フラと少年 ~家出から始まったのは、“本当の家族”を探す旅だった~
フラを愛する少年の家出が、
母・父・新しい恋人・そして旅の仲間を巻き込み、
壊れた心を修復していく“家族再会ロードムービー”。
〈主要登場人物〉
■ 阿部祐樹
小学二年生。フラダンスの才能を持つ少年。
生き別れの父を想い、母とのすれ違いの中で家出を決行する。
父との再会とステージでの共演を経て、フラへの情熱と自分の未来を見つける。
■ 阿部ルミ子
35歳。恵比寿でフラ教室を主宰するフラダンサー。
母として、息子を守ろうとするあまり、元夫の存在を祐樹に隠していた。
祐樹の家出と再会を通じ、親としての愛情を再確認し、未来に向けて歩き出す。
■ 阿部祐太朗
祐樹の父。ハワイのクム(師匠)の息子として期待されるが、重圧に耐えられず日本へ逃げた過去を持つ。
愛知県のフラ教室で講師として働く。
祐樹との再会で父としての気持ちがあふれるが、過去ではなく「いま守るべき人生(ひとみと新しい命)」を選ぶ。
■ ひとみ
祐太朗と同棲する恋人。フラ教室の教え子で、優しく聡明な女性。
祐太朗の過去を受け止め、静かに支え続けている。
物語の終盤で妊娠していることが明らかになり、祐太朗の“決断の理由”となる。
■ 春彦
大学四年生。中古車販売会社の息子で、ワーゲンバスを愛する自由な青年。
祐樹を偶然車で助け、そのまま父の元へ連れて行く旅に同行。
実は誰よりも面倒見がよく、情に厚い。
■ 玉枝
25歳。小劇団に所属して夢を追うが、不器用で破天荒な性格。
春彦と同棲中。明るく涙もろく、しばしば物語にユーモアを添える存在。
実家・焼津との確執を抱えていたが、今回の旅を通じて前向きに向き合うようになる。
第1章 祐樹、消える
「祐樹はどこへ行ったの?」
楽屋の空気を震わせるような鋭い声が響き、ざわついていた生徒たちの動きが一瞬とまった。
ここはJR蒲田駅前にある大田区民ホール。その大ホールを貸し切り、年に一度の「ナー・マモ・オ・カイマナ」主催フラ発表会が行われている真っ最中だった。廊下には甘いココナッツのオイルの香りが漂い、ホワイエにはレイをかけたマダムたちが色とりどりの衣装のまま走り回っている。
だが、その華やいだ空気とは裏腹に、楽屋だけはぴんと張り詰めた静けさに包まれた。
叫んだのは、この教室の主宰者である阿部ルミ子(三十五歳)だ。ハワイで本格的に学んだ実力派のフラダンサーで、生徒数は都内でも最大級の三百名。今日も朝十時から次々と演目がこなしされ、ハワイアンの音色が会場を埋めるはずなのに、ルミ子の胸の奥は波のようにざわめいていた。
――祐樹、どこへ行ったの。
彼女の息子、阿部祐樹。小学二年生。
本来なら、さっき舞台で可愛い衣装を着てステップを踏んでいるはずだった。
だがその姿は、どこにもなかった。
「祐樹を見た人いない? 誰か!」
スタッフが慌てて走り回り、楽屋のドアが何度も開いては閉じる。控え室で化粧直しをしていた生徒たちも顔を見合わせ、そわそわと落ち着かない。
ルミ子は胸を押さえ、深呼吸をした。
――やっぱり、昨日のことを根に持っていたのね。
昨夜、祐樹はルミ子の鏡台の上に置かれていた封書を、偶然見てしまった。差出人は祐樹の父親、祐太朗。ルミ子が封筒を隠そうとしたより早く、祐樹は手を伸ばして中身を読んでしまった。
「どうして言わなかったの。僕、お父さんに会いたいよ」
その言葉に、ルミ子は思わず声を荒げてしまった。
父親に裏切られた痛みは、まだ消えていない。だから祐樹には知らせずにきた。でも――。
「まさか、本当に家出なんて……」
ルミ子は両手で顔を覆うと、肩を震わせた。
発表会の華やかさとは裏腹に、楽屋の空気は不安の色に染まっていった。
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■ 蒲田駅東口・午後一時すぎ
その頃。
祐樹は、駅前の横断歩道に立ちすくんでいた。
強い日差しの中、人々が行き交い、風にゆられたフライドチキン店の匂いが漂う。祐樹の小さな影だけが、道路に不安定に揺れていた。胸には、ぎゅっと抱えた黒いショルダーバッグひとつ。
――会いたい。
でも、どこへ行けばいいんだろう。
足元がふらついた。
その瞬間。
キキィッ!
