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拝啓、八月  作者: 結城 冴
本編 『拝啓、八月』
5/12

四、二月十日




 今月渡す絵の題材を白雪姫にしようと決めたのは、父の夢を見たからだと思う。

 父から本をもらう夢だった。昔住んでいたアパートにあった父の書斎はありとあらゆる言語で書かれた物語に満ちていて、読めなくても絵と字を追うだけで心が躍って、だから幼い私はよく出入りしていた。父は咎めず、むしろ不要になった本をよくくれた。だから、あれは夢というより追憶に近かったと思う。


『葉月、どうした』


 書斎の中で、黒い回転いすに座った父がこちらを見る。事故で死体ごと燃えた父。


『遊びに来たのか? 父さんは今忙しいから、この本を読んで少し待っていなさい』


 父が手前にあった本から一冊を抜き取る。子供向けの海外童話だ。小学一年生になったばかりの私はいやいやと首を振る。


『はづき、英語のやつがいい』

『まだ読んでもわからないだろう』

『字の形がかっこいいもん』


 口を尖らせて、一番近くの本棚に駆け寄る。けれどそこには、太い辞書や難しそうな本ばかりが詰まっていて、私が読みたいものはなかった。


『じゃあこれにしようか。グリム童話だったら内容は知っているだろう』

『ぐりむ?』

『いばら姫とか、シンデレラとかだよ。……ほら、これがいいかな』


 さっきの本を脇に置いた父が、別の本を棚から取り出す。金色の文字が印刷された青色の表紙。踊るようなタイトル文字の下で、白馬に乗った王子様とお姫様が微笑みあっている。


『リビングは、お母さんが寝ているから静かにしているんだぞ』

『はあい』

『もう少ししたら、一緒に散歩しに行こうな。今日はいい天気だ……はい、これ』


 お父さんが本を差し出す。私は両手を差し出して、その本を受け取る。受け取ろうとする。

 明るい日差しが目に眩しい。確かにいい天気。水をたっぷり含ませた青の絵の具で描いたみたい。体の内側がほかほかと温かくなる。お父さんが微笑んでいる気がして、


『ありがとう、おとうさ――――』




 さあっと、突然雨の音がした。


『葉月、図書館で本借りてただろう』


 顔を上げる。日差しはあっという間に翳り、部屋が寒く薄暗くなっていた。

アパートじゃない、一軒家の玄関。

 小学一年生だったはずの私は、中学の制服を着ていた。


『今日はあのあたりで用事があるから、帰りに寄って返してくるよ』


 疲れた顔で微笑んでいる。お母さんが死んでから随分痩せた、顔。

 手に持っていた絵本は、いつの間にか小説になっていた。図書館で借りたもの。私の身体がそれを差し出そうとする。待って、

 待って、待って、私が――――、




「おとうさん!」




 目を開けた。

 荒い息が口から漏れる。寝ながらでも体全体がじっとり汗ばんでいるのがわかった。一瞬だけ、身震いが全身を駆け抜ける。暖房をつけ過ぎたんだ。リモコン、どこだっけ。頭は冷静になろうとしているのに、心臓が狂ったようにばくばく鳴っている。

 ふらつきながら、ベッドから降りた。なぜか肋骨が痛み出す。体が重い。霞がじゅわじゅわと脳内に噴き出していく。

 窓辺の机に近づくと、空からちらちらと舞い落ちる何かが見えた。

粉砂糖みたいに、白い。


「雪……」


 冷え切った窓の外で、白の綿帽子が薄っすらと積もっている。空は鈍い曇天。共鳴するように、私の頭の中も白く冷たく鈍くなっていく。雪、本、絵本、グリム童話――――白雪姫。

 ぽとん、と頭の霞に一滴だけの赤が落ちた。

 薄いグレーと白だけだった冷たい世界のなかで、その赤だけが艶やかに光っている。死んだ景色に転がるそれだけが、生きた色彩だ。

 不吉で甘い、林檎の実。


「描かなきゃ」


 誰に言うでもなく、私は呟いた。

 まるで寝言の続きのように。






「白雪姫だ」


 そう呟いた透真の口から、白い息がふんわり浮かぶ。二月の駅は冷凍庫みたいな寒さだ。


「青くない、珍しい」

「そりゃそうだよ。夏の絵じゃないんだから」


 ぶるっと身震いをする。この前の日曜日に描き上げた絵では、白いドレスを着た長い黒髪の少女が、林檎の花の中で眠っている。少女の周りには熟れた林檎が三つ。白と黒の中、果実だけに色があった。その一枚絵を、透真は自分の膝に載せてまじまじと見つめていた。


