三、十月二十九日
朝。普段よりも少し早く到着した教室には、もう既に荷物を片付けていた詩織と早苗がいた。気がついた詩織がぱっと顔を明るくさせる。
「葉月、おはよう!」
高くてよく通る声。投げかけられた挨拶に、私は微笑みで応じる。十月も終わりに差し掛かり、いよいよ本格的な寒さを迎えてきた初冬の空気は薄くて、少し苦手だ。
「ねえ葉月聞いてよ、葛西のやつ、やる気なさ過ぎてほんと有り得ないんだけど!」
「ちょっと詩織ちゃん、声が大きいって」
「なになに、どうしたのよ」
華やいだ表情から一転、ふくれっ面になった彼女が言い放った言葉を早苗が諫める。発言の内容から大体私は察するけれど、分からないフリをして尋ねた。詩織がこうなった時は、まず言いたいだけ言わせておくのがいい。
「みんなの仕事が終わっていないのに自分の作業終わったらさっさと帰ってさ、問い詰めても『試験あるから仕方ないでしょ、自分の分は終わらせてるのに何が悪いの?』って悪びれもしないの! 試験あるのはみんな同じじゃん? 先に終わったならまだの人手伝うのが当然じゃん? 人として。文化祭までもう一週間しかないのに、有り得ない」
自分の分を終わらせてるならいいんじゃないかと思ったけれど、一切口には出さずに言葉を選んだ。
「へえ。葛西さんって、あの背の高い女の子だよね? 結構真面目に仕事しそうなのに。意外。ブラックって有名の体育館部にそんな人いるんだね」
「でしょ? 入る前から放課後潰れるのは大前提なのに、なんで実行委員になったんだって話だよ。無愛想だしやる気もないし、腹立つ!」
ぷりぷり怒る詩織の隣で、早苗が苦く笑っている。クラスの中でも比較的小柄な詩織は、それでも行動力と活発さは随一のものを誇っていた。文化祭の成功に誰よりも情熱と心血を注ぎ、真面目に仕事をしない人間にはひどく憤慨する。よくそんなにエネルギーを使い続けて疲れないものだ。私は感心しながら彼女に応じる。
「でもさ、それでも詩織はえらいよ。誰よりも働いて、毎日頑張ってるじゃん」
肯定的な言葉を選んで、詩織の頭をよしよしと撫でる。途端に、憤った表情を泣き顔のようにとろかせた彼女が甘えた声で言った。
「わーん、そんなこと言ってくれるの葉月だけだよ。早苗ってば自分の仕事が終わっているならいいんじゃないの? とか言うんだもん」
「やだ、早苗さんってばそんなことを言ってたんですかー?」
話題の中心を、傍にいた早苗に投げる。からかって言ったその言葉にも、彼女は過敏に反応して慌てて否定した。
「ちがっ、違うよ葉月ちゃん。私ただ、その、そう思う人もいるよねって、ほんとにそう言いたかっただけで」
「あはは、分かってるって。早苗まで泣きそうにならないでよ」
「ねえほんとだよ。詩織ちゃんを否定したんじゃないの」
黒縁眼鏡の奥から覗く、気弱そうな目を早苗が潤ませる。信じてもらえなければもう二度と話してくれないと心底恐れている目だ。私は笑って受け流しながら、早苗、見事に詩織の地雷踏んだなあと思った。こうして怒ったり愚痴を言ったりする人が求めているのは、意見ではなく肯定なのだから、早苗もそうすればよかったのに。
正論や愚痴で返すのは絶対にNG。相手にとっての自分の役割をきちんと理解して、欲しい言葉をかけてあげる。大体は同意か励ましか慰めか褒め言葉。あまりに嘘くさいとただのおべっかだから、媚びすぎないように本当のことも慎重に含める。これがコミュニケーションの最適解。
「詩織、負けちゃだめだよ。こういうのは一番頑張った人が一番報われるんだから、自信持ちな。周りが何と言おうとさ、放っておきゃいいんだよ。私と早苗は詩織の味方なんだから。ね?」
早苗のフォローも忘れないようにして、語尾の「ね?」という言葉に合わせて、私は愛想よく笑ってみせた。全然キャラじゃないのだけれど、詩織にはこれが一番効果的なのだ。案の定、彼女はふるふるっと感極まったように震え、がばっと勢いよく私に抱き着いてきた。
「んー、本当に可愛い! 今日も可愛いよ葉月、大好き!」
「やだ、またそうやって口説いてきて。誰にでもそんなこと言ったらいつか刺されちゃうよ」
「だってそうなんだもん、ねえ早苗? 今日も美人で眼福だわーほんと」
小さな体に見合わないエネルギッシュさと、適度に可愛い容姿。声優を目指しているのだと語る彼女は目立つことが好きで、声も高くよく通る。そんな詩織は、見た目が可愛くて美人な女の子が好きだ。
容姿が良い女子は、同性からは嫌われがち。そんな思い込みが壊れたのは詩織に出会ってからだ。可愛い女の子の近くにいたい。たくさん話したい。なるべく多くの時間を一緒に過ごしたい。恋愛感情とも違うその気持ちは、芸能人やアイドルを愛でるそれと似たようなものだ。それで、今は私がその対象だった。
私は色も白くないし、髪もさほど長くない。自分を美人だと思ったことは一度もなかったけれど、痩せた体型とそこそこに高い身長が、スタイルが良いと詩織のお眼鏡に適ったらしい。私の一挙手一投足を褒め、学校にいる間はほとんどずっと私にくっついていた。可愛い可愛いと言われ続けるのは悪い気分ではないけれど。
反対に早苗は、クラスの中で最も大人しい女子生徒だった。肩甲骨まで伸びた量の多い黒髪を一本に結び、度の強い黒縁眼鏡をかけている。自信というものが著しく欠如していて、いつもおどおどと気弱な態度をとる。クラスのどの女子グループにも入り損ねた彼女は、最初こそ一人で過ごしていたけれど、一回彼女が困っていたところを助けたことから私によく話しかけてくるようになった。