ワーゲンバスが急停止し、窓から伸びた男の声が響いた。
「こらぁ、死にたいのかぁ!」
髪がぼさぼさの若者が、助手席の彼女と一緒に目を丸くしている。
驚いて動けなくなった祐樹を、春彦はあわてて降りて抱えた。
「大丈夫か? 当たってないな?」
祐樹は涙をこらえながら、小さな声で言った。
「……お父さんに、会いたい」
その一言が、空気を変えた。
春彦と玉枝は顔を見合わせた。
玉枝が「行ってあげようよ」と小さくうなずく。
「よし、乗りな。事情は車の中で聞くからさ」
祐樹はためらいながらも、ワーゲンバスに乗り込んだ。
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■ 青と白のワーゲンバスの中で
車内は古く懐かしい匂いがした。
天井には小さな凹み、床には旅の荷物、後部座席の奥には寝袋が丸めて積まれている。
「これ、お父さんからの手紙か」
春彦が祐樹の差し出した封筒を受け取り、裏の住所を見て口笛を吹いた。
「愛知県……ずいぶん遠いじゃん」
「行きたいの?」
玉枝が優しく聞く。
祐樹は黙ってうなずいた。
「よし。じゃあ行くか」
「……ほんと?」
「うん。西へ向かう旅の途中だったから、ちょうどいいさ」
春彦はニカッと笑って見せた。
祐樹の胸の奥で、何かが少し温かく溶けた。
その少し後、青と白のワーゲンバスは蒲田を離れ、海老名インターへ向かって走り出した。
祐樹の、小さく大きな旅が始まった。
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第2章 焼津の家、そして小さな嵐
■ 東名高速・御殿場付近 午後三時すぎ
東名高速の路肩に沿って、もやのかかった山々が流れていく。
車窓から差し込む陽射しはまだ強く、ワーゲンバスの古いクーラーは「ゴォォォ」と大きな音のわりに、ほとんど冷たい風を出してくれなかった。
「うーん、やっぱり冷えねぇな、このクーラー……」
運転席で春彦が苦笑し、窓を少し開けた。湿気を含んだ空気がどっと流れ込み、玉枝は鼻の頭を手で押さえた。
「うわ、湿気すご……。富士山も見えないね」
少しだけ視界の先に、ぼんやりと黒い影が見える。
でも輪郭はもやに溶けてしまっていた。
「祐樹、気分悪くない?」
玉枝が後部座席に座る祐樹をのぞき込む。
「……だいじょうぶ」
俯き加減の祐樹の声は小さく、でも先ほどより落ち着いていた。
車内には、まだ緊張が残っている。
だが、ゆっくり、少しずつ、祐樹の心がほぐれていくのを春彦と玉枝は感じていた。
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■ 祐樹の家のこと
走りながら、二人は祐樹から事情を聞き出した。
言葉は少ない。ただ、そのひとつひとつに、祐樹の迷いと悲しみがにじんでいた。
「ママ、いつも忙しいんだ……。僕が踊ると、すごく喜んでくれるけど、でも……」
「でも?」
「パパの話になると、いつも怒るんだ」
玉枝は胸がきゅっと締めつけられた。
「昨日、手紙を見ちゃったんだね」
「うん……。ママが黙ってたこと、ひどいって思った。でも……」
「でも?」
「本当は、僕も、こわかった」
言ったあと、祐樹はぎゅっとバッグを抱きしめた。
「怒られると思った?」
「……わかんない。でも、会いたいって言ったら、ママ、泣きそうな顔してた」
春彦と玉枝は、視線をそっと合わせた。
――ただ、会いたいだけ。
――だけどその一言が、ひとりの子どもには重かったんだ。
「祐樹、お父さん、どんな人だと思う?」
「……やさしいと思う。手紙、やさしい字だった」
その答えを聞いて、玉枝の胸の奥があたたかくなった。
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■ 焼津へ寄り道
午後四時すぎ。
東名高速の表示板に「焼津」の文字が見えてきた。
「ここ、私の実家があるところなんだ」
玉枝が少し照れくさそうに笑う。
「ちょっとだけ寄ってもいい? すぐ済むから」
祐樹は小さくうなずいた。
インターチェンジを降りると、潮風が一気に流れ込んだ。
道の脇には漁船のマストが見え、魚市場からの生臭い匂いが鼻を刺激する。
「うわっ、なつかしい~。これぞ故郷の匂い!」
「くせぇだろこれ」と春彦は顔をゆがめた。
「なに言ってんの、いいじゃん! 海の匂いだよ!」
海風の混じる町の中へ入り、車は細い路地に入った。
昭和の面影を残す木造住宅が並び、どの家の軒先にも風鈴が揺れている。
「ここを右……あ、そこそこ」
やがて白い壁で囲まれた二階建ての家が見えてきた。
「……あそこ」
玉枝は息を呑んだ。
七年ぶりに見る実家だった。
車がゆっくり止まると、玉枝はゆっくりドアを開けた。
そして家を見つめたまま、しばらく動けなかった。
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■ 思いがけない再会
「玉枝!」
背後からどすの効いた声。
振り向くと、ランニングシャツにサンダル姿の男が立っていた。
――兄だ。
玉枝の顔色がサッと青ざめた。
「兄さん……」
「なんだお前。二度と帰らんって出てったくせに、どのツラさげて戻ってきた」
兄の声は荒く、でもどこか寂しさも滲んでいた。
「まあまあ、お兄さん、久しぶりってことで……」
春彦が間に入ろうとした瞬間。
兄は祐樹を見て、眉をつり上げた。
「おい! お前……ガキまで作ったのか!」
「ち、違うよ! この子は……!」
説明しようとしたそのとき。
兄の拳が、春彦の額に炸裂した。
「いってぇぇぇ!」
春彦はその場にうずくまった。
「なにすんだよ兄さん!」
「うるせぇ! 帰れ!」
