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拝啓、八月  作者: 結城 冴
本編 『拝啓、八月』
3/12

二、九月二十一日



 甘い匂いがして、あ、来たな、と思った。

 私は走らせていた鉛筆の手を止めて、聞こえてきた足音に顔を向ける。階段脇から顔を出した少年がにっと笑った。


「よっ」

「やっほ。今日遅かったね、どうしたの?」

「担任に荷物運び手伝わされてた。ごめん」

「全然いいよ。なんか、よくそういうこと頼まれるね」

「人気者なんで、俺」


 荷物を降ろした透真が私の隣に座ったのを見て、私はスケッチブックを閉じる。落書き用の鉛筆にキャップをして、ペンケースに放り込んだ。片付けていた私の背後から、向こうがひょいと覗き込む。


「なに描いてた?」

「はーい覗かない。落書きだよ。この前描いてたやつ終わったからネタなくて」

「え、見たい」

「やだよ。見せれるもんじゃないし、余計なものまで見られたら困るし」


 信用ないなぁと透真が笑うけど、仕方がないと思う。初対面がああだったんだから、自業自得だ。

 初対面――――七月の、あの日。

お互いの作品を見せ合った私たちは、あの後思うままに自分たちの好きなものを語り合った。絵や写真だけじゃなくて、好きな小説や漫画。音楽、歌、映画に食べ物まで。

透真は、ストーリーの面白さと文章の美しさが適度につり合った大衆小説が好きで、甘い少女漫画より芸術作品のような青年漫画が良い。洋楽のほうが格好良く思えるけど、映画はアニメや邦画が好き。甘いものをよくつまみがちで、ブラックコーヒーはまだ飲めない。

 そこには私の好みと同じものもあれば、まるで正反対のものもあった。ぴったりと合ったときはわぁっと話が盛り上がり、まったく合わないときはいかにそれが良いものかをお互い熱を込めて語った。信じられないほど早く時間が溶け去って、喉はからからなのに胸がふわふわ満たされていて、こんな経験は生まれてはじめてで。家に帰ってからも興奮はなかなか冷めなかった。


 翌日から、当たり前のように私たちはこの駅で話すようになった。

HRが終わった後、ほとんど誰もいないこの夕方の駅で、電車が来るまでの一時間半程度。電車が来る時間帯になれば、部活を終えた生徒もやって来る。そしたら私たちは離れなければならなかった。秘密を守るためだ。だから、こうして話していられるのは本当に短い時間だった。

 それだけじゃない。私たちの学校は夏休みの最初の一週間は午前中だけ課外授業がある。それが終わった後にここで落ち合った。課外の後は午後いっぱい部活という生徒が多いから、その時が一番長く一緒にいられた。楽しいし嬉しかったけど、サイダー奢らされたのは忘れていない。

 不思議な関係はこうしてゆるゆると出来上がった。学校が終わった後は必ず会うけれど、休日に待ち合わせるほどじゃない。恋人とも普通の友達とも違う、強いて言うならば秘密を共有する仲間、みたいな。そんな曖昧な間柄。


「せめて見られたくないものくらいは自重してほしいなぁ」

「どれも上手いから隠すことなんてないのに」

「お褒めにあずかり光栄です。お断りしますね」

「厳しいな、葉月さん」


 『葉月さん』――――透真は私のことを『葉月さん』と呼ぶ。

 クラスの男子が呼ぶようなぎこちない『青山さん』でも、女友達が呼ぶような『葉月』でもない。親し気な下の名前と、少し距離を置く『さん』付けのハイブリット。馴れ馴れしすぎず、かといって敬遠しすぎず。勝手に人のスケッチブックを覗いたりはするくせに、彼はこういったことの距離の取り方が絶妙に上手かった。

 そのままがいいと言われた透真は開き直ったらしく、私とこうして話す間はもとの声の低さと口調に戻っていた。教室は例のテンションのままなので、私は昼間では話しかけにすらいかない。だからクラスメイトは、私たちがこうして毎日放課後に喋りまくってるなんて露ほども知らないだろう。

 元の体勢に戻った透真から、ふわ、と花の香りが鼻孔を掠めた。甘いのにどこか澄んだ優雅な匂い。香水でもつけているのかと最初は思ったけれど、それにしては優しい香りだった。柔軟剤だろうか。


「……葉月さん?」

「え、わ! ごめん!」

「あ、いや、いいけど。どうしたの?」


 彼が首をかしげた。返事も相槌も忘れていた私は、まさか透真の匂いを嗅いでいましたなんて言えるはずもなく口ごもる。けれど何一つ上手い誤魔化しが思いつかなかったから、慎重に言葉を選んで、正直に尋ねた。


「あ、その……透真、いつも花の香りがするから、なんかつけてるのかなーと」

「花?」

「うん。柔軟剤? どっかで嗅いだ気がするんだけどわからなくて、っていうかごめんね! やっぱこの発言気持ち悪いね!」


 だんだん恥ずかしくなって「忘れてー!」と顔を手で覆う。やっぱり駄目だ。どう言い換えても変態みたいになる。言葉って難しい。顔面を熱くしていると、透真が思い出したように言った。


