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拝啓、八月  作者: 結城 冴
本編 『拝啓、八月』
8/12

七、七月三十一日



 

 目が覚めた時にはもう昼も近く、由紀子さんは既に出勤していた。ご飯を用意するのも面倒で、コップに水を入れて適当にテレビをつけたのだ。


 正午のニュースが、一つの映像を報じていた。


 飛行機が大破している。機体の前頭部分は跡形もなくなっていて、鮮やかなブルーの海に真っ黒な油が血のように流れていた。ばらばらというヘリコプターの音。裂けた機体に無数の救助の人が集まっている。死体に群がる虫に見えた。

 昨夜空港を出発した航空機が、深夜24時ごろに管制との連絡が途絶え、レーダーから消失。その後、東シナ海で墜落が確認された。発見が遅れたせいで、救助隊が派遣された時にはすでに乗客のほとんどが不時着体制のまま溺死していたか、シートごと無くなっていたという。特に窓側の損傷がひどく、付近に座っていたはずの乗客たちは遺体の一部さえ見つかっていない。日本人乗客については詳しい情報は入っていませんと、アナウンサーが淡々と告げた。


 なにも反応できなかった。


 その場から一ミリも動けなくなり、映像を食い入るように見つめる眼球だけがどんどん乾いていった。

 違う。そんなはずはない。同じなはずがない。考えすぎだ。言葉たちが浮かんだそばから虚しく消えていく。全身から急速に体温というものが無くなった気がした。

 突然、テーブルに置いたスマホから通知音が聞こえて、弾かれたようにアプリを開いた。ラインニュースが、テレビと同じ事故の記事を送っている。


『飛行機事故、生存者いまだ見つからず』


 鼓動が一気に早くなって、私は透真とのトーク画面を開いた。彼からのメッセージは何も届いていない。

 頭の中で白い霧が噴き出す。呼吸が激しくなっていた。『そろそろ着いた?』と一件送って、そこから何を打てばいいかわからなくなる。既読はつかない。


『おーい』『写真送ってくれる?』送ろうとして何度も消して、次第にまともに打てなくなってきた。指が、腕が、脚が、全身が、がたがた震えていることに気付く。既読はつかない。

 私は水を口に含んだ。やがて、さっきのメッセージの横に送信できなかったことを示す丸い矢印がついた。途端、飲んだ水ごと胃の内容物を吐きそうになる。同じなはずない。同じ飛行機のわけがない。同じはず、ああ、





 大破した飛行機の後ろに描かれた、植物のような鳥のような、不思議な形のシンボル――――。





『今日の深夜一時ごろに発生した事故について、新たな情報がはいりました』


 アナウンサーの声に、反射的に顔をあげた。コップを掴む手が強くなる。


『乗客については現在も捜索が続いておりますが、まだ行方が分かっていない七人の日本人乗客の名前が、たった今、事故のあった航空会社から発表されました』


 画面が黒くなり、白い文字で名前が表示される。


 上から三番目に、その名前はあった。


 心の中の遠いところ、淡く透明な結晶が根を張っていた場所。


 そこに、黒くてとてつもなく大きな何かが、重い拳を思い切り振り下ろすのが見えた。


 物凄い音がした。床の上で、手に持っていたコップがグロテスクに割れていた。




『楽しみにしてる』


 沈む夕陽に溶け込むような、いつかの低い声が聴こえた。

 優しい色だった七月の結晶。割れた欠片のうち一つが、ずぶりと胸に刺さった。


『そのかんざし、いいね』


 雪が降りそうな冬の駅、男の子っぽい微笑みが見えた。

 割れた結晶の欠片の一つが、ずぶりと胸に刺さった。


『また八月に、駅で』


 耳が熱くなるほど近くで聞いた、電話口の優しい声が蘇った。

 割れた結晶の欠片の一つが、ずぶりと胸に刺さった。




 白い霞がどんどん脳内に溢れ出していく。

 けれど、遠くでばらばらになっていた無数の欠片たちが、霞を突き破ってこちらに向かってくるのが見えた。

 防御しなければと思う。でも、腕はだらりと垂れ下がって全く動けない。

 無防備な私めがけて、美しかった結晶の欠片が、猛烈な勢いで襲い掛かってきた。


 この感覚を知っている。

 ある日突然、訳も分からないまま、

 何も残さないまま、何も残らないまま、大事な人が。



 『話がしてみたくて』チェロのように低い声。儚い色の写真。『なら、行こう。海』結んだ約束。甘い香り。さらりとした少し長い前髪、見惚れるほど整った大きな瞳。長く豊かな睫毛に白い肌。細くて骨ばった指。一眼レフ。フィルムカメラ。紅葉の写真、川の写真、ラムネの写真、花の写真。『葉月さん』彼しか言わなかった呼び方。通った鼻筋。時々見せた幼い笑い方。意外と大きくて、少しだけ汗ばんだ手のひら。温もり。世界の欠片。透真がくれた世界の欠片、私の全てだった記憶たち、そのひとつひとつ、ひとつひとつひとつ、ひとつひとつひとつひとつ、ひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつひとつが、








 全てが、




 一斉に。


























 とん。







 とん。







 とん。







 とん。







 ゆっくり、均一な足音で、私は階段を上っていた。


 一段上がるたびに、お盆にのせたボトルとグラスが擦れて危なっかしい音を立てる。落ちないように、慎重に自分の部屋に向かった。

 外はすっかり夜が深くなっている。真っ暗な部屋の中で、画材だったものや紙だったもの、絵だったものが散らばっている。足の踏み場がないほど荒れているのに、机の上だけは片付いていた。窓から月明りが入っているせいか、それは青白く輝いて見えた。

