六、七月三十日
「……もしもし?」
想像以上にがさついた声が出てしまう。二、三回咳払いして、早く深く呼吸をする。
『……もしもし』
鼓膜を直接撫でるような声の距離に、一瞬息が止まってしまう。また一段と声が低く、大人びてきた気がする。そう感じてしまうのはずっと話していなかったからなのか、それともあれ(・・)のせいなのか。
一言交わした後、気まずく重たい沈黙が降りた。
言わなくちゃいけないことと、聞かなくちゃいけないこと。そのどちらもが別々の重さで私の首元を締めている。六月の一件からずっと避け続けていたせいで、今どんな言葉を言えばいいのかがわからない。
私の部屋から秒針が聞こえる。音が積み重なっていくにつれて、胸がぎゅうぎゅう苦しくなる。
透真が今、何を考えているのか、どんな顔をしているのか、私のことをどう思っているのか、まったくわからない。
電話口から向こうの息遣いが聞こえてくる。距離の生々しさに耳がたちまち熱くなる。けれど顔が見えないということは、声が近いということは、それだけ言われる言葉の鋭さが増すということだ。何か言ってほしい。何も言わないでほしい。正反対の感情が暴れすぎないうちに、心をどうにか薄くしようとして、
『ごめん』
どきっとした。
『先月のこと』と声が続く。
『イラついてたとはいえ、葉月さんにはああいう風に言うべきじゃなかったよね。写真も……何度も渡すのすっぽかしてたし。……嫌な思いさせた。ごめん』
「……あ、いや……」
予想していなかった言葉にうろたえる。けれど次の瞬間には、私の口はするすると動いていた。
「……私の方こそ、ごめんなさい……。透真が悪いんじゃないのに、一方的に怒っちゃって」
子供みたいな言い方が情けない。それと同時に、今まで何度も言おうとして飲み込んだ言葉を、謝られ
た途端に言えてしまう自分の単純さが恥ずかしくなった。勝手に怒って勝手に後悔して、歩み寄られたら素直になる。これじゃあまるで、親に叱られた小学生だ。
でも、言葉を取り繕えなくなるほど、私は安心してしまった。
なにもかもが滅茶苦茶に壊されて、白い霞で覆われた頭の中。胸を重く抑え続けるわだかまりが一つ、ほどけてくれたように思えて。
向こうが優しく息を吐いた。
『……それでさ。すっぽかしてばっかの後でこんなこと頼むのあれなんだけど……先月と今月と来月分の写真、渡すのまとめちゃっていい?』
私はまばたきをした。写真を貰っていないのをすっかり忘れていた。
「いや、渡しそびれたやつなら気にしなくて大丈夫だよ。引っ越しとか転校の手続きとか、色々大変でしょ?」
ひょっとして、ずっと気にしてくれたのかと焦った。家のことで忙しくなっている透真に、私のことで負担を増やしたくない。
『ああ、そういうことじゃなくて。俺、今日から海外行くんだ』
「え?」
『今空港にいて、』
「え?」
『もう少ししたら搭乗するんだけど』
「え、待って待って。え? これから? 海外?」
突然投下された情報量に処理が追い付かない。海外、空港? 透真が転校するのは、まだ先だと思っていたんだけど。
『うん、夏休みだから。父親と一緒に二日くらい過ごす予定』
「あ……なんだ、旅行か。びっくりした」
『なに、もう引っ越すと思った?』
「うん。実はこれが最後なんだって言われると思った」
『あはは。俺の転校先は北海道だし、行くのはもう少し先だよ。まだここにいる』
少し笑いあった。久しぶりに笑えた。お互いの言葉と空気の重力が小さくなっている。蜂蜜をひとさじ溶かすように、ゆったりと心が安らいだ。
「透真が大変じゃないなら、私はぜんぜん大丈夫。それにしても急だね、今日からって」
『明日には着きたいからさ。今日まで課外あったし。おかげで早くて安い代わりにめっちゃボロい飛行機になっちゃったんだけど』
「そうなんだ……ん、明日? なんで?」
体勢がキツくなってきて、ベッドの上で足を伸ばした。夏用のタオルケットが引っかかり、適当に振り払うと中に入っていたらしい何かがばらばらと落ちた。多分絵の具だ。いい加減片付けないと。
手探りで絵の具をどけている間、透真は何も言わなかった。床に落ちた音が聞こえてしまったかと思った時、低い声が不意打ちで届いてくる。
『……俺の写真、七月みたいだって、葉月さんが言ったんじゃん』
体がぴたりと止まる。私は静かに目を見開いた。
「……覚えてたんだ……」