自分で言うのもおこがましいけど、私はそこそこ同性から人気がある。陰気で可哀想な人間だと思われたくなくて明るく嫌味のない人物を振舞うようにしたら、友達には困らなくなった。妬まれるほどのものもなく、女芸人枠にもならないちょうどいいポジション。早苗も、私からなら拒絶されないと感づいたのだろう。
ただ、詩織が地味で少し野暮ったい早苗を拒否しないのが、失礼だけど少し不思議だった。私のようにしきりに愛でたりはしていないけど、彼女にもなにか美しさを密かに見出したりしているのだろうか。
「スタイル良くて目もぱっちりしてて美人なのに、少しも鼻にかけないどころかめっちゃ優しいのって本当にすごいよね。というか奇跡だよね。あたしが男子だったら絶対葉月と付き合うのに」
「そうやって褒めてくれるのも、私の周りじゃ詩織だけだよ。詩織が女の子のおかげで、今世では男子からはさっぱりです」
「きっと高嶺の花なんだよ、男子なんてみんな子供っぽいじゃん。だから森宮くんに期待してたのに、葉月ったら、話しかけにすらいかないんだもん」
「そうなの? 葉月ちゃん」
透真の名前が出てきて、一瞬どきっとする。私たちが毎日、放課後の駅で会っていることを二人は知らない。変な噂を立たせたくなかったし、あの静かな秘密の空間を、私は守りたかったから。
ちら、と密かに彼のいる席を見る。透真は机に突っ伏して眠っているらしく、こちらの会話は聞こえていないようだった。動揺を見せないように、私は肩をすくめてみせる。
「都会の人って、なんかチャラチャラしてて嫌なんだよね」
「あー、まあ確かに森宮くんって男子と結構騒ぐタイプだもんね。でもさ、彼氏の一人くらい作りなよ、もったいない」
そうかな? 本当に、そうだろうか。愛想笑いで受け流しながら、私は考える。
どうして恋人なんかを作ろうとするのだろう。来年は受験生だから、彼氏ができたところで遊べないのに。それとも来年は遊べないからこそ、今のうちに作って遊ぼうと考えるのだろうか。年内限定カップル。恋って、そんな暇つぶしみたいなものなのだろうか。
くだらない。
「あ、でも、葉月に彼氏ができたらあたしと一緒にいられなくなっちゃうじゃん。やっぱやだ、一人にしないで」
「手の平返しがすごい。いいですよ、詩織さまがそう望まれるなら、私はいつでもいくらでも」
詩織の機嫌が良くなるような言葉選びをして、私はおどけた調子で答える。狙い通り、すっかり嬉しそうな笑顔を、彼女が浮かべた。幼げで可愛い笑い方だ。
「ね、今度またさ、三人でモール行かない? キャンメイクが新作のリップティントとアイシャドウ出しててさ、めっちゃ可愛いの。カラバリ豊富だし、お揃いの買おうよ」
詩織の言葉に、今度は早苗がぱっと嬉しそうな顔をする。コスメ云々というより『三人で』『お揃いの』という部分に反応したようだった。
メイクに全く興味ない私は、少しだけ躊躇う。前は雰囲気を損ねないように付いていったのだけれど、一日中歩き回り、一日中二人の会話に付き合ったせいですごく疲れてしまった。正直気は進まない。それに、休日は絵を描きたい。
「いやー、私実は、今月ちょっとピンチで。この前のテストあんまし良くなかったから、親にお小遣いねだるのも気が引けるんだよね」
嘘をつくコツは、適度に真実を織り交ぜること。前のテストがあまり良くなかったのは事実だ。平均割れこそしなかったものの。でも、自分のお金はあまり使ってないから十分にあるし、お小遣いは断り続けている。
私は両親がいないことも、絵を描いていることも、二人には話していなかった。どうせ卒業したらあまり会わなくなる。言う必要なんてない。
「ごめんね、冬休みはなんとか空けるから。それより今は文化祭頑張ろ? あと一週間なんだし」
「……しょうがないなぁ、葉月のお願いなら聞くしかないじゃん」
溜息をつきつつ、それでも嬉しそうに顔を綻ばせながら詩織が言う。非協力的な同級生に辟易していたから、張り切るように聞こえた私の言葉が良く響いたのだろう。ダメ押しでにこりと笑った私は、リュックから教科書の類を出して机に片付ける。もうすぐHRが始まる時間だ。
「ほんと、実行委員も葉月が一緒だったら良かったのに」
「ふふ、ありがと。でも、私は体力無いから、放課後まで働いたら倒れちゃうな」
「でも葉月ちゃんって、すごい人だよね」
なんの脈絡もなく、控え目な声で早苗が突然言った。それでも、話の流れを切ったという自覚が本人にはないらしく、彼女がそっと微笑む。
「美人なのに気取ってないし、でも全然ネガティブじゃないし。明るいから一緒に話してるとすごく楽しくて、勉強もできて。みんな言ってるよ。葉月ちゃん、かっこよくて大人っぽくて憧れだって」
早苗の褒め言葉を、私は素直に喜べない。だって、私はみんなが喜ぶことしか言わないだけだ。みんな自分の言いたいことばかり聞いてほしくて、だから誰も彼も相手に言ってほしい言葉が透けて見える。早苗も、詩織も。他のクラスの人たちも。
こんな風に同級生や周りを馬鹿にしてしまうのは、たぶん、怖いからだと思う。