「雰囲気ちがう。林檎がなんか、血の色っぽくて不気味で良い。本家のグリム童話みたいな不穏な感じする」

「ああ、そうそう。原作のほう使ったの。歌とか童話とかを解釈してみたらって、前教えてくれたじゃない? だから自分なりに耕してみたの」

「耕す、か。いいね、その表現」


 くく、と透真が笑う。悪戯っぽさが年齢相応だ。


「でもね、正解がわからなくなってきちゃって」

「正解?」

「うん。白雪姫の」


 話したいのはここからだ。透真には編集者じゃなくて鑑賞者でいてほしいから、こんなこと聞かないほうがよかったのかもしれないけど。でも、話せるのは彼しかいなかった。


「なんで白雪姫は毒林檎を食べたのかな」


 透真は首を傾げた。


「……というと?」

「えっと、ごめん待って、順を追って説明する。あのね、原作の白雪姫って、何回か殺されかけているんだよね」


 アニメ映画のほうがメジャーになりすぎているからあまり知られていないかもしれない。案の定、聞いた透真は目を丸くした。


「え、そうなんだ。知らなかった」

「うん。城から追い出したあと、白雪姫を殺そうと継母が変装して直々に手を下しに行くの。それも三回」

「三回」

「一回目は締め紐で首を絞める、二回目は毒を塗った櫛を刺す。そして三回目が毒林檎」


 私は自分が描いた絵に目を落とした。赤黒い林檎が三つある。


「さすがにヤバくない? 二回も殺されかけて、小人からもあんなに気をつけてって言われてたのに、どっからどう見ても怪しい林檎食べる? 普通」

「確かに。危機感がまるでないね」


 透真が少し笑った。


「でしょ? だからなにか理由があったのかと思って。それで少し考えたの」


 世間知らずのお姫様だから危機感が無かった。継母は魔女でもあったから白雪姫の警戒心も魔法で解いていた。それっぽい理由はいろいろ考えられる。なにせファンタジー童話だ。でも、どうせ絵にするならもう少し深読みしたかった。


「白雪姫は死にたかったんじゃないかな」


 重く聴こえすぎないように私は言った。


「無条件で愛してくれる家族がいなくなって、継母は自分を何度も殺しに来ていて。そんな風にずっと命を狙われ続けたから、だから、この毒林檎を食べたらもう終わりなんだって、そう思ったんじゃないかな」


 童話だとわりとあるあるの展開だけど、自分を殺そうとしている存在は、考えてみるとかなり怖い。何度も何度も、執拗に自分の命を狙いに来る。絶対に殺すと明確な殺意を持たれている。それが一生、自分が生きている限りずっと続く。


「……なるほどね、白雪姫は殺されたんじゃなくて自殺したって解釈したんだ。ああ、よく見れば確かに、この白雪姫笑ってるね」


 どうやら気づいてくれたみたいだ。眠る白雪姫の顔にはほとんど色を乗せていない。けど、死人のように真っ白な彼女の口元を、私は薄く微笑ませてみたのだ。


「うん、自殺願望が叶ったから」


 びょうっと突然風が吹く。氷みたいに冷たくて強い。随分と伸びた私の髪がふわっと巻き上がって、視界の半分を覆い隠した。寒いからおろしていたけれどやっぱり邪魔だな。巻き上がった髪の半分を右耳にかける。

 邪魔という言葉で連想したのが由紀子さんで、ぽろりと言葉が零れてしまったのはその時だった。


「私、継母と上手くいってないんだ」


 透真がこちらを見る。私はそれに気づかない振りをして、寒々とした空っぽの線路を眺めた。


「小学生の時に両親が立て続けに死んで、今はその継母と二人暮らしなの。仲良くしないと駄目なのはわかってるんだけど、成績とか色々と口うるさくて、いまだにギクシャクしてて……私にも原因はあるのかもしれないけど」


 言いながら、今までどの人にも話したことが無かったことを、こうして話す自分に戸惑った。腫れ物に触るような扱いを受けたくないからずっと避けていたのに。透真はなんて言うだろう。薄っぺらな励ましとかはしなさそうだけど。


「ま、私の話はいいや。ともかくね、私と同じく継母と上手くいってない白雪姫が自殺しようとした理由を、命を狙われすぎて嫌になったからって思ったんだけど、透真はどう思う? っていうお話です」


 意識して声を明るくする。このままだと必要のないことまで言ってしまいそうだったから。話を無理やり元に戻して、私は透真に向き直った。感情の読み取りづらい、硝子玉のような瞳がこちらを見つめ返している。



「……狙われすぎたから死のうとしたっていうのは、少し無理がある気がする」


 少し間を置いたあと、チェロのような低い声がゆっくりと紡がれた。

由紀子さんのことには一切触れず、質問の答えだけ。

 白い息とともに宙に浮かんだその言葉を聞いて、私は恥ずかしさで耳まで熱くなった。

 やっぱり家のことなんて話さなければよかった。ただでさえ答えづらい内容なのに、いったい何を期待したんだ。

 どうしよう。絶対に引かれた。


「……辻褄、合わないかな」気まずくて彼から視線を外す。

「合わないというか、なんだろうな。それだけじゃ自殺の理由としては弱いと思う。命狙われ続けるのが

怖いってのはわかるけど、だから死のうとするのはなんとなく矛盾するというか。だって、その理屈だったら命を狙っている本人に自分を殺させてるってことでしょ? それって白雪姫が一番恐れていたことじゃない?」


