第3話 異世界1日目、ピクニック気分?
肺いっぱいに吸い込んだ空気は、驚くほど清涼で、
鼻腔をくすぐるような濃い草の匂いが混じっていた。
三好賢治は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……う、ん……」
視界に飛び込んできたのは、見たこともないほどに澄み渡ったコバルトブルーの空だった。
流れる雲は白く、そしてどこか日本のものより巨大に見える。
「パパ、起きて! 凄いよ、ここ!」
横から響いた莉奈の元気な声に、賢治はようやく自分の置かれた状況を思い出した。
そうだ、俺たちは死んだ。
そして、あの土下座する神様に会って、ここへ――。
「あなた、大丈夫? どこか痛むところはない?」
隣で沙織が心配そうに覗き込んでいた。
「沙織か?若返ったなホントに、出会った頃みたいだ」
「賢治もよ、20年前の出会った頃みたい」
そう言って見つめあう二人
「ちょっと!子供の前でイチャイチャしないでよ。」
笑い合う三人はいつの間にか、緩やかな丘の上に重なるようにして横たわっていたらしい。
賢治は体を起こし、自分の手足を確認した。
事故の瞬間の衝撃も、ガラスの破片が刺さる痛みも、すべてが嘘のように消えていた。
「ああ、大丈夫だ。二人とも無事だな。
……マジックバッグは……よし、ここにある」
賢治の傍らには、神様から渡された、革製の古びたショルダーバッグが転がっていた。
この小さなカバンの中に、三好家のこれからの生活のすべてが詰まっているはずだった。
「ねえパパ、見てよこれ! 身体がすっごく軽いの。
まるでバネがついたみたい!」
莉奈がその場でぴょんぴょんと跳ねる。
その跳躍力は異常だった。
軽く膝を曲げただけなのに、彼女の体は二メートル近くも垂直に跳ね上がっている。
神様の言っていた『身体強化』は、どうやら伊達ではないらしい。
「莉奈、あまりはしゃぎ回るな。……さて、まずは現状を確認しよう」
賢治はマジックバッグの口を開けた。
神様の説明によれば、中身を思い浮かべるだけで取り出せるという。
賢治はまず、当面の安全を確保するために、神様が「サービス」として入れてくれたアイテムを次々と取り出していった。
最新式のアウトドア用大型テント、ふかふかの寝袋、そして――。
「……なんだ、これ。国産メーカーのロゴにそっくりじゃないか」
「神様、意外と日本通だったのかしらね。助かるわ」
沙織もバッグから自分の調理道具セットを取り出し、安堵の息をついた。
三人は、丘の上の大きな木の下を拠点に決めた。
当面はここで状況を整理し、遠くに見える小さな村――コトコト村を目指す計画だ。
「よし、お腹も空いたし、何か食べようか。
バッグの中に乾燥肉が入ってるって神様が言ってたぞ」
賢治がそう言った、その時だった。
ガサリ、と近くの茂みが大きく揺れた。
三人は一瞬で緊張に包まれた。
莉奈が反射的に、バッグから支給されたばかりの『聖剣ジェディアス 』を手に取る。
「何か来るよ!」
茂みをかき分けて姿を現したのは、一頭の鹿だった。
日本のカモシカに似ているが、その角はクリスタルのように透き通っており、体躯も一回り大きい。
「わあ……綺麗な鹿。ねえパパ、奈良公園の鹿みたいだよ。おとなしそう」
莉奈がふっと表情を緩めた。
沙織も「あら、可愛いわね」と目を細める。
だが、賢治の直感が警鐘を鳴らした。
この鹿の瞳は、穏やかな茶色ではなく、獲物を狙う獣のような鋭い赤色をしていた。
「待て、莉奈! 近づくな!」
賢治の叫びと同時に、鹿――魔物『ホーンディア』が豹変した。
前足で激しく地面を蹴ったかと思うと、透き通った角を真っ直ぐこちらに向け、弾丸のような速さで突進してきたのだ。
「キャッ!?」
沙織が悲鳴を上げる。
鹿の狙いは、一番近くにいた莉奈だった。
だが、今の莉奈はただの女子高生ではない。
「――危ないでしょッ!!」
莉奈は恐怖よりも先に、護身の意識が勝った。
腰に差していた聖剣を、文字通り「ひったくる」ようにして引き抜く。
リナ本人は、ただ自分に向かってくる角を払おうとしただけだった。
野球のバットを振るような、そんな無造作な一振り。
スパンッ。
小気味よい音が響いた。
次の瞬間、ホーンディアの首は宙を舞い、胴体は勢い余って莉奈の横を通り抜けていった。
しかし、異変はそれだけでは終わらなかった。
莉奈が振った剣から放たれた目に見えない衝撃波(斬撃)が、背後の景色を切り裂いたのだ。
メキメキメキッ! ドォォォン!!