二人とも大事な友達のはずなのに、私は心からの態度で接することができない。本心が言えない。好きなことが言えない。引かれるのが怖くて、場が白けるのが怖くて。だから心の中で一歩引いて、みんなのことを少しだけ下に見る。そうやって私は私を守っている。
歪だ。
「えー、なんか照れちゃう。そんな評価貰ってるなんて光栄」
「私もそう思うよ。だから、去年あんまり学校に来なかったのがずっと不思議で」
「ちょっと、早苗」
詩織が咎めるような声をあげる。続いて、気遣うような視線を私に向けた。当の私は、どうとでもないように肩をすくめてみせる。
「まあ、ちょっと色々あったんだよね。別に、いじめとか病気とかそんなんじゃないから」
のらりくらりとはぐらかす。この質問自体、初めてじゃない。でもこの先も、本当のことを言うつもりはない。父親が死んだ話なんて、言ったら空気が悪くなる。
その時、担任が教室に入って来た。おはよーございまーすと何人かが覇気のない声で挨拶する。くたびれたネクタイをした中年の教師は、宿題出せよーと疲れた声で言いながら教卓に立つ。SHRの時間だ。
自分の席に戻っていった二人を見送って、私はゆっくりと息を吐く。
帰りたいな。まだ、朝だけど。
円滑な人間関係が築けるのは良い事だ。私は平穏を愛している。でも、なんか、最近は疲れやすい。季節の変わり目だからかな。席に座って担任からの連絡をぼんやり聞きながら、別にあの家に帰りたいわけじゃないと気が付いた。
うっすら、途方に暮れてしまう。私は、どこに帰りたいんだろう。
* * *
「意外だな。葉月さん、文化祭の実行委員じゃないんだ」
駅のベンチにゆったりと腰かける透真が言った。
「え、うそ。そんな風に見える?」
「見える見える。だってほら、正門前のゲートとか壁画とか、あれって実行委員がデザインしてるらしいじゃん。去年のやつ見してもらったんだけど、あのクジラの絵、葉月さんが描いたんだと思ってた。そういうのは好きなんじゃないの?」
どくん、心臓が嫌な音を立てる。クジラの絵。それは私にも覚えがあった。
文化祭で、毎年体育館部が設置している正門前のゲート。年によってデザインが変わっているけれど、去年は宇宙を模した海の中を一匹のクジラが泳いでいる絵だった。例年より綺麗だと、少しだけ生徒間の話題にもなって。誰が描いたのかは公表されないから、きっと当時の三年生が描いたのだろうと噂された絵。
泡と星の煌めきの中を悠々と泳ぐクジラ。その美しさに心を打たれた反面、私よりも上手いかもしれないという畏怖が、心臓に引っ掻き傷を残していたのだ。
「……そりゃあ、そうだけど。だから私、人前でそれが好きだって言いたくないんだって。自分の絵を見せるの恥ずかしいし」
そう、そうだ。恥ずかしい。創作物は自分の内面。それをあんなにでかでかと学校でひけらかすなんて。自信過剰だと思われても仕方がない。それがわかっているぶん、私のほうがまだまともだ。
動揺を悟られないように、前に横たわる線路に視線を向ける。夏の頃は鮮やかな緑で溢れていた木立はすっかり薄い黄色になっていた。十月末の駅は寒い。ほかにまだ誰も来ていないプラットフォームが、寂し気な空気を湛えて今日も電車を待っていた。
「全然恥じることないのに。俺三秒に一回はどっか応募しなよって思ってんだよ?」
クジラから話題が逸れた。ほっとして彼に向き直る。
「あはは、恥ずかしい。まあいずれね、やろうとは思ってるけど。知ってる人に見られたくないって話で。友達とかクラスの男子とか」
あと、由紀子さん。心の中で付け加える。聞いた透真は、声を上げて笑った。
「俺もクラスの男子なんだけど」
「いいんだよ、透真は。馬鹿にしたりしないもん」
「あの絵を馬鹿にするやつ、いる?」
心がむず痒くなる。上手い謙遜方法が見つからなくて、私は曖昧に微笑んだ。
「どんな絵描いたとしても、透真大先生には敵わないよ。ねえ、この間の連休で行ったんだよね? 鎌倉。写真ある?」
「ああ、うん。あるよ、待って」
親がプロの写真家というだけあって、透真は休日の遠出が多かった。そうして、旅した各地の写真を何枚も撮ってきては、お土産としていつも私に見せてくれる。日帰りになる時も多いのに、彼は綺麗に撮れた写真は全て現像して、あの白いアルバムに綴じていた。だから週の始めは目にひどい隈を作って、学校やこの駅で眠ることがよくある。今朝のように。
渡されたアルバムをめくる。柔らかなページにそっと綴じられた写真は、初めて見た時よりも景色が増えていた。
長谷寺の門と階段、石畳。それらを彩るのは、赤く染まり始めた紅葉。まだ全て色づいていないカエデの葉は、淡い緑と目の覚めるような朱が完璧に重なり合っていた。日が暮れかかり、薄く紫がかった空の下でライトアップされた紅葉も綺麗だ。
名所の他にも多く写真を撮って来たらしく、早朝の細い三日月や、路傍に咲く赤い椿といった風景もあった。でも、どれもはっとするような儚さと、楚々とした風情が感じられる。心臓の奥、一番柔らかくて繊細な部分がかすかに震えた。
「透真の写真は色々見てきたけど、……うーん、なんて言うんだろうな、いつもね、同じ匂いがするんだよね」
「匂い?」
「うん」
不思議だ。どんな季節でも、どんな時間帯でも、どんな場所で、何を写していても。透真が撮る写真からは、いつも甘くて透明な匂いがする。すっきりと優雅で、少し胸が締め付けられて。まるで、夏の始まりのような。
あ、とそこで閃いた。
