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拝啓、八月  作者: 結城 冴
本編 『拝啓、八月』
9/12

八、七月✕✕日




 しばらく経ってようやく落ち着いた私に、透真はぽつぽつと説明した。

 あくまで俺の推測だけど、という枕詞と一緒に語られたのは、まるで映画か小説の設定みたいな話だった。

 透真が「三途の川の一歩手前」と呼ぶここ。普段から待ち合わせをしていたあの駅のように見えるけれど、ここが現実のそれではないということを、線路から溢れんばかりに咲く真っ白な梔子の花が物語っていた。

 蝉の声がまったくしない。

 自販機にはサイダーしかなくて、全部売り切れてしまっている。

 透真が来た時には既にそうなっていたらしい。

 駅のように見えるのは、一番思い入れがあった場所だからかも、映画じゃ定番だからと少し笑っていた。

 透真がここに来て、少しした後に私が『空から落ちて』きたらしい。落ちてしばらく寝ていたけれど、だんだん魘されてきたから心配したと。今までの記憶を見ていたと言うと、俺もここ来るときに見たと返された。初めて写真を撮った日や母親が出ていった日とか。走馬灯みたいなものだと思う、と付け加える。

 彼が話している間ずっと、私は透真のシャツの裾を掴んで離さなかった。

 正直言って、どうでもよかったのだ。

 この場所が一体どこなのかも、線路に梔子が咲く理由も蝉が鳴かない筋合いもサイダーが売り切れている訳も、走馬灯を見た原因も、どうして彼に会えたのかも。理由も理屈も推測も真実も、なにもかもどうでもいい。


(透真だ)


 私の前に透真がいる、話ができる、触ることができる。

 目に見えるその事実だけでもう、十分だった。

 うねるような温かさが体中に満ちて、私は俯いて目を閉じる。安堵の温度だ。母の死体に触れて以来、父親の葬式に出て以来、私にとって冷たさは死で、安心は温もりだった。だから私は寒い冬が苦手で、夏の暑さが好きだった。生きていると思えたから。

 なのに今、死ぬことができて安心している。


「……葉月さん」


 そう呼ばれるだけで堪らなくなって、声を詰まらせながら「なに?」と返した。

 冷たくなった手で、透真が真正面から私の肩を掴む。


「聞いて。今から、大事な話をする」


 緩慢に顔を上げる。今こうしていられる以上に大事なことなんてあるのだろうか。透真は真っ直ぐ私を見つめていた。その顔は相変わらず青白くて、血はまったく通っていないように見えたけれど、よく磨かれた陶器みたいに綺麗で――――。


「葉月さんは、多分まだ生きている」


 背中から、冷水をかけられた気がした。


「え?」

「まだ生きてる。けど、このままだと確実に葉月さんまで死んじゃう。ずっとここにいるとまずい。帰る方法は……わからないけど、絶対にある。時間がないから早く考えないと」


 何を言っているのかわからなかった。

 まだ生きている? ここにいるとまずい? なんで? 帰るって、どこへ? 思った時、灰色に染まった学校の踊り場と、真っ暗な私の部屋が見えた。

 ……あそこに、帰る?


「無理だよ」


 聞いた透真は息を止め、けどすぐに微笑みかけた。


「大丈夫。俺がなんとかする。一緒に考えよう、葉月さん」


 違う。叫んでしまいたいのにエネルギーは何一つ体に残っていなくて、薄い息だけが口から出ていった。足場が侵食されていくような恐怖がぞわりと全身に這い上がる。シャツを掴む手が強くなった。


