弐
張恭に案内され華琳と共に会議が行われているだろう謁見の間に向かう。
華琳と違って俺自身はまだ謁見の間に行った事は無く少しだけ楽しみだ。
未知に対する好奇心。
そして、時代の伏魔殿とも言える場所。
血が騒ぐのが判る。
皇帝は味方とは言え此方と立場は異なる。
片や現王朝の国主であり、片や新時代の王の器。
新旧の時代の対峙。
その光景に立ち会える事は光栄だと言える。
まあ、余計なエキストラも多数居合わせて居るが。
(果たして、それを理解し後世で語る事が出来る者が何人居る事か…)
大半は新時代を迎える事は無いだろう。
起こるかどうかは定かでは無い事だが…
宦官大虐殺。
死なずとも、地位を失い、時代の表舞台から消える。
それは高確率だろう。
(次の時代の踏み台になる脇役には過ぎた餞別か…)
本来ならば立ち会う事すら烏滸がましい。
其処に居させて遣る此方に感謝して欲しい物だ。
「こ、此方です…」
一際大きな重厚感の溢れる扉を前にする。
両脇に控えている兵士達は微動だにしない様に意識を集中させているが、此方が気にはなっている様子。
チラッ…と窺う視線を感じ胸中で苦笑。
宮中を我が物顔で歩いてる宦官の一人が怯えた表情で接していれば無理も無い。
「開けて貰えるかしら?」
華琳は気にもせず兵士達に命じて、扉に開けさせる。
戸惑いながらも張恭の方を見て確認を取る。
若き龍より、腐れ豚か。
慣れや集団意識ってのは、厄介な物だな。
兵士達は扉の取っ手を掴み両側を同時に開く。
ガゴンッ、ギイィ…と鈍い音が響き渡る。
謁見の間へと集まっている全ての者の視線が此方へと注がれる。
お〜お〜、パンダってのはこんな気分なのかねぇ…
裏の住人、って言うのか、表舞台に立つ事の無い生活してたから初体験だな。
新鮮だが面白くは無いな。
カッ、カッ、カッ…と鳴る靴音を静寂に包まれた中に響かせて華琳が進む。
その背中を見ながら追うが見惚れそうになるな。
男女が逆だったとしても、惚れ合ってただろうな。
…同性は無しだが。
…うん、俺に其方の趣味は全く無いからな。
想像したくも無い。
最愛の奥様を見て気持ちを切り替え様か。
ただ呆然とする宦官共──その総数凡そ二千人の並ぶ左右の人垣の間を抜けて、皇帝の前へと出て跪く。
「会議中、失礼致します
豫州刺史の曹孟徳です
至急、陛下に御報告したき案件が有り参りました」
華琳の声に我に返る者達が僅かながら存在した。
その反応は一様で華琳へと忌々し気に視線を向けて、嫌悪感を露にする。
せめて、隠す程度はしても罰は当たらないがな。
「き、貴様!
陛下の御前に許可も無しに来るとは何事かっ!」
「そうじゃっ!
己が身を弁えぬかっ!」
「何と無礼な…
これだから若い者は…」
一人が文句を言うと次々と愚痴を溢す様に続く。
しかしまあ、何とも…
在り来たりな台詞ばっかり出て来るもんだ。
逆に感心するよ。
あと、自分達を鑑みな。
その陛下の御前だぞ。
華琳も同様の感想らしく、小さく溜め息を吐く。
「黙りなさい、下郎共
陛下の御前である事を忘れ何と身勝手な態度か…
恥を知りなさい」
『──なっ!?』
華琳の歯に衣着せぬ言葉に声を詰まらせ、顔を赤くし怒りを顔に出し無駄な程に一斉に立ち上がる連中。
いや〜、単細胞だね。
「私は陛下に御伺いをしに此処に居る
それとも…何?