「透真は、七月みたいな写真を撮るね」
きょとんと、透真が目を丸くした。
「七月」
「うん、そう、初夏。梅雨が終わって、真夏になる前のあの空気。あれに似てる」
雨が止んだばかりの、しっとりとした空気に差し込まれる陽光のような。濡れた白百合が芳香を薫らせ、ゆっくりと花開くような。あの、独特な透明感。
「雨上がりの空みたいなんだよ。春が終わったばかりの五月じゃなくて、本格的な夏になる前の七月。……ほら、透真がつけてる匂い袋の、梔子だっけ? あれも、七月に咲く花じゃなかった?」
「……ああ、うん。そういえば」
「ほら、ね? ああ待って、考えれば考えるほどぴったりな気がしてきた。透真、七月みたい」
なんだか嬉しくなってきた。思えば本人も似たような雰囲気を持っている。作る人間に作品は呼応するとはよく聞くけど、こうまで似てくるなんて。だってほら、森宮透真という名前だって、改めてなぞるとなんだかすごく澄んでいる。
やがて彼は、ふっと恥ずかしそうに微笑んだ。
「七月、か。季節で例えるのはよく聞くけど、月で例えるのは初めて聞いた。詩人みたいだね、葉月さん」
「えっ」
途端、はしゃいでいた熱が一気に羞恥のそれに変わる。火をつけたように顔が熱くなり、思わず両手を頬に当てた。
「やだ、変だった?」
「いやいや、全然。俺は好きだよ、そういう表現。そうか、七月か」
透真が楽しそうに言う。その目元には相変わらずひどい隈が出来ていたけれど、長い睫毛に縁どられた瞼が持ち上がる瞬間が、私にはどうしても美しく見えてしまう。
「でも、言われてみればそうかもしれない。梔子好きだし、入道雲も、海も好きだし」
「というか、写真も全体的に色が薄めだよね。どうして?」
「わからない、気が付いたらこんな写真になってた。こういう雰囲気が好きだったし、撮りやすかったからかもしれないけど。癖みたいなものかな。葉月さんみたいに色が強い写真も撮ってみたいんだけど」
「それも見たいけど、今の透真の写真、私は好きだな」
その時、ついっと透真が目を上げる。
寒さで潤んだ瞳が、一瞬だけ鋭い光を持って、私を強く睨みつけた。
(え)
けれど次の一瞬では何事もなかったかのように、彼は楽しそうに微笑んでいた。
「ありがとう。――――そうだな、俺が七月だったら、葉月さんは八月かもしれない」
「……私?」
透真が頷く。
「使ってる画材のせいもあるかもだけど、とにかく、葉月さんの絵ってすごい鮮やかなんだよ。俺は光を薄くすることが多いけど、葉月さんは逆だよね。なんというか、本当に眩しい。それが、真夏の空に似てる」
「……真夏の、空」
「うん。だってほら、夏って木や草の緑が濃くなるでしょ? 雲も白さが増すし、空も深い青になるし、一番色が強くなる季節だと思ってて。あとさ、葉月さんが見せてくれるのって空の絵が多いし」
「え?」
「え?」
思いもかけないことを言われた。間抜けな声を出した私と透真が顔を見合わせる。
「ん? え、あれ? 俺てっきり葉月さんは空が描きたいのかと思ってたんだけど、違った?」
「……え、待って待って。ちょっと待って、見てみるから」
リュックからスケッチブックを出して、慌ててばらばら捲る。今まで描いた絵たちを次々と見返して、そうして私は、息を呑んだ。
「……ほんとだ、空ばっかり……」
錆びた線路に夕焼け、海と夜明け、森の小道とその先に広がる晴天。風景画が多い自覚はあったけれど、改めて見ると、スケッチブックに閉じ込めた景色は、空が目立つものばかりだった。
「あとほら、ほら、これ見て。葉月さんから貰ったやつ」
透真がスマホを見せてくる。快晴と水飛沫、一筋の飛行機雲。夏休みが終わった九月に透真に渡した絵だ。眩しいほどの青色で満ちている。
「葉月さんが渡してくれるの、どれも夏っぽいからさ。それのせいもあるかも。真夏っぽい」
「あ……確かに、夏の雰囲気好きかも。海とかサイダーとか。夏の歌とかよく聴くし。青くて明るくて爽やかな感じの」
「やっぱり」
透真がにっこりと笑った。「まんま八月じゃん。八月の空。真っ昼間の」
かちりと、体の内側で歯車が噛み合う。かたかたと気持ちよく音を立てて、ひとつずつ言葉を反芻した。風景、海、サイダー、夏、真夏、青、八月。
八月の、空。
眩くて透き通った、宝石のような青色。すっと心に描いてみた途端に、全身が甘やかに痺れていった。思い描いただけなのに、私の胸は信じられないほど高鳴っていく。ああ、そうか。私、
「私、空が描きたかったんだ……」
細く、声が零れる。誰も知らない小さな宝物に、思いがけず触れたような気持ちだった。
「もちろん空だけじゃなくてもいいと思う。でも葉月さんの色使いとか絵柄はすごい強みだから、なにか目標みたいなの持つのはいい気がする」
「……透真はあるの? 撮ってみたいもの」
ふっと彼が黙り込んだ。記憶を慎重に手繰るような顔だった。
いつの間にか、プラットフォームに落とされていた西日の橙はすっかり細くなっていた。私が好きな夏の色や光はどこにも無い。空も空気も匂いも色も、世界の全てがゆっくりと暗く、薄くなってゆく。
「……ひと、を」
低く、幽かな声が聞こえた。しばらく考え込んでいた透真が、ぼんやりと独り言のように言う。
「人を、綺麗に撮れるようになりたい」
寒さのせいか寝不足のせいかいつもより白い透真の頬が、その時うっすらと紅を差す。顔をこちらに向けないまま、彼が続けた。