 いつもと全く変わらない調子で話し続ける彼の声が、少しだけ恥の熱を冷ます。気まずさが少し和らいでから、私はもごもごと反論した。


「でっでも、怯え続けるくらいならいっそ死んだほうがって思ったとか」

「だとしても刺客が次に来るのを待ったりはしない。その前に自分で毒を呑んだりすると思う」


 ばっさりと切り捨てられる。逆に気が楽になってきた。


「……じゃあ、自殺願望はなかったって思う?」

「そういうことじゃないよ。警戒心が薄すぎるのは確かにそうだなと思うし、実は死にたかったって考えるのも面白いと思う。ただ、ほかにも理由はあったんじゃないかって」

「例えば?」

「大切な人が死んだとか」


 ふわりと冷たい風が吹いた。彼の梔子の匂いに、微かに雪の気配が混ざる。


「俺、アニメ映画の方しか知らないからいろいろ間違ってるかもしれないけどさ。白雪姫って城から追い出されたあと小人の家に逃げ込むでしょ?」

「うん、森の中を彷徨っているうちに見つけた」

「それで、結構仲良く暮らしてたよね。白雪姫が毒林檎で死んだとき、一番悲しんでいたのは小人じゃなかった?」


 確かに。言われてみれば、知らない人に注意しなさいと白雪姫に言ったのも、毒林檎を齧って死んだ白雪姫を見つけて最初に泣いていたのも、七人の小人だ。継母でも王子様でもなく。


「そういえば、締め紐や櫛で白雪姫が殺されかけたとき、命を助けたのは小人だった気がする」

「ああ、そうなんだ。じゃあなおさら、小人は白雪姫を大事に思ってたし、白雪姫もそんな小人が大切だったんじゃないかな」


 彼の言わんとしていることがなんとなくわかった。


「小人が死んだらってこと?」

「一番自分を大事にしてくれた存在。少なくとも、城を追い出されて帰る家がない白雪姫にとって、小人との穏やかな生活は拠り所だったはず。それが奪われたとしたら。そして例えば、奪われた直後に、毒林檎を手渡されたとしたら」


 もう小人が帰ってこない空っぽの家。一緒にご飯を食べて眠って、楽しく穏やかに暮らしていたのに、二度と戻らない。虚ろな目をした白雪姫。そんな時、戸を叩いた魔女から毒林檎を差し出される。

 そこまで想像して、私はじんわりと納得した。これは食べる。命からがら逃げのびた先でやっと手に入れた温かい幸福。それすらも奪われてしまったら、魔女でも毒でもなんでもいいから殺してほしいと願うのは当然だ。


「なるほどね……まあでも、白雪姫が林檎で死にかけて王子様に目覚めさせられるまで、小人がそこにいるっていう描写はあるから、小人が死んだからって説はどうなんだろうね」

「うーん、原作に添って考えるとやっぱりこれも矛盾するよなぁ」

「余白埋める分にはいいけど、改変はさすがにね。でも面白い。聞いて良かったよ……うわっ」


 その時、強く冷たい風が再び私の髪を掻き上げた。さっき耳にかけた髪が、いとも容易く舞い上がる。

ああ、また。苛立った私はコートの裏ポケットからヘアゴムとかんざしを取り出した。

 透き通った青の蜻蛉玉がついた銀色のかんざし。冬休みに詩織と早苗に連れられて行ったモールで、二人に合わせて買ったもの。


「ごめん、ちょっと髪結ばせて」


 手袋を外して、伸びた髪をヘアゴムで低めのポニーテールにする。そのあと、束ねた髪の毛をくるくる

と捻じって丸く纏めてから、最後にかんざしをすっと挿した。首元が寒いけど、やっぱり纏めたほうがすっきりする。

 そういえば、透真の前でかんざしをつけたのはこれが初めてだ。ふと気づくけれど、彼になにか期待するのはやめようと思った。だってどうせ、なんとも思っていない。


「あとさ」

「ん?」


 纏め終わったので手袋をはめなおしている時、唐突に透真が言った。


「俺もいないよ。母親」


 ぎょっとして彼を見る。寂しさも悲しさもまったく見えない、透き通った薄い笑み。


「……俺の父親、もともと大企業に勤めててさ、給料も社会的ポジションも結構良かったんだ。子供ながらに、仕事のできる人なんだなと思ってたよ。でもある日父が写真のコンクールで大賞もらって、その時は母も喜んでたんだけど、そのあと相談なしにいきなり仕事を辞めて、ずっと夢だった写真家になるって言いだした。それで母親、泣いてブチ切れて」