莉奈の後ろに立っていた三本の大木が、吸い込まれるように斜めにずり落ち、重低音を響かせて倒壊した。
「…………え?」
聖剣を握ったまま、莉奈が固まる。
賢治も沙織も、あまりの光景に言葉を失った。
「莉奈……お前、今、何をしたんだ?」
「えっ、あ、いや……ちょっと邪魔だなって思って、払っただけなんだけど……」
莉奈が恐る恐る振り返ると、そこには見事な切り株が三つ並んでいた。切り口は鏡のように滑らかだ。日本の常識ではありえない。大木がまるで、豆腐のように切られていた。
「……あなた。これ、莉奈を普通に学校に通わせるの、無理じゃない?」
「ああ……。神様、加護を盛りすぎだろ……」
賢治が額を押さえて溜息をつく。
一方、戦い(?)を終えて急激に緊張が解けたのか、莉奈のお腹が「ぐぅ〜」と盛大な音を立てた。
莉奈は、足元に転がった鹿の頭部と、立派な体躯を見つめ――そして、満面の笑みで沙織を振り返った。
「ねえ、ママ! 鹿って美味しいの!?」
「「……そこかよ!!」」
賢治と沙織のツッコミが、異世界の空にハモった。
「もう……あんたは本当に。
でも、そうね。
せっかく獲れたんだから、無駄にはできないわ。
パパ、あれ解体できる?」
「ああ、任せろ。
『精密工作』のスキルのおかげか、どこをどう切ればいいか頭の中に図面が出てくる。
……ついでに、この莉奈が倒した木も有効活用しよう」
そこからの三好家の動きは速かった。
賢治は工作スキルを使い、倒れた三本の木を器用に加工して、簡易的な「燻製小屋」を作り上げた。
沙織は『浄化』を駆使し、マジックバッグから取り出した日本のスパイスと塩で、ホーンディアの肉を丁寧に下処理していく。
数時間後。
丘の上には、スパイスの香ばしい匂いと、桜の木(に似た異世界の木)を燃やした芳醇な煙の香りが漂っていた。
「うわぁ……美味しい! 何これ、お肉が凄く柔らかい!」
「本当ね。この世界の食材、ポテンシャルが凄いわ。浄化スキルのおかげで獣臭さも全くないし」
夕闇が迫るなか、焚き火を囲んで食べる出来立ての燻製肉。
一度は死んだはずの自分たちが、こうしてまた三人で食事をしている。
その事実に、賢治の胸に熱いものが込み上げた。
「……さて。夜が明けたら、あの村に行ってみよう。
これからはここが、俺たちの新しい故郷だ」
翌朝。
三人は丘を下り、コトコト村の立派な門の前に立っていた。
槍を構えた衛兵が、怪訝そうな顔で彼らを止める。
「止まれ。見慣れない格好だが……何者だ? 通るなら名前を名乗れ。
ギルドに記帳する必要がある」
賢治は一歩前に出た。
「あ、はい。三好賢治と言います。
こっちは妻の沙織と、娘の莉奈です」
衛兵は眉を寄せた。
「ミヨシ……ケンジ? 変わった名前だな。この辺りの名前じゃねえ。
苗字があるなら貴族様か?」
賢治はハッとした。
ここで変に目立って、身元を怪しまれるのは得策ではない。
「あ、いえ! 違います! ケンジじゃなくて、ケンです!
ただの『ケン』です!」
「なんだ、ケンか。紛らわしいことを言うな。
ケン、サオリ、リナだな。よし、通っていいぞ」
無事に村の中へ入り、広場まで歩いたところで、賢治は大きく肩を落とした。
「……ふぅ。危なかった。これからはこの世界に馴染むために、カタカナの名前で通そう。俺は『ケン』、ママは『サオリ』、莉奈は『リナ』だ」
「私は『サオリ』のままでいいし、全然違和感ないわね」
「私も『リナ』って呼ばれるの普通だし。書き方が変わるだけでしょ?」
二人の反応に、賢治は周囲を見渡して首を傾げた。
「……あれ? もしかして、名前が変わっちゃったの、俺だけか?」
「あはは! 本当だ! パパだけ短くなってる!」
リナがケタケタと笑いながら、ケンの背中を叩く。
「いいじゃん、『ケンさん』って響き、なんかこの村の職人っぽくてカッコいいよ!」
「……なんか、俺だけ損した気分だな……」
ガックリとするパパ――改めケンを見て、サオリとリナは顔を見合わせて笑った。
空には、太陽とは別に、淡く輝く魔法の残滓のような雲が浮かんでいる。
三好家――ケン、サオリ、リナ。
彼らの新しい人生の、記念すべき一歩目が、ここから刻まれていった。




