五、六月二十八日
「はづきー」
顔を上げる。教室のドアの前で詩織が手を振っていた。目の前でふっと光が瞬いた気がして、でも心の均衡を崩さないようにして、私は愛想よく答える。「なに?」
「ごめん。理科の教科書貸してくれない?」
やっぱりか。その一方で、そうだよな、と思う。だってそうじゃなきゃ、彼女は私をわざわざ呼んだりしない。
「また? この前も忘れてたじゃん」
「ほんとごめん! 今度ジュースおごるから!」
詩織がぱんっと顔の前で手を合わせる。ため息が出そうになったけれど、ぐっと飲みこんで教科書を差し出した。
「はい。六限は私も使うから、それまでに返してね」
「やったー! ありがと!」
じゃあまた、と詩織が行こうとする。ふらりと心が不安定になりそうになって、私は思わず呼び止めた。「詩織、期末どうだった?」
詩織は一瞬だけ困惑して、でも上手に、自然に返事をした。
「ぜんっぜん。国語とかはまだマシなんだけど。やっぱあたし理系嫌い」
「あー、今回数学とかヤバかったもんね。理科も」
「そーそー、ほんとヤバい」
あははと笑いあい、それから会話が続かなくなる。お互いが笑ったままなのに、空気が緩やかに冷めていくのがわかった。「でもさ、」温度が下がりきる前に、咄嗟に私は言葉を繋いだ。
「詩織はあんまり成績気にしなくていいんじゃない? 声優になるんだもんね」
去年の彼女を思い出す。よく通る声とほどほどに気を配った可愛い容姿。去年と今では、詩織の見た目はそれほど変わっていない。髪の毛だけ、少し短くなった気がするけど。
きょとんと目を丸くした詩織は、それから高い声で笑い出した。
「やだ葉月ってば。それ、覚えてたの?」
「え、だって去年散々言ってたじゃん」
「いやいやそれ、半分冗談っていうか。声優なんてなれるわけないじゃん」
軽い口調。その軽さが、逆に強く突き放すような印象を与えていた。
詩織が笑ったまま、ぽんぽんと私の肩を叩く。
「流石のあたしも、そこまで夢見てないって。そういうのはさー、なんていうの? 本当に才能がある人じゃないと目指せないじゃん。ほら、カサぴみたいな人じゃなきゃ」
「その呼び方。やめてって言ってるでしょ、詩織」
ハスキーな声が不意に聞こえて来た。瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。
そばかすのある白い肌に、彫刻刀で掘ったような切れ長の瞳とオールバックのポニーテール。すらりと伸びた身長は、私よりも数センチ高い。
――――葛西さんだ。
「あっカサぴ!」詩織が一転、嬉しそうに笑った。
「どこにいるのかと思ったら。なんの話してたの? あたしの悪口?」
「ううん、カサぴは天才って話!」
去年の秋では考えられなかった組み合わせ。詩織と葛西さんは文化祭実行委員の体育館部で、仕事熱心な詩織は非協力的な態度の葛西さんを嫌っていた。はずだった。
文化祭直前の二日間で、葛西さんは大きな仕事をした。すぐ家に帰ろうとしていた彼女からは想像ができないほどの集中力だったらしい。すごい出来だったのと興奮気味に話していた詩織を思い出す。そこから、手のひらを返したように詩織は葛西さんに懐くようになった。美人でスタイルが良くて成績も良い。かっこいい、綺麗、大好きと。かつての私に対するように。
天才と言われた葛西さんは無表情のまま、軽く詩織の頭にチョップする。キツめの印象を与える雰囲気だというのに、彼女のふとしたじゃれつきには猫のような親しみが滲んでいる。詩織もえへへと笑っていた。
「ねえカサぴ、次の時間にまた新しいやつ見せてよ」
「やだ。内申に響く」
「進路先なんてもうほぼ決まってるでしょ!」
「いいから。ほら、授業行くよ―――― あ、そうだ」
葛西さんから突然視線を向けられて、ぎくりとした。
「……なんでしょう」
「詩織、青山さんに教科書返しな。次の授業、期末の解説だけだから教科書いらない」
胸の内側が突然揺さぶられて、息が止まった。
「え、マジで? 先生言ってたっけそんなこと」
「言ってたよ。ほんと話聞かないんだから」
「あぶなかったー。ごめん葉月、返すね」
はい、と教科書を私に返して詩織はさっさと歩いていった。
「じゃあね葉月! 行こー、カサぴ」
「だから呼び方……」