明日は七月三十一日。透真は、私がたった一度伝えた言葉を、ずっと。
『いや、貰った作品の意見は忘れちゃ駄目だろ。クリエイターとして』
つっけんどんに彼が言う。照れてるんだとわかった。わかることが、できた。
『だからさ、遅れる分日本じゃ見れない外国の七月、いっぱい撮って来るから。なんなら三枚どころじゃなくしてやるから』
「え、うん。ありがとう?」
『マジでこう……抱えきれないくらいの量で。テロかってくらい撮ってきてやる。もう嫌だって言わせてやる。だから悪いんだけどもう少しだけ待っててほしい』
「う、うん。わかった。待つ、待ちます、あの、全然」
誇張表現が加速していく。こんなに矢継ぎ早に話す人だったっけ。ゆったり話すのが彼だった気がするけど。けど、けど、もしかして、
もしかして。この電話を、緊張して怯えていたのは、私だけじゃなかったのだろうか。
ひとつ。胸の奥で、また何かがほどける音がした。
カラフルな思い付きが、緩くなった心の中に色を一滴落としたのも、その時だった。
「ねえ。今って空港のどこ?」
『え? あー、なんていうんだろ。搭乗するまで待つ、椅子がたくさんある場所……搭乗待合室? にいる』
「そこ、飛行機見えない? 見えたら、写真送ってほしいんだけど」
『飛行機?』
「うん。透真が乗るやつ。できれば横からの写真。ラインで」
少し間が空いて、パシャッと軽いシャッター音がした。通話を繋げたままトーク画面を開くと、写真が一枚送られている。白地に青のラインが入った飛行機。植物のような鳥のような、不思議な形のシンボルが機体の後ろに大きく描かれている。見たことのない形のシンボルが、外国製の飛行機であることを物語っていた。
『送った。もう夜だから暗くて見づらいけど』
「ううん、見える見える。ありがとう」
『でも、なんで?』
「うーん、」
七月みたいな写真、という言葉で思い出した約束がある。
随分前に透真に結んだ。絵にメッセージ性を込めることと、真夏の絵柄を生かすこと。その二つを合わせた、一番眩い夏の空を描くと言ったこと。
――――私、一番綺麗な八月の空描いてくるから。透真が今まで撮ったことないくらい、鮮やかできらきらした空。
私はあなたに救われた。何度だって胸に光を灯してくれた。どれだけ伝えても言い足りないほどのものをくれた。だから、時々不安になる。
私は少しでもそれを返せているだろうか。同じくらい眩いものを、欠片でも彼に渡せているだろうか。
楽しみにしていると、あの時透真は言ってくれた。
もし、私がこれから彼に返せるなら。あなたにこれほど救われたのだと伝えられるなら。言葉よりも雄弁な手段がある。
輝きと祈りの全てを込めた八月の絵に、送ってくれたこの飛行機が描かれていたら、透真はどんな顔をするだろう。
「……ふふ、やっぱり内緒」
『え、なんだよ。よけい気になる』
「今は駄目。帰ってきたら教えてあげる」
そうして、少しだけお互い笑いあえた。
『……S高校、一緒に行けなくてごめん』
軽くなっていた声が一転、深く丁寧なものに変質した。
S高校という言葉を聞いて、肋骨の奥がずんと重くなる。
「……謝らないで。透真のせいじゃないし」
本心ではある。転校は透真のせいじゃないし、彼にはどうにもできない。わかっている。私がこれを責めるべきではなかったということも、責めたかったことはこれではないということも。
理解はできる。納得もできる。
けれど、だからといって、傷つかないわけじゃない。
重くて痛くて、暗くて苦しいものが多い私の世界で、唯一明るかった場所があの駅だった。だから透真と口を利かなかったこの一か月は、出口のない黒い沼に沈んでいるように思えた。今だって久しぶりに息ができている気がする。
彼が隣からいなくなってしまったら、
同じ駅のベンチでも、私はうまく息ができる自信がない。
でもその未来は、すでに確定してしまっている。
私はどうにかして、沼の中で呼吸ができる場所を探すしかない。
『高校から一人暮らしするから通わせてほしいって言ったけど、さすがに駄目だって言われて』
「……え?」
思ってもみなかった言葉に驚く。そんなことまで考えていたの? 聞く前に、彼が続けた。
『じゃあせめて、夏休みに行きたいところに行かせてほしいって言って。それで連れてってもらうことになったんだ。あんな父親でも、なんかしら負い目はあるみたいでさ』