家の前の騒ぎに、近所の人がぞろぞろと出てきていた。
「ちょっとあんた! やめなよ!」
「玉枝ちゃん帰ってきたの?」
野次馬の声が飛び交う。
玉枝は悔しさに唇を噛み、涙をこらえながら叫んだ。
「帰るよもう! 来なよ、春彦!」
春彦は額を押さえながら立ち上がった。
「まいったな……今日はツイてねぇ」
そのとき。
「玉枝……」
家の角から、年老いた母親が現れた。
白髪の髪をまとめ、黒いワンピース姿で、どこか弱々しい。だがその目は確かに玉枝を見つめていた。
「また、いつでも遊びにおいで」
「……お母さん」
その優しい声に、玉枝の目に一気に涙があふれた。
母親は、祐樹を見るとにっこり笑い、そっと千円札を握らせた。
「いい子だね。仲良くね」
祐樹は驚きながらも、小さく「ありがとう」と言った。
――それを見た玉枝は、胸がぎゅっと締めつけられた。
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■ 上郷サービスエリア 午後七時
焼津を離れ、三人は上郷サービスエリアへ入った。
駐車場には長距離トラックが数台停まり、夕暮れの空がオレンジ色に染まっている。
高速道路の土手からは、リーリーリー……と虫たちの声が響いていた。
「お腹すいたなー、俺はかつ丼!」
「私はカレー!」
「ぼくも、カレー……」
「はいよ、オーダー入りました!」
かつ丼、カレー、うどんの匂いが食堂に漂い、三人は思わず笑顔になった。
「祐樹、今日は俺のおごりだ! 一生忘れるなよ~」
「……うん」
祐樹は、小さくも嬉しそうに笑った。
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■ まさかのトラブル
食後。
車に戻り、春彦がエンジンをかけようとしたとき。
「ん? なんか傾いてない?」
車体の前方右側が、妙に沈んでいた。
春彦が降りてタイヤを覗き込む。
「あー……こりゃパンクだ」
「えぇぇ!?」
「しかも……スペアタイヤが……ない!」
「なにそれ!」
絶句する玉枝。
そのとき。
「兄ちゃん、パンクか?」
手拭いを鉢巻きにした六十代くらいの男性が声をかけてきた。
「うち修理工場だで、持ってってやるわ」
その言葉に、三人は救われたような気持ちになった。
「ありがとうございます! 本当に助かります!」
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第3章 父の住む町へ、夜の訪問者
■ 伊豆原モータース 午後八時すぎ
レッカー車に引かれながら走るワーゲンバスの車窓には、真っ暗な田園が広がっていた。
街灯は少なく、遠くで虫の声だけが響いている。
祐樹は、窓ガラスに映る自分の顔をじっと見つめていた。
「……ほんとうに、会えるのかな」
誰にも聞かれないほど小さな声だったが、玉枝が気づいてそっと肩に手を置いた。
「会えるよ。だって、祐樹が来たんだもん」
その言葉に、祐樹は少しだけうなずいた。
レッカー車は、三好インターを出てしばらく走ると、県道沿いの一角で停まった。
蛍光灯の白い光に照らされた看板には「伊豆原モータース」と書かれている。
建物はコンクリート造りで古いが、丁寧に使い込まれた雰囲気があった。
「ついたぞー」
鉢巻きの男性――伊豆原さんが、軽い口調で言ってワーゲンバスのロープを外した。
シャッターはすでに閉めていたが、奥さんが「はいはい」と言いながらシャッターを上げてくれた。
中には油の匂いが漂う広い作業場があり、ところどころ黒く汚れた工具が整然と並んでいる。
「おじさん、すごいね……」
祐樹が珍しそうに工具を見ていると、奥さんが「麦茶飲みな」とガラスコップを手渡してくれた。
冷たい麦茶が喉にすべり込む。
緊張でこわばっていた体がふっとゆるむようだった。
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■ 古いタイヤと職人技
伊豆原さんは、慣れた手つきでタイヤを外し、チューブを水槽に沈めた。
ぷく……ぷくぷく……
小さな泡が浮き上がる。
「ここだな。穴、ひとつ。運がよかったわ」
ヤスリで丁寧に削り、丸いパッチを貼って万力でぎゅっと締めつける。
そして、マッチを擦ると、パチッと橙色の火が暗い工場を照らした。
「ほんとに、こんなので直るの?」
春彦が感心したように聞く。
「最近のやり方じゃないがな。けど、これが一番確実なんだよ」
伊豆原さんはにやりと笑った。
作業している間、奥さんは事務所で三人に麦茶を追加してくれ、壁のカレンダーには昔のアイドルの水着写真が貼られていた。
「うわ、昭和だ」と玉枝が笑い、春彦が「おおっ」と妙に感心している。
祐樹はその様子を静かに見ていた。
緊張が解けていくのがわかる。
この親切な人たちに心を少し救われていた。
その後、修理は三十分ほどで無事完了。
代金は二千円。
「ほんとに、ありがとうございました!」
三人が頭を下げると、奥さんが笑いながら手を振った。
「気ぃつけて行きなよ。住所、ここからすぐだから」
「三好丘、団地があるところだでな」
そう言われ、春彦は地図アプリを確認しながら頷いた。
「よし。行こうか、祐樹」
祐樹はぎゅっとショルダーバッグを抱きしめ、深く息を吸った。
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■ 三好丘の団地へ 夜道の不安
夜十時前。
車は住宅地の外れに建つ五階建ての団地の前に停まった。
街灯の光が弱々しく照らすコンクリートの壁は古く、ところどころ黒ずんでひび割れている。
窓のいくつかには明かりがついているが、多くはすでに暗い。
「ここだ……」
春彦がスマホの画面を見ながら言った。
