弐
周瑜side──
御母様と共に張遉の居城に向かいながら、街の様子を観察してみて思う。
“国の腐敗は民の腐敗”と仰有った子和様の言葉。
それが如何に的確か。
此処に住む者達──いや、多くの漢の民にとって政は関心が薄い事だ。
何故なら、税や年貢は各々領主が定めている。
故に朝廷の決定は他人事と言っていい感覚だろう。
実際には自分達への影響が無ければ、だ。
それだけに張遉達の愚行に感付く事も無く…
気付いたとしても正そうとしないのだから。
我が身可愛さ故に。
(まあ、だから家畜扱いを享受してしまうのだが…)
曹家が統べる事になれば、色々と良くはなる。
しかし、王が存在する限り“支配階級”は在る。
それが王政という物だ。
だが、王が在るからこそ、民は全てに責任を負わずに済むのも事実。
王が居なければ自衛すらも自分達の責任だ。
生活の保証もな。
「…国の──民の在り方は王次第、か…」
それが王政なのだから仕方無い事だろう。
故に、秦は、前漢は、新は滅亡したのだから。
そして現在──後漢もまた終焉へと向かっている。
軈て訪れる群雄割拠の時代へと向けて着実に。
ふと思い出すのは廬江郡に入って直ぐの会話。
紫苑・蓮華と三人での。
「…もしも、子和様に逢う事無く過ごしていたら…
その私達は、どうしていたのかしらね…」
「…少なくとも私は生きて居ませんでしたね」
「それは、私達の殆んどの者に言える事だがな…」
蓮華と紫苑の言葉に苦笑を浮かべながら言う。
生きてさえ居ないのだからどうしていたも何も無い。
揚げ足取りでは有るが。
尤も、蓮華が言いたい事はそういう意味ではない。
もしも、での可能性を思い浮かべてみる。
「…だがまあ…そうだな…
私は病さえ無ければ孫家に仕えていたかもしれない
場所柄、曹家よりも身近な縁が有る勢力だからな」
「袁術は…御免なさい
有り得ないわね…」
可能性を口に仕掛け蓮華が自分で否定する。
彼女自身が私の立場でも、有り得ないからだろう。
「私は…どうでしょうね
益州に留まり、群雄割拠を迎えるまで変わらなかったかもしれませんね…」
「旅に出たりは?」
「無かったと思いますよ
子和様の存在が無ければ、自分の職務を全うするだけでしたでしょうから…」
紫苑からは意外な回答。
…いや、彼女なら当然か。
守るべき民を置き離れるに足る理由はそうは無い。
その時が来るまで、彼女は動かなかっただろうな。
私達は縁に恵まれた。
各々、辛苦・悲哀・苦悩・憤怒・苦痛・悔恨…異なる過去や傷痕を抱えていた。
それでも、今を笑顔で歩み生きる事が出来る。
多分、子和様は否定されるだろうが…
子和様によって私達は心を命を救われた。
それは確かな事実だ。
(…恩返し、という訳ではなくて私達自身が子和様と在りたいと願っている…)
主従として、夫婦として、人生を共にしたいと。
心から想っている。
「三人共、着きますよ
準備は良いですか?」
御母様の声に我に返ると、顔を上げた視界内に張遉の居城が映った。
少々考え込んでいた様だ。
「大丈夫です」
「問題有りません」
「いつでも行けます」
私・蓮華・鈴萌と返して、御母様が頷いて見せる。
実質的に廬江郡は落とし、淮南郡も華琳様達が落とし終えているだろう。
つまり、今回の大掃除での最後の軍略と言える。
暇潰しの茶番劇と言っても軍師的には気が抜けない。
いや、ある意味では普通の戦よりも緊張する。
簡単な事だけに失敗すれば大きく崩れるからだ。
留守番役の桂花が今だけは羨ましく思えるな。
「私は周子魚です
張遉殿は何方らですか?」
「た、只今、歓待の準備をしておりますので、今暫く御待ち頂ければと…」
門番の男の兵が緊張を隠しながら、言葉に気を付けて御母様に説明する。
だが、悪いがそんな悠長に待っている暇は無い。
「それは嬉しい事ですね」
笑顔を浮かべ、兵に一時の安心感を与える御母様。
一度緊張が緩んでしまうと急な事態には対応し難い。
続いて真面目な、自分では判断出来無い内容の事柄を振られると、此方の意図の通りに動いてくれる。
これは子和様が実践される話術の一端でもある。
「ですが、今は取り急ぎ、重要な話が有ります
案内して頂けますね?」
「は、はいっ、直ちに!」
「御願いします」
予想通りの展開。
最後に笑顔と感謝を見せる事によって、従った兵には“間違っていない”という無意識の肯定をさせる。
こうして理解した上で端で見ていると子和様の話術の秀逸さが窺える。
熟、恐ろしい御方だ。
先導する兵に続く御母様の後を追いながら蓮華達へと後ろ手で指示を出す。
各隊散開──制圧開始。
蓮華と鈴萌が兵達を率いて私達から離れて行く。
だが、案内する兵が気付く事は無かった。
それは何故か?