 低い声が淡々と紡がれる。温度を感じない声。


「家ん中めちゃめちゃになるくらい毎日喧嘩してたんだけど、俺が小六になった頃に母親は出てった。実

家に帰ったのかもしれないし、どっか全然知らない町に行ったのかも。でも父親は探さなかったし、母親からの連絡もまったく来なかった」


 何一つ言葉が出てこない私に、「だからさ」と透真が続ける。


「血は繋がらなくても、進路や成績にうるさいほうがまだマシだと思う。父親は俺の写真は見てくれるけど俺のことなんてどうでもいいと思ってそうだし、母親は、梔子のサシェしか俺にくれなかった」


 透明な笑顔が、その時完全な無表情になる。


「捨てられたんだ。母親に」


 息が、止まる。ベンチに縫い付けられたように動けなくなっている私に、やがて透真がふっと微笑みかけた。


「言おうか迷ったんだけど、葉月さんならいいかと思って。でもごめん。やっぱり聞きたくなかったよね」

「……よく、写真が嫌にならなかったね……」

「嫌いになる前に、興味が湧いた。真面目で理性的だった父親と普通だったはずの俺の家を狂わせたもの、それって一体どんなものなんだろうって。それで中学上がった頃にカメラを貰った。そしたら面白くって、やめられなくなった。少し撮る角度変えるだけで見え方がまったく違ってくるし、すごく難しいぶん、上手く撮れた時が嬉しくってさ」


 彼が膝に置かれた私の絵を見る。死んだように眠る白雪姫。顔の角度や目の配置、手の置き方、彼女の体勢に絵全体の視点の置き方。どれか一つでも変えると与える印象は全く変わってしまう。だから、慎重に組み立てなければならない。

 似ている。写真も絵も、そこに面白みを感じてのめり込んでしまっている透真も私も。


「……前、写真の仕事に就きたいって言ってたね」

「うん。カメラでメシが食えたら最高だけど、でも実際どうだろうな。いざ仕事にしたら、それはそれで面倒なことが多いだろうし、趣味のままにしておいたほうが幸せなのかも。家庭ひとつ破壊する威力あるから、芸術って」


 私が何か言いかける前に、透真がごく自然に問いかける。「葉月さんは?」


「え?」

「絵だよ。この技術、仕事にしたい?」


 彼が私の絵を見せながら聞く。私は視線を彷徨わせて、言葉を濁した。


「……ずっと絵は描いていたいけど、透真の言う通り仕事にしちゃうと大変なのかなって思う。でも、まだ将来のことはわからない。高校すらまだ受かってないのに」

「ああ、まあ確かに。高校ね、葉月さんどこに行きたいの?」


 じく、と痛みを感じる。不安と焦燥が、心臓を突き刺していた。

 中学二年の冬になっても、私はまだ志望校を決めていなかった。学校でも最近、外部模試を受ける機会が増えていて、教師からのプレッシャーもかかり始めてきている。この前、担任との二者面談でも志望校を聞かれたばかりだ。まだ決まってませんと俯いて答えた自分や、そんなに焦って決める時期じゃないから大丈夫だぞと言われて安堵した自分が、ひどく幼稚でみじめに思えたのをはっきりと覚えている。

 だけど、焦る一方で、受験や高校、自分の未来について考えると息が詰まった。決めないと不安なくせに、自分の未来のことを考えたくなかった。

 だって――――。


「……どんな学校があるのか、まだ全然調べられてなくて。ちゃんと自分で決めようとは思ってるんだけど」


 中学を卒業したら、もうこの駅で透真に会えなくなる。

 今は二月。卒業まであと約一年。刻々と進むタイムリミットから目を背けたくて、私は高校を調べることができなかった。だから、ずっと見ないようにしていた。私が私のままでいられる場所、それを失う未来を考えたくなくて。


「……S高はどう?」


 その時、透真が言いづらそうに聞いた。


「S高?」


 聞いたことがあるような無いような。先日教師から配られた県内の公立高校の一覧表を思い出す。確かS高もそこに書かれていた気がする。透真が頷いた。


「隣町にある高校。県内では有名だよ、そこの美術科」


 思わず息を飲んだ。美術科の高校。まったく無かった発想だった。


「日本画と油絵、デザインの三つのコースがあったはず。普通科よりずっと偏差値は高いけど、実際は実技重視の入試だって聞くし。興味あったら調べてみたら」

「……そうなんだ。詳しいね、透真」

「一応、志望校だから」


 さらりと、なんでもないことのように彼が言った。


「県内では写真科どころか部活でさえほとんどないんだけど、S高は写真部がかなり活動的でさ。だから普通科に入ってのんびり勉強しながら、写真部に入るのもいいかなって。将来仕事にするかはまだわからないけど、大学やその先のことは高校入ってからでも遅くないかなとか、呑気に考えてる」


 それでも、きちんと自分で調べて高校を決めている透真は、私よりもずっと大人びて見える。彼はきちんと前を見ている、このまま此処に縋っていたい私とは違って。じわりと劣等感が肋骨の奥に広がって、私は俯いた。ちょうどその時だった。



「――――だからもし、葉月さんにその気があれば、高校一緒に行かない?」



 ばっと顔を上げる。驚きすぎて、一瞬心臓が止まったように思えた。透真はこちらを見ていない。明日の天気を聞くような声音のまま、冬の線路を眺めている。


「このあたりで美術科がある高校ってS高ぐらいだし。隣町だから少し遠いけど、この駅からも通えたはず。確かここからバスで40分くらい」


 胸が大きく高鳴ったのが分かった。

 美術科の高校に入れば好きなだけ絵を描ける。絵を専攻にする学校だから、今みたいに絵が好きなことを隠さなくてよくなる。息苦しい思いをしなくてよくなる。この駅から通える。中学を卒業しても、ここで透真に会える!