「あ、もしかして、これ?」

「え?」


 ズボンのポケットから透真が取り出したのは、手のひらサイズの小さい巾着だった。白く滑らかな布地にはラベンダーの刺繍が控え目にあしらわれていて、口は細い水色のリボンで結ばれている。本人から漂うものと同じ香りがした。というより、纏っていたのはこの香りのようだった。


「サシェ。知らない? 匂い袋」

「匂い袋?」

「うん。乾燥させた花とかハーブとか、アロマオイルとかを袋に入れたやつ。昔母親が作ってくれて、気に入ってるから今も作って持ち歩いてる」

「へえ……」


 節くれた透真の手のひらにのせられたその袋をまじまじと眺めてみる。おおよそ一般的な男子中学生が持つものではない物なのに、なぜか透真だと納得してしまうというか、様になる。理由としてはやっぱりその中性的な顔立ちと、どこか大人びた雰囲気だろうか。


「中身はなに?」

梔子(くちなし)。七月辺りに咲く白い花。見たことない?」


 落ち着いた低い声で透真が尋ねる。私は首を横に振った。


「このへんとかでも咲いてる?」

「あ、うーんどうだろ。植え込みに咲いてるのは結構見たことあるけど。……ほら、これ」


 透真が自身のスマホを私に向ける。液晶画面に表示されていたのは、絹のように柔らかく真っ白な花だった。濃い緑色の葉の中だとその白さがより際立っていて、瑞々しい花だった。


「へえ、綺麗」

「だろ。常緑低木で、乾燥させたら漢方薬の原料にもなるんだ。他にもいろいろ利用されてるけど、一番特徴的なのは匂いかな。春の沈丁花、夏の梔子って言われるほど香り高い植物で、だから他の花よりも、アロマとかサシェとかにして香りを楽しむことが多い」

「だからいつも匂うんだ」

「臭いみたいな言い方」


 透真が苦笑してスマホとサシェを仕舞った。


「臭くないよ、甘くていい匂い。なんて名前の花なんだろって思って」

「花だってわかったのは葉月さんが最初。よくわかったね、鼻が利くの?」

「いや、そういうわけじゃ……それより、その花のこと随分詳しいね。そっち方面も趣味なの?」


 透真の冗談を躱して聞き返した。写真家を目指すだけあって、彼がカメラについてとても深い知識を持っていることは、この二か月ほどでよくわかっていた。写真だけじゃなく映画や絵画についても造詣が深いということも。


「そんなことない、これだけだよ。良い時期に咲く花だし、香りが結構好きだし。だから前に色々調べた。それだけ」

「ふうん、撮ったことあるの?」

「もちろん。えっと……あ、あった。これ。一眼レフ初めて触った時だから随分前のだけど」


 例の如く何も記されていない、茶色い表紙の古いミニアルバム。前見せてもらった白いやつとは違うものだ。それを鞄から引っ張り出した透真が一枚の写真を私に見せてくれた。

 公園だろうか。丁寧に磨かれた鏡のように透き通った湖のほとりで、ぼうと浮かび上がるように白い花が咲いている。滑らかな花弁を持つ梔子のその様はどことなく浮世離れしていて、さっき見たものよりも淑やかな美しさを湛えていた。色素が薄く儚げでありながら、凛とした美麗さを秘めている。透真らしい写真だった。



 透真も私も、風景を主題にした作品が多い。でも、私達には明確な違いがあった。写真と絵画という媒体の違いもあるけれど、それ以前に表現の仕方が対照的なのだ。

 私はずっと色鉛筆やアクリル絵の具を使っている。

 水彩絵の具も持ってはいるのだけれど、画用紙が水でふやけてしまうのが嫌で、だからアクリルを良く使っていた。紙がふやけないようにする水張り作業が面倒だったからというのもある。

 アクリル絵の具は水彩よりも色が強く、油絵よりも彩度が高いという特徴を持っている。まあ微調整は可能だからあくまで個人の印象だけれど。ともかく、その画材を使った私の絵は、色彩鮮やかなものばかりだった。元々それを意識して描いているから、色鉛筆やコピックの時も強めの色で作っている。

 風景をいかに鮮やかに美しく描けるか。そこに重点を置く私に対して、透真の写真は色素が薄いものがほとんどだった。

 父親のお古らしい一眼レフを愛用する彼は、まるで水彩で描いたかのように淡い写真をよく撮った。光の加減を絶妙に利用した透明度の高い風景は、触れれば消えてしまいそうな儚さを持つ反面、見た人をその世界観へ引き込む強い魅力があった。初めて見た私がそうであったように。

 私たちが暮らしている場所とはそんなに綺麗なものなのだろうかと、心底不思議に思うほど洗練された景色ばかりだった。重そうなカメラで彼がシャッターを切るその瞬間を、私は一度だけ見たことがある。ファインダーを覗く透真には、なにもかもがあんな風に見えるのだろうか。