祐樹は、団地を見上げたまま固まっていた。
「どうした? 怖いか?」
「……ちょっと」
玉枝がそっと手を握ってあげる。
「大丈夫だよ。ほら、お父さん、祐樹のこと待ってるよ」
祐樹は小さくうなずき、三人は階段を上った。
コンクリートが冷たく湿っていて、足音が響く。
「三〇三号室……ここだ」
春彦がインターホンを押す。
ピンポーン……
数秒待つ。
もう一度。
ピンポーン……。
だが、誰も出てこない。
「留守、か……」
「とりあえず、車戻ろっか」
祐樹は、ほっとしたような、残念なような、複雑な表情を浮かべていた。
三人は車に戻り、静かに寝息を立て初めていた。
祐樹は後部座席で丸くなったまま眠り、玉枝は窓にもたれていた。
春彦は運転席で目を閉じる。
――その時。
コンコン。
フロントガラスを叩く音で、三人は同時に目を覚ました。
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■ 父、現る
「あのう……」
灰色の工場着を着た男がそこに立っていた。
髪は短く七三分け、彫りの深い顔立ち。どこかハーフのような雰囲気がある。
春彦が窓を少し開けた。
「すみません、部屋の隣の人が、外に車がずっと止まってるって言うもんで……」
男は気まずそうに笑ったあと、ふと祐樹の姿に気づいた。
「……祐樹……なのか?」
その声は震えていた。
まるで何度も心の中で呼び続けてきた名前を、ようやく口にできたような――そんな声だった。
「あなたが……祐樹のお父さん、祐太朗さんですか?」
春彦が確認すると、男はゆっくりとうなずいた。
「そう、です……。祐樹、か……」
祐樹は、起きていた。
だが顔を上げられず、もじもじと指先を動かしていた。
「祐樹」
祐太朗が名前を呼んだ。
その声を聞いただけで、祐樹の肩が小さく震えた。
二人の間に、長い時間が流れたように感じた。
「……行こう。中に入って」
祐太朗は、祐樹の前にしゃがみ込むようにして、静かに微笑んだ。
その笑顔は、何度も夢見た「父親」の姿だった。
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第4章 祐太朗の部屋で――語られた過去
■ 団地の一室へ
夜気が少しひんやりとしてきた。
祐太朗が先に歩き、祐樹は春彦に手をそっと握られながら、そのあとをゆっくりとついていった。
三〇三号室の前に着くと、祐太朗はポケットから鍵を取り出した。
鍵が差し込まれ回る音が、やけに大きく響いた気がした。
ドアが開く。
あたたかい光が、祐樹の顔を照らした。
「ただいま……って言うのも変か」
照れくさそうに祐太朗が笑う。その横で、長い黒髪の女性が立っていた。
やわらかな表情の、二十代後半くらいの女性だ。
「ひとみです。……あなたが、祐樹くん?」
ひとみは会釈しながら、祐樹の顔をのぞき込んだ。
穏やかな笑顔だったが、祐樹は目を合わせられず俯いてしまった。
「狭いけど、上がってください」
靴を脱いで上がると、部屋の中は三DK。
こぢんまりしているが、きちんと片づけられていて、生活の気配が心地よく漂っていた。
テーブルの上には、外食帰りなのか、コンビニの袋とレシートが置かれている。
壁にはフラダンスの写真が飾られていて、そこにはひとみと思われる笑顔の女性と、中央でしなやかに踊る祐太朗の姿があった。
「……本当に、先生なんだ」
祐樹が写真を見つめてつぶやいた。
祐太朗がその声に気づいて、照れたように頭を掻いた。
「まあな。ぼちぼち、ってやつだよ」
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■ テーブルを囲んで
「これ、よかったらどうぞ」
春彦が手提げ袋を差し出す。
中には上郷SAで買った「大あんまき」が入っていた。
「こんな気を使わなくていいのに……ありがとう」
ひとみがお茶を入れ、四人+祐樹を囲んで座った。
祐樹はというと、テーブルに肘をつき、うつむきながら大あんまきをかじっている。
その姿を、祐太朗はじっと見つめていた。
目に、涙をこらえるような光が宿っていた。
「祐樹……よく、来てくれたな」
祐樹の食べる手が止まった。
だが顔は上げない。
ただ、小さな肩がかすかに震えた。
「……会いたかったよ」
掠れた声だった。
祐樹の両目が見開かれ、そしてゆっくりと涙がこぼれた。
だが、泣き声は出ない。
ただ、静かに静かに涙を落とすだけだった。
ひとみは、その光景を遠くから見守るように席を外し、茶を追加で用意し始めた。
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■ 語られた過去
親子の時間を邪魔しないように、春彦と玉枝は入口近くで背筋を伸ばして座っていた。
やがて、祐太朗が深く息を吐き、二人の方を向いた。
「……迷惑かけて、本当にすみません」
「いえ、自分たち、ただの通りすがりですから」
春彦が頭を下げると、祐太朗は「いや」と首を振った。
「祐樹を、ここまで連れてきてくれた。どれだけ……どれだけありがたかったか……」
言葉の途中で声が震え、祐太朗は思わず目元を拭った。
その姿を見て、玉枝は胸が熱くなった。
しばらくして落ち着くと、祐太朗はゆっくり、過去を語り始めた。
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■ ハワイでの出会い
「僕とルミ子が出会ったのは、十年前。
彼女がフラの修行でハワイに来ていたときだった」
祐太朗の声は静かで、どこか懐かしさがこもっていた。
「僕の父は、ハワイでクム――フラの師匠と呼ばれる存在でね。
本当は、僕がいずれその跡を継ぐと、みんな思っていた」
「でも……違ったんですね」