「……透真も帰れる?」


 声が震える。その時初めて、彼が目を逸らした。


「……俺は、できない」

「なんで?」


 本当にわからなかった。そんな理不尽があっていいはずがない。

 理不尽。言葉になってようやく、沸々と感情が湧き出て来た。怒りにも似た熱のおかげで、私はやっと思ったことを言えた。幼児みたいに、思ったことだけを。


「なんで? なんで私だけ帰れて、透真は帰れないの? 今こうやって会えているんだから、私がまだ生きてるんだったら、透真もまだ生きてるってことじゃない」

「俺の場合は飛行機事故だから。墜落した時に床が抜けて、シートごと海に落ちた。仮に今まだ戻れるとしても、体は海の底だ。もう助からない」


 淡々と返される。他人事のように自分の死を推測する透真の言葉が、静かに冷たく、私を削っていく。ぼろぼろ、安心が壊れていく。


「じゃあ……じゃあ私も死んでるよ、透真と同じ場所にいるもん。透真が駄目で、私だけまだ大丈夫って、そんなわけない。あるわけない」

「体温」


 短く言ったのち、透真がシャツを掴む私の手をそっと包んだ。バケツに入った氷水に腕を突っ込んだみたいで、反射的に鳥肌が立つ。

 けれど、はっとした。冷たいと感じるということは、私の手は。


「わかる? 葉月さん、まだ体温がある。ここに来てから何時間経っているのかわからないけど、今みたいな……肉体が無い状態、魂なのかな。それがまだ温かい。あと、脈も」


 透真は私の左手をゆっくりと掴み、中指と人差し指を取って私の右手首に当てさせる。

 自分の手から伝わる、とんとんという微かな脈拍。冗談じゃなく目の前が暗くなった。

 座り込んだ足元から落下していくみたいで、なのに抗うための浮力も理屈も私は用意できなかった。


「ほらね。だから、まだ――――」


「いやだ」


 弾かれたように言い放っていた。

 今私が死んでいる証明も、透真が生き返れる方法も考えられない。言うべき建前は思いつく前にがらがら崩れ去り、代わりに胸の内側が口から流れ出す。


「わけわかんない。絶対にいや」


 困惑したように、綺麗な形の瞳が見開かれていく。


「な、なんで……」

「だって」


 流れをせき止めようとする。多分それは今までもやってきた癖だった。本当のことを言うと嫌われるから。言ってほしいことを言ってあげる役目を果たしてきた私にとって、明るくない本音は人間関係の安定を崩すもの。私を駄目にしてしまうものだった。


「だって……」


 そして、私はその役目が下手になってきた。

 ひぐっと喉から声が漏れる。

 私が、決壊していく。


「わたしもう、透真しかいなかったんだよ?」


 目から、涙が溢れだした。


「お父さんもお母さんも死んじゃって、小学校の友達は学校離れたのに一通も手紙くれなくて、詩織は葛西さんにばかり懐くようになって、早苗はみんなから好かれるようになって、わたしだけ、わたしだけ、どこにも居場所がないみたいだった。クラスの、どこにも」


 クラスメイトは用事がある時以外、わたしに話しかけたりしない。わかりやすく嫌がらせをするのではなく、静かに壁を作ってやんわりと拒絶する。直接殺さないのは、それくらいどうでもいい存在だからだ。

 利用されているとどの口が言っていたのだろう、わたしは利用価値すら無くなったのだ。

 どうせならそんなこともわからないくらいの馬鹿か、孤高であれるくらいの大人になれたらよかったのに。どちらにもなれなくて、毎日勝手に傷ついて、それがぎりぎり致命傷にならない程度の痛みであるせいで、身悶えすることしかできなかった。


「家では由紀子さんから志望校も決められて、何から何まで全部管理されて、勝手に、部屋に入られて、コピックまで捨てられた。わたしの絵、落書きって言って」


 言いながら気が遠くなりそうだった。なんて幼稚で、なんて陳腐な言葉だろう。実際に受けた苦痛とまったく釣り合っていなかった。

 けれど多分、地獄は日常と同じ景色をしてる。


「透真だけだったんだよ、わたしに会いたいって言ってくれたの。絵が上手いって言ってくれたの、話したいって言ってくれたの。わたし、透真と一緒にいるのが一番幸せだった。なんにも取り繕わないわたしに、優しくしてくれたのは透真だけだった」


 しゃくりあげ、涙と嗚咽でぐしゃぐしゃになるわたしに、梔子の花が強く香った。

 線路いっぱいに真っ白な初夏が咲いている。死の間際が見せる駅は、記憶よりもずっと淡い輪郭をしていた。屋根の向こうには、触れたくなるほど澄んだ青空。木立もベンチもコンクリートも、空も色も匂いも、柔らかい日差しみたいに儚くて、優しくて、温かい。



 ――――七月だ。



 雨が上がったばかり。梅雨の透明な残り香と、胸を高鳴らせる真夏の予感で満ちた、この世で一番美しい季節。甘いのにどこまでも優雅で、水で研いだみたいに清らか。わたしがずっと生きていたいと望んでいた、愛おしい七月。透真の季節。