答えは単純だ。
瞬間的に顔を覚える相手は直に対応した者が大半で、それ以外は個別認識してはいない事が多い。
つまり、意図的に他の兵と格好を揃えてしまえば楽に“その他大勢”の中に紛れ込ませられる訳だ。
蓮華達は、そう遣って識別不能な状態を作った。
そして、入れ替わる様に、思春達が合流する。
これで人数という相違点が解消される。
勿論、敵に気取られる様な下手な事もしない。
結果、傍目には変化が無い様に映る訳だ。
(これも曹家の軍隊だから可能な行動だがな…)
胸中では感嘆しながらも、自然と苦笑が浮かぶ。
非常識が常識になる。
子和様曰く──
「未知は理解し難いが故に畏怖と畏敬と疑念を生み、異端とされる事が多い
しかし、歴史を振り返れば技術や学術等の革新は常に異端から始まる
時代の革新、歴史の兆候、それは須らく異端とされた後に見直される…
常識は絶対ではない
非常識は“可能性”だ
人間が正しく想像する事は創造する事が出来る…
何故なら、理を以て行った思考と想像は理に因り叶うからである」
──だそうだ。
私達自身も氣という未知を理解してはいなかった。
だが、今は違う。
非常識が常識へと変わり、理解している。
不可能な事が可能と成り、可能性が広がった。
その一端が、この茶番劇に用いられた方法。
知らぬ者には想像する事が出来無いがな。
「こ、これは周異殿…
御無沙汰しております…」
案内された謁見の間に居た歳四十位の腹の肥えた男が愛想笑いを浮かべながら、此方に向かってくる。
「本日は如何様な──」
「──率直に訊きます
張遉、此処に元豫州州牧の劉寛が来ましたね?」
「──っ、な、何を…」
御母様の唐突な質問に対し動揺を見せる張遉。
しかし、証拠となる劉寛を始末済みだからだろう。
直ぐに不敵な笑みを浮かべ平静を取り戻す。
「一体何の事か…
皆目検討も付きませんな」
「…その言葉に、嘘偽りは有りませんね?」
「ええ、勿論ですとも」
「そうですか…」
静かに呟く御母様。
張遉は無事言い逃れる事が出来たと思った様で口角を無意識に上げている。
しかし、甘いな。
獲物を前にして口角を上げ舌舐めずりしているのは、此方なのだから。
下準備が整った事により、御母様の後ろから歩み出て隣へと並び立つ。
張遉の表情に疑問が浮かび小さく眉間を顰める。
「おや?、其方らは…」
「豫州が刺史、曹孟徳様に仕えます、周公瑾です」
私の名乗りに張遉の表情が大きく変わった。
驚愕──そして青ざめる。
それもその筈。
御母様は劉寛との面識など無いのだから。
だから、死体を見られても“暗殺者”とでも言えば、誤魔化す事が出来る。
しかし、私には通じない。
私は──私達は劉寛の顔を知っているのだから。
「…な、何故、豫州刺史の臣下の方が…
え、越権行為も甚だしいと思わないのかっ!?」
追い詰められて逆ギレ。
子和様の台本通りだな。
全く以て捻りが無い。
「御静かに願えますか?」
「ええいっ、黙れ黙れっ!
貴様っ、何の権限が有って此処に居るっ!?」
駄々を捏ねる子供だな。
いや、子供の方が増しか。
“可愛げ”が有るだけ。
「権限なら有りますよ?