呆れたようにため息をついた葛西さんは、それから私に軽く会釈をして行ってしまった。
理科の教科書を持った私だけが、惨めに取り残される。
「今の、詩織ちゃんと葛西さん?」
後ろから声がして振り返る。目の覚めるような美少女顔が視界に飛び込んできて、それに一瞬たじろいでしまう。すると、彼女の取り巻きの女の子たち三人がわらわら集まってきた。まずい。脳内で危険信号が鳴り出す。
「葛西さん?」
「あーほら、あれでしょ? 一昨年の、」
ここにいたくない。そう思うのに全身がこわばって動けない。どくん、どくんと内側から殴るように心臓が鳴っている。
聞きたくない話題だった。耳を塞ぎたくなるほど嫌な話で、ずっと触れたくなかった話。
「クジラの絵!」
――――体育館部が毎年、文化祭で出す正門前のゲート。一昨年に出された、宇宙を泳ぐクジラの絵。
その作者が葛西さんだと知ったのは、つい最近の話だった。
「あれマジですごかったよね。去年の灯籠流し? みたいなデザインも激エモだったし」
「葛西さんって、あんなに絵が上手かったんだね。びっくりした」
「今年のゲートも葛西さんが描くのかな。そうだったらめっちゃ嬉しいんだけど」
「どうだろうね、さすがに忙しいんじゃない? だって葛西さん推薦入試受けるんでしょ、S高校の美術科」
ぎりぎりと肋骨が締め上げられている気分だった。悪意も敵意も持たない暴力が、この世界には存在してしまう。
「推薦組なんだ。つよ」
「私全然決めてないよ~、もうすぐ三者あるのに。ねえ、イズミンは第一志望決めてる?」
イズミン。そう呼ばれた彼女は小さく微笑んだ。たったそれだけだというのに、花が目の前で咲いたような錯覚を覚えてしまう。彼女の笑顔には、それほどの威力がある。
「ぼんやり。科学好きだからそっち方面に強い高校に行けたらいいなって」
「あ、わかった。A高だ。イズミン頭良いもん。絶対そうだ」
長く豊かな睫毛に縁どられた目が、その時完璧な角度で細められる。抜けるような白い肌に、軽くて滑らかなミディアムボブ。微笑むけれど否定はしない彼女からは、控えめながら確固とした自信が読み取れた。
「へえ、」言葉が口から転がり出る。やめろ、と思う。「彼氏さんの高校じゃないんだ?」
言ってすぐ、自分の言い方の卑屈っぽさに笑いたくなった。代わりに、彼女が照れくさそうに微笑み返す。
「うん。最初はそれもいいなって思ってたんだけど、向こうが行きたいところに行きなって言ってくれて」
「うわ。離れててもゼッタイ大丈夫だよ的なやつですか。さいこ~」
「え、イズミンの彼氏って高校生なの?」
周りの女子のうち、一人が目を丸くした。
「なにあんた。知らなかったの?」
「いや、彼氏いたのは知ってたけどさ。私てっきり……森宮くんとかかと」
予想してなかった方角から殴られて、いよいよ胃のあたりがぐらりとした。
女子たちが教室の隅に顔を向ける。窓際の席で、透真が肘をついて校庭を眺めている。少し長い前髪がわずかに目にかかっていて、幽かに憂いを帯びた様子が凄まじく絵になっていた。
「イズミン、前まで結構仲良さそうにしゃべってたし」
「席が隣だった時だけだよ。今はほとんど喋ってないもの」
「いや、ごめんごめん。美男美女でお似合いだと勝手に思ってて」
あー確かにと周りが同意した。外は鈍い曇り空で、昼間なのに教室の灯りが強い。それなのに、目の前がひたひたと暗くなっていく。胸が苦しい。
「森宮くん、去年まではうるさい感じだったけど、最近静かで大人っぽいもんね」
「そうそう。なんか声も低くなってるし」
「なんていうか、王子系? クールそうなのに、話したら何気に優しいんだよ。この前だって授業中に資料集貸してくれてフツーにときめきかけた」
「王子系それな~! 森宮くんが王子だったら、イズミンが姫って感じだよね!」
「ちょっと、やめてって」
姫と言われても狼狽える様子がない。受け答えが褒められ慣れている人のそれだ。内臓のあたりがぐちゃりとする。さっき食べた給食が、胃の中で暴れている。
「あ、もうそろそろ五限始まるじゃん。席戻ろっか」
「じゃあね、葉月ちゃん」天使の輪を乗せた艶やかな黒髪をたなびかせ、彼女が軽く手を振る。
「ごめん」
取り巻きの子たちが席に戻る中、彼女だけが立ち止まった。私は、どうにか全身の力を振り絞って微笑んでみせる。