「いつ見ても惚れ惚れするなぁ」

「はは、ありがと。葉月さんいつも手放しで褒めるから調子乗っちゃうよ、俺」

「いいじゃん調子乗って。私、透真のファンだもん」

「……やめろよマジで。そういうの」


 口角を微妙に引き攣らせた透真が、少し乱暴な口調になる。照れた時の癖だ。普段あんなに飄々としているのに、たまにこうして子供っぽく照れ隠しをする時がある。いつもとは違う姿が見れるので、私はその瞬間が結構好きだったりする。


「……気に入ったんなら、今月分でこれ、やるよ。葉月さんも出して」

「あ、いいの? やった。じゃあ、ちょっと待って」


 顔をほんのり赤らめた透真がぶっきらぼうに言った声を聞いて、私はファイルを取り出す。A4のコピー用紙の束を入れたクリアファイルだ。スケッチブックと一緒に持ち歩いているもので、絵の具や色鉛筆を使うスケッチブックに対して、コピック中心のイラストを描く専用の用紙を入れている。メモする時にも利用しているけれど、これがなかなか使い勝手がいい。

 描き溜めていたイラストを数枚吟味したのち、一枚を取り出して透真に差し出す。


「じゃあ、はい。この前描いたばかりのやつ。夏が終わったの寂しくて」


 私が夏だという意気込みで描いたイラストは、青色のコピックのインクを大量消費した。

紺から明るい青へとグラデーションした空には、一筋の飛行機雲。中心に立つ後ろ姿の少女が眩いほど青く光る空に手を伸ばしている。彼女の周りに描き足したのは水飛沫で、白と青と、少しだけ紫を加えた水滴は、奥から届く太陽光に反射して真っ白に輝いていた。


「どうですかね」

「まっぶし……超綺麗じゃん、うわー……本当にこの写真でいいの? 変えたいなら言って」

「いやいや、こちらの台詞ですって透真サン」


 少しふざけ調子に返事をする。下手をすると変な事を言ってしまいそうだから、意識して軽い声にした。いざ自分が褒められたときはこうなのだから、透真の照れ隠しはあんまり笑えないかもしれない。だってまだ、褒められるのに慣れてない。

 低い声を更に低くして呻いた透真がイラストを受け取ったのを見て、私も彼から写真を貰った。リュックから取り出したB5サイズのクリアファイルに、その写真を傷つけぬよう丁寧に差し入れる。透明なファイル越しに、梔子が優しい色素で咲いていた。



『いいなあ。こういう写真、部屋に飾ったらすごいお洒落だよね』

 始まりは二か月前に遡る。夏休み初日の課外授業のあと。忘れもしない、サイダーを奢らされた日のことだ。

 初めて会った時にはあまりゆっくり見ることができなかった、あの白いアルバムを透真から見せてもらったのだ。一通り見せてもらった透真の写真を見て、何気なく私が言い放った一言だった。

 深い意味はなかった。インテリアとしてこんな綺麗な写真があったらいい感じに部屋が映えるだろうと、思ったことをそのまま口にしただけ。だから決して、決して、その発言に下心はなかったはずだった。


『欲しいなら、いいよ。一枚あげる』


 照れ隠しすらなく、さらりと涼しい顔で透真は返した。危うくミニアルバムを思いっきりひっくり返すところだった。

 もちろん最初は遠慮したけど、透真はどうやら過去の自分の作品にあまり頓着が無いようだった。サイダー奢ってもらったし、と続ける。そういう問題じゃない。

 けれど、ここまで完成度の高い作品をタダで貰うわけにもいかないので困った。どこに悩む必要があるのかと言われたけど、これじゃあ私の気が済まない。お礼もそこそこに悶々と考えた私がたどり着いた苦肉の策、それが、私が描いた絵との交換だった。自分の絵が透真の写真ほど価値があるとは思えなかったけれど、自分の創作物という点で共通していた、から。

 ダメもとで出した提案はあっさり快諾され、むしろそれでいいのかと聞かれた。曰く、写真は焼き増しできるけどその絵はこの世で一枚しかないと。思わず笑ってしまった。たまにこうして、彼は変な所で気を遣う。

 

 子供じみた習慣が、そこから始まった。

 私は絵を、透真は写真を。自分が作った作品を一つ、相手と交換する。交換する作品は新しく作ったものでもいいし、過去に作ったものでもよかった。それでも、相手に見せて恥ずかしくないような完成度を遠回しに求められているようで、私個人としてはとても気が引き締まる。

これだけいつも褒めてくれる透真から失望されないように、見限られないように。変な言い方だけれど、私は本気でそんなことを考えていた。

前のものよりも、もっともっと良いものを。私は己の腕をあがくように磨き続けた。一人でのほほんと描いていた時とは違う。程よいプレッシャーが絵のモチベーションをぐんぐん上げてくれて、なんというか、ものすごく楽しかった。

