プロローグ:太陽の大地の最後の神
「神は死んだ。神はなおも死んでいる。そして我々が殺したのだ」
——フリードリヒ・ニーチェ
千年前——
空は黙した。
風は止んだ。
妖さえも祠に閉じこもり、嵐の前の獣のように震えた。
人間は神々を信じることをやめた。
そして神々は——強制的に信じさせようと決めた。
永遠の名のもと、暗き盟約を結び。
もはや信仰は求めず、要求した。
人間を愛する神々は反対した。それは慈悲の行いだった——
そして、彼らの滅びの印となった。
神戦は宣言されなかった。
押しつけられたのだ。
支配を渇望する神々は、平和を守る者たちへ蝗の如く降り立った。
古の契約を破り、
己がエゴと偽りの光で大地を穢した。
古の確執で分裂していた日本神話の神々は、内側から滅ぼされた。
逃げる者、屈服する者。そして多くは——堕ちた。
最後まで立っていたのは、須佐之男命だった。
雪の森で、血を流しながら。凍える木々の間を這い続ける。
一歩ごとが、肉に釘を打つような痛み。
体から漂う硫黄の臭いは、近づく獣さえも窒息させた。
それでも、彼は進んだ。
「あと一歩……わがため、天照のため……全てのために……」
足はもう動かない。古びた木の幹にすがり、ようやく立つ。
足元の雪は赤く、痛みで刻まれた足跡だけが残る。
そして、聞こえた。
雷鳴。
彼は悟った——目的地には着けない、と。
「どこへ行くつもりだったんだ、侍?」
背後からの声。傲慢で、揺るぎない。
勝者にしか出せない、高揚した調子。
須佐之男は嗤った。
「ゼウス……最後を汝に貰えるとは光栄だ」
「来ないわけにはいかない。百年以上も厄介者だったんだからな」
日本神話の神は答えない。
ただ、怒りを込めて睨み返すだけ。
ゼウスが降り立つ。その存在感は耐えがたい重圧。
声には、勝利者だけが持つ悪意が煌めいていた。
「せめて一言もないのか、処刑人に?」
「人間を屈服させなかった者を皆殺しにした。それで……わしの声に価値があると?」
「訂正しよう」 ゼウスは歪んだ笑みを浮かべた。
「人間は神の所有物だということを忘れた者を殺したのだ。
我々が創りしものを……捨てられると思うな」
ゼウスが一歩踏み出す。雪が火花を散らす。
手には雷が渦巻く。
「しかし、見ろ……盟友にズタズタにされた後、傷ついた犬のようによたよた歩く。情けない」
「死ぬのは構わん」 須佐之男は唸った。
「ただ一つ……おまえが堕ちるということだ。
そして……おまえが蔑む人間たちによってな」
「またその話か……?」 ゼウスは呆れたように吐き出した。
「死の淵ですら、あの惨めな意志を信じるとは哀れだ」
「殺せ、ゼウス!
だが、神が一つ堕ちる度……千の人間がおまえを呪うだろう」
「人間の呪いなど、我に関係あるか?」
「いずれ……わかるさ。
我を祀る者……一人の人間が……
太陽の大地の神々の……仇を討つだろう」
そして、雷が落ちた。
須佐之男は立ったまま死んだ。
糸を断たれた人形のように。
栄光も、儀式もなく。 ただ、雪に倒れる乾いた音だけが残る。
ゼウスは一瞬それを見下ろし、唾を吐くように呟いた。
「惨めな」
閃光と共に消え、日本最後の神の亡骸を残して。
その夜、遠い村々で子供たちは雷の夢を見た。
そして——
神々の暗黒時代が始まった。