皇帝陛下よりも己が偉いと言うのなら発言しなさい」
『ぐっ…』
華琳に反論が出来る者など一人として居ない。
揚げ足を取ろうにも華琳を黙らせられる屁理屈も無く下手に言って言い負ければ不敬罪で裁かれる。
己の保身の事を第一にしか考えられない連中が言葉を発せられる訳が無い。
加えて、華琳の放っている存在感に気圧されている。
無理だろうな。
「…孟徳よ、その位にして置いてやるが良い」
「はっ、陛下がそう仰有るのであれば…」
陛下の言葉に従い宦官共に対する威圧を解く。
ホッ…と一息吐いて静かに座り込む一同。
正確には気が抜けたと言うべきだろうがな。
「して、孟徳よ
至急の案件とは?」
「はっ…豫州州牧・劉寛を始め揚州刺史・王範などが結託し、無辜の民を捕らえ人身売買を行う等の悪行で私腹を肥やして居ります」
俄に騷付く場。
しかし、その理由の殆どは“信じられない”ではなく“嗅ぎ付けたのか”という焦燥感からの物。
一面真っ黒な様だ。
狩り甲斐が有るなぁ。
「それは誠か?」
「はい、先ずは此方の物を御覧下さい…子和」
華琳の言葉に従う形を取り控えていた後ろから陛下の前へと歩み出て、持参した証拠品の一部を手渡す。
普通は側仕えが居るけれど事前に連絡を入れて今回は不在にして貰った。
余計な役者は不要だしな。
劉宏side──
一昨日の夜、曹家の使者が部屋を訪れた。
警備の者達に誰一人として気付かれる事無く部屋まで来た事には驚いたが。
使者の伝えた内容は曹家の“準備”が整った報せ。
二日後に宦官共を召集して会議を開く事の要請。
その際の側仕えの不在。
子和の事──結との関係に付いての秘匿。
そして、以前に聞かされた“布石”の件だ。
承諾の意を伝えると使者は音も無く姿を消した。
全く…頼もしい限りだ。
思わず笑みが浮かんだのも仕方が無い事だろう。
二日が経ち、会議を行うが内容の指定は無かった。
だが、宦官共を刺激したり下手に警戒させる様な話は避けるべきだろう。
その考えから、これまでも何度も行ってきた無意味な政策方針の話。
この後の事にも無関係では無いから丁度良い。
宦官共の一変する顔色等を見られるのも一興。
実に楽しみだ。
会議を始めて暫くすると、兵士が入って来て、何かを張恭に伝える。
張恭は一礼して退出したが彼等の来訪だと察する。
“来たか…”というのが、率直な気持ち。
つい緩みそうになる口元をどうにか堪えた。
張恭が退出して暫くすると再び扉が開いた。
宦官共は張恭が戻った物と思っていたから驚愕。
呆然としている宦官の間を孟徳が堂々と進む。
正に、王の風格。
大した物だと感心する。
その後の孟徳と宦官共との遣り取りには溜飲が下がる思いだった。
そして、愈々本題。
官吏共の化けの皮を剥いで本性を曝す。
尤も、此方は仮面を付けて演じる必要は有るのだが。
孟徳から話を聞き、真偽を確かめようとする。
子和が前に出て証拠だろう書状や竹簡を差し出す。
側仕えを排したのは情報の漏洩を避ける為か。
油断も慢心も無い様だな。
証拠品に目を通す。
内容に驚きながらも静かに顔を顰め、読み進める体を装う──つもりだったが、あまりの内容に素で十分にそうなってしまう。
…これが自分の皇帝として行った政の結果だと思うと民に申し訳無い。
何と無能で暗愚な皇帝か。
「…何という事か…
孟徳、其方の事だ
この者達は如何様に?」
「はっ、主犯格は劉寛以外生け捕り、罪の真偽を明白とした後に処断致しました
劉寛は護送中に逃亡を謀り逃げ込んだ先の張遉により口封じに殺害されました」
「そうか…
良く遣ってくれたな」
二人に心から感謝する。
民を救ってくれた事を。
暗愚で有った自分の過失を正してくれた事を。
──side out
曹操side──
さて、流れとしては順調と言っても良いでしょう。
とは言っても、此処までは前振りも同然。
本番は此処から。
「悪事を行っていた者達は裁けば片が付きます…
ですが、被害を受けた民の“傷”は癒えません
特に一度抱いた官吏への…延いては朝廷への不信感は簡単には拭えません」