 交換する日は決まっていないけど、大体月に一、二回ほどのペースでそれを行うことにした。まあ、つまり今回はまだ三回目というわけだけれど、このやりとりの日を私は結構心待ちにしていた。

 写真も、絵も。総じて、創作物というのはその人の断片だ。

 何を題材にして、どのように表現するのか。作品とは、その人の持つ価値観や、これまで重ねてきた人生が詰め込まれている。要は自己投影だ。何を美しく感じ、何を大事にして、どう組み合わせてその作品を編み上げるのか。作り上げるまでの試行錯誤や労力も含めて、それらは全て作った人の欠片であり一部なのだと私は思っている。

 絵と写真を通して、私たちは自分の世界を交換しているのだ。

 透真の淡く美しい世界に触れるのは、知らない場所を旅するようにも似ているし、故郷の空気を分けてもらっているようにも感じる。心が無防備に曝け出されているからこそ、森宮透真という人そのものを知ることができる気もする。

 嬉しかった。

 

 


「ありがとう、大事にする」

「ううん、こっちこそ」

 リュックにファイルを入れた私は、そのまま後ろへ大きく伸びをした。先週までテストだったから全身が硬い。ぐーっと背中を反ったその時、空に引かれた一筋の白が目に入った。


「あ、飛行機雲」


 ひょいと体を元に戻した勢いでベンチから立ち上がる。ホームの黄色いブロックを越えないぎりぎりの位置から、私は秋めいた空を見上げた。

 遠く、キイイィィィンと飛行機の音が聞こえてくる。真夏の頃の面影がもう全く見えない薄い青空には雲一つなく、飛行機が引いたその少し滲んだ白がよく目立っていた。


「……今夜か明日、雨だね」


 くるり、と透真の方向に向き直った私が呟く。透真が不思議そうに、ぱちぱちとまばたきした。


「わかるの?」

「うん。ほら、飛行機が通り過ぎたあとも雲が残ってるでしょ? ……えっと、飛行機雲は飛行機が出す水蒸気が冷えて氷の粒になったものだから、湿度が高くて気温が低くないと出来ないの。ああして雲が残っているってことは、上空は湿度が今高いってこと。だから、雨が降りやすい」


 すっと私は空を指さす。昔、教育漫画かなんかに書いてあった知識だ。小学生の頃だっただろうか、雲の名前や性質を狂ったように覚えた時期があった。

でも昔の話だから、そのほとんどを私は忘れてしまっていた。どうしてそんなことを覚えようとしていたのかも。だから少し自分でも驚く。飛行機雲の性質を、こうして今すらすらと話せたことに。

 透真がへえ、と感心したように相槌を打つ。よく知ってんね、とも。

 その低い声を聞いて、ふっと光が差すように思い至る。

 創作物だけじゃない。

 雲の性質、花の名前。写真に絵。秘密。この二か月で、私たちが少しずつ交換したもの。こうした些細なことだって、自分たちの一部だ。自分たちの世界の欠片。

 例えば私は、これから先大人になっても、梔子の花を見たら透真のことを思い出すだろう。

 たとえ薄れてしまっても、こうして欠片が残っているように。

 その時、不意に思い出した。


「……そういえば、梔子の花言葉ってなに?」


 花と言えば、花言葉。梔子にだってあるだろうその言葉を、まだ聞いていなかった。総称や特徴も知っているなら、花言葉だって透真は当然知っているはず。

 と、思っていたけれど。意外なことに、透真は答えなかった。

 首を少し傾げ、ちょっとだけ目を伏せている。俯き気味のその表情は読み取りづらい。彼の向こうから秋空の薄い青色が見えた。ホームの屋根が陽の傾きに沿って影を落としていて、ちょうど透真が腰掛けるベンチから向こうがすっぽりと薄暗く覆われている。


(色、薄いな)


 ややあって、透真が顔をあげる。同時に、ふわりとあの優雅な梔子の花が微かに匂った。

チェロのように良く通る低い声が、曖昧な微笑みと共に届いてくる。


「なんだったかな、忘れちゃった」



 *   *   *



 ただいま。

 口には出さずに心で呟く。

 当然、返事はない。

 しん、と静まり返った自宅を、無表情のまま私は進む。新品のフローリングからはワックスの匂いがして、つんと鼻を突き刺した。薄暗い廊下を歩いた先、ダイニングへ続くドアを開ける。

 少し広めのダイニングとキッチン。ひどく簡素なその部屋は、うっすらと暗くなっていた。ドアの脇にあるスイッチを押して電気を点ける。明るくなって初めて、私はテーブルの上にひっそりと置かれてある紙に気がついた。




『 葉月ちゃんへ


   おかえり。

   ごめんね、急なお仕事が入ってしまったので、また病院に行ってきます。

   遅くなっちゃうので、先にご飯を食べて、宿題して、はやく寝てね。

   冷蔵庫にオムライスがあるから、温めて食べてください。


                                由紀子 』




 花のひとつも飾られていないテーブルの上に置かれた書置きは、その白さが部屋の寂しさを浮き彫りにさせていた。内容を確認した私は、書置きをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てる。嫌悪も憎悪もない。不要になったから捨てた、それだけだ。

