一、七月八日
自己紹介を、と教師に促されたその子は、大きな瞳を一度瞬きして教室を見渡す。
雪を欺く白い肌。少し茶色がかった指通りのよさそうな髪。理知的な瞳に長い睫毛。ともすれば女子と見紛われそうな、色素の薄い涼し気な外見。先ほどまで人形のような無表情を張り付けていた彼は、喉の絡みを拭うように大きく咳払いをし、やがて、にっこりと完璧に笑った。
「東京都から転校してきました、森宮透真です」
鼓膜を滑るような、高く掠れた声。それを通して発せられた自己紹介に、私は一瞬だけ背筋がざわりとした。
(え?)
「よろしくお願いします」と彼が頭を下げる。一瞬遅れて、クラスメイト達が拍手を送った。優しいクラッカーみたいな音の群れを縫うように、女の子たちの囁き声があちこちから聞こえてくる。
「イケメンきた」「ね、思った。かっこいい」「やばいくらい目でかくない? 女子かと思った」「わかる。なんか、美少女顔だよね」それらを全部聞き流した私は一人、目を瞠らせる。座席の説明を教師から受ける彼の、その微笑みを見つめた。
今の。今のは、気のせいだろうか。
教壇から降りる際に、彼はもう一度「よろしくお願いしまーす」と明るく頭を下げる。中学生の男子にしては高めの声だった。耳に滑って残らない、掴みづらい声。女子たちはわあ、とささめきのような興奮の声を上げ、男子は好奇的な目を向けた。そんな中でも、彼は笑顔を一切崩さない。
恐ろしいとすら感じられるほど、綺麗で完璧な笑顔。ぞくりと、もう一度背中が不快に粟立つ。
中学二年の夏。梅雨が明けたばかりの頃に転校してきた森宮透真。
彼に対する第一印象は、言いようのない、凄まじい違和感だった。
自己紹介を含めた朝のSHRは、ものの十五分ほどで終わる。
前々から伝え聞かされていた転校生の待ちに待った皆勤は、田舎の中学生の好奇心を刺激するには充分すぎるほど事足りた。
あっという間にできた人だかりを、私は数メートル離れた場所でちらりと見る。その中心に立つ違和感まみれの少年は、相も変わらず綺麗な微笑みでクラスメイトと談笑していた。どうやら、あの子を不自然だと感じてしまっているのは私だけらしい。一限が始まる前の十分間。東京から来た彼は、魔法のような速さでクラスに馴染んでいた。
「はーづき」
呼ばれる。私の机にいつの間にかやって来た詩織が、上目遣いで甘えるように笑っていた。
「なに?」
「ねえ、話しかけにいかないの?」
あの子、と視線だけを向こうに寄越す。窓際の人だかりにはこちらの様子など欠片も気づいていないようで、笑ったり喋ったり騒がしかった。私は肩をすくめる。
「いいよ。別に、話すこともないし」
特になにも意識せずに言うと、「えー、意外」と詩織が笑った。
「なにが?」
「だって葉月、ああいうのすぐ行きそうじゃん」
遅れて気付き、喉の奥が詰まった。そうだった、『普段の私』だったら転校生に真っ先に話しかけに行くべきだった。誰に対しても偏見や壁を持ってはいけないのに。考えが表情に出る前に、私はえへっと笑ってみせる。
「そうでもないよー。それよりさ、次の理科って」
資料集いるっけ、と続けようとした私の言葉は、窓際からの大きな笑い声に掻き消された。
「うっそ、ここ部活6コしかないの? マジで?」
鼓膜を滑るような、少し掠れた高い声。
例の転校生だった。涼し気な容貌を破顔させ、その外見からは想像もつかないような声音と口調で会話を続けている。
「ほんとだってほんと! 野球部とぉ、サッカー部とぉ、剣道とぉ? あとなにあったっけ、囲碁将?」
「6コくらい覚えとけよ、どんだけ興味ないんだ」
ぎゃはは、と思わず耳を塞ぎたくなるような大きな笑い声。つられて、何が面白いのか周りも一緒に笑いだす。ノリもテンションも、田舎の中学生への受け答えもばっちりだった彼は、無事にクラスカースト上位を勝ち取ったらしい。大口を開けて笑っているというのに、整った顔の均衡が崩れていなかった。完璧な笑顔。透明感のある容姿。耳障りな笑い声。その歪さに、私は思わず顔を顰める。笑顔も、声も、態度も、認識する度に体中の産毛が逆立つようだった。
(ああ、)まるで他人事のように考える。
私、森宮透真が苦手なんだな。
* * *
とんとんとんとん。階段を駆け下りる私の靴音がホームに響く。
下りてすぐ、黄色い点字ブロックに沿って私は階段裏に向かった。隠されるようにひっそりと置かれているのは、少しくすんだアップルグリーンのプラスチックベンチ。少し先には自販機が二つある。鮮やかなスカーレットと深いコバルト。誰もいないのを確認してほっとした。
ベンチに座り荷物を降ろし、リュックの底から紺色のペンケースを取り出した。普段使いの横向きの筆箱とは別の、たっぷり量が入る自立型のペンケース。開けたチャックから顔を覗かせたのは、何本ものデッサン用鉛筆と色鉛筆だ。
艶やかな黒と柔らかな色彩を見て、胸の中がスポンジケーキのように甘く熱く膨らんでいく。理科の教科書と数学のノートの間に隠すようにして仕舞っていたスケッチブックも取り出して、膝の上に乗せた。