玉枝が小さくつぶやくと、祐太朗は苦い笑顔をつくった。
「うん。僕は、父の期待に押しつぶされていた。
フラは好きだったけど……あの重さには耐えきれなかったんだ」
指先がわずかに震えていた。
その震えは、いまも心の奥に残る痛みのようだった。
「ルミ子と恋人になって、祐樹ができたとき……うれしかった。
けど、その直後、父から本格的に跡継ぎの話が出た」
部屋の空気が静かになった。
「僕は……逃げた」
その一言は重かった。
祐太朗は、それを十年抱えてきたのだ。
「ハワイから遠く離れた場所へ行きたかった。
誰も僕を知らない場所で、生き直したかった。
気がついたら……母が昔暮らしていた愛知に来ていた」
祐樹は、ぽたり、と涙を落とした。
うつむきながらも、その言葉を一語一句逃すまいと耳を澄ませていた。
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■ 日本での生活と、祐太朗の後悔
「働いていた工場の社長さんに拾われて、ここで生活を始めて……
時々思い出していたんだ。ルミ子と、祐樹のことを」
「手紙……何度もくれたんですよね」
玉枝が言うと、祐太朗はうなずく。
「返事がなくても、出さずにはいられなかった。
でも会う資格なんてない、って……自分に言い聞かせていた」
――そのとき。
小さな声が響いた。
「どうして……来てくれなかったの」
祐樹だった。
顔を上げた祐樹の目には、涙の跡が光っていた。
祐太朗は、その問いをまっすぐ受け止めていた。
「ごめん……こわかったんだ。
君に嫌われているかもしれないと思った」
祐樹は唇をかんだ。
「……きらわないよ」
その一言に、祐太朗の表情が大きく崩れた。
涙がこぼれ、あわてて袖で拭う。
「ありがとう……」
その声は震えていて、祐樹の胸にまっすぐ届いた。
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■ 眠りにつく祐樹
やがて祐樹は、疲れと安心が入り混じったように、玉枝の膝の上で眠ってしまった。
ちいさく寝息を立て、口元には大あんまきのかけらが少しついていた。
「やっと、寝たか」
春彦が微笑む。
「今日は……色んな気持ちがあったんだな」
祐太朗は、眠る息子の髪にそっと手を伸ばした。
触れるか触れないかの距離で止まる。
そして、そっと撫でた。
その一瞬の仕草に、十年間の後悔と、これから取り戻したい願いが込められていた。
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第5章 父子の舞台、響く鼓動
■ 翌朝――青空とまぶしい陽射しの下で
翌朝、長久手市。
空はどこまでも高く、雲ひとつない快晴だった。
九月の終わりだというのに、まだ夏の名残の熱気がじわりと道路にまとわりつく。
「暑っついなぁ……愛知県、なめてたわ」
ワーゲンバスの窓を全開にしながら、春彦があつい空気を扇いだ。
玉枝は助手席でタオルを首に巻き、ひたいを何度もぬぐっている。
祐樹はと言えば、後部座席でじっと外を見つめていた。
昨夜泣きつかれてしまったのだろう。少し眠そうで、けれどどこか落ち着いた表情だった。
「今日は……踊るの?」
玉枝が振り返って聞くと、祐樹は一瞬ためらってから、うなずいた。
「うん。お父さんが……いっしょに、って」
その声は小さいが確かなものだった。
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■ パオンモールの準備
巨大な駐車場を持つショッピングセンター「パオンモール」。
その片隅に設営された特設ステージには、すでにフラ教室の生徒たちが集まって準備を始めていた。
テントの影で、ひとみがタオルを肩にかけ、動き回っている。
「祐太朗さーん! レイ、こっちにあります!」
「ありがと、あとで使う」
慣れた口調で指示を出す祐太朗。
その姿を見ているだけで、彼がこの場所で新しい人生を築いてきたのが伝わる。
祐樹はそっとその背中を見つめていた。
近くでは、主婦の生徒たちが汗をかきながら衣装を整えている。
「暑い〜! こんな日に外で踊るなんて!」
「でも仕方ないわよ、年に一度のイベントなんだから」
「ねぇねぇ、男の子来るんでしょう? 祐太朗先生の息子さん!」
「見た〜い!」
そんな声がちらほんと聞こえ、祐樹はこそばゆくなって後ろに隠れた。
「まあまあ、スターは忙しいねぇ」
春彦がにやりと笑って肩を叩く。
「……やめてよ」
祐樹はむくれ顔になるが、心の奥では少しだけ誇らしかった。
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■ ひとみの踊り、始まる
午前十一時。
炎天下でイベントが始まった。
ステージには家族連れ、買い物客、そして偶然足を止めた人々が集まり始めている。
「次の演目は、フラ教室ラナカマナオの皆さんによるフラ・パフォーマンスです!」
アナウンスが響き、音楽が流れ出す。
甘くゆったりとしたハワイアンのメロディーが暑さをやわらげるように漂っていく。
最初は生徒全員によるフラ。
その後、ステージ横からひとみが現れ、ソロパートに入ると――
「すご……!」
玉枝が思わず声を上げた。
ひとみのしなやかな腕の動き、足運び、表情すべてが柔らかく、それでいて芯の通った美しさがあった。
黒髪が風に揺れ、ピンクのパウスカートが太陽に照らされて鮮やかに映える。
観客の中には思わず見惚れてしまった年配の男性もいて、隣の奥さんに肘で小突かれていた。
「惚れてんじゃないわよ」
「いや、いや、そんなつもりは……!」
会場に笑いが広がる。