 手洗いうがいを済ませて、私は二階の自室へ向かう。引っ越してきてもう一年以上なのに、部屋という部屋がどこかよそよそしくて落ち着かない。いつまで経っても、ここは知らない人の家みたいだ。



『葉月は本当に、絵が上手ねぇ』


 優しい声が聞こえる。

 記憶の向こう。画用紙の上で寝そべって、クレヨンを握り締めている私に、声の主が笑いかける。長く艶やかな黒髪、健康的な色の肌、私に似ているとよく言われたアーモンド形の瞳。

 私のお母さん。


『この、鳥が飛んでるのとか、ウサギがしゃがんでるのとか。五歳が描く絵じゃないわ。お母さんもお父さんも絵はからっきし駄目なのに、どこから才能をもらったのかしら。すごいわねぇ』

『はづきちゃん、絵がじょうず?』

『上手上手! ほら、お母さんの膝においで』


 促され、記憶の中の私はクレヨンを握ったまま母の膝に座る。柔らかくて温かい。さっき一緒に食べたオムライスの匂いがする。オムライス。お母さんの作るやつは、幼稚園のとは違って、卵がふわふわでおいしいんだよな。彼女の腕をきゅっと掴む。母に包まれるだけでどうしてこんなに安心できるのか、幼い頃はいつも不思議だった。

 床に広げられた画用紙には、今では目も当てられないほどぐちゃぐちゃな線が描かれている。私を抱き締めながらそれを見下ろす母は、そのまま優しく私の頭を撫でた。


『葉月は、いいこねぇ』


 頭を撫でながら、母は私を頬擦りする。それがくすぐったくて、幼い私はきゃっきゃと笑う。

 日曜日の昼だった。外はとてもいい天気で、日の光が部屋いっぱいに満ちていた。空は透き通るような青色。柔らかい風が窓から吹いて、ふわりと白いカーテンを巻き上げる。温かく優しい世界。母と私の、幸せな記憶。



 透真と初めて会った時。私は絵を描いているという趣味を誰にも言っていないと話した。

 それは実のところ、半分は嘘だ。

 言ったことがないわけではなかった。

 知っている人が、もういないというだけで。


 

 母が癌を患ったのは、六年前。小学三年生の冬だ。

 いつも通りに学校から帰ってきたら、トイレの前で母が意識を失っていた。全身の血が引くとはあの時の感覚を言うのだと思う。呻き声一つあげずに倒れている母の顔は真っ青で、何度呼んでも返事をしない。恐ろしかった。なんとかしなくちゃと必死に考えた末、やっと私が出来たのは、泣き叫びながら隣に住むおばさんに助けを求めることだけだった。

 翌日から、市内の大学病院に母は入院した。

小学校の最寄りからバスで20分の距離だったから、私は学校が終わったら父が迎えに来てくれるまで母の病室にいた。最初は、入院前と変わらない様子だった。病室に入ればいつもと同じ笑顔でおかえりと言ってくれたし、学校の話も聞いてくれた。

 しかし、体調は転がり落ちるように悪くなった。

 子供の目で見ても分かるほどガリガリに痩せ細って、抱き締めてくれる腕は骨と皮だけになった。顔も青白くなっていき、かつての健康的な笑顔は見る影もなくなった。だんだん会うのが怖くなってきたほどだ。その頃から、放課後は地元の学童に行くよう父に言い渡され、母に会うことは叶わなくなった。

そうして、私はなにも知らないまま、訳も分からないまま、ある日突然母はこの世を去った。

みぞれ混じりの雨が降りしきる、冷たく寒い日のことだ。

 葬式も通夜も、まるで現実味が湧かなかった。

 死に目に立ち会えなかった私は母が死んだことを理解できず、顔をくしゃくしゃにして静かに泣く父と手を繋ぎながらぼんやりとしていた。

 白と黒しかない世界。棺に横たわる彼女を見ても、ただ寝ているだけのようにしか思えず、なんだか夢を見ているような、重たく曖昧な気持ちだった。


 ただ、棺に花を手向けた時。母の手に思いがけず触れてしまった。

 温もりの一切が存在しない、海の底のように冷たい手。

瞬間、まるで夢が覚めたように理解した。






 母はもう、二度と起きない。


 笑顔を向けてくれない。


 ご飯を作ってくれない。


 名前を呼んでくれない。


 絵を褒めてくれない。


 頭を撫でてくれない。


 頬擦りをしてくれない。


 おかえりを言ってくれない。




『葉月は、いいこねぇ』




 気が付けば、私は棺の前で大声をあげて泣いていた。

 よぎった記憶の温もりと、触れた体の冷たさ。その温度差がとんでもない痛みを生み出して、突然私に襲い掛かってきた。

 身をよじり、絶叫し、枯れるほどの涙を流し、私は激しい痛みに耐えた。


 これが、死。


 人が、死ぬということ。


 その苦痛と絶望を、私はあの時、初めて経験した。






 由紀子さんは父の再婚相手だ。

 母が死んでから一年と少しした後。父は、母が入院していた病院の看護師だった由紀子さんと結婚した。おしゃべりで明るかった母とは対照的に穏やかで寡黙だった父が、どうして十一歳も年下の、しかも、母が入院していた病院の看護師と一緒になったのかはわからない。きっと映画のような大恋愛があってしまったに違いなかった。でも、私はなにも知らないから同情も賛美もしないし、できない。