 二、三枚。スケッチブックから取った画用紙が置かれている。薄く黄色がかった柔らかい紙の中で、昨日徹夜で描いたラフが、まだ色もつけていないというのに生き生きと躍動していた。花に少女に雲に飛行機――――体よりずっと遠く、血に塗れてずたずたになっていた心が、その時死にかけの魚のようにびくんと一度だけ痙攣して、やがて沈黙した。


 まったく痛みを感じなかった。


 私は静かに絵を机の端によけ、空いたスペースにお盆を乗せる。秒針しか聞こえなかった部屋に、かちゃんと透き通った音が響いた。背の高いボトルが、首のあたりで白い月明りを反射した。椅子を引き、静かに腰掛ける。


 神様は、きっとずっと。誰かから囁かれたように、不意に言葉が浮かぶ。お盆にのせていた白い薬袋を逆さにし、ざららっと数多の錠剤が雪崩れた。台所から持ち出した、飲むことさえしなくなった由紀子さんの睡眠薬だ。ティッシュを一枚広げ、その上に一粒ずつ錠剤を出していく。



(神様は、きっとずっとこうしなさいと、おっしゃっていたに違いない)



 だって、ニュースを切ったあとに、真っ先に見えたのがこれだった。

 普段ハンマーなんて使わないのに、探したらすぐに見つけられた。

 ワインのコルクも開けたことないのに、手で引っ張ったら簡単に開いた。

 錠剤の全部を出し終え、余すことなくティッシュでくるんだ。念のため、ティッシュを二重、三重にする。きっと想像を絶する激痛が体の中で暴れているだろうに、脳と体の外側はひどく冷たかった。私は、まるで誰かに指示されたかのように、粛々と準備を進めていく。


 ハンマーを右手で持ち、躊躇なく振り下ろした。


 ガアン! 包まれたティッシュの中で、錠剤が机を巻き込んで悲鳴を上げた。



『……狙われすぎたから死のうとしたっていうのは、少し無理がある気がする』


 遠くで二月の声がした。

 瞬く間に溶けていきそうな雪の気配。言葉が放たれた時に浮かんだ息の白さと、わずかに上気した彼の頬の赤みまで、私は鮮やかに思い出してしまう。


『だとしても刺客が次に来るのを待ったりはしない。その前に自分で毒を呑んだりすると思う』


 そうだね、透真。

 居場所が奪われ続けていると恐れた時でさえ、私は、こうしたいとは思わなかった。

 ガアン!


『ほかにも理由はあったんじゃないかって』

『例えば?』

『大切な人が死んだとか』


 ガアン!

 錠剤がどんどん砕けていく。

 砕けて、砕けて、砕けて、粉々になっていく。


『奪われた直後に、毒林檎が手渡されたとしたら』


 薬袋を見つけた時、誰かがそこに用意してくれたと思った。

 夜勤とストレスで不眠症気味になっていた由紀子さんの、睡眠薬。眠れない人が、眠れるようにする薬。

 誰かから手を、優しく差し伸べられた気がした。

 ガアン!

 たとえば、この薬を飲んで、何もかも忘れられるほどたくさん眠れるとしたら。

 薬を飲んだ分だけ深く眠れるとしたら。

 透真が沈んだ分だけ、深く眠れるとしたら。

 ガアン!

 私はハンマーを置いてティッシュを広げた。小さなタブレット状だった睡眠薬は跡形もなく粉々になっている。そこで、さっき一度コルクを抜いて緩めておいたワインボトルをもう一回開け、中身をグラスに注いだ。ドイツ語のラベルが巻かれた赤ワインは、どす黒くて真っ赤だった。


(林檎の色だ)


 粉をこぼさないように慎重にティッシュを持つ。昼間がたがただった手はもう震えていなかった。上を向いた時、一瞬だけ窓から夜空が見えた。銀色の月光が瞼の裏に沁みて、じわりと眼球が熱くなる。

 七月の美しい夜を謳うように、私は睡眠薬とワインを飲み干した。

 毒を、呑んだ。

















 


 意識が、揺れる。

 同じように、光も揺れている。

 優しい温度と甘い匂いに導かれて、瞼をこじ開けた。


(――――この匂い、なんだっけ)


 柔い緑と浅い空。少し眩い陽だまりの景色の中で、溶け込むように誰かがいる。

まるで水彩画で描いたような淡色の世界に、ともすれば吐息一つで掻き消えてしまいそうなほど、優しく、温かく。

 輪郭が真っ白にぼやけているせいで、姿がよく見えない。


(なんて名前の花だっけ)


 本当にそのせいで?


(名前は、確か、)











「梔子」

 優しいチェロの、声がした。











 ああ、


 内側から、胸が熱く震えだす。


 私、きっと夢を見ているんだ。


 反射的に右腕を伸ばして、しかしなにも掴まずに空を切った。背中の重心が後ろに傾いている。そこで初めて、自分がゆるやかに落下していることに気付いた。

 震える息を聴いた。

 走り寄る速度を感じた。

 覚束ない意識が一瞬だけ捉えた。

 昨日耳元で聞いたものと寸分変わらない声を。

 間違えようもない、あなたの声を。









「俺の、八月」










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