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■ カネフラ――父子、同じ舞台へ
やがて、ひとみの演目が終わり、拍手が鳴り響いた。
続いてマイクを持った祐太朗がステージ中央に立つ。
「では、ラストはカネフラ。僕と教室の子どもたち、そして……特別な子がひとり」
観客がざわつく。
生徒の男の子たちがステージに並び、レイポオをつけ、マロ姿で構える。
その端に、小さな祐樹の姿があった。
胸を少し張り、震える手をぎゅっと握りしめている。
「祐樹……大丈夫かな」
玉枝が手を合わせる。
春彦は腕を組んでじっと見つめた。
太鼓のリズム、チャントが響く。
♪ Aia lā ‘o Pele i Hawai‘i e … ♪
祐太朗の低いチャントに、客席の空気が一気に引き締まった。
男の子たちの動きは力強く、鋭い。
足を踏み鳴らす音がステージに響く。
その中で祐樹は――
「……え?」
玉枝が息を呑んだ。
祐樹の動きは、他の子より一段抜けていた。
腕の角度、腰の落とし方、リズムの取り方……どれも自然で、美しかった。
「なんだあいつ……めちゃくちゃうまいじゃねぇか」
春彦が驚きの声を漏らす。
「才能だね……完全に血だよ、あれは」
玉枝の目尻に涙が浮かんだ。
やがて祐太朗がソロで登場し、重厚なチャントに合わせて舞い始める。
赤銅色の胸板が汗で輝き、動くたび筋肉が躍る。
観客からヒューヒューと歓声が上がる。
そして――
「祐樹、おいで」
祐太朗が手で合図した。
祐樹は吸い寄せられるように祐太朗の隣へ。
父と息子が並び、同じリズムで足を踏み鳴らす。
その姿は、まるで鏡のようだった。
観客から大きな歓声と拍手が巻き起こる。
ルミ子の知らないところで、祐樹はこんなにも輝ける才能を持っていた。
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■ 観客席の片隅に――母の影
ステージの最後。
二人が息を合わせてフィニッシュのポーズを決めた瞬間、すさまじい拍手が巻き起こった。
「すごかった……」
「ほんとうに、すごかった……」
春彦と玉枝が涙をぬぐう。
そのすぐ後ろに――
スーツ姿の女性が立っていた。
ルミ子だった。
息を切らし、汗をかき、でもその目は祐樹だけを見つめていた。
「来ちゃった……」
ルミ子はステージから降りてきた祐太朗の腕を掴んだ。
「なんで……会わせたのよ……!」
涙声で震えながら、祐太朗の胸にしがみつく。
レイが揺れ、花が散った。
「ルミ子……」
祐太朗は抵抗せず、ただ彼女の涙を受け止めていた。
近くでひとみが静かにその光景を見ている。
その表情には悲しさと、どこか悟ったような優しさがあった。
「ママ……!」
祐樹が駆け寄る。
ルミ子は振り向き、祐樹をぎゅっと抱きしめた。
「祐樹……! 無事で……よかった……!」
その泣き声に、祐太朗も、ひとみも、玉枝も、春彦も、胸がいっぱいになっていた。
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■ 「みんな幸せになってほしいよぉ……!」
父と母に挟まれ、祐樹は声を上げて泣いた。
涙は、恐怖も、不安も、喜びも、全部混ざったものだった。
その様子を見て、玉枝が春彦にしがみついた。
「うう……私、もう……ダメ……」
「泣きすぎだろ……」
と言いつつ、春彦も鼻をすすっていた。
「みんな、幸せになってほしいよぉ……!」
玉枝は泣きながら叫び、周囲の主婦たちまでつられて涙ぐんでいる。
夕陽が傾きかけ、駐車場の影が長く伸びていた。
ステージ前は、さっきまでの熱気が嘘のように静かになり、ただ残暑の風が通り過ぎていく。
父の元へ戻るべきか、母の元へ帰るべきか――
祐太朗は、ひとみの方を一度だけ見た。
ひとみは、小さく頷いて背中を押した。
だが――
そのあと、祐太朗は一歩、前に出ずに立ち止まった。
祐太朗が選んだ答え。
それは、祐樹とは別の、新しい命への責任だった。
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第6章 それぞれの決断、帰る場所
■ 夕暮れ――静かに沈む光の中で
長久手のパオンモールの駐車場。
イベントが終わりかけたステージには、片づけをする数名の影だけが残っていた。
西の空はオレンジ色に染まり、ゆっくりと夕日が沈んでいく。
暑さがやわらぎ、かわりに少し冷たい風が吹き始めていた。
祐樹は母・ルミ子の胸に顔を埋め、まだしゃくり上げていた。
「……ママ、ごめん……」
「いいの……無事なら、それだけでいいのよ」
ルミ子の声は震えていた。怒りの色はもう残っていない。
ただ、息子に触れている安心だけが、表情に浮かんでいた。
その近くで、春彦と玉枝は、ぼんやりと沈む夕陽を見ていた。
「すげぇ日だったな……」
「ほんとね……。なんか、人生って一日でこんなに動くんだ……」
二人の会話に、祐樹の涙声が混じってくる。
「あぁ……もうだめ、また泣けてきた……」
玉枝は春彦の肩にすがりつく。
「泣くなってば……俺まで泣けてくるだろ……」
そう言いながらも、春彦の目も赤かった。
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■ 祐太朗の「決断」
その少し離れた場所。
祐太朗と、ひとみが並んで立っていた。
ひとみは祐太朗に向き合い、優しく微笑んだ。
「……行かなくて、いいの?」
祐太朗は、遠くで祐樹を抱くルミ子の姿を見つめた。
「もし行ったら……、もしかしたら今からでも三人でやり直せるのかもしれない」
「……うん」
「だけど――」
祐太朗は、ひとみの手を握った。
「僕は……もう逃げたくないんだ」
その言葉に、ひとみの表情が揺れた。