 あなたがわたしの世界だった。世界の全てだった。漫画みたいな青春も見惚れるような美貌も、類まれな絵の才能でさえも、今ならいらないって大声で言える。


 一生の幸福よりも彼と過ごす一時間がよかった。


 わたしのことを必要としてくれる誰かが、遠い場所から電話さえしてくれれば、毎日会えなくてもたまに話さえできたら、本当にそれだけで生きていけたのに。


 わたしの地獄に垂らされた、たった一本の糸があなただったのに。


 ぐうっと醜い呻きが喉から漏れる。服の上から心臓を掴むように、胸を押さえた。あの時ずたずたに千切れた心が今さら、信じられない熱で痛みだす。いつも感覚を遠のかせてくれた冷たい頭の霞は、もう出てこなかった。家族も友達も部屋も糸も霞も、なんにもない。

 丸ごと、根こそぎ、奪われてしまった。

 誰かのことをここまで憎悪するのは初めてで、でもその誰かが全然わからなかった。

責めるだけでは足りない。殴るだけでも足りない。怒りより重く激しい怨恨を、じゃあわたしは誰に向ければいいんだろう。一体誰が悪いんだろう。

 明白な答えが、一つだけあった。


「わたしが悪いの……」


 呪うべき相手は、わたしだ。

 ずっと黙っていた透真が、その時わずかに身じろいだ。


「わたし、みんなのことを馬鹿にしてた。言ってほしいことを言ってあげれば簡単に人を好きになると思ってた。周りを下に見て、わたしは周りよりも全体をよく見ているんだって。そう思って自分を保ってた。そうでしか保てなかった。本当の気持ちや大事なものは、否定されて笑われるのが怖くて見せられなかったくせに」


 ほんの少しどころじゃない、わたしは周りの人たちを物凄く下に見ていたのだ。他人の気持ちを知ったかぶって、こう振る舞えばいいんでしょうとやってあげた気になって、それだけで人間関係を上手く築けていると思い込んでいた。詩織に、早苗に、置いてかれた、抜かされたと感じてしまうのは、それだけ下の存在だと思っていたからだ。

 最低すぎる。わたしはいったい何様なんだ。こんな浅ましくて傲慢な人間、誰も一緒にいたいと思わない。そんなことも気付かないまま、わたしだけが変わらなかった。わたしだけが何一つ成長できていない。

 あまりに愚かで、いっそ笑ってしまいたいのに、涙しか出てこなかった。


「誰もわたしが大事じゃないし、誰もわたしを必要としていない。誰もわたしのことが好きじゃない」


 嗚咽に涙に鼻水に息。顔から出せるものをみっともなく零していくうちに、これまで気づけなかった心がべりべりと剥き出しになっていった。


「由紀子さんだって、わたしなんか、いなくなればいいって思ってる」


 そもそも、わたしさえいなければ、彼女は理想の母親になる必要はなかったのだ。

 父と結婚し、結果死に別れたとしても、他の人ときっと幸せになれた。

 成績も悪く、愛想笑いをするくせに言うことを聞かず、従わず懐かず、さらには人殺しだと罵った。そんな血も繋がっていない中学生をどうして愛せるだろう。

 出ていけとあの時叫びたかったのは、由紀子さんの方だったはずだ。


「わたしのせいで、みんな死んだ」


 お母さん、なんで病気になっちゃったのかな。


 わたしがわがままばかり言ってたから、神様が怒って連れてっちゃったのかな。


 わたしが一番お母さんのこと見ていたのに、なんでもっと早く気付けなかったんだろう。


 あと少し早く具合が悪そうって言ってあげれば、休んでって言ってあげれば、病院行こうって言ってあげれば、


 わたしがもっといい子だったなら、癌なんて治ったかもしれないのに。


 お父さん、なんで再婚したのかな。


 わたしがいるだけじゃ駄目だったのかな。

 

 それともわたしがいたせいで、由紀子さんと幸せになれなかった? 