「ポートレートって言うんだけど……人を撮るのって意外と難しいんだ。人間の顔って実は非対称で、そもそも構図だって難しいし。海とか花とかと違うから、一番魅力的な瞬間って本当に一瞬で。だから、」
つらつらと、思ったことをそのまま言葉に乗せるように言った。覚束ない声音がだんだん芯を取り戻し、そして、ぼんやりと宙に投げていた視線を、いよいよ私に向けた。
透真が短く息を呑む。幾秒か間を置いて、やがて、ふっと穏やかな顔で言った。
「……だから、いつかきちんと、人を綺麗に撮ってみたい」
あてもなく彷徨っていた旅人が、ようやく小さな町の温かい明かりを見つけたような。泣きそうな安堵の色を孕んでいた。どうしてそんな風に聞こえるのか分からなくて、私は茫然と彼の表情を見る。薄い唇が、浅く弧を描いていた。
「……意外」
「え?」
私の感想に、透真は拍子抜けしたような声を返した。
「いや、だって……透真、いつも風景を撮っているし、人がいる写真なんて見たことが無かったから、てっきり私と同じようなもの作りたいのかと」
「あ、ああ……いや、転校多かったからモデルとか頼みづらくて。でも、そうなんだよな。ポートレートの練習もしないと駄目なんだけど、似たような風景ばかり撮っちゃって」
「あー、わかる。似たようなものになっちゃうの。新しく開拓した方がいいのは分かっているんだけど、どうしてもマンネリ化しちゃうよね」
今よりもっと上手くなるためには、きちんと静物画のデッサンや構図の工夫もした方がいい。わかっている。わかってはいるけれど、発想力があまり無いせいで、題材や絵の構図がどうしても似たものになってしまう。風景を描くのが好きな反面、それは私の悩みでもあった。
「ねえ、これ、由比ヶ浜?」
膝に乗せたままだったアルバムにもう一度目を落とした私は、穏やかに凪いだ海の写真に気がついた。
「ああ、そうそう。長谷寺行った後に、写真だけ撮ろうかってことでふらっと。さすがにもう泳ぐ人はいないから、海だけのものばかりだけど」
「いいよね、海。好きなんだけど、あんまり行ったことないんだ。いいな、行きたい」
最後に海に行ったのはいつだったろう。母が旅行好きな人だったから、元気だった頃はそれこそ透真みたいによく遠出した気がするけど、覚えていない。もしかしたら十年くらい海を見ていないかも。
「なら、行こう。海」
あっさりと、透真が言った。その声に、反射的に顔を上げる。
「え、行くって」
「ちょっと遠いけど、いい場所があるんだよ。夏場は人が多くなりそうだから、冬がいいかな。俺は写真を撮って、葉月さんはデッサンしてさ。どうかな、本当に綺麗な所だから、きっと葉月さんも気に入ると思うけど」
雲に隠れていた夕日が、またゆっくりと現れる。冷えた空気をフィルターにした橙色が、薄く温かな色彩で世界を照らした。その景色に溶け込むように、透真が微笑んでいる。
どうしてだろう。胸が詰まるほど、目の前の景色が綺麗だった。
「本当に? 嬉しい。遠出とか何年もしてないし。社交辞令にしないでね」
「わかったよ、約束する」
それから、そうだな、と透真が続けた。
「葉月さんは夏の絵が綺麗だけど、冬の風景とか見たことないな。他の季節はどうやって描いているのか、ちょっと見てみたい」
「あ、いや……実は、あんまり得意じゃないんだよ。さっきも言ったけど、なんか、同じようなのばかり描いてしまうというか」
「モチーフを決めてみたら?」
「モチーフ?」
「うん、テーマっていうか」
題材のことだろうか。
「それなら、ぼんやり決めてやってるけど」
「でもそれって、あれでしょ? 歌の歌詞とか、自分が好きなものとか感動したものを絵に昇華しているよね。そうじゃなくて、伝えたいこと。物語を作るみたいな」
物語を作る。その瞬間、頭の中で私の部屋が思い浮かぶ。積み上がった画材の脇で、あらゆる物語が敷き詰められた本棚。絵とはまた違った色に溢れた世界。
あの世界を、絵で描く。
「……伝えたい、こと」
「うん。これ綺麗だな、こうしたらお洒落だなって描き加えていく葉月さんのやり方も絵画ならではって感じがして好きだけど、一回そういうのやってみたらどうかな。幅が広がると思う」
「自分で物語を作るの?」
「それでもいいし、何かをベースにしてもいいと思う。小説とか童話とか、もちろん歌でもいい。ただ、そのまま描くんじゃなくて、自分の解釈を入れてみる。自分がそれを通して何を伝えたいのか、考えてみる。そしたら深みが出るんじゃないかな、どうだろう」
心の奥で、すとんと何かが落ちた。目を見開いて、短く息を呑む。そっか、解釈。自分がそれを通して伝えたいこと。
「いいね、それ。いい。面白そう」
「あ、本当? 夏の空を描くって言ってた矢先に、違うこと言っちゃったなって今思ったんだけど」
「違うことじゃないよ、全然」
透真がまばたきをする。私はふっと笑いかけた。
「どっちも形にしたい。だって、メッセージ性と綺麗な風景。二つ合わせたら最強じゃない?」
体の奥底から何かが湧きあがる。空気はひんやりとしているのに、手足の先までじんじんと熱が巡った。私はたっとベンチから離れ、点字ブロックの内側に立つ。夕陽が雲間に入りだして、橙色と紫の空が美しく織り上げられている。
「待っててね、透真」
くるりと、彼に向き直る。これまで願ったことのない欲が、自分の中ではっきりと形作られていく。
