第11話 湖畔の休息と、怒れる母の拳
鬱蒼とした原生林を抜けると、ふっと頭上の視界が開けた。
そこには、鏡のように澄んだ水を湛える小さな湖があった。
周囲には色とりどりの高山植物が咲き乱れ、異世界であることを忘れさせるほどに穏やかな光景が広がっている。
「パパ、あそこ! 湖だよ! 綺麗だね」
「ああ、ちょうどいい。
ここでお昼にしようか」
三人は湖の畔に腰を下ろした。
サオリがマジックバッグから取り出したのは、今朝仕込んでおいた特製サンドイッチだ。
市場で買ったパンに、昨日のジャイアントボアの肉を使ったパテと、鑑定で見つけた新鮮なハーブがこれでもかと挟まれている。
「はい、二人とも。お茶も持ってきたわよ」
市場で新調した革製の水筒には、村で手に入れた香草茶が入っている。
冷たすぎず熱すぎない温度が、探索で火照った体に心地よく染み渡る。
「……ふぅ、極楽だ。
サオリの料理は、どこで食べても最高だな」
「本当だね! 私、このサンドイッチなら毎日でも食べられるよ」
のどかな昼食。
だが、ケンの耳が対岸の草が揺れる音を捉えた。
ふと目を向けると、湖の反対側、水を飲みに来た一頭のホーンディアの姿があった。
立派な角を持ち、警戒心の強そうなその個体は、まだ三人の存在に気づいていない。
「(しっ、二人とも静かに……)」
ケンは二人に合図を送ると、ゆっくりと腰を浮かせた。
この距離、風魔法では風切音で気づかれる可能性がある。
ケンが選んだのは、より弾速が速く、一撃の威力が高い「土魔法」だった。
「(イメージしろ。
カミソリのように鋭く、弾丸のように硬い石の礫を……)」
ケンは手のひらをターゲットに向け、無詠唱でその名を心の中で唱えた。
『ストーンバレット』
シュンッ! という鋭い音とともに、ケンの手元から超高速の石弾が放たれた。
それは物理法則を無視したような直進を描き、正確にホーンディアの急所――首の付け根を撃ち抜いた。
鹿の魔物は鳴き声一つ上げることなく、力なくその場に崩れ落ちた。
「よし、狙い通りだ」
「パパ……すごすぎるよ。
今の、冒険者ギルドの上位ランクの人でもあんなに簡単にはできないと思うよ。
パパ、魔法使いとして私とパーティー組まない?」
リナが目を輝かせてスカウトしてくるが、ケンは苦笑いしながら首を振った。 「いや、俺はあくまで美容師(魔道具師)だよ。
今日は素材確保のために来てるんだからな」 「
そうだよね! ソザイカクホ、美味しいもんね!」
(……やっぱり分かってないな、この勇者様は)
三人は獲物を回収するために、湖を半周して対岸へと移動した。
倒れたホーンディアを見下ろし、ケンがマジックバッグに手を伸ばそうとした、その時だった。
ゴゴゴゴ……と、地面が微かに震えた。
突如として、背後の茂みが爆発したかのように弾け、体長三メートルを超える巨大な影が躍り出た。
「ヴォォォォォーーーーンッ!!」
鼓膜を揺らす咆哮。それは、衛兵が警告していたBランクの魔物、**『ワーベアー』**だった。
ワーベアーは一番近くにいたリナを敵と見なし、その丸太のような腕を勢いよく振り下ろした。
「リナッ!!」
ケンの叫びが響く。
リナは瞬時に聖剣の鞘を盾にしてガードしたが、圧倒的な質量と衝撃までは殺しきれなかった。
ドゴォォォォン!!
「きゃあぁぁっ!」
リナの体が木の葉のように舞い、十メートルほど後方の茂みへと吹き飛ばされた。
「リナ! 大丈夫か!」
ケンが駆け寄ると、リナは土を払いながらむっくりと起き上がった。
「……い、痛たた。大丈夫、神様の身体強化のおかげでかすり傷一つないよ。
でも、びっくりしたぁ……」
ケンの胸に安堵が広がる。
だが、すぐにあることに気づき、背筋が凍りついた。
ワーベアーの目の前に、サオリがたった一人、無防備に立ち尽くしていたのだ。
「サオリ! 逃げろ、危ないっ!!」
ワーベアーが再び咆哮を上げ、今度はサオリを握り潰そうと巨大な前足を振り上げた。
だが、サオリは逃げなかった。
一歩も引かず、その双眸には冷徹なまでの怒りの炎が宿っていた。
「……私の、娘に……何してんのよッ!!」
サオリの拳が、ワーベアーの鳩尾に向かって放たれた。
それは武術でもなんでもない、ただの母親としての怒りが凝縮された渾身のグーパンチだった。
ドォォォォォォォンッ!!!
大気を震わせる衝撃音。
次の瞬間、三メートルの巨体を誇るワーベアーが、まるでピンボールの球のように真っ直ぐ後方へと吹き飛ばされた。
巨体は数本の木をなぎ倒しながら、三十メートル以上離れた岩肌に激突し、ピクリとも動かなくなった。
一撃。
文字通りの即死だった。
静寂が、湖畔を支配した。
「……リナ、大丈夫? 痛いところない? どこか怪我してない?」
さっきまでの羅刹のようなオーラを消し去り、サオリが心配そうにリナに駆け寄る。
「う、うん……ママ、大丈夫だよ。ありがとう……」
抱き合う母娘の姿を見ながら、ケンとリナは心の中で同時に確信していた。
((……この人だけは、絶対に怒らせちゃ駄目だ))
身体強化の加護を受けているとはいえ、Bランクの魔物をただのパンチで仕留める主婦。
ケンの魔法も凄まじいが、サオリの「怒りの身体能力」は、あるいは勇者すら凌駕しているのかもしれない。
ケンは震える手でマジックバッグを開き、岩の破片のように硬直したワーベアーを回収した。
「……よし、今日の目的、肉は十分すぎるほど確保できたな魔石は、うん取り敢えず増えた。
そろそろ帰ろうか」
三好家のピクニックは、衝撃の結末とともに幕を閉じた。
帰り道、ケンの足取りはいつもより少しだけ慎重で、リナも
「明日はお皿洗い頑張るね」と、なぜかサオリに対して殊勝な態度を見せるのだった。