 よく覚えている。初めて由紀子さんに会ったこと。葉月に会わせたい人がいるんだと、緊張気味に話した父が、翌日、私たちが暮らすアパートに彼女を連れてきた。小学六年の時だ。

 控え目に施された化粧。首の後ろで緩く結われた長い髪。十字架を象った小さなネックレス。丈が長く滑らかな、ミルクティ色のワンピースを着た女の人。品の良さを精一杯に出そうとした格好だった。本来はひどく内気で大人しい彼女が、無理やり親し気な笑顔を作る。


『はじめまして、葉月ちゃん。私、あなたのお父さんとお付き合いしている、江崎由紀子と言います』


 初対面である私の名前に、ちゃん付け。透真と正反対に、距離の取り方を完全に間違えた彼女の言葉。その緊張した歪な微笑みも、同じくらい緊張して引きつった父の笑顔も、私は全部覚えている。いっそ生々しいほどに。

 聞きたいことなんて山ほどあったのに、一つも口に出せなかった。

 何も言えない私をそのままに、新生活は着々と進められてしまった。

 父は住んでいたアパートを売り、県内ではあれど元の街から随分離れたところに一戸建てを購入した。江崎由紀子さんは青山由紀子さんになって、引っ越しと同時に勤務先の病院を変えた。それらは私の小学校卒業と同じタイミングだったから、私は今まで築き上げた人間関係も一新する必要があった。新しい制服も家も鼻を突くようなワックスの匂いがして、ひどく居心地が悪かった。

 洗濯機に放り込まれたように目まぐるしかった。がしゃがしゃと乱暴にかきまわされ、今までの匂いや記憶が洗い流される。油断すると気分が悪くなりそうだったから、私はなるべく感情を薄くした。痛みを少しでも感じないように。

 卒業式。友達が揃って地元の中学校の制服を着て華々しく卒業していく中、私だけが違う制服を着た。たった一人だけ弾き出されたように思えた。


『お母さんのことを忘れたの?』


 卒業式を終えた夜、私はようやく父に訊けた。卒業証書が入った筒と、様々な絵柄のメモ用紙を机の上に放り出す。絶対に手紙書くからねと、いろんな友達が住所を書いて渡してくれたのだ。


『忘れるわけがないだろう』


 父の声は重かった。元から静かな人だったけれど、こんなに痛そうに話す父ではなかったのに。


『じゃあ、なんで再婚したの?』

『いろいろな事情があるんだ。もう少し経ったら全部話すよ』

『なんで今じゃだめなの?』


 父がこちらを振り向いた。随分と痩せてしまった気がする。母が死んでからずっと、父は病人のような顔色をしていた。


『今聞いても辛いだけだからだ』


――――もうずっと辛いのに?

 口は開いたけど、声は出なかった。

 喉の奥に空気が詰まる感覚がして、私は話すことを諦めた。この感覚が来たら駄目だとわかるようになった。もう、何も言うことができないと。

 昔の私は思ったことをなんでも言っていた。好きな食べ物も好きなものも、何がしたくて何がしたくないのかも。いつの間に、私は父に何も言えなくなってしまったのだろう。

 父が黙って部屋を出ていく。私はその後ろ姿と、友達が書いた丸っこい可愛い文字を代わる代わる眺める。

 彼女たちからの手紙は、結局一通も来なかった。





 ドアノブを掴む。冷たい金属が手の温もりを残酷に奪い去る。私はきぃと扉を開け、自分の部屋に入った。

 アクリル絵の具とキャンバスの匂いが漂う。積み上げられたスケッチブックや古い色鉛筆。クレヨン。水彩色鉛筆。それらがフローリングのほとんどを埋め尽くしている。画材や古い絵、小説や童話が大半を占めるこの部屋は、たった一つの私のアトリエであり、拠り所であり、砦だった。部屋の鍵をかけた私はゆっくりと息を吐く。ようやく呼吸ができた気がして、ゆるゆると荷物を降ろす。

 由紀子さんは、可哀想な人だと思う。

 結婚してから、由紀子さんは随分と窶れた。思えば、彼女の美しさと若々しさは、初めて私と出会ったあの頃がピークだった気がする。元々薄い色素だった髪がさらに薄くなり、白髪が増えた。肌は青白くなり、いつも弱々しく笑うようになった。まだ二十代だというのに、その様子は年齢よりもずっと老けて見える。

