷で…”と言っていたが、どの程度の規模だと認識している?
許昌の内か、潁川郡内か、泱州の領内か…」
「…私の認識としてだけど漢王朝の領内で、よ」
「中々に広範囲だな…
だが、それなら皆の意識も華琳同様に影響されている可能性が高いな」
情報源が近くに多い事には悪くはないが。
民にまで影響してる事から街に出るだけでも色々聞く事が出来そうだしな。
「…私達はどうなるの?」
華琳が不安そうに見上げて訊ねてくる。
まあ、無理も無いか。
知らない間に洗脳されてる可能性なんて誰でも嫌だし恐怖でしかない。
自分の意志の筈が操られた何者かの掌の上、なんて。
右手を頭から頬へ移動させ意識を誘導する。
縋る様に、甘える様に頬を擦り寄せて左手を上に重ね離さない様にする華琳。
本当に珍しい姿だな。
…可愛過ぎるだろ。
取り敢えず、安心させる為にも説明して置くか。
「さっき、俺の言葉に対しお前が気付いた時、僅かに氣の歪みを感じた」
「氣の歪み?」
「氣は全ての生命に宿る
だが、非生命にも通常とは異なる氣が存在する
まあ、性質が違い過ぎるし普通は扱えないんだが…
術等の場合には組み込んで利用したりもする
これは今は俺以外には先ず感知・識別出来無い」
「…それが反応したと?」
「ああ、粗間違い無く術の効力が消えたか…
或いは上書きされた痕跡と俺は見ている
まだ詳細に関しては断言は出来無いが…
この術は洗脳じゃない
それだけは言える」
「…判ったわ
どの道、私達には打つ手は無いのだもの
全て、貴男に任せるわ」