 いつの間にか、さっきまであんなに吹いていた強い凍風はもう止んでいて、空からは優しい夕日が差し込んでいた。とてつもない高揚感に圧されて頬が紅潮する。「いきたい」気づけば声に出していた。


「行きたい、S高の美術科。どのコースも面白そう。絵の勉強、やってみたい。透真と行きたい」


 うわ言のように答える。彼は線路から視線を外し、私の方を見た。

 その時に初めて、彼の表情は声の調子とは裏腹にとても強張っていたことに気が付いた。緊張した表情が、まるで雪が溶けるようにゆっくりと穏やかになっていく。


「……でもまあ、他にも高校は調べてみたほうがいいとは思う。その、無理してS高だけに絞るより。併願校も考えないとだし」

「そうだね。でも今は、今はS高にすごく行きたい。帰ったらまた調べてみるね――――透真、」

「ん?」

「ありがとう、教えてくれて。一緒に行こうって言ってくれて」


 言わずにはいられなかった。絵のこと、白雪姫のこと、進路のこと。透真はいつも私を助けてくれた。親が死んでからずっと頭にある濃い霧も、息が詰まるような学校生活も家庭の時間も、透真と一緒にいるときは忘れられる。冗談抜きで、彼という存在は私にとって救いになっていた。

雨ばかり降っていた世界に優しく光を差し込んでくれる、私の七月。



「……いや、ありがとうっていうか……」

「なに?」

「……なんでもねぇよ。ねえ、ところでさ」


 透真がとんとんと白雪姫の絵を人差し指で軽く示す。


「白雪姫はバッドエンドだと思う?」


 急に話が白雪姫に戻って、私は少し困惑した。


「え……ど、どうして?」


 戸惑いながら、考える。白雪姫のエンディングは王子様との結婚式だ。原作とアニメでは雰囲気が違うけれどそこは共通している。普通、結婚式で終わるならハッピーエンドな気もするけれど。


「だって白雪姫は死にたかったのに、王子様の勝手な都合で生き返っちゃったじゃん。そこに関しては、どう解釈する?」


 考える前に、階段の向こうから足音が聞こえ始めた。はっとする。部活動が終わったんだ。ということは、もうすぐ電車が来てしまう。もうそんなに時間が経ってしまったのか。


「ま、いいか。この話はまた今度にしよう」

「そうね、ごめん。なんか思いついたらラインする」

「わかった……はい、じゃあこれ。今月分」


 私の絵を仕舞った透真が、すっと写真を渡してくる。じっくり見たいけど、時間が無い。ありがとう、と受け取った私はすぐにいつものクリアファイルに入れた。帰ってからゆっくり見よう。


「あと、葉月さん」


 呼ばれる。先に立ち上がった透真が、私を見下ろしている。


「そのかんざし、いいね」


 ふわりと、梔子の香りがした。

 じゃあまた明日。そう微笑んだ透真はさっさと階段の向こうへ歩いて行った。

 やがて人が増えていき、いつもの雑踏がホームを満たす。

 彼に別れの言葉を返せたかどうか曖昧だ。

 不意に言われた褒め言葉が、信じられないくらい甘く聴こえてしまって、私はしばらく動けなかった。



*  *   *



 家に帰ると、電気がついていなかったのか部屋中真っ暗だった。ほっとする。由紀子さん、まだ帰ってきていないみたいだ。玄関の電灯をつけて、私は靴を脱いだ。昨日は夜勤だったから今日は家にいると言っていた気がするけれど、急な仕事でも入ったのだろうか。

 まあいいや。夜まで帰ってこなさそうだったら、久しぶりに今日はご飯を作ろう。今日は寒かったし、玉ねぎも人参も鶏肉も中途半端に余っていたから、ホワイトシチューとかいいかもしれない。ルーはまだ残っていたっけ。うきうきと考えながら、私は水筒と給食用の箸セットをシンクに持っていこうと台所に足を踏み入れた。

 入口横のスイッチを押す。室内が明るくなったその時、台所と二間続きになっているダイニングのテーブルに、大きな暗い塊が乗っかっているのを見つけた。びくっとする。あれは、