私が陛下より御預かりした領地の害虫を駆除する為に御協力願ったのですから」
「なっ!?、そん、な…」
激高していた張遉に対し、あっさりした口調で最後の砦を一刀両断する御母様。
チラッ…と横目で表情はと窺えば、実に楽しそうだ。
勿論、表情には出してなどいないが…目が、な。
張遉はヨロヨロと一歩ずつ後ろへと下がる。
逃げるつもり──ではなく単に取り乱しているからの反応だろうな。
「何を、そんなに驚かれているのか判りませんが…
貴方は全く以て心当たりは無いのでしょう?
それならば、貴方の部下の誰かの仕業でしょうね」
「──っ!、そ、そういう事でしたら可能性が…」
御母様の出した餌に即座に食らい付く張遉。
もう何と言っていいのかも判らない位に愚かだな。
死体の時点で、どう説明をするつもりなのか。
隠す猶予など遣らない。
「失礼致しますっ!」
声を上げ謁見の間へと入り御母様の脇に跪く兵士。
勿論、曹家の者だ。
「どうしました?」
「劉寛と部下らしき者達が城に入ったとの証言が有り調査した所、この城の奥の部屋に劉寛等の遺体が…」
「──っ!?」
兵士の言葉に張遉の表情が強張り、固まった。
此方が勝手に探した事など言い逃れる理由にならない事も判ったか。
証拠が出た以上無駄だ。
盤上は詰んだ。
張遉、貴様の敗けだ。
──side out
さて、既に詰んだ盤上だがどうするのか。
…定番は茶舞台返しだな。
「…っ……殺せっ!
殺せ殺せ殺せえぇーっ!!」
予想通り、か。
怒号を上げて、側に控える兵達に命じる。
だが、半数は戸惑いながら張遉から離れる。
当然だ。
彼等は目撃者。
張遉達の悪行と反意のな。
「おおぉーっ!」
張遉の部下──つまり同じ共犯の立場に有る者は後が無いと理解して攻撃する。
勝てば官軍、敗ければ賊軍そのままに。
しかし、遅いな。
ガィンッ、と鈍い金属音が響く。
子魚に向かい振り抜かれた剣を兵に扮した興覇の剣が受け止めた。
「…手を出したな?
敵対行動と見なしこれより貴様等を処断する」
「抜かせえぇーっ!」
「…欠伸が出るな」
男前な台詞を呟きながら、興覇が剣を振るう。
擦れ違い様、なんて大層な場面は無い。
所詮は雑魚相手だ。
態と遊んだりしなければ、有り得ない事だ。
現にほら、断末魔を上げる暇すら無く倒されたし。
一応、不殺だからね。
「…くっ──っ!?」
「何処へ、行く気だ?」
混乱に乗じて逃げ様とした張遉だが、その喉元へ突き付けられた槍の鋒。
ツゥー…と、僅かに裂けた首筋から血が流れる。
悪足掻きを見せた張遉だが仲謀に動きを制される。
此方も兵士に扮していて、綺麗な長い髪も隠しているので判り難いが。
此処に居ないのは伯寧か…乗り切れずに逃げたな。
まあ、仕方無いか。
そうこうしてる間に興覇と兵士達が掃討し終えた様で公瑾が張遉に近付く。
「折角悔しがっている所を邪魔して悪いが…」
態とらしく溜めを作って、張遉の意識を集中させる。
幕引きだな。
「揚州刺史・王範、並びに廬江郡都尉・高禅…
共に既に身柄を拘束済みだ
この意味は──言わずとも判るだろう?」
「…あ…あぁ…ぁあぁ…」
膝から崩れ落ちる張遉。
両手を着き、額を床に着け拳を握り締める。
「何故っ…何故だっ!?
誰だって遣ってる事だっ!
その何が悪いっ!
貴様等の主も薄汚い宦官の孫だろ──ぐぁはっ!?」
「誰が薄汚いだと?
醜く、腹の肥えた豚如きがほざくな
耳障りで仕方無い」
つい、出て行き掛けたが…
興覇に先を越されたな。
頭を踏み付けられて黙った張遉だが…死んだか?
まあ、何方らでも良いが。
これで閉幕だ。