 そりゃそうだろう。愛していた、恐らく唯一の頼りだった夫が早々に死んで、残ったのは全く懐かず可愛げのない中学生の義理の娘。そんな子供と二人きり。私だったら絶対に耐えられない。本当だったら同年代の人ときちんと結ばれて、自分の子供を産んで、普通の幸福な家庭を築けたはずなのに。私がいるせいで、その全てはもう叶わない。

 あんたさえいなければ良かったと言われてもおかしくないのに、彼女から責められたことは一度もなかった。

 由紀子さんは私に何度も歩み寄ろうとしてくれた。一生懸命私の好みを探し、学校生活を気にかけ、どうにか一丁前の『母親』になろうと努力してくれている。本当はお酒が大好きなのに、私に気を遣ってほとんど飲んでいない。看護師という忙しい職務の合間を縫って、私との時間を作ろうとしている。由紀子さんは私を気にかけてくれた。

 でも私は、由紀子さんの顔を真っ直ぐ見れない。

彼女の本音が見えてしまう気がして。

優しそうな声の向こうで、憎悪に歪んだ色が見える気がして。

 私は、自分の趣味を、絵を描いていることを、由紀子さんに話したことはない。

 この部屋にも、一度も入らせていない。

 好きなことも、密かな夢も何一つ、私は由紀子さんに話したことはなかった。

 私にとってまだ、由紀子さんは他人だった。




 制服から動きやすい部屋着に着替える。前の家から持ってきた置時計と、由紀子さんが買った壁掛けのデジタル時計が六時を告げている。軽く伸びをした私は、クローゼットのすぐ隣にある本棚に視線を寄越した。どの段にも、外からは見えないように薄手の古いカーテンをかけている。

 一段目は漫画、二段目は文庫本、一番下はスケッチブックとケント紙。私の趣味が詰め込まれたこの本棚の三段目には、海外童話と翻訳小説がぎっしりと並んでいる。お洒落で洗練された世界が綴じられたこれらの本は、昔父から貰ったものだ。

大学で海外の児童文学について研究していた父は、要らなくなった本をよく私にくれた。一緒に外で遊んでくれるタイプではなかったけれど、目新しい外国のことをたくさん教えてくれた父のことも、私は大好きだった。

 中学に上がってすぐのことだったと思う。学校が終わってすぐ担任に呼び出されて、自宅ではなくここに一緒に行くように言われたのは。訳が分からず連れていかれた先は、市内の警察署だった。

 父が事故に遭ったという。大学病院近くの市立図書館に向かうところだった父の車が、三丁目のガードレールに衝突したと。警察から事情を聴いている由紀子さんは別室にいるらしい。体温が急速に下がり、背負っていたリュックが岩のように重く思えた。


『じゃあ葉月ちゃん、お姉さんと一緒にお母さんが帰って来るのを待とうね』


 女性警官がぎこちなく笑う。担任教師が帰ったあと、私はまだ20代くらいに見える若い警察官と一緒にいるよう言われた。連れていかれた部屋はぬいぐるみや本、画用紙に色鉛筆が置かれていて、コンクリートの暗いグレーに当てられて色がひどくくすんで見えた。幼い子向けに用意されたものみたいだ。


『なにがいいかな。本も漫画もあるし、お絵かきするのもあるよ。それとも、学校の宿題がいいかな?』

『あの』


 掠れた声が漏れる。女性警官が恐々と微笑みかけた。『なに?』


『父は、どこに、いますか』


 呼吸が浅くなる。目の前がうっすらと暗くなって立ち眩みがした。底冷えするような恐怖。怪我をしたならきっと病院だ。意識が無くてもいいから会わせてほしい。眠った顔でもいいから、早く父を見て安心したい。

 目の前の女性は見るからに動揺した。


『……お父さんは、遠くに行っちゃったの』


 心臓が凍りついた。

 頭の中で、真っ白い霧がぶわりと溢れ出す。


『でも、でもね葉月ちゃん。葉月ちゃんにはお母さんがいるよ。学校の先生もお友達もいるし、それに、お父さんは葉月ちゃんのこと見守っていてくれるから、葉月ちゃんのそばにずっといてくれているからね』


 彼女の必死めいた言葉に頷くこともできないまま、私はその場に立ち尽くしていた。

 溢れ出した頭の霧が、じわじわとお腹の底を冷たく蝕んでいく。


『葉月、図書館で本借りてただろう』

 今朝、父が言っていた。

 市立図書館で小説を数冊、私が借りていた。返却日までもう少しあったけれど、もう読み終わっていたから返そうかなと思っていて。大学病院の近くで、自転車で行くには少し遠い。

 外は、ぱらぱらと雨が降っていた。


『今日はあのあたりで用事があるから、帰りに寄って返してくるよ』

 言われて私は、父に、本を渡した。




 その後も、父を見ることはできなかった。

 衝突した車から漏れたエンジンが、事故の直後引火して炎上したらしい。

 炎は、父の車と死体を燃やした。



 ――――絵に没頭するようになったのはその後からだ。

 本棚の三段目、そのうちの一冊に私は手を掛ける。『赤毛のアン』の第一巻と『白雪姫』の原本の間に鎮座していた、それはミニサイズのフォトアルバムだ。透真が持つものに似た、白くて艶のあるハードカバー。駅の近くにある雑貨屋で買ったものだ。