「ちょっと頭痛くなってきた。保健室行ってくるね」
「え、大丈夫?」
「平気。多分寝れば治るやつだから」
「わかった。先生に伝えておくね。ゆっくり休んで」
「うん、ありがと。じゃあね――――」
教室のドアから出ていこうとする。端正で柔らかな顔立ちに、心配の色を落としてくれる彼女に、
「――――早苗」
まるで別人のようになってしまった和泉早苗に、手を振って。
外ロッカーに理科の教科書を放り込んで、廊下を歩く。あと三分くらいで昼休みが終わる。廊下はもうほとんど誰もいなくて、給食の匂いがもったりと残っていた。外は曇っているのにひどく蒸し暑くて、不快感に窒息しそうだ。
――――早苗と詩織、髪切ってたな。
考えたくないものがふっと頭に浮かぶ。ぽつ、と外から雨の音が聴こえてくる。
早苗が劇的に垢抜けたのは、四月。春休みが明けて進級した時だった。
詩織とは離れたけれど、早苗は今年も同じクラスだなと思って、新しい教室に入ったときは驚いた。長くて量が多かった黒髪はすっきりと軽く滑らかになって、前髪も綺麗に整えられていて。眼鏡からコンタクトに替えたらしく、隠されていた大きな目がぱっちりと印象的になった。肌もびっくりするほど白く美しくなって、中肉中背だった体型は華奢になっていた。
春休みに彼氏ができたらしい。地元の公民館で知り合って、勉強を教わるうちに仲良くなったんだってと、ほとんど喋ったこともなかったクラスの子から教わった。
見た目も成績も爆発的に上げた早苗。自信が著しく欠如していた去年の彼女。それは裏を返せば、自信さえつければ彼女は何者でもなれる人間だったということだ。それを、私は遠くから思い知らされた。
目の前がふらふらする。頭の中に白い霞が溜まっている、そのことに今更気付く。ここ最近ずっと霞があって、頭が痛くて、具合が悪かった。それはたぶん、低気圧とか受験とか、そんな目に見えてわかりやすい原因だけじゃない。
階段の暗い踊り場。一階の保健室に向かう途中で、私はこらえきれずに蹲る。
言葉に拾いきれないほどの痛みが、この学校には増えてしまった。
その場にいるだけで、微妙に会話に入れていない自分や、私がいなくても楽しそうな友達の様子が、息をするたびにわかってしまう。自分がいてもいなくてもいい存在に思えてきて、何か言おうとしてもどこか的外れに聞こえて、みんなの輪に入ろうともがく自分が本当にみっともなく思えて。ここ最近、ずっと毎日そんな感じで。体が硬く乾いていくようで。
外からさあさあと雨の音が聴こえてくる。埃が汗と湿度に絡まって、べたりと全身に張り付く。
誰かに悪意を向けられているわけでも、ましてや嫌がらせをされているわけでもない。なのに教室にいたくない。誰かと一緒にいたいのに、誰とも話したいと思えない。ひどい矛盾だ。私は何がしたいんだろう。
詩織も早苗も、前までは少し面倒くさいとすら感じていたのに。
(二人とも、髪が短くなっていた)
詩織はショートボブ、早苗はミディアムボブ。夏になるからだろうか。
(あの長さじゃ、かんざしは使わないだろうな)
チャイムが鳴る。校舎内だというのに、それはひどく、遠くに聞こえた。
* * *
雨の降りしきる駅は、海の底のようだと思う。
午後から降り始めた雨は少し強くなっていて、線路一帯が浅く靄がかかっている。もう六月も終わりだというのに、あたりは夜を借りてきたかような薄暗さだった。ホームの蛍光灯が、孤独に私たちを照らす。
「……期末どうだったー?」
ずきずきと痛む頭を押さえながら、ぼんやりと隣に聞く。あの後午後の授業を全部休んで寝たけれど、罰が当たったのか、却って本当に頭痛がするようになった。
「……普通」
チェロの低い声が、こちらを見ないまま気だるげに答える。そっかと呟いたあと、ふつりと会話が途切れてしまった。雨の音が、淡く沈黙を埋める。
ちらりと透真を見る。一席分空けた向こうで、彼は退屈そうに雨を眺めていた。
透真と会話が続かなくなるのは、なにも今日が初めてじゃない。疲れていたり、なんとなく何か話す気になれなかったりと色々な理由で、お互い黙ってばかりの日。
けれど、気まずくならないための対処法を私たちは心得ていた。スマホで音楽を聴いたり、本を読んだり、仮眠を取ったり、相手の邪魔にならない程度に自由に過ごす。音の全てが遠くなったような、緩やかで穏やかなその時間も私は好きだった。好きだった、はずなのに。