「ん……ああ、葉月ちゃん。おかえり」


 暗い塊は、テーブルに突っ伏している由紀子さんだった。私に気付いて顔をあげた彼女は、眠っていたのかぼんやりとした顔をしている。心が急速に冷めていくのを感じた。


「……ただいま、由紀子さん」


 落胆が滲まないよう、努めて明るく返事をする。持っていた箸セットと空になった水筒を、シンクのたらいに入れた。


「ああ、もうこんな時間。ごめんね、昨日は夜勤だったんだけどまたちょっと眠れなくなっちゃって、お昼にお薬飲んだの」

「そうなんだ。お疲れさま」


 早く部屋に行こう。手袋とマフラーを外し、私はすたすたとダイニングを通り過ぎようとする。けれどその時、テーブルの上に広げられた代物が目に入り、私は硬直してしまった。

 入ったときには気付かなかった。そこにあったのは、おびただしい量のチラシとパンフレットだった。



『まだ間に合う! 受験準備応援キャンペーン』

『三年生までにニガテを撃破! 春の無料講座 3月12日まで』

『夢に向けて誰よりもはやいスタートを D進学塾 春期講習のご案内』

『締め切り間近! 新中学三年生対象春期講座』



「ああ、これね」私の視線に気付いた由紀子さんが嬉しそうに言う。

「この前仕事終わりにあちこちの塾行って貰ってきたの。ほら、学校の周辺にはあんまり無いから、葉月ちゃん一人じゃ選ぶの難しいじゃない? だからお母さん、ちょっと吟味してたの。葉月ちゃんに合いそうなのはどこかなーって」

「……選ぶ?」

「ああそうだ。塾の前に、まずは決めておかなくちゃね。ねえ葉月ちゃん、これ、見て」


 私の言葉も聞かず、由紀子さんはダイニングの椅子を引いた。それを見てぎょっとする。椅子の上には、テーブルに乗り切らなかったパンフレットの山が置かれていた。由紀子さんはそこから三冊取り出して、塾のチラシの上に並べる。



『伝統と誇りを胸に A高等学校』

『世界に羽ばたく人材を創出する 県立R高等学校』

『T高等学校 叡智を育む』



 見覚えがある学校名ばかりだった。教師たちがたびたび口にする、県内有数の進学校。

 上品なデザインの表紙には、制服を着た男女がそれぞれ満面の笑みを浮かべている。自分たちはとても幸せなのだと叫ぶように。


「葉月ちゃんはどれがいい?」

「え?」

「理系の授業にとても力を入れているし、語学学習も充実しているから、やっぱりA高かしら。でもここからだと少し遠いかもね。近さで言ったらR高が一番いいんだけど。ここは海外留学の援助も手厚いみたいだし。でも学校行事がすごく多くて忙しいみたいなのよ、大学受験に集中したかったら、T高がいいんじゃないかなって思っていたんだけど、」

「ちょ、ちょっと待って」


 一気にまくし立てた由紀子さんは「なに?」と首を傾げる。


「待ってよ、由紀子さん。私、高校は自分で調べたい。春期講習とかも、私行きたいなんて一言も言ってない」

「行きたい行きたくないは関係ないわよ。受験は一人でできるものじゃないのよ、こういうのはプロのサポートを受けないと。それに、自分で調べるって、葉月ちゃんから高校の話なんてお母さん聞いたことないよ?」


 由紀子さんがあきれたように言った。その口調にかちんとくる。


「だからってこの三つに絞らなくてもいいじゃん」

「どこも素敵なところじゃない、教育熱心だし進学実績もちゃんとしてる。なにが気に入らないの、葉月ちゃん」

「そういう話をしてるんじゃないよ」

「じゃあ、何が言いたいの」


 彼女がため息をつく。困った子供を見るような表情に、私はいよいよ腹が立ってきた。


「行きたい高校があるの、私」


 由紀子さんの驚いた顔を見て、少しだけ胸がすっとする。


「そうだったの? 知らなかった。なんて名前?」

「S高。隣町にある高校。学校の最寄り駅からバスで40分くらいのところ」


 さっき透真から聞いた話を、さも自分が調べたように話すのは心が苦しい。でもこの局面はどうにかしてでも乗り越えなくては。私の未来まで由紀子さんに縛られるのは嫌だ。

 由紀子さんがスマホを取り出して検索をかける。そしてすぐに、「えー!?」とあからさまに嫌そうな声を出した。


「やだ、葉月ちゃん。S高って偏差値たったの49じゃない。こんなところ目指してどうするの?」


 再びあきれたような表情を作る。この子はやっぱりなんにも分かっていないのねと言いたげな。これほどまでに神経を逆撫でする表情があるとは知らなかった。


「こんなところって……」

「だってそうじゃない。ねえ葉月ちゃん、高校に入るのはゴールじゃないの、三年後にまた大学受験があるの。A高やR高みたいに大学受験を熱心にサポートしてくれるところじゃなきゃ、ちゃんとした大学に入れないわよ? わかってる?」