 図書館に本を返すの頼まなかったら、面倒でも自分で行っていれば、


 大丈夫自分で返すよってあの時言っていれば、お父さん事故に遭わなかったのに。


 身体ごと燃えるなんて目に遭わなくて済んだのに。


 七月みたいな写真だねって言わなければ、あの飛行機に透真は乗らなかったのに。


 わたしに出会わなければ、透真は今も――――。



「絵だって、わたしよりも上手い人いくらでもいる。わたしより、絵を描くべき人たくさんいる。わたしは、絵なんて描いていい人間じゃない」


 周りが見えなくなってきた。

 涙でぼやけていた視界が、どぷりと暗く濁っていく。


「わたしは、絵が好きなんじゃなくて」


 泥沼みたいな視界の向こうで、葛西さんの姿が見えた。すらりと伸びた背筋、そばかすのある色白の肌。猫みたいな切れ長の瞳。灯籠の絵、クジラの絵。周りに媚びず驕らず、かといって無駄に謙遜もしない。彼女は芸術に真摯に向き合える人間だ。

 宇宙を自由に泳ぐクジラ。彼女はなんて美しいんだろう。

 わたしは、葛西さんの足元にも及ばない、絵描きとすら言えない人間だ。

 だって、わたしは。




「ずっと、ずっと……天国に行きたかったから、空の絵を描いていたの」





『お空の色?』


 あの時、警官の女性は水色を見て言った。


 空。お空。天国。


 そうだ、二人は天国に行ったんだ。


 天国って、どんなところだろう。


 図鑑を読み漁っても情報は見つからず、半端な雲の知識だけ覚えてしまった。


 いつしか図鑑は読まなくなり、代わりに空を描くようになった。


 描いて、描いて、描いていくうちに、あの空の向こうに、今まで失ったすべてがある気がしたのだ。


 病気になる前のお母さんと再婚する前のお父さんが、遠く美しい空の世界で、昔住んでいたアパートのあの部屋で、私を待っている気がした。


 行きたい。

 あの家に、行きたい。

 帰りたい。



「ごめんなさい」


 私は頭ごと地に伏せ、弱々しく土下座をした。


「絵を道具にしてごめんなさい、みんなを馬鹿にしてごめんなさい、お母さんとお父さんを見殺しにしてごめんなさい、由紀子さん不幸にしてごめんなさい、透真を死なせてごめんなさい、睡眠薬盗んでごめんなさい、お酒飲んでごめんなさい、悪い子でごめんなさい、生きててごめんなさい、ごめんなさい」


 割れるように痛む頭の中で、怨恨と自己嫌悪と憎悪がぐるぐる回る。許さない。許せない。誰のせい、わたしのせい。お前のせいで、みんな死んだ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。許してください。許さない。


「もう、楽にしてください……」


 ぐしゃぐしゃになったひどい声を最後に、わたしはもうなにも言えなくなった。









 どれくらい時間が経ったのだろう。

 頭を伏せて震えていたわたしの耳元で、低い、低い、声がした。



「なーんだ」



 え、と息が漏れた。けれど困惑する間もなく、肩を掴まれて顔を上げさせられる。

 ぞっと鳥肌が立った。透真の顔から、表情の一切が抜け落ちている。


「てっきり、葉月さんも事故かなんかだと思ってたのに。なるほど、睡眠薬か。そうだったんだ」


 その時、急に力を入れられて体を倒された。

 背中と肩に痛みが走る。咄嗟に身を丸めようとしたけれど、動かなかった。気が付けば、脚は向こうの膝で挟まれるように押さえられている。透真は四つん這いのような体勢で、わたしに覆いかぶさっていた。

 向こうの前髪が私の顔にかかるほどの近さで、彼が静かに囁く。



「――――じゃあ、いいよね?」

 なにを、と聞いた。声は、でなかった。



「白雪姫の殺し方は三つ」


 言いながら透真は上半身だけ起こし、穿いていたズボンのベルトを外し始めた。なのにしっかりと足は固定されてしまっている。なんて力。逃げられないとわかった時、本能的な恐怖が一気に膨らんだ。


「その一、毒を呑ませる」


 淡々と起伏の無い声音だった。感情がまったく読み取れない。上半身を起こそうとすると、首の下あたりを押さえつけられた。たったそれだけで動けなくなってしまう。ベルトを持っていない彼の左手だけで。


「その二、毒を塗った櫛で刺す」


 押さえられ、自然と首が横を向いた時、遠くに転がったかんざしが見えた。青い蜻蛉玉がわずかに光る。いつの間に取れたんだろう、なんであそこにあるんだろう。


 あの時、首に当てられたと感じた太い針は――――。


「その三」


 透真が、ベルトを二つに折りたたむ。彼はその両端を持ち、真ん中あたりをわたしの首に当てた。


「帯できつく締め上げる」


 聞いた途端、息ができなくなった。ベルトで力強く押さえつけられ、気管が一気に狭くなる。反射的に両手をベルトにかけて引っ張った。まったく力は弱まらない。全体重を乗せているのか、ぎりぎりと物凄い勢いで、透真は私の首を絞めていく。はくはくと魚みたいに開いた口から、涎と呻き声が流れていった。