空気が重い。密度の濃い蒸し暑さが、ゆっくりと肺を押さえつけている。
けれど雨を見つめる透真の目は、それ以上にどろりと暗い。読書も仮眠もする気配がない彼は、何も話したくなさそうにも見える。最近の透真はずっとそんな感じだ。言えば答えてはくれるけど、彼から話を振ることはほとんど無くなった。
自分に降りかかるすべてを遮断しそうな鋭さなのに、痛そうに震えているようにも見える。
彼の目が持つその感情が一体なんなのか、私にはわからない。
(王子系、か)
昼休みに聞いた透真の評判を思い出す。クールそうなのに話しかけたら何気に優しいんだよ――――他の女の子には優し気に映るのに、私には暗く不機嫌そうに見えてしまうのはなんでだろう。それとも、透真のとる態度そのものが、そうなのだろうか。
ずきんと、鈍く頭が痛んだ。
「ねえ。今日は写真、持ってきた?」
痛みを振り払うように、私は聞いた。そうだ。今月分の写真。この前絵を渡した時、焼くのを忘れたから今度持ってくると言われたのだ。今日は二十八日だけど金曜日だから、貰うとしたら今しかない。
途端に、安堵で心が柔らかくなる。月一回の絵と写真の交換。たとえ透真が他の人と仲良くしていても、それさえあれば繋がっていられると思える。弱く細い糸だとしても。
「あ、忘れた」
あっさりと、透真は言った。
「――――え?」
「週末に時間が空いたら、その時に焼いてくるよ」
さあさあと雨の音が響く。透真はこちらを見向きもしない。変わらず退屈そうに遠くを見ている。あまりの軽さに、私は頭痛さえも忘れてしまった。だって、痛いどころじゃない。
透真はそのまま口を閉ざしている。気まずさとかではなく、この話は終わりだと無言で示していた。
頭の中が、漂白されていく気がした。
「……どうした?」
何も言えなくなってしまった私を不思議に思ったのか、ようやく彼がこちらを向いた。
本気で疑問に思っているようなその表情を見て、白くなった頭がたちまち――――真っ赤に、染まっていった。
「別に、なんでもない」
咄嗟に言う。吐き捨てるような言い方になってしまったけれど、突然沸きだした怒りをぶちまけてしまわないよう必死で、言葉を選ぶ余裕が無かった。そうとも知らずに、透真が眉根を寄せる。
「いや、なんでもないって顔じゃないじゃん。なに、どうしたの」
顔。言われて気付く。そうだ、表情。私は今、どんな顔をしていたんだろう。感情を全く取り繕えなくなっている自分に愕然とした。透真が「ん?」と答えを急かす。
「……今まで、月一で交換してたのに」
「え?」
ぽろりと感情が零れてしまう。やばい、と思ったのに、気が付いたら溢れるように言葉が口から落ちていった。
「今度焼いてくるって、言ったのに」
透真が困惑したように視線を揺らした。
「あ、いや……だから、休みの時に焼いてくるって。そんな、月一にこだわらなくても」
「こだわるって……!」
思わず声を荒げてしまう。けれどその着地点が見つからず、私は言葉を失った。こだわる。こだわる? 私は何にこだわっているんだろう。何に怒っているんだろう。胸の内側がぐちゃぐちゃとこんがらがって、喉元まで溢れかえりそうなのに、その感情の矛先がどこに向いているのかが全く分からない。
驚いたようにこちらを見ていた透真はやがて、深くため息をついた。
「……家のことで忙しくて、写真焼く余裕が無かったんだ」
雨はまだ降り続けている。浅くて優しい音なのに、やけにうるさく感じるのはどうしてだろう。
透真が物憂げに、線路を見やった。
「転校するんだ、俺」
「……てん、こう?」
声が、信じられないほど掠れてしまう。
「父親の都合で。夏休み終わったら、北海道に」
淡々とした声だった。あまりに感情が薄く冷たいその声音に、体の中心がすっと寒くなった。
「…………S高、は」
「行けるわけないだろ」
突き放すように彼が言う。苛立ちか、不機嫌か。普段は見せない感情で透真の顔が一瞬ゆがんだ。けれどすぐに、ふっと風が吹いたように表情が消える。
「……まあ、公立高校の入試なんてどこも同じようなもんだし、半年あるならどうにかなるだろ」
それは、少しトーンが高い声だった。
私は透真の横顔を見る。線路を見ているようで何処も見ていないその顔は、口の端だけ笑っていた。