「私、一番綺麗な八月の空描いてくるから。透真が今まで撮ったことないくらい、鮮やかできらきらした空」
光のすべてを詰め込んだような、透明に冴えわたった真夏の青。その光で、誰かの心臓に傷をつけてみたい。ずっと奥まで真っ直ぐに貫いて、二度と消えないくらいの深い傷を。私が彼の写真を最初に見て、目に焼き付いた美しさをずっと忘れられないように。
その誰かは、もし叶うならば、透真がいい。
「だから待ってて」
言ってすぐ、プラットフォームの向こうから何人かの足音が聞こえてきた。
部活が終わったんだ、席を替えなくちゃ。反射的にそう思うと同時に、がさついた駅メロが鳴り響く。
「じゃあ透真、また明日ね」
荷物を背負って、私はその場から離れようとする。中高生たちの足音が重なり、話し声も徐々に聞こえてきた。静かな世界が、ゆっくりと騒々しくなる。
すっと声が届いてきた。
「楽しみにしてる」
夕陽が沈んだ。
瞬間、周りの音と光がふっと掻き消える。
低いチェロの言葉が、胸のずっと奥の方で、優しく、灯りをつけた。
「――――うん」
返事をした途端、まるで魔法がとけるように音が蘇った。
隣の号車乗り場まで歩いていくうちに、部活を終えた中高生がぞろぞろとホームに集まってくる。「やっば寒すぎない?」「走り込みダルすぎ。部活辞めたい」「テスト勉強してる?」「早く引退したいー」なんの意味もなさそうな声がそこら中から溢れ出す。
瞬間、私は言葉にできない感情が一気に膨れ上がった。
楽しそうに話している女子高生たちの中で、私だけがたった一人切り離されたような感覚に、不意に陥る。周りの声が大きくなるにつれ、景色も音も少し曖昧になってゆく。さみしいとも悲しいとも言えない、変な胸の痛みだった。
行き交う雑踏。
女子高生の会話。
アナウンスの機械音。
吹き上がる風。
冷え込んだ空気。
金木犀の残り香。
列車の音。
冬の気配。
(透真、)
背中の向こう、ホームの端っこにまだいるはずの彼の名前を呼んだ。
胸の奥に灯った言葉を、壊れないよう抱きしめる。
(約束だからね)
* * *
「あら、おかえり、葉月ちゃん」
予想しなかったその声を聞いて、ほんのり温まっていた心が一瞬で凍りついた。
「由紀子さん」
「寒かったでしょう、はやく上がって。消毒液持ってくるから」
優しく微笑んだ彼女がさっと奥に引っ込む。対する私は頬を引きつらせて靴を脱いだ。まだ帰ってくる時間じゃないはずなのに、どうして家にいるのだろう。
由紀子さんが消毒液の入った手のひらサイズのボトルを持ってくる。私は大人しく手に消毒液を吹きかけられた。風邪が流行りだしているから、職場の病院で貰ってきたらしいもの。きついアルコールの匂いが、つんと鼻を突き刺してくる。
「はい、おっけー。手洗いうがいしておいで。すっかり日が短くなったわね、あっという間に外が暗くなっちゃって」
「由紀子さん、今日は仕事じゃなかったの」
「ああ。えっとね、なんか勘違いしてたみたいで、今日はそんな長いお仕事じゃなかったの。心配かけちゃってごめんね」
うそだな、と私は思う。声のトーンで、なんとなくそれが分かる。彼女はでまかせを言う時、いつも少しだけ声が高くなる。透真といい由紀子さんといい、人間が偽るときというのは誰しも声が高くなるのだろうか。
「でもほら、最近ずっと帰ってくるの遅かったから、よかったね。すぐ暗くなるもの、家に女の子一人だけじゃ危ないもんね」
「心配しなくても大丈夫なのに」
「遠慮しないで、親は心配する生き物なんだから」
明るく笑いながら、由紀子さんが言った。私はずっと、無理やり口角を上げながらその言葉を聞いている。
「葉月ちゃんも、家で一人はさみしいもんね」
「そんなことないよ」
心の底から答えても、由紀子さんには伝わらない。私はリュックを降ろしコートを掛けて、洗面所までさっさと歩いた。蛇口をひねって手を洗う。氷のように冷たい水が、痛いくらい沁みた。
「だから今日は、私がご飯を作ってあげる」
驚いて、私は彼女の顔を見る。その表情をどう受け取ったのか、由紀子さんはまたにっこり微笑んだ。悪意というものが、一ミリもない笑顔だった。
「今週ずっと忙しかったから、ご飯全部葉月ちゃんが用意してたものね。大変だったでしょう、今日は私が、葉月ちゃんに作ってあげるわ。任せて」
「そんな、いいよ。自分で作れるのに」
「いいのいいの。子供にばかり作らせたらいけないもの」
彼女の軽やかな声と裏腹に、私の心はどんどん冷え切っていく。理解した。なるほど、このためか。このために、由紀子さんは今日無理に早く帰って来たんだ。確信に程近い直感が変に働いてくる。
由紀子さんは自分でご飯を作りたがる。料理は苦じゃないから気を遣わなくていいと何度も言ったけれど、そのうちこれは彼女のこだわりなのだと気付いた。母親が温かい料理を準備して、子供は勉強をするという構図が、家庭のあるべき姿だと。
微笑みの向こうに言葉が見える。察知できているのかただの思い込みなのか、瞳の中でうっすら浮かぶ彼女の意図。
「だから葉月ちゃん、着替えたらちゃんと勉強しようね。もうすぐ受験なんだもの、しっかりしなくちゃ」
ご飯を作ってあげる。勉強の心配をしてあげる。将来の心配をしてあげる。
私が産んだわけでもないのに、こんなにあなたの心配をしてあげているのよ。
返事は?