「三途の川の向こうはどうなっているのかな、俺もまだ行けてないんだ。……社交辞令にしないって言ったもんね。約束は、守らないと」


 視界が明滅していく。声も遠ざかっていく。頭が破裂しそうに熱くて痛い。


「葉月さん」


 硝子玉みたいな透真の瞳で、目の前がいっぱいになる。



「俺と一緒に、海に逝こう」










 水の、音がした。











七月三十日 


 花の香りがして、瞼がわずかに開いた。

 開いたといっても、視界はまだぼんやりと霞んでいて、意識も程よくゆらゆらしていて、手も温かい。弱くまばたきをしても、眠気はなかなか消えなかった。ずっと遠くから蝉の鳴き声がして、それさえも子守唄に聞こえてくる。

 柔らかい風が気持ちいい。

 もう七月も終わるのに、今日は午前中に冷たい雨が降ったせいか、課外が終わる頃にはとても過ごしやすい気温になっていた。雲がまだ残る青空の下で、淡く煌めいていた雨上がりの木立を思い出す。晴れた夏の日なのに爽やかで透明。ホームに降りたあと、誰もいなかったのをいいことに、久しぶりにあのベンチでうたた寝をしたんだった。

 ああ、駅で寝るなんていつ以来だろう。そもそも、こんなに気持ちよく眠れたのはいつぶりだろう。

 もう少し、寝ていようかな。

 ふわふわと夢心地に考えていると、不意に瞼のあたりが明るくなった。雲間から太陽が顔を見せたのだろうか。真夏とは思えない、優しい光が差し込まれる。閉じかけた目が自然と開いた時、私の隣に座る、グレーの長ズボンが見えた。


 一瞬で目が覚めた。


(え?)


 思わず短く息を吸い込むと、さっきの花の香りが一気に押し寄せた。すっきりと優雅な、夏の始まりを予感させる花。




 これ、梔子だ。


 気が付いた途端、どっくんと心臓が大きく鳴った。傾いていた私の頭がぴくりとする。もたれかかっていた。私は、彼の肩に、頭をのせていた。

 なんで、透真が、ここに。

 隣の彼は私が起きたことに気付いていないようだった。視界の端で、小説らしき紙が捲られる。カッターシャツの袖から伸びる白い腕。膝に載せたままの私の手。向こうのグレーのズボンと私のチェックのスカートが触れ合っている。私は目を閉じた。もう一度眠りたい。そうだ、これこそが夢なのかも。だって私たち、ずっと口を利かなかったのに。ずっとこのベンチを避けていたのに。それがなんで、急に、こんな、透真が、どうして。


 駄目だ。完全に、目が冴えた。


 透真にバレないように、体の緊張を逃そうとする。早くなる鼓動を落ち着かせるため、寝息に聞こえるような速度で深呼吸をした。眠れないなら、せめてまだ寝ているフリ。落ち着け、落ち着け。

なんとかして全身の力を抜こうとしたら、変な風にバランスが崩れ、太ももから私の手が滑り落ちた。グレーとチェックの隙間に、私の右手がすとんと嵌る。

 叫ばないようにするだけで、私は精一杯だった。

 文庫本を捲っていた彼の腕が、止まる。

 耳まで体温が集まって、無意識に息を詰めた。

 ぱたんと本が閉じられる。ぎゅっと、目を瞑った。

 骨ばった手が、壊れ物に触れるような力で私の手をそっと掴む。

 そのまま、慎重に私の太ももの上に戻した。

 起きたことはバレなかった。ほっとしてすぐ、私の頭の呑気な部分が、律儀だなと言い放つ。わざわざ起こさないように――――起きてるけど、起こさないように、細心の注意を払ってくれた。それは私に気遣ったのか、今私たちが膠着状態だからか。

 それとも指先だけでも透真は触られるのが嫌だったのか、どれなんだろう。


(……ん?)