ホームの屋根から、不意に大量の雨水が流れ落ちた。
「……なんで」
蛍光灯が微かに点滅する。私の声に、透真がこちらを向いた。
「なんで、そんな風に言えるの?」
自分の声が、情けないほどに震えている。
反射的に座っている足を踏みしめ、歯を力強く噛んだ。体じゅうが燃えているみたいに熱い。そこで初めて、全身が震えそうになっていることに気が付いた。
公立高校の入試なんてどこも同じ? 半年あるならどうにかなる? 違う。違う。違う。私が聞きたいのは、言いたいのは、そんなことじゃない。
「S高行くって言ってたのに。写真部に入りたいって言ってたのに。そんなこと、もう透真にとってはどうでもいいの?」
透真がぴくりと肩を揺らした。
「どうでもいい……?」
「私はずっと目指しているのに。ずっと毎日必死なのに。あの日からずっと――――透真が言ったんだよ? 一緒に行こうって!」
透真は知らない。なんにも分かっていない。一緒に行こうと言ってくれたのが私にとってどれほど嬉しかったのか、どれほど救われたのか、もう何も残っていない私が、どれほどその言葉に縋ってきたのか。
由紀子さんとの仲を良くするために、私は進学校に行くつもりがなくても模試の成績を上げようとしているのに。由紀子さんが強制する勉強スケジュールと塾の合間で、S高対策の絵も、透真に渡すための絵も描いているのに。私は推薦入試なんてものがあることを知らなかったから、誰も教えてくれなかったから、もう一般入試しかチャンスがないのに。
「おい、進路変えさせられたのは俺だぞ。なんで葉月さんが怒るんだよ」
「変えさせられたって、被害者みたいな言い方やめて」
「そっちこそ悪意のある言い方するなよ。というか事実、被害者だろ。親の都合なんだから」
「透真から誘ったくせに、勝手に諦めないでって言ってるの!」
「仕方ないだろ」
吐き捨てられた透真の言葉を聞いて、全身がさあっと冷めた。
「仕方ない……」
言いたいことはもっとある。ぶちまけてやりたい感情も山ほどある。けれど、その一言を反芻して、私は責める気力を失った。
「……そう」
雨の匂いで噎せ返りそうだ。透真がこんなに近くにいるのに、まったく梔子の香りがしない。空気はむわっと不快に暑くて、なのに指や足先がひどく冷たかった。ああ、夏ってこうだったっけ。もっと透明で、淡くて、眩しかった気がするのに。
同じ景色に、彼も憧れていると思っていたのに。
「透真にとって、高校も写真も、その程度だったんだ」
瞬間、ばっと彼が立ち上がった。目を見開き、見たことのない怒りを剥き出しにして、何か私に言おうとする。けれど、
「もういい」
自分でも驚くほど冷えきった声が、透真を遮った。
私は荷物を持って、そのまま透真の横を通り過ぎる。雨音の中、私の靴音が鈍く響く。
彼の表情は見えなかった。
前までは同じくらいの背丈だったのに、今はお互いが普通に立ったら、もう目線は交わらない。
(身長、伸びたんだな)
ずんと胸が痛くなって、歩きが駆け足になる。そのまま逃げるように、ホームの端に行き着いた。誰も来ていない。まだこの駅に二人だけなのに、そばを離れてしまうのは、これが初めてだった。
遅効性の毒みたいに、胸がどんどん痛くなる。思い出したように頭も痛くなってくる。全身汗まみれで気持ち悪いのに、氷を飲み込んだみたいに寒い。
自分の背中越しにある、アップルグリーンのベンチが目に浮かぶ。思わず強く歯を食いしばった。そうしないと泣き出してしまいそうだった。
私にとって、あの場所は光だった。
絵に没頭する以外に得ることができた、痛みも不安もない世界。形があるなら手の内に包み込んで、ずっと守り通したかった。過ごした時間が、交わした言葉が、抱える秘密が、私が持つ他のどれよりも、どれよりも。
(でも)
歩こうとする。けれど踏み出す瞬間、膝から崩れ落ちそうになってしまう。底なし沼のように真っ黒な感情に、足元からずぶずぶと沈んでいく。
(でも、透真は――――)
ざああああっと雨脚が強くなる。
冷たい灰色の雨音が、薄くけたたましく駅を包んでいた。
今までのすべてを掻き消すように。
* * *
ざっ、ざっ、と擦れる音が部屋に満ちる。
音がするたび、私の持つ鉛筆の無造作な線が、画用紙の上に増えていく。