透真が息を大きく吸い込む。
『ねえ、葉月さん。葉月さんさえ、良かったらなんだけど』
慎重に、彼が紡いでいく。直観的に、私は予感する。
もうすぐ、雨がやむ。
『日本に帰ってきたら、八月中に駅で会わない? 写真、渡したい』
心臓の、奥深く。ぼろぼろに荒みきった私の身体に、何かが音もなく差し込まれた。
『それと、転校しても、別々の高校に入っても、たまに電話したりとか、夏休みに会って話したりとか。俺は……俺は、したいんだけど』
目の前が、ゆっくり、ゆっくりと明るくなってゆく。
もし言葉を形にすることができたなら、今の声はきっとどれよりも甘い味がした。
甘くて優しくて、溶けるように温かい。その温度に驚いて、私は胸が詰まってしまう。
眼球が、じわりと熱く濡れてしまう。
「いいの……?」
言葉に声、景色に趣味、癖、匂い。今までくれた透真の欠片たち。
淡く透明なひとつひとつが、私の中で甘やかに音をたてて繋がっていく。
「私も、透真に会いたい。学校が離れても、いっしょに話したい……」
願っても、いいのだろうか。
心の内側で、繋がった欠片たちが形を成していく。
欠片が成した結晶は、拠り所であり、光であり、救いであり、温もりであり、夏であり、七月の形をしていた。
私が生きていたいと望む世界のすべて。それが一人の人間の姿を成して、誰も届かない遠いところに、美しく根を張っていく。
森宮透真。誰よりも優しくて、誰よりも綺麗な写真を撮る、私の七月。
あなたを、私の心の中で一番美しい場所に棲まわせたい。
他の誰でもない、あなたがいいと。
私は、そう願ってもいいのかな。
『いいよ』
許す声は、安心したような色だった。
たらりと鼻水が垂れて、反射的に鼻をすすった。いつの間にか音もなく、私は泣いていた。
『それで、写真渡す日なんだけど。八月四日とかどう? 忙しい?』
「ううん……ううん、大丈夫。空いてる」
『OK。時間帯どうする?』
「……っ、昼間は、さすがに暑いし……夕方とか? それとも、思い切って朝にする?」
『ああ、いいね。始発に乗ってこよっか』
「それは早すぎじゃない?」
『そうか?』
「そうだよ」
ふふ、と声が零れる。一緒に涙も零れてくる。上擦ってばかりの声に、透真は一度も触れないでくれた。
放課後以外で会う約束をした。
学校帰りの暗黙の了解が、ついに光の中に出た。
欠片がひとつ、静かに胸に吸い込まれる。心の遠い場所で、それは結晶の一部になる。放つ優しい光に触れると、角砂糖みたいな温もりが伝ってきた。霧のひとつも寄せ付けない、冷たさとは無縁の場所だ。
きっとこれが私を生かしてくれる。
駅で会う約束、連絡を取ろうという約束、学校が離れても夏休みに会おうという約束。
私を必要としてくれて、私自身と話したいと願ってくれて、私の名前を優しく呼んでくれる人が、この世界のどこかにいる。
結ばれた約束とささやかな事実だけで、きっと私は生きていける。息が、できる。
『ごめん、そろそろ行かないと』
「あ、うん。わかった。ねえ、行くのってどこの国?」
ようやく声を立て直せた。片手で無造作に涙を拭う。
『アジアの方なんだけど……いや、やっぱ内緒』
「え、なにそれ」
『そっちだって隠し事してるだろ。それ込みで、土産楽しみにしててよ』
「ふふ、わかった」
悪戯っぽく笑う彼が想像できる。大人びた容姿が年相応に崩れる瞬間が、私はとても好きだった。
『じゃあ、葉月さん。また八月に、駅で』
ごぼりと、耳元で音がした
(待って)
「うん、気をつけて行って来て」
軽やかに私が言う。言う様子が、目に見える。
べりべりと剥がれるように、七月三十日の私から、『私』が分離していく。
(待って、透真)
(行かないで)
部屋の中は真っ暗だ。どろりと沼の底のように黒いかつてのアトリエは、救いようがないくらい散らかって荒れ果てている。
ぐしゃぐしゃのベッド。散らばった絵の具。折れかけている色鉛筆。雪崩れたままの本。破られた大量の紙。破壊の限りが尽くされた砦の中、白いミニアルバムだけが傷一つなく机に安置されている。
(いかないで)
『私』の声は届かない。
ごぽごぽと音を立てながら、記憶がどんどん遠ざかっていく。
電話を手に、かつての砦の主が微笑みを浮かべた。
暗闇の中で、スマホの画面だけが光っている。
音のない叫びが、せりあがった。
「――――ありがとう、透真」
(飛行機に、乗らないで!)