「わかった。ありがとう、由紀子さん」
着替えてくるねと微笑み、私は自分の部屋に向かおうと階段を上った。
「葉月ちゃん」
その時、階下から由紀子さんが呼び止めた。
声の調子が先のものと違っているので、反射的に私の体が止まる。
「……まだ、お母さんって呼べない?」
瞬間、私の目の前は真っ赤になった。腹の底から、爆発みたいに反発心が膨れ上がった。叫びだしたくなるような激しい衝動をぐっと堪えて、私はなんとか穏やかに答える。
「由紀子さんは由紀子さんだから」
彼女の表情は分からなかった。
逃げるように私は部屋に入って、扉を閉めて鍵をかけた。紙と画材の匂いが鼻孔を撫でる。がんがんと頭の中で響く叫び声を落ち着かせようと、私は強引にこめかみを抑えた。
なんで分からないのだろう。由紀子さんは、どうして分かってくれないんだろう。
私は一人で絵が描きたい。由紀子さんと一緒にいたくない。由紀子さんのご飯を食べたくない。たったそれだけのことが、どうして分からないのだろう。理不尽な癇癪が脳に溢れて止まらなくなる。
私の両親は料理が上手かった。
昔から料理が好きだった母は、冷蔵庫にある残り物でものすごく美味しいご飯を作ることが得意だった。大雑把でレシピなんてまったく見ないのに。イヤホンで音楽を聴きながら楽しそうにフライパンをかき混ぜる母の姿も、私は好きだった。
父も料理ができる人だった。母が病気になってからはずっと父が作っていて、その料理は母のものとほとんど変わらなかった。何度か一緒に作ったことがあるらしい。薄味のお味噌汁。ママレードで煮込んだスペアリブ。林檎のすりおろしを加えたキーマカレーに、甘くてふわふわなオムライス。母から継承された味で、私はずっと育っていった。教わってこそいないけど、大体の感覚で、私も似たような料理が作れるようになっていた。
それらの大半が、母の持つ料理のセンスと経験で編み出されたものだと知ったのは、由紀子さんのご飯を食べてからだ。
由紀子さんは、病院みたいなご飯を作る。
元々料理を作り慣れていない彼女は、レシピの指示を忠実に守ってご飯を作る。看護師という職業の影響もあるのか、栄養バランスのとれたものを作りたがった。オムライスは卵が固くなるまできっちりと火を通したし、パスタもタイマーを使ってパッケージに書かれた通りの時間で茹でた。必要なものを必要なだけ使う由紀子さんにとって、料理は作業だった。
理想の『母親』になるための。
子供の幸せを考え、母親として精一杯サポートする、教科書をなぞったような理想像。それになるための。
ゆるゆると私は膝をつき、そのまま背中を丸めてうずくまった。変に体が重くて、私は着替えないまま目を閉じる。瞼の裏は混沌としていて、暗闇の中、歪んだ幾何学模様が浮き上がっては消えていた。
彼女の理想を悪いとは思わない。一応、戸籍上では親子なのだから、彼女の努力は世間一般的に見れば筋は通っている。
だけど彼女の理想は、全部見当違いだった。
たとえ味は美味しくても私は由紀子さんのご飯を食べたいとは思えない。家族の料理が心理的に受け付けないこと。それは私にとって、血縁としての拒絶だった。
首が痛くなって、顔を少しだけ上げる。教科書の重みで、リュックが不自然に傾いていた。
料理だけじゃない。最近、由紀子さんはよく私に干渉してくるようになった。
例えば、成績。
前までは私の試験についてなにも言ってこなかったけれど、十月の定期試験が返された日に突然、答案を見せなさいと言ってきた。全教科の点数を見せ、ひとつひとつの平均点まで言わされたあと、変に明るい声で、
『うん、じゃあ次は各科目プラス10点を目指そうね。お母さんも応援してるから、頑張ろう!』
と取ってつけたように励まされた。
私の生活をじわりじわりと侵食していくその様。前までは他人事のように思えていた彼女への哀れみは、その頃から嫌悪感に変貌し始めた。
―――― まだ、お母さんって呼べない?
由紀子さんは、『母親』になりたがっている。
私のことを娘として愛したいんじゃない。旦那に先立たれ、なさぬ仲の子供相手でもきちんと親子関係を作れていると、自分は難しい子供相手でもちゃんとやれていると、安心したいだけだ。
だから、心配するフリ。愛するフリ。
「呼べるわけない」
お母さんだなんて。
軽やかな通知音が聞こえたのはその時だった。
ポケットからスマホを取り出す。緑色のランプが点滅する液晶画面に表示されていたのは、詩織からのメッセージだった。ロックを解除してアプリを開く。
『突然ごめん! 来週の時間割教えてくれない?』
『実行委員あって連絡聞けなかったんだ』
白いウサギのキャラクターが泣いているスタンプと共に、そのメッセージは送られていた。確認した私は、のそのそと緩慢に鞄からスケジュール帳を取り出し、時間割をメモしたページだけ写真を撮る。パシャ、と。一眼レフの深みのあるそれとは全く異なった、薄っぺらなシャッター音が聞こえて、撮れた写真がトーク画面に添付された。
すぐに既読がつく。
『わー!ありがとう!』
『大好き!』
今度は大きなハートを抱きしめている白ウサギのスタンプ。テンポが速い。詩織はいつもメッセージの返信も速ければキーボードをたたくスピードも速かった。短い文章を沢山送ってくる彼女とのトークは、いつも通知が大変なことになる。
どういたしましてのスタンプを一つ送った私は、そのままスマホの電源を落とす。真っ暗になった液晶画面から目を外して、私はようやく部屋の電気を点けた。
息が苦しい。
今朝、教室でも感じた息苦しさがまた、どっしりと肺に圧し掛かってきた。
最近、詩織とのLINEはこんな内容ばかりだ。文化祭の準備に追われて帰りのHRに間に合わない日が続いているから、詩織には明日の予定や連絡事項が伝わっていない。理由はわかっている。詩織は文化祭の準備を頑張っているだけだ。そこに責められる謂れはなにもない。でも、こうも続くとうんざりする。
時間割を教えて。明日の持ち物を教えて。今度の試験範囲を教えて。繰り返される質問。それは、頼られているのか都合よく利用されているのか。
そこでふと気づく。
由紀子さんも詩織も、みんな、私のことを利用したいだけなのかな。
『母親』になるためのお飾り、つつがなく学校生活を送れるようにするための道具。
頭の中に濃い霧が広がっていく。冬の冷気に似た、色も温もりもない濃霧が、ゆっくりと私の首を絞めていく。その中で、気づきたくない答えに辿り着く。
(私のことが好きな人、もしかして、一人もいない?)