 由紀子さんの勢いは止まらない。彼女が腹立たし気にスマホをテーブルに置く。画面にはS高の写真と「普通科 偏差値49」という数字が表示されている。


「それがこんな低い偏差値の学校を目指そうだなんて。葉月ちゃん、もしかして勉強するのが嫌いなの? 最近定期テストの点数もあんまり伸びていないもんね。高校受験、楽な道に逃げようとしていない?」


 由紀子さんの言葉の一つ一つが油になる。小火のように燻っていた私の怒りが、彼女の声を聞くたびに大きな炎に変貌し、その熱さに息ができなくなる。


「……私、逃げてない。そんな風に、言わないでよ」


 やっと口にできた言葉の、あまりの幼稚さに眩暈がした。「じゃあ聞くけど」由紀子さんは攻撃の手を緩めない。


「葉月ちゃん。なんでS高に行きたいの?」

「だってそれは、その学校の――――」


 美術科に入って絵の勉強がしたいから。そう続けようとして、私は絶句した。

 私は絵の話を由紀子さんにしたことがなかった。

 成績や試験のことで由紀子さんと言い合いをしたことは何度かあった。でも進路については今日が初めてだ。話をしなかったわけではないけれど、志望校はなるべく早く決めておかないとね、くらいの催促だけ。ここまで踏み込んで私の将来の話をしたことがなかった。だから気づけなかった。S高に行くことを説得するためには、ずっと隠していた絵について話をしなければならないということを。

 私はずっと絵を描いていて、将来もイラスト関連の仕事に就きたいの。だから高校と大学で、専門的な絵の勉強がしたい――――これを、由紀子さんに?


「学校、の……」


 美術科という言葉が続かない。

 理性は警鐘を鳴らしている。でも感情が、私の一番の宝物を彼女に見せることを全力で拒んでいる。


「学校の、なに?」


 圧が強い由紀子さんの声。

 じりじりと焦燥が心臓を焦がす。でもそれ以上に、彼女への嫌悪感が私の喉をきつく絞めた。

 永遠のような数秒。

 答えに詰まった私を見て、由紀子さんは大きなため息をついた。


「もういいよ、葉月ちゃん。お母さん、もうわかったから」


 嘆くような声だった。


「葉月ちゃんが高校受験に対してどんな意識を持ってるか、よくわかったよ」


 体が震えだす。怒りと情けなさとがぐちゃぐちゃになって、ごうごうと渦を巻いて私の息を荒くする。叫びたくて堪らないのに、反射的に歯が食いしばって、何も言うことができない。


「これからは受験に本腰入れようか。今までなんにも言ってなかったお母さんも良くなかったね。だからお母さんと二人でA高かR高かT高、頑張って目指そう。第一志望をどれにするかはまた後で決めればいいわ。偏差値はどれも同じくらいだし。大丈夫、葉月ちゃんならきっと入れるよ」


 この人はなにを言っているんだろう。どうしてこんなに、私の意志を踏みにじるのだろう。


「さ、消毒をして、手を洗っておいで。もうこんな時間になっちゃった――――ああ、そうだ、葉月ちゃん」


 立ち上がった由紀子さんが呼び止める。ほとんど息を止めている私に目を合わせた。


「部活動とか委員会、なにかやってたっけ?」


 突然すぎる質問だった。なんのつもりだろう。


「……部活はやってない。選挙委員には入ってるけど」

「それって、なにするの?」

「……生徒会選挙の時に投票用紙とか、渡したり集めたりする」


 夏休み明けの選挙期間しか仕事がないから、楽そうだし放課後を潰さずにすむと思って、なんとなくで入った委員会。そういえば、部活のことも委員会のこともこの人に話したことがなかったな。

 でも、なんで? そう聞こうとした私の声が、彼女の言葉に搔き消される。


「――――じゃあ、放課後は空いているのね」


 さっきとは違う、少し安心したような声。


「葉月ちゃん。帰る電車、いつもよりも一本前のやつで帰ってきたら?」

「え?」

「HRのあと駅までちょっと急がなきゃだけど、確か早めに出る電車があったよね? 明日からはそれで帰りましょうよ。部活も委員会も放課後にないならちょうどいいじゃない。塾も夕方の早い時間から通えるだろうし、お母さんも安心だわ」


 声を失う。言われた内容と彼女のまったく悪意のない表情に。


「後で春期講習どれにするか一緒に選ぼうね。講習が気に入ったなら受験までその塾に通うことにしましょう」

「待って……」


 掠れる。由紀子さんがこちらを不思議そうに見た。まるでわかっていない顔だ。何もかも、私のことも。

 透真との時間。私が私でいられる時間。それを由紀子さんは奪おうとしている。

 焦りなのか怒りなのか、私の心臓は感情に溢れかえってがくがく震えていた。


「帰りはいつもの電車で帰る」


 負けるな、自分で自分を鼓舞する。案の定、彼女は眉をひそめた。


「どうして?」

「その方がいろいろと都合がいいの。時間とか」

「少しギリギリかもしれないけど、絶対間に合わないって時間じゃないでしょう」

「でも」

「ねえ葉月ちゃん、お願い。お母さんのことを困らせないで」


 また嘆くような声。由紀子さんが目を伏せた。


「あれもこれも嫌って言わないで。お母さん葉月ちゃんが心配なの、葉月ちゃんが受験に失敗したらどうしようって不安で眠れない日だってあるの。病院で眠れるお薬もらっているし、そのせいで大好きなお酒だって飲めない。仕事も毎日忙しくて、それでも一生懸命葉月ちゃんのこと考えているのよ。