 私はリュックからファイルを取り出す。B5サイズのクリアファイルの向こうで、梔子の花が優雅に咲いている。丁寧に織られたシルクの布地みたいに真っ白で滑らかだ。湖も空も淡い光で満ちている。不安も痛みも存在しない世界。

 私がその世界に行けるのは、絵を描いている時だけだった。

 昔から好きだったけれど、絵のほかにも好きになれることはあった。でも今は暇さえあれば題材を探し、デッサンをし、色を紡いでいる。胸の奥に散らばった欠片が、元の形に戻らないように。


 ほんの些細な出来事ひとつで、私は両親を思い出してしまう。

 二人が死んだときのことも。

 じわじわと病魔に蝕まれること。訳も分からないまま、ある日突然この世界から消えてしまうこと。死体すら残らない喪失があること。葬式の白と黒。警察署の鈍いグレー。海の底のような死体の温度と、内臓がごっそりと抜け落ちるような、痛みのすべてを。

 二人が記憶によぎるたび、私はその痛みと、頭の中に充満する真っ白で冷たい霧に耐えなければならなかった。痛いだけならまだしも、この正体不明の霧も苦しくて嫌だった。頭がぼんやりして、なんにも考えたくなくなって、薬を飲んだ時みたいに感覚が薄くなる。

 全部を忘れさせてくれたのが、絵だった。

 真っ白な画用紙に、色彩溢れた美しい世界を自分の手で作り出す。その時間だけ、私は目の前のことに没頭することができた。色鉛筆、コピック、アクリル絵の具。深い赤、浅い青、柔いピンク、軽いオレンジ、眩い緑。きらきら光る様々な色たち。

 何かが楽しいと純粋に思えるのは絵だけだった。今までは。

 すっとファイルから写真を抜き取り、アルバムもぱらぱらと捲る。柔らかい紙の匂い。三ページ目で手を止めて、私は梔子の写真をそこに差し入れた。さく、と紙が擦れる音。透真から貰った世界の欠片が、私に優しく嵌る音。

 頭の中の霞も痛みも不安も、全部忘れられる瞬間が増えた。透真と一緒にいる時だ。

 知らなかった。誰かと好きな話をすることが、絵や写真の話をすることがこんなに楽しいだなんて。窓を全開にして、新鮮な風を思い切り吸い込むような気持ちよさ。自分の心を隠さずに好きな話ができるのは、良い。

 私はアルバムを閉じて、そのままそっと胸に抱き寄せた。

 いつの間にか部屋が暗くなっている。九月になってから日か落ちるのが早くなった。電気をつけるのも億劫になって、私は壁際のベッドに倒れこむ。途端に、とろとろと眠気が体を温めだして瞼が重くなった。

 フォトアルバムを三段目に入れるのは、透真がなんとなく父に重なるからだ。

 幼い頃海外の童話をたくさん教えてくれた父と、切り取った景色をくれる透真。私の胸を高鳴らせるような、お洒落で美しい世界を教えてくれた二人。

 ぎしりと、記憶の歯車が軋みだす。



『お父さんは、遠くに行っちゃったの』

 女性警官の声が、頭の霧の中で反響する。


『お父さんは葉月ちゃんのこと見守っていてくれるから、葉月ちゃんのそばにずっといてくれているからね』



(遠くに行ったのに、そばにいる?)



 ぱら、と。微かな音が聞こえてくる。

 窓の向こう。暗くなってもう景色が見えない。けれど、ぱら、ぱら、ぱらと音がどんどん重なっていく。雨だ。あの飛行機雲を見てからそんなに時間は経っていないはずだけれど、もう降ったのか。



(父はどこに行ったのだろう)



 ぼんやりと雨音を聞きながら、頭では立ち尽くしている中一の私をなぞっていた。今の今までずっと忘れていたのに、あの時警官から聞いた言葉が、聞いた時に浮かんだ言葉が、もう一度胸に引っかかる。

 灰色のカーテンのように、雨の音が部屋を暗く包んでいく。




(死んだらどこに行くのだろう)







 瞬間、景色が溶けた。

 部屋が消え、本棚が消え、雨が消える。その代わり、薄い青色が私の視界を満たす。口から泡が漏れていく。

 体は重心を失って、私はまた背中から沈んでゆく。青く温かな海の中で、たった一人。


(また?)


 曖昧な意識の中で浮かび上がった疑問も、瞬く間に消えていく。

 ふと、光が見えた。水中から覗くぼやけた光は、どこか淡い。既視感を覚えながら、それでもどこで見たのかどうしても思い出せない。

 なにか忘れている気がする。

 思いながら、私はゆっくりと目を閉じる。

 息をしないまま、眠りに落ちる。





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