「逃げたくない、って……?」
「ハワイから逃げた。跡継ぎから逃げた。ルミ子からも、祐樹からも、全部から逃げた。
でも、もう逃げたくない」
祐太朗はひとみの手に視線を落とした。
「守りたいんだ……今度こそ。
ひとみを。そして……生まれてくる子どもを」
ひとみの目に涙が浮かんだ。
「……ばれてた?」
「気づくよ。君、最近、体に気をつけてたし……。
お店で飲み物選ぶとき、カフェイン避けてたろ?」
「うん……」
ひとみは泣き笑いのような顔になり、うつむいた。
「ごめんね……言い出すタイミングがなくて……」
「言わなくてよかったよ。
祐樹のことがあるから……気を使ったんだろ?」
ひとみは黙ってうなずいた。
祐太朗は静かに腕を広げ、ひとみを抱きしめた。
「ありがとう……僕を選んでくれて……」
「……ううん。こちらこそ……」
夕陽が二人の影を長く伸ばした。
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■ それは“別れ”ではなく、“選択”
ルミ子は、祐太朗とひとみが抱き合う姿を見ていた。
だが、責めるような視線ではなかった。
ルミ子は、自分の胸に顔を押しつける祐樹の頭をそっと撫でながら、静かに目を閉じた。
「ママ……?」
「祐樹……」
ルミ子は祐樹を抱きしめたまま、小さく言った。
「お父さんは……自分の生きる場所を選んだの。
それは悪いことじゃないのよ」
「……うん」
「でもね、祐樹。
あなたの“お父さん”は、あの人だけじゃないのよ」
「……?」
祐樹が顔を上げると、ルミ子は泣きながら笑った。
「あなたが踊って見せてくれたとき……
隣に立っていたお父さんの顔は、本当に誇らしそうだったわ」
祐樹の胸がじんと熱くなった。
「……そっか」
「ええ。だから、今日会えてよかったの。
あの人の血が、祐樹の中にも流れているって、ちゃんと分かったから」
祐樹は、胸の奥で、何枚もの不安の膜がゆっくり溶けていく気がした。
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■ ひとみからの最後の言葉
ステージ裏。
片づけに来たひとみが、そっとルミ子と祐樹に近づいた。
「ルミ子さん……」
ルミ子は、ひとみの表情を見て、すべてを悟った。
「いいのよ、ひとみさん。
あなたは……いい人ね」
ひとみの目が一気に潤んだ。
「わたし……祐太朗さんを……幸せにします。
だから……」
「祐樹のこと、ありがとう」
「……はい」
ひとみは祐樹をやさしく見つめ、微笑んだ。
「あなたの踊り……本当にすばらしかったよ」
「……ありがとう」
祐樹は少し照れながら礼を言った。
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■ 帰路へ――そして「寄り道」
「そろそろ行くか」
春彦が車に乗り込み、エンジンをかけた。
ワーゲンバスの古いエンジンが「ドッドッドッ」と響く。
「祐樹、帰ろう。今日は疲れたわね」
「うん……」
ルミ子と祐樹、玉枝が後部座席に乗り込み、春彦がアクセルを踏む。
しかし――
「あれ?」
「どうしたの?」
「……間違えた。名古屋方面乗っちゃった」
「ちょっと! なんでよ!」
玉枝が頭を抱える。
「いやいや、せっかくだし……ちょっと寄り道しようぜ」
「どこよ……?」
「岐阜の下呂温泉!」
「げ、ゲロ温泉?」
「違う違う! “下呂”だよ! 温泉地!」
玉枝は思わず吹き出した。
「もう……あんたって、本当……」
ルミ子が苦笑し、祐樹は疲れた顔のまま、くすっと笑った。
夕暮れの光の中、ワーゲンバスは東名を名古屋方面へ走っていく。
窓から入る風は少し冷たく、玉枝の吸った煙草の煙がふわりとたなびいた。
そして、風に流されるように、すぐに消えた。
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第7章 帰り道の風、未来へのステップ
■ 下呂温泉をかすめる夜道
ワーゲンバスは、名古屋へ向かってしまった誤ルートをそのまま利用し、下呂温泉方面へと北へ向かっていた。
夜空にはまだ夏の名残りがあり、薄い雲が月の光をぼんやりとかすませている。
街灯が途切れると、車のライトだけが山間の道を照らし、虫の声だけがあたりに響いた。
「なんか、冒険みたいだな……」
春彦がハンドルを握りながらつぶやく。
「ほんと……。夜の山道って、ちょっとワクワクするね」
玉枝が窓から入る冷たい風に目を細めた。
後部座席では、祐樹が眠そうに瞬きを繰り返していた。
その横でルミ子が、祐樹の肩にそっと手を添えた。
「疲れた?」
「うん……でも、楽しかった」
祐樹の声は小さいが、素直でまっすぐだった。
その一言だけで、ルミ子の胸の奥の張りつめた何かが、ふっとほどけた。
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■ 湯けむりの町をスルーして
深夜近く、車は下呂温泉の町の入口に入った。
旅館が連なる明かりが山肌に反射し、夜でもしっとりした温泉のにおいが漂ってくる。
「おお〜、温泉の匂いする!」
玉枝が窓から身を乗り出す。
「入る? せっかくだし」
春彦がニヤッと笑って言う。
「いま入ったら、絶対に出てこなくなるって……。翌朝チェックアウトとか絶対ムリ」
「そりゃそうか……」
しかしルミ子は、しばらく車窓に流れる温泉街を見つめていた。
旅館の看板、昔ながらの商店、ゆらめく湯けむり。
「いつか……祐樹と来たいわね」
「来ようよ、絶対」
祐樹が笑って言う。
その「いつか」が、きっと近い未来であってほしい――
ルミ子はそう願いながら夜景を見つめ続けた。