ざぶん、何度目かももうわからない、水の音がする。
焼くような絶叫は、すべて透き通った冷たい泡になって消えていく。
手を伸ばす。伸ばそうとする。けれど届かない。声も、体も、意識も、一つの記憶から抜け落ちていく。
不意に、映像が見えた。
七月二十五日
青々と茂った木々が立ち並んでいる。生命を謳歌するような、力強いエメラルドグリーン、そして鮮やかなフォレストグリーン。深く美しい緑色と海みたいな空色が、昼間にしか出せない色彩で輝いている。
真夏に近づく世界の中、プラットフォームにシャッター音が響いた。
点字ブロックの手前に立って、レトロで洒落たデザインのフィルムカメラを構えていた彼が、暑そうに、でも楽しそうに目を細める。
「……いい色」
ベンチで色鉛筆を走らせていた私が微笑む。
「ほらね、絶対気に入ると思った」
「めちゃくちゃ暑いけどね。もう一本サイダー飲みたい気分」
「……! お、仰せのままに!」
「冗談冗談。流石に言わないよ。というか、何本でもサイダー奢りたいくらい見せたかったの?」
彼が笑ってこちらを向いた。親指でくい、と指さした先には、鮮やかなスカーレットの自販機がある。
「だってこの辺の景色、一番いい色するのがこの時間帯だもん。すごい綺麗だけど暑いから……」
「葉月さんイチ押しなら、サイダーで釣らなくても見に来るのに」
彼が苦笑してこちらに近づく。甘い香りを纏っているからか、普通に歩くだけでもひどく優雅に見えた。
「まあいいや。今度は俺が奢らせて」
蝉が、遠くで鳴いていた。
水の音がした。
別の、いつかの映像が蘇る。
五月三日
「……お父さんは、遠くに行っちゃったの」
若い女性警官が告げた瞬間、私の顔色が真っ白になった。
見開かれた目はトカゲのように、黒く虚ろになっていく。
「でも、でもね葉月ちゃん。葉月ちゃんにはお母さんがいるよ。学校の先生もお友達もいるし、それに、お父さんは葉月ちゃんのこと見守っていてくれるから、葉月ちゃんのそばにずっといてくれているからね」
必死に言う警官の声が聞こえているのかいないのか、私は人形のようにその場に立ちつくしている。
顔を青くした警官が、話題を逸らそうと声を続けた。
「ほら、葉月ちゃん。待ってる間に何しよっか、なんでもしていいよ? 漫画とか読む? なんなら絵の具とかもあるし」
ぴく、と私が反応した。
穴が開いたみたいに真っ黒な目が、棚の下で埃被ったバケツとアクリル絵の具を捉える。気付いた警官は素早く埃を払って机に置き、パレットに絵筆、画用紙まで用意しだした。
「うん、そうだね、絵にしよっか! なに描く? なにがいいかな?」
少しだけ使われた形跡があるへこんだチューブ。基本的な色が揃う中、私はおもむろに水色のチューブを手に取ってパレットに絞った。平坦なブルーが、薄いプラスチックパレットで艶やかに光る。選んだ理由は別に深くなかったと思う。一番色が残っていたからだったとか。
無表情のまま絵筆で水色を溶かしている私に、警官が再び微笑みかける。
「綺麗だね、お空の色?」
ぴたりと私の動きが止まる。そのまま、錆びついたブリキのように、ぎこちなく顔を上げた。
「そら……」
薄く私が呟いた。塗りつぶされた黒い目が、天井を透かすようにぼんやりと見つめる。
「あ、うーんそれとも、川かな。海とか?」
警官は怯えながら笑いかけている。
やがて、私がうわ言のように呟いた。
「てんごく……」
水の音がした。
一月十八日
休日の市立図書館は混んでいる。キッズルームが併設されているためか、図書館でありながら高くて明るい声が響いていた。