何か描きたいのだと思う。絵を描きたい。なにもかも忘れさせてくれる美しい世界に入りたい。色彩と光で満ちた、痛みのない優しい世界に連れて行ってほしい。
けれどその唯一の逃げ場に、今日に限って没頭することができない。
理由はわかる。単純な話だ。絵を描くならラフがないと、土台となる線がないと、色は載せられない。鉛筆の下書きが終わらない限り、この絵に命は吹き込まれない。なぜだか、いつものコピックも見つからないし。
そして、題材もまったく決まっていないのに、線画が終わるわけがない。
黒いばかりの線だけが、引っ掻き傷のように画用紙に残る。
(透真にあんなこと言っちゃった)
ざっ、と線が引かれる。ここは電柱を描こうと思っていたけれど、幅が太くなってしまった。自販機にしようか。
(なんであんな風に言っちゃったんだろう)
ざっ、と線が引かれる。金魚になりかけていた線が乱れる。風鈴にしてしまおう。
(仲直りできなかったらどうしよう)
ざっ、と線が引かれる。太すぎた電柱と丸すぎた金魚の間に、どうしようもない線がかかってしまう。かぶせるように、手は水滴を描こうとする。
(透真が転校しちゃう)
ざっ、と線が引かれる。水滴は歪な形になり、デッサン癖のせいで輪郭がささくれだってしまう。
(S高校どうしよう、A高校も、どうしよう)
ざっ、と線が引かれる。水滴が壊れて形を失う。
(進路、どうしよう)
ざっ、と線が引かれる。
(これから、どうしよう)
ざっ、と線が引かれる。
ざっ、と線が引かれる。
ざっ、と線が引かれる。
ざっ、と線が――――
「――――ちゃん、葉月ちゃん」
我に返った。
隣に、お盆を持った由紀子さんが立っている。
瞬間、ぶわりと全身に鳥肌が立った。今は何時だろう、帰りは遅くなると聞いていたのに。
「ただいま、葉月ちゃん。勉強の邪魔をしてごめんね、お夜食を持ってきたの」
夜食。ああ、もうそんな時間なんだ。帰ってからずっと部屋に籠っていたから気付かなかった。ありがとう。頭では言葉が出てくるのに、まったく声にならない。ゆっくり、ぎりぎりと私は体を前に傾ける。 お願い。じわりと手汗が湧いてくる。見えませんように。由紀子さんに、この絵を、
お願い――――。
「何の勉強やってたの? ……どうしたの? お腹痛い?」
かたんとお盆が横に置かれる。マグカップに入った茶碗蒸しとコップのお茶が、目の前で揺れる。
「……葉月ちゃん。なに? これ」
心臓が早鐘を打つ。
由紀子さんが、机に置かれた画用紙に手を伸ばす。
改めて見ると、描かれた線はどれも乱れて、無造作に重なっていて、とても見れたものじゃなかった。
「……ちょっと待って葉月ちゃん。これはなに? 落書き?」
由紀子さんの声に鋭さが帯びてくる。咄嗟の言葉がなにも出てこなくて、私は口をはくはくさせるしかなかった。部屋に酸素が無くなったみたいだった。
「そういえば机の上になにも教材が……え、待ってよ葉月ちゃん。まさかとは思うけど、今日って帰ってから勉強してないの? 塾の無い日は、帰ったら晩ご飯とお風呂以外は寝るまで勉強するって約束だったよね? ……ずっと、お絵かきしていたの?」
なんとか言わなくちゃ。そう思うのに何も言うことが出来なくて、呼吸だけが浅くなる。頭の中がぐるぐると濁り、焦燥が胸を燻し、口の中が乾いていく。
由紀子さんはぎゅっと顔を醜く歪め、やがてこらえるように溜め息をついた。
「ねえ葉月ちゃん。もうちょっとちゃんとしてくれる?」
それは今までのどの言葉よりも、攻撃性を伴っていた。
「葉月ちゃん。今がどれだけ大事な時期なのかわかってる? もうすぐ三者面談だってあるのに。ねえ、期末試験の復習はもう終わったの? ああいうのはね、ちゃんと復習をして、わからなかった問題が全部解説できるようになるまでやらないと意味がないんだよ?」
「ま、まって。由紀子さ」
「お母さんって呼びなさい」
ぴしゃりと彼女が言い放った。体の奥のもろい部分が一つ、破壊された気がした。
責め立てる声は、止まらない。
「この前の塾の模試だって、A高校C判定だったじゃない。もう夏に入るのに、まだC判定なんだよ? 本当はね、お母さんが全部つきっきりになりたいくらいなの。でも塾の先生にも言われたのよ、葉月さんの頑張りを信じてくださいって。だからお母さん何も言わなかった。葉月ちゃんは自分でもちゃんとやれてるって信じてた。でも違ったんだね」