 どうして言うことを聞いてくれないの?」


 その時、ぶわりと頭の中で真っ白な霧が溢れた。

 雪のように白い霧が頭と内臓を冷やしていき、暴れまわっていた私の感情が急激に薄くなる。怒りや焦り、苦しさのすべてが冷めたお陰で私は思い出した。

 そうだった。由紀子さんはなにも、私の心配をしているんじゃない。由紀子さんは『理想の母親』になりたいんだった。

『娘の将来を心配する母親』、ひいては『進学校に通う娘を持つ母親』。

だって、義理の娘である私が進学校に入れば、義母として娘への教育をきちんと果たしたのだという証明が手に入る。だから娘を従順にさせる必要がある。言うことを聞かせる必要が。

 そして私は――――そうだ。

 決めたんだった。由紀子さんや学校生活のことばかり抱えるのはやめようと。透真と一緒に過ごす時間に縋って生きようと。


「……ごめんなさい、由紀子さん」


 彼女が顔を上げる。私は、自分でも驚くほど上手に微笑むことができた。


「学校はその三つのどれかを目指すことにする。塾はご飯食べてから選んでみるよ。私のためにたくさん考えてくれて、ありがとう」

「葉月ちゃん……」

「でも、電車はやっぱりいつも通りにさせてほしい。学校で自習して帰りたいの。先生もいるからいつでも質問できるし」


 声のトーンは、高くなっていないだろうか。


「そう……わかったわ。確かに、学校なら勉強もしやすいかもね」


 由紀子さんが安心したように微笑む。私は口角を綺麗にキープしたまま頷いた。


「じゃあ、塾をどれにするかはまた後でにしましょう。お母さんご飯作るわね、お腹すいちゃったでしょ」


 言いながら、由紀子さんはダイニングテーブルの一角に手を伸ばした。つられて見た先には、白い紙薬袋が置かれている。パンフレットやチラシに紛れて気づかなかった。由紀子さんの睡眠薬。彼女はそれを持って台所に向かう。


「人参も玉ねぎも半端に残ってたわね、それに鶏肉も。じゃあ今日はオムライスにしようか。葉月ちゃん、好きでしょ?」


 薄くて固い卵焼きが乗っかった、風味もクソもない由紀子さんのオムライス。一気に食欲が無くなるのを感じた。


「うん、大好き。ありがとう、由紀子さん」


 じわじわと、頭の霧が私の首を絞めていく。いつものように。

 そのあと逃げるように部屋に駆け込んだ。

 階段を上がる。扉を閉めて鍵をかける。画材の匂い、紙の匂い、本の匂い。アトリエの空気を吸い込んでようやく落ち着いて、私はうずくまった。

 大丈夫。上手くやれた。大丈夫。おまじないのように唱える。

 私はもたもたとリュックをおろす。冷えて指先の感覚が薄い。まるでゴム手袋をつけているみたいだ。動かしづらくて気持ち悪い。


 ――――進学校には行かない。


 チャックが生地を噛んで引っ掛かる。ぎちぎちと軋んで、戻すことも進むこともできない。それでも無理やりこじ開ける。


 ――――私はS高に行く。S高で、八月の空を描く。


 焦っていたのか、リュックのバランスが崩れて倒れた。開けている途中だったせいで、教科書やノートが重たい音を立てて床に雪崩れる。霧が体中に広がっていく気がした。かき分けるように、散らばった荷物を乱暴によけていく。埋もれているはずの灯りを探して。

 そして、ようやく見つける。


 ――――透真と一緒に行くんだ。


 渓流の写真だ。クリアファイルの向こうで、冬の川が水飛沫をあげている。少し溶け残った真っ白な雪と、夜みたいな色の川。でも水飛沫にはわずかに日の光が差し込んでいて、まるで水晶を砕いたように輝いている。寒い景色だというのに冷たさは感じない。清冽で、淡く優しい光。


(私の光)


 クリアファイルを顔に寄せ、祈るように目を閉じた。

 



(これだけが、私の、)






 ざぶんと、体が水に沈む。その冷たさに驚いて、目を開けた。

 手に持っていた写真が消えている。荷物も部屋も。

 目に見えるのは、夜の底のような闇ばかりだった。

 氷のように冷たい。

 口から泡が零れていく。また、あの海。


(どこだろう、ここ)


 何かが体に絡みついて、ずしりと深く沈めていく。

 見えない誰かに、沈められている気がする。

 暗く冷たい、海の底へと。




(私、こんなところで、なにをしているんだろう)







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