 しょうもないことを考えているうちに、私は、自分の手のひらから骨ばった感触が無くならないことに気が付いた。

 思わず、薄っすら目が開く。

 透真の手は、白かった。すっかり夏だというのにまったく焼けていない。血管が見えるほど色白で細く、少しだけ骨の筋のようなものが浮いている。華奢で冷たそうなその手のひらは、実際に包まれると結構大きくて、ずっとずっと温かかった。

 鮮やかに熟したオレンジが、胸の奥できゅ、と搾られる。

 甘酸っぱい果汁が心臓に滴って弾けた瞬間、ぶわりと全身が熱くなった。

 強張っていた体が、今度は熱で一気にほどけていく。苦しいくらい鼓動が暴れまわり、なのにおかしいほど全身が緩んでいって、向こうのわずかな脈拍でさえ手に伝わってきてしまって、もうわけがわからなかった。

 彼から香る梔子が、いつもは上品で清涼なあの花が、どうして、今だけこんなに甘いんだろう。


(……暑い……)


 うなじがわずかに汗ばんでいく。同じように、互いの手と手の間がじっとりと湿っていく。透真の白い指が、もうすっかりゆるゆるになってしまった私の指に絡まる。彼の手が淡いピンクに染まりだした時、私はその痩せた手を握り返した。寝惚けていると、ぎりぎり思われるような握力で。

 透真の親指が、薄く、優しく、私の手をさする。

 それは少し肌質の硬い、男の子の指だった。

 目を閉じる。それでも、睫毛が細かく震えてしまう。

 どうしよう。

 幸せ過ぎて、どうにかなりそうだった。






 突然、手のひらから感触が消えた。

 温もりがぱっと離れ、少し滲んでいた汗のせいで急に手だけがひんやりとする。

 透真はゆっくりと肩から私の頭を降ろし、苦しくない角度に傾けてくれた。衣擦れとリュックの音がして、やがてそれが足音になって、遠ざかっていく。

 視界が暗闇の中、肋骨の内側が急に寒くなって、咄嗟に声が漏れそうになった。なのに。私が何か言う前に、均衡を破る前に、チェロの声が幽かに鼓膜に触れた。




ごめん。




 錆びた駅メロが、鳴り響く。

 私は目を開けた。

 誰もいなかった。

 さっきまでのことが、まるで本当に夢だったかのように。

 少しだけ汗が残った右手だけが、いつまでも感触を覚えていた。

 触れ合った熱も、少し硬かった肌も、絡められた指先も、伝わった脈拍でさえ。

 胸元で、左手が強く右手を掴む。何も失いたくなくて、でもどうしようもなくて、私は力なく背中を丸めた。心臓がまだ速く大きく鳴っている。熟して柔らかくなった水蜜桃を丸かじりしたような、強烈な多幸感が脳を揺らしている。けれど同じくらい、胸が痛くて堪らなかった。


()()()()()()()()()()


 どうして透真は、今さらこんなことをしたんだろう。

 もうすぐ、私はこの幸福を永久に失う。

 夏が終われば、透真はいなくなってしまう。

 学校から帰っても、S高に入っても、この駅に来ても。これから先、このベンチに座るのは私一人だ。会えなくなって、話さなくなって、顔を見なくなるうちに。透真はきっと、私のことも忘れてしまう。

 電車が来る音がした。列車風が私の前髪を巻き上げ、頬の熱を容赦なく吹き飛ばそうとする。隣に残っていた白い花の香りでさえ。




 ざぶんと、耳元で海に沈むような音がする。

 昨日の私から、今日の私が分離する。

 それでも、心臓は同じ痛みを訴え続けた。




 ああ。

 ごめんって何のこと? ごめんってどれのこと? 喧嘩したこと、避けたこと、手を繋いだこと。透真は何を無かったことにしたかったの? あのまま電車が来るまで隣にいたら、そうでなくても何も言わずに立ち去ろうとしていたら、私は起きることができた。遠ざかる背中に向けて待ってと叫べた。あの場の均衡を壊すことができた。最後の最後で、もしかしたら私たち変われたかもしれないのに。おとぎ話や童話みたいな、ありふれたハッピーエンドに行けたかもしれないのに。

 こんなのはあんまりだ。

 だったら最後まで、気づかないままでいたかった。

 いつかの日、私は今日味わった熱と甘さを思い出しては、失くした苦痛で泣いてしまうだろう。この一年駅で得た幸福をなぞるたび、全部が過ぎ去ったという事実に絶望する。あなたから貰った欠片で生きてこれたのに、私は、あなたが残した記憶できっと死にたくなる。




 なんて、甘美な毒なんだろう。




 もし、もう二度と戻れないと言うのなら。

 

 二度とあの駅に行けないのと言うのなら。


 その毒で、私を殺してほしかった。







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