そこから少し離れた場所で、私が食い入るように本を読んでいる。物凄い集中力だ。文字のひとつひとつも逃さないほど凝視している様子が鬼気迫っていて、周りの大人たちが少しだけ距離を置いている。大学病院のすぐ近くに建てられているから、母が生きていた時は、お見舞い帰りに決まって訪れていた。
習慣だけが、母が亡くなったあとも残り続けている。
「葉月、そろそろ時間だよ。借りる本は決まったか?」
父が優しく声をかける。小学五年の私がこくんと頷いた。
「これにする」
先ほどまで夢中になっていた本を閉じて、父に差し出した。
重そうなその表紙には、『自然科学シリーズ7 雲と空の図鑑』と書かれている。
水の音がした。
十一月四日
文化祭当日の朝の空は、叩けば冷たく澄んだ音がしそうな、そんな薄い青色だった。
登校してくる生徒はみんな、まだ祭りが始まっていないのに楽しそうで、壁画や飾りつけで彩られた校舎ごと空気が浮足立っているように見えた。私だけが浮き上がれずに、重たく足を運んでいる。
「わあ、すごい綺麗!」
誰かが歓声をあげた。校門に置かれたゲートには、今日のための描かれた特別な絵が飾られている。
灯籠流しだ。レモンイエローとアプリコット、コーラルピンク、ライムグリーン、ソフトバイオレット。薄く淡い色彩で作られた灯籠が、夜のような川を流れている絵。無数の灯籠が優しい光で、ずっと遠くまで続く様子が、まるで天の川のようだった。
誰もが通る前に一度足を止める中、私はさっさとゲートをくぐる。
ぞっとするほどの無表情で。
水の音がした。
何度も何度も、水の音がした。
その度に、今までの記憶がぐちゃぐちゃに蘇っては流れていった。
音も色も匂いも全部、暴力的なほど鮮明に。
お母さんと一緒にオムライスを食べた日曜日が見えた。詩織と早苗と三人でフードコートに入る夏休みが流れた。小学五年生の私が、失望したように図鑑を閉じている。進路指導室のドアノブを掴んだ一月、私だけ違う制服の卒業式。お父さんと一緒に昼ご飯を作った土曜日と、由紀子さんに試験結果を見せた月曜日。脳の芯ごと揺らがすほどの解像度で無制限に溢れていく様が、まるで拷問みたいだった。
吹雪のように、白い泡が大量に吹きあがる。
「葉月は本当に、絵が上手ねぇ」
「葉月。ねえ、話しかけにいかないの? あの子」
「初めまして、葉月ちゃん。私、あなたのお父さんとお付き合いしている、江崎由紀子と言います」
「白雪姫だ」
「ぜったい手紙書くからね!」
「でも葉月ちゃんって、すごい人だよね」
「忘れるわけがないだろう」
「――――上手い」
「葉月は、いいこねぇ」
「今日も可愛いよ葉月! 大好き!」
「少ししたら、後で散歩に行こうな。今日はいい天気だ」
「なんか、近寄りがたいというか」
「……まだ、お母さんって呼べない?」
「仕方ないだろ」
「お父さんは、遠くに行っちゃったの」
「娘さんもまだ小学生でしょう? もっとお母さんに甘えたかったでしょうに……」
「青山さん。今日の放課後……先生と一緒に、病院と警察署に行きましょう」
「どうして言うことを聞いてくれないの?」
「俺が七月なら、葉月さんは八月かもしれない」
「このかんざしとかめっちゃ可愛くない? 色違いでおソロにしようよー」
「葛西さん推薦入試受けるんでしょ? S高校の美術科」
「ご両親、どちらも早くに親御さんを癌で亡くしていたから……可哀想だけど、再婚相手の人が引き取らないってなったら、施設に行くしか……」
「青山、どうしてA高に行きたいんだ?」
「ねえ葉月ちゃん。今日の髪型、どうかな? 変じゃないかな?」
「はづきー、教科書貸して!」
「俺もいないよ、母親」
「はーちゃん、卒業しても、あたしらずっと友達だからね」
「明日から、学校が終わったら児童館に行きなさい。先生には、お父さんから話しておく」
「一昨年の、クジラの絵!」
「森宮くんが王子なら、イズミンが姫って感じだよね!」