呼吸が浅くなって、咄嗟にスカートの裾を掴む。もう帰りたい。ここにいたくない。どうすれば帰れるのだろう。
大好きだったあの家に。無条件で私を愛してくれたあの場所に。
わかっている。そんな方法なんてどこにもない。優しくて温かいあの家はもうこの世に存在しない。絵を褒めてくれた母はガリガリに痩せ細って死んだ。本をたくさん与えてくれた父はトラックにぶつかって車ごと燃えた。
二人のいない世界で、私は生きていくしかない。
わかりきったことなのに、何故か今日は、涙が溢れて止まらなかった。
ひっと喉の奥が引きつる。外に漏れたらまずいと思って、私は必死で嗚咽を噛み殺した。
ここは私の家なのに、どうして私は、大きな声で泣けないんだろう。
なんで私は我慢しているんだろう。
どうして私、好きなものを好きだって言えないんだろう。
普段なら考えもしないことが頭の中で洪水のように溢れかえる。
そんなこと言えば周りから人がいなくなると分かっている。田舎の中学生は部屋にこもって絵を描く人よりも、一緒にショッピングモールに行く人が好きなんだ。由紀子さんは従順で成績のいい子供が好きなんだ。私は平穏を愛しているから、それが一番いいんだ。皆が言ってほしいことを言って、なってほしい人間になって、にこにこ笑っていればいい。
そんなもの、本当に平穏なのかな。
一生、そんな世界にいなくちゃいけないのかな。
足元からがらがらと崩れ落ちていくような絶望に、私の目の前は真っ暗になる。
(ああ、なんで私、)
その時、机の上に置かれたものが目に入った。
線画が途中になっている画用紙。散らばった消しゴムのカスに、柔らかい素材の消しゴム。黄色い2Bの鉛筆に、白く艶やかな表紙のミニアルバム。
はっとする。
真っ暗な闇の中で、たった一つの光を見つけたように思えた。
震える手でアルバムを開く。薄い冊子の中には、まだ数枚しか写真が入っていない。けれど、その一枚一枚が、強烈な光を放って私の胸に届いてきた。
鏡のような湖。
絹のように真っ白な梔子の花。
日が昇る前の薄いブルーの海。
柔らかく陽光を漏らす公園の木。
水彩画のような淡い色。
夏になる前の、独特な透明感。
雪のように白い肌。
男の子らしい骨ばった手。
重そうな一眼レフ。
心が落ち着く、チェロのような低い声。
甘くすっきりとした、梔子の香り。
私は大きく息を吐いた。溢れかえった涙を、手の甲で乱暴に拭う。
透真だ。
私にはまだ、透真がいる。
あの宝石みたいな時間も、光も駅も、七月のような透真も、まだ私にはいる。好きなことを好きだって自由に言える相手と時間と場所を、私はまだ持っている。生きていける世界が、私には残されている。たとえ春でも秋でも冬でも、あそこさえあれば、私たちは色鮮やかで透明な夏の世界に行くことができる。
気づいた途端、急に呼吸が楽になった。
あそこなら、なんにも我慢をしなくていい。そのままの私でいてもいい。そう思うと、疲弊しきった身体が嘘のように軽くなった。
――――あの時間だけを縋って、生きていこう。
由紀子さんのことや死んだ両親のことや、息の詰まる学校生活のことばかり抱え込むのはやめよう。透真との時間を、あの優しい時間を抱えて、生きていこう。遭難者が水を必死にかき集めるような切実さで、私は決める。八月の空を、絵で語る物語を。透真が綺麗だって言ってくれた、あのどこまでも澄み切った真夏の空を描き続けようと思えた。
そこでふと、七月に描いた絵のことを思い出した。透真に見られた最初の絵。夏の青空に溺れている、白百合の花束。
空に溺れたいのは私の方かもしれない。
自嘲じみた笑いが、吐息のように零れた。
(もう大丈夫だと思っていた)
誰かの祈りで目を開ける。
部屋も机もアルバムも消えた、深くなった青の海で、私はまたゆっくりと沈んでいた。
眠りに落ちるように。夢を、見るように。
ごぽごぽと水のような音しか聞こえない中で、誰かの声が体の芯に届く。
自分が体を持っているかも分からないのに、手を握られた、と思ってしまう。
誰かが必死で祈っている。
なぜそうしているのかはわからない。
でも、この海の向こうで、その人が泣いている。
途方に暮れた子供のように。