「ふんっ…何を弱気な事を言っている
その様な事、一々気にする必要は無い」
いきなり横から口を挟んで来たのは栗嵩。
自分の言った言葉の意味が判らないのかしら。
性根まで腐ってるわね。
「民とは国の礎…
如何に王が優秀で有れど、民無くして国も王も意味が有るとは言えないかと…
それでも民を無視しろと、不必要だと御思いで?」
「ぐ、ぬぅっ…」
口出しするのなら切り返す言葉位は用意しなさい。
相手にするだけ無駄な事を自覚して欲しいわね。
まあ、邪魔だから黙らせて置きましょうか。
「それから、もう一度だけ言って上げるので足らない頭に刻み込みなさい
私は陛下と話をしている
貴様等如きが口を挟む事の意味を考えて発言しなさい
判ったのなら、以後は己の立場を弁えなさい」
ぐうの音も出ない様子で、栗嵩は歯を噛み締めながら押し黙った。
でしゃばるからよ。
好い気味だわ。
気を取り直して陛下の方へ向き直って話を戻す。
「現状、豫州と揚州の二郡共に代替統治していますが今後の扱いに関して陛下に御判断を頂きたく…」
「…孟徳よ、現状での民の其方への信頼は?」
「幸いにも良好です
悪徳官吏への不信・反感が強い反面、自分達を救った形の此方への信頼は厚く、落ち着いて居ります」
そう答えると思案顔をする陛下だが、演技が上手い。
流石に“化かし合い”では場数が違うわね。
「…豫州は其方が治めれば済む事では有るが…
問題は揚州の二郡か…
揚州の現州牧は確か劉馥…
知らなかった事、では民は納得出来るまい…」
独白する様に呟きながら、陛下は目を閉じる。
出来無い事は無い。
“誤魔化し方”一つで民の意識を操れはする。
雷華なら、だけどね。
「…曹孟徳よ、今この時を以て豫州刺史の任を解く」
沈黙の後、静かに目を開き私を見据えて告げられた。
その言葉に周囲で北叟笑む気配を感じる。
嘲笑にも似た、薄暗く汚い感情の渦と共に。
──side out
私腹の肥えた豚共の見せる深い欲に塗れた歓喜。
その滑稽な姿を見ながら、人知れず口角を上げる。
「──そして、豫州並びに揚州の二郡を併合した上で新たなる州として設置し、その州牧に任ずる」
嗤っていた豚共が息を飲み驚愕する。
異を唱え様と反射的に顔を上げるが、華琳に刺された“棘”に動きが止まる。
そうだろうな。
国の頂点である皇帝自らが決定した事を否定し覆す、そんな訳も正論も屁理屈も何一つ無いのだから。
「新たな州、ですか…」
「何か思う所が?」
「陛下の決定に対し異論は有りません
ですが、現状で州を新設し私が州牧となったとしても一時的な改善にしか成らずまた孰れ繰り返す事に成るだけだと思います」
従順しつつ、一方で現在の政権等が無能だと遠回しに言っているも同然。
まあ、裏で繋がってるから問題にはならないが。
「…成る程な
では、孟徳よ、其方に州の全権を委ねる」
先ず、今までの皇帝からは想像出来無いだろう言葉。
連中、驚いているな。
そして、理解しただろう。
もう、違うのだと。
操り人形でも、御飾りでもないのだと。
目の前に要るのは自分達の支配の及ばぬ存在。
真の皇帝なのだと。
「…それは州の政策方針を私の一存で行え、と?」
「そういう事になるな
流石に全ての州で行うには不確定な手法だが、新設の州で試みる価値は有ろう
引き受けてくれるな?」
「…謹んで拝命致します」
恭しく頭を下げる華琳。
これで誰も邪魔する事など出来無くなった。
「さて、新設するのだから豫州では決まりが悪い
孟徳よ、何か良い名の案は有るか?」
「…では、一つ──」
訣別にして始元。
それは時の流れと同じく、二度と戻る事など無い。
「其処は南に長江を臨み、北方に黄河を戴く地──」
それは生命の源。
古より文明の繁栄の礎。
「なれば、其の地に在りて生きる命を示すに相応しき其の名──」
新たな時代の到来、旧き時代の終焉。
次なる国の夜明け。
「“泱州”──と」
光和七年、十月十七日。
刻まれた一つの“歴史”と進む道を違えし、新たなる未知の“歴史”が綴られ、白紙の時代に記された。