疲労で乱れた由紀子さんの表情が、刺すように私を睨みつける。声はどんどん威力が増していく。棘だらけの声が私の体に絡まって、刺さりながらがんじがらめにしていく。
本当は芋虫みたいに体を丸めたい。けれどそれすらできず、私は無防備にその攻撃を受けていた。じゅわじゅわと、白い霞が頭の中に広がっていく。
「お母さんずっと頑張って葉月ちゃんをサポートしてきたのに。毎食ご飯作ってあげて、仕事終わりにお夜食だって作って、勉強しやすいように葉月ちゃんの部屋だってお掃除して――――」
「え?」
咄嗟に聞き返してしまった。
遮られた由紀子さんが「なに?」と顔を顰める。
「部屋を掃除したって、言った?」
傷だらけの心臓が、その時もう一度ばくばくと早鐘を打ち始める。
「私の部屋に、入ったことがあるの?」
好きな小説、今まで描いてきた絵。画材。お父さんから貰った本。透真から貰った写真。私が私でいられる世界の欠片が詰まったこの部屋に、私のアトリエに、私だけの最後の砦に――――勝手に入ったことがあると、この人は言ったのだろうか。
由紀子さんは一瞬たじろいだけれど、すぐに立て直して言い放った。
「そりゃそうよ。お母さん今まで、葉月ちゃんがいない時にお部屋のお掃除をしたりしていたの。掃除機かけたり、いらないものを捨てたり。……お母さんの言いたいことわかる? 葉月ちゃんが勉強しやすいようにしていたの」
力強く殴られたような衝撃が、全身に走った。
これまで、私の部屋は、私だけのものだと思っていた。
けれど、私の知らないところで、この部屋はとっくに侵されてしまっていたのだ。
私がいない間に由紀子さんは、勝手にここに入って、掃除機をかけて、いらないものを捨てて――――そこまで考えて、目を見開いた。
コピックが、見つからなかったのは。
「……私の、コピックを、……色のついた画材、知らない……?」
声が震える。由紀子さんが眉をひそめる。
「色の……? ああ、引き出しに入ってたあのマーカーのこと? ……え、だって葉月ちゃん、いらないでしょ? あんなにたくさんあっても」
不思議そうな、どこか困惑したようなその表情。
それは、自分は正しいことしかしていないと信じきっている表情だった。
さああっと引き潮のように胸の内側が冷めていく。
白く、静かに感情の全てが凪いだ一瞬ののち、
「そんなことよりも、葉月ちゃん。話はまだ終わってないわよ、こっちを見なさ――――」
爆弾が、落ちた。
「触らないで」
強く冷たい、声が響いた。
こちらに伸びていた彼女の手が、驚いたようにびくりと止まった。
「私に、触らないで」
声に出して初めて、自分の気持ちがくっきりとした。
私は、この人に触られたくない。
この人の作るご飯を食べたくない。一緒の空間にいたくない。その声で呼ばれたくない。その手で、触られたくない。
「これ以上私に、私の大事なものに、触らないで」
部屋。コピック。絵。時間。進路。将来。
この人はずっと、私だけのものであるはずのものを、自分だけの都合で無遠慮に触れ、奪い、捨てようとしてきた。
脳がけたたましく警報音を鳴らしている。
目の前にいる人間は、敵だと。
「私のことが好きでもなんでもないくせに――――お母さんから、お父さんを奪ったくせに!」
咄嗟に放った叫び声に、私自身が驚いた。
彼女が大きく目を見開くのが見える。
「葉月ちゃん……?」
か細い声。この期に及んでまだ私を呼ぼうとする彼女の声に、目の前が真っ赤になった。理性が一瞬で吹き飛んで、露出した感情に初めて触れた。
多分、ずっと聞きたかったのだと思う。聞きたくて聞けなくて、言いたくて言えなくて、肩を揺さぶって大声で責めたかったことが、今、噴火するように溢れていった。
「なんでお父さんと結婚したの」
『なんで再婚したの?』二年前の自分の声が聞こえた。
『いろいろ事情があるんだ』痛みに満ちた父の声。『もう少し経ったら全部話すよ』本当に後から話すつもりだったのかどうかは、もうわからない。
「看護師だったんでしょ? お母さんが入院してた病院の。お母さんが病気でそこにいたの、わかってたんでしょ? なんで付き合えたの、結婚できたの」
この人はどういう気持ちで父を見ていたのだろう。