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■ 東京へ向かって走るワーゲンバス
車は再び東名へ戻り、深夜の高速を静かに進んでいく。
道路はすいていて、街灯がすっと後ろへ流れていく。
夜風は冷たく、玉枝の吸った煙草が一瞬だけ白く漂って、すぐにかき消えた。
「なんかさ……今日一日で、みんな変わったよね」
玉枝がつぶやく。
「そうだな……人って、泣いたり笑ったりした分だけ変われるのかもな」
春彦がめずらしく真面目な声で言った。
後部座席では、祐樹がルミ子の肩に寄りかかって寝息を立てていた。
泣いて、笑って、踊って、再会して……心も体もすっかりくたびれてしまったのだろう。
ルミ子は祐樹の髪を撫でながら、静かに夜の景色を見つめていた。
「……ありがとうね、お二人とも」
「え?」
玉枝が振り向く。
「祐樹を……あの子を……ちゃんと父親のところまで連れてきてくれて」
「そりゃあ、まあ……。なんか流れでね」
「流れだったよな……完全に」
二人が苦笑すると、ルミ子も小さく笑った。
そして、その笑顔の奥にほんの少しの寂しさが揺れた。
――たとえ、夫婦として戻れなくても。
――祐樹は、父に会えた。
――それだけで十分すぎるほどの奇跡。
その想いが、胸の中に灯のように温かく広がっていた。
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■ 夜明け前の東京
ワーゲンバスが蒲田に戻ってきたころ、空は薄い青色に染まり始めていた。
遠くで新聞配達のバイクが走り、街はゆっくりと“朝”へ切り替わっていく。
「ただいま……東京って感じ」
玉枝が大きく伸びをする。
「寝てねぇ……」
春彦がフラフラになりながらハンドルから手を離す。
ルミ子のマンション前で車が停まり、祐樹が目をこすって起きた。
「……もう朝?」
「そうよ。おつかれさま」
マンションの外階段の前で、ルミ子は深呼吸をした。
祐樹と手をつなぎ、春彦と玉枝に向き直る。
「本当にありがとう。……本気で、あなたたちに助けられました」
「いえいえ……」
「また……何かあったら、言ってください。お母さん」
玉枝が微笑む。
「ふふ……そうね」
ルミ子は照れながらも嬉しそうだった。
そのとき、祐樹がワーゲンバスの窓に顔を近づけて言った。
「……お兄ちゃん、玉枝さん」
「ん?」
「ありがとう。ぼく、ぜったい……フラ上手くなる。
そしてまた……踊りにいく」
その目は昨夜よりずっと強く、まっすぐになっていた。
「うん! 絶対見に行くからね!」
玉枝が笑って手を振る。
「またな、小僧。踊りの達人になっとけよ!」
春彦がニッと笑う。
祐樹は嬉しそうに手を振り、ルミ子と一緒に階段を上っていった。
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■ それぞれの“明日”へ
ルミ子と祐樹の姿が見えなくなると、春彦は深く息を吐いた。
「はぁ〜……長い長い一日だったな」
「うん……でも、なんか、いい日だったよね」
玉枝は車の外で大きく伸びをし、はにかんだように笑った。
「ねえ……春彦」
「ん?」
「……焼津、また寄らない?」
「はぁ!? また兄貴に殴られに行くのかよ!」
「だって……お母さん、生きてた。
元気だった……」
玉枝の声は、少し震えていた。
「七年間……私、バカみたいに逃げてた。
でも……会いたくなったの」
春彦はしばらく黙っていたが、やがて、ふっと笑った。
「わかったよ。また行こう。
今度はさ、ちゃんと挨拶するか?」
「うん……!」
玉枝は嬉しそうにうなずいた。
そのとき、春彦がふと空を見上げた。
夜明けの空は淡いオレンジ色に染まり、雲が金色に光っている。
「……なんかさ。
俺たちも、ちょっとだけ明日が変わる気がするな」
「うん」
玉枝も同じ空を見上げた。
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■ 未来へ続く音
その頃。
マンションの部屋に戻った祐樹は、ベッドの上で座り、窓の外の朝焼けを見つめていた。
「ママ……」
「なあに?」
「ぼく、フラ……好きだよ」
ルミ子は驚き、そしてゆっくり微笑んだ。
「知ってたわよ。ずっと」
「うん……でも、なんか今日……もうひとつ好きになった」
祐樹は立ち上がり、部屋の真ん中に立つ。
太陽の光が差し込み、床に小さな影が伸びる。
祐樹はそっと、昨日のステップを踏み始めた。
父と踊った、あのリズム。
胸の奥が熱くなる、あの感覚。
足を踏み、腕を広げ、体が自然に動き出す。
ルミ子は口元を押さえ、涙をこらえながら見つめていた。
「祐樹……」
「ぼく、フラで……もっと上手になりたい。
パパがくれたもの、ちゃんと大事にしたい」
太陽の光が祐樹の横顔を照らす。
その表情は、昨日とはまるで違っていた。
もう“迷う子ども”ではなく、
“自分の未来を踏み出そうとしている少年”の顔だった。
ルミ子は静かに祐樹を抱きしめた。
「ええ。いっしょに、がんばりましょうね」
「うん」
遠くで、朝の電車の走る音が聞こえる。
新しい一日の始まりを告げる音だ。
祐樹は、もう一度ステップを踏んだ。
トン……トン……
その音は、確かに未来へと続いているようだった。
〈了〉
本作は、ひとりの少年の家出から始まる小さな旅が、周囲の大人たちの「かたくなな心」をほんの少しずつ解きほぐしていく物語です。
家族の形に正解はなく、すれ違いも、後悔も、抱えきれない思いもあります。
それでも人は、誰かと向き合うことで前に進める――その希望を描きたくて、この物語を書きました。
祐樹が踏みしめたフラのステップのように、読んでくださった方にも、小さな“未来への一歩”が届けば幸いです。