「いろいろな事情があるんだ」
「真夏の空に似てる」
「本当、可哀想にねえ」
「お母さんって呼びなさい」
「葉月、どうしたの? ほら、お母さんのベッドにおいで」
「葛西さんって、あんなに絵が上手かったんだね。びっくりした」
「明るいし、おしゃべりだし」
「葉月、図書館で本借りてただろう」
「みんな言ってるよ」
「……あ、ごめん。あたしは今日やめとく。早苗と二人で行ってきたら?」
「うーん、理科が伸びてないねえ。なんでだと思う? 葉月ちゃん」
「青山さんはこういうの興味なさそう」
「行けるわけないだろ」
「美味しい? ほんと、葉月はオムライスが大好きねえ」
「葉月。お父さんと病院に行こう。お母さんが……」
「また八月に、駅で」
「今日の深夜一時ごろに発生した事故について、新たな情報がはいりました」
突然、
冷たくて太い針が、首筋に当てられた。
「うわああああああああああああ!」
弾かれたように、上体が跳ね起きた。
遅れて、がいぃん! と耳障りな金属音が響く。金属でできた何かが、鉄筋コンクリートに当たったようだった。けれど正体を確認する前に、凄まじい悪寒と頭痛が脳を揺らした。
「はあっ……はあっ……」
肺が勝手に喘いでいる。耳の奥が痛い。信じられないほど頭蓋骨が重く、たまらず顔を下に向けてしまう。唾液は粘ついていて鉄の味がした。全力で走ったあとみたいだ。酸欠のせいか、視界が白く霞んでいる。
(ここ、どこ……私……なんで……)
どうにか周りを見ようとする。左手の甲がじんじんと熱いおかげで、徐々にピントが合っていった。でも、どれも輪郭が薄くて白っぽい。コンクリート、柱、線路、白い花、ベンチの足、点字ブロック、かんざし、それと――――。
(かんざし?)
「おはよう」
息が止まった。
正面からの、低い幽かなチェロの声に向けて、ぎぎぎと顔を上げる。
雪を欺く白い肌。少し茶色がかった指通りのよさそうな長めの髪。理知的な瞳に豊かな睫毛。細身で硬そうな、色素の薄い涼し気な外見。
森宮透真が、プラットフォームに座り込んだまま、青褪めた顔で微笑んでいた。
次の刹那。
力なくへたり込んでいた私の身体が、反射的に飛び出した。
自分でもどうしてだかわからない、けど、捕まえておかなくちゃと思ったのだ。
彼がどこにもいかないように、しっかりとこの手で。
「葉月さ……っ!?」
力の限り、透真を抱きしめる。
骨の芯まで届くほど強く、花の香りがしたと同時に、
暴力的な冷たさが、全身を襲った。
抱きしめた体は固く、薄く、細く、温もりの一切が存在しない。雪のような、氷のような――――海の、底のような。
思った瞬間。電流が走ったように、びくっと脳が痙攣して硬直した。
白と黒。人。喪服、お父さん。パイプ椅子。写真。黒いリボン、遺影。微笑んでいる顔。棺。みぞれ。暗い。数珠。平坦な読経の声。怖い。寒い。花。女の人、寝てる。お母さん。白い、痩せた、お母さんの手――――。
悲鳴が、私の喉から噴き出した。
透真の胸の中で、体が勝手に暴れだす。
「葉月さん!? どうし……っ」
「嫌だ! やだ、やだやだやだ、いやだ! もうやめて!」
体の冷たさに耐えきれず突き飛ばそうとする。けど絶対に離したくなくて強く掴もうとする。焼けそうな冷たさが伝わって堪らなくなる。感情が濁流のように溢れかえり、喚きと涙になってぼたぼた流れた。驚いた透真が、私を落ち着かせようと腕を掴む。私は振りほどこうともがき、そのまま彼の胸元に縋りついた。
向こうの握力が弱くなる。私は顔を透真のシャツにうずめて、火が付いたように大声で泣いた。
彼の体温が、熱くなった私の額から再び伝ってくる。
雪のような、氷のような、海の底のような。
それは、死体の温度だった。