母が病気であることを知っていながら、子どもだっていることも知っていながら、どうしてこの人は父と付き合えたのだろう。
今まで感じたことのない凶暴性が、自分の中で急速に膨れ上がるのがわかった。
「……お父さんを手に入れるために、あんたがお母さんを殺したんじゃないの?」
彼女はひゅっと息を呑み、それからみるみる青ざめていった。
私の呼吸が激しくなる。全身が震えだす。爆発するような猛烈な怒りと同時に、内臓がぞっと冷え込んでいくのも感じ取る。
「あんたがお母さんを殺したんだ!」
恐怖だった。
家族。学校。駅。将来。友達。進路。絵。あらゆるものが、一つ一つ、誰かの手によって粉々に壊されている気がする。なにか逆らえないくらい大きな力、神様かなにかが、じわじわと執拗に私を追い詰めて、殺そうとしている気がする。
なんでこんな目に遭わないといけないのだろう。私が一体、どんな罪を犯したというのだろう。
私にはもう、両親さえもいないのに。
「私からお父さんを奪った! お母さんを奪った! これ以上、私から奪わないでよ!」
怖い。怖い。怖い。周りの人が、みんな怖い。
私から突然、離れていった詩織。
自分が好きなことを堂々と言えて、それでもみんなから認められて、私よりも絵が上手いかもしれない葛西さん。
私をいないものみたいに扱うクラスの子。
誰の手も借りずに綺麗になれた早苗。
女子から人気が出て、あの時間を『仕方ない』で諦められた透真。
そして目の前の――――
「あんたの家族ごっこにはもううんざりなんだよ!」
絶叫が、喉を焦がす。
ナイフをめちゃくちゃに振り回した後みたいに、目の前がくらくらする。全身の血が沸騰しているようで、頭の中がぐちゃぐちゃになる。このあと、誰から自分の身を守ればいいのかわからなくなる。
みんなが怖い。
自分からどんどん遠くに行ってしまう、みんなが怖い。
なのに、私の領域に侵入しようとするこの人も怖い。
「出て行って」
彼女が怯えた顔で固まっている。言葉の通じない獣を見る顔だ。
私の居場所を奪おうとする誰かが怖い。
隣に誰もいない、未来が怖い。
私は、なにがしたいんだろう。
「――――出ていけぇ!」
ほんと、なにがしたいんだろ。
ざぶん、と体が沈んでいく。
同時に、部屋と彼女と音と色が、六月の景色のすべてがふっと遠ざかる。
背中から、冬の夜みたいな海にゆっくりと落ちていく。口から泡が零れていく。
でもなんとなくわかる。ここはまだ海じゃない。
黒に近い青が、揺れる。
(……結局あれからずっと、由紀子さんとも透真とも、誰とも口を利かなかったんだっけ……)
不意に、誰かの泣き声が聞こえた。
静謐さで満ちていた世界が、悲痛な声を皮切りにあらゆる音を反響させた。
誰かの叫び声が聞こえる。
ガラスの割れる音がする。
誰かが誰かを呼んでいる。
何かを叩いて砕く音が響く。
ハンマーを振り下ろす、その瞬間の切られた空気の音も。
涙が落ちる音がする。
(嫌だ)
咄嗟に耳を塞ぐ。音が景色を描く前に。
黒く冷たい何かが、腕に、脚に、首に絡みつこうとする。
(思い出したくない)
だってやっと、眠ることができたのに。
抗いに反して、頭は音をどんどんなぞっていく。
(一か月、透真と口を利かなくて…………そのまま、夏休みに入って)
輪郭が明瞭になっていく。崩れた砂の城が、ゆっくりと元の形に戻るみたいに。
底から伸びる黒い手が、重たく全身を縛って、沈めていく。
(……ううん、違う。課外授業に入ったんだ)
ヴーーーーッという音が聞こえた。
何かの警報音のように、遠くで、繰り返し。
(課外が終わって。その後、駅で――――透真と、)
ヴーーーーッ、ヴーーーーッと、音は鳴りやまない。
警報音に聞こえていたその正体が、スマホのバイブ音であると、ようやく気付く。
(透真と――――あのベンチで、)
私のスマホが浮かび上がる。
LINE通話の画面と『森宮透真』の白い文字が、見える。
細かい無数の泡が吹きあがる。
白く冷たい小さな粒は、まるで雪みたいだった。
海の粉雪は、やがてするすると、真っ暗な部屋を描き出す。
私だけのものだった、私の部屋を。
ヴーーーーッ、ヴーーーーッと音が急き立てる。
思わず手を伸ばした。
その右腕が、恐る恐る伸びたもう一つの右腕と重なる。
七月三十日の私の腕と。
記憶が、再び像を結ぶ。