午後四時過ぎ。部活動に入っていない私は、下校手段である電車を待つまでの一時間半、ほとんど毎日この駅で絵を描いている。他の人たちはこの時間は部活だからまだ学校だし、町で一番小さなこの駅は利用客も多くない。加えて、階段裏のこの場所は最後尾の車両が停まるところ、つまりホームの端っこだった。だから一人きりになりやすい。ちょうど今のように。
ひとつ、秘密がある。
私は絵を描く時間が、一日のうち過ごす中で、一番好きだということ。
透き通るような快晴と入道雲。少し錆びついた線路に夕焼け。生い茂る木立とバス停。古びたフェンス、遠く立ち並ぶ住宅街。蛍と天の川。夜明けに海。描くものは気分によって変えているけれど、そのほとんどが風景画だった。中学生が行ける場所なんて限られているから、行動範囲の中でそれっぽい場所に行くか、インターネットで写真を検索して描くことが多い。
遠くで蝉が鳴いている。
駅を通り抜ける風が、優しく頬を撫でていった。
梅雨の残り香を少しだけ連れたそれは、駅の周りに茂る木々を揺らして淡い青空へ溶けていく。
私はそれぞれ十色ほど持ってきた様々な緑と青の色鉛筆の中でひとつ、最も薄い緑色を取り出した。ここから見える木立は、夏が近づくと美しい緑のグラデーションを見せてくれる。それが今描き途中の絵にぴったりだと思ったから、今日はその色彩を写し取りに来たのだ。ぱらぱらとスケッチブックを捲り、描き途中の森の絵を見つけて色鉛筆を差し込む。
森の小道から少女が抜け出る瞬間。後ろ姿の彼女の先には、眩いほどの青空を用意する予定だ。淡いアイスグリーンに鮮やかなエメラルドグリーンを重ね、でも余白は残すようにして、深いアクアブルーで影をつける。スケッチブック特有の凹凸に色鉛筆の粒子が引っ掛かり、黒だけだった味気ない下絵に彩りが添えられる。
肘がペンケースに当たる。それは、完全に不注意だった。
あ、と思った。思った時には既に箱から色鉛筆が三本こぼれていて、かんから、から、と渇いた音が瞬く間にホームに響いた。
慌てて立ち上がった私は、点字ブロックまで転がっていくそれらに手を伸ばす。アクアマリン、スカイブルー、ターコイズ。濃度の違う青色の三本を、線路に落ちる前にどうにか拾うことができた。ああ、でも、一本だけ芯が折れてしまった。しおしおと心が落ち込んでいく。
その時だった。
「あ、」
低く乾いた、声が聞こえた。
反射的に顔を上げる。向かって右手、脈々と張られている点字ブロックと改札へ続く階段の間。そこに、人がいた。
痩せ気味の体、真っ白な肌。茶色がかった、男子にしては少し長めの髪。白いカッターシャツとグレーの長ズボンはうちの学校の制服だ。黒いリュックを右肩だけで背負っている彼は、精巧な形の瞳を丸くして、此方を見つめている。
自分の身体が、びちっと固まったのが分かった。
やがて。んん、と絡んだ喉を拭うような咳払いをした彼は、昼間に見せたのと全く同じ笑顔をした。寸分違わない、美しい微笑み。
森宮透真だった。
「やっほー」
高く、掠れた声。階段からこちらへ歩を進めていく。こつ、こつ、というローファーの固い音が駅に小さく響いた。
「それ、なに? 絵? なんか描いてんの?」
あ、と今度は声に成らなかった息が出る。口の中が一気に渇いてきた。此方に来る彼に対して何を言えばいいのかわからなくて、私は視線を泳がせる。彼は、電車通学なのだろうか。私と同じ。
「……別に、なにも」
「ふうん?」
彼が、私の前に立つ。近くに来た途端、ふわっと甘く澄んだ匂いが鼻孔を掠めた。
他の人から見れば人懐っこい微笑み、私からすれば異質な笑い。それを湛えて彼が首を傾げる。スケッチブックを見ていた。慌てて閉じてさっと隠すように胸に抱く。その様子を見た彼が、声をあげて笑った。
「え、なに? 嫌われちゃってるかんじ?」
「……」
「ねえ、これ色鉛筆? すげえ、何色あんの?」
向こうの興味がそれたようだった。ベンチに置かれたペンケースを、彼が覗き込む。対する私はどうすればいいのか、どうやったらこの絵と色鉛筆をなかったことにできるのか分からなくて、じわじわと脇の下が汗ばんできた。
「……に、じゅう」
「へえ! 緑と青だけで? すっげー、初めて見た」
やべー、と実際にはなんとも思って無さそうな薄っぺらい声が返される。思わず、私は顔を顰めてしまった。
馬鹿にしてる?
口に出せたらどれだけ楽になるだろう。でも実際に言える勇気なんてどこにも無くて、だからせめて、向こうの鼻先で思いっきりペンケースを閉めようと、思って腕を伸ばした。
スケッチブックの守りが緩くなることは、まったく考えていなかった。
「――――隙あり」
「え」
するりと、いとも容易くスケッチブックが抜き取られていく。
反応と理解が遅れた私は、端正な顔に愉悦を滲ませた彼が半歩後ろに下がったのを見た。トントン、という靴音が響いたと同時、目の前の少年がばっとスケッチブックを開く。
カッと顔じゅうが熱くなった。
「やだ、返して!」
捲った先が白紙だったのだろう。一枚、二枚とどんどん捲っていく。ぱらぱら、ぱらぱら。紙擦れの音が重なるのに比例して、顔にみるみる熱が集まってきた。彼に詰め寄る。向こうは手元を見ながら避けるという器用な芸当をして、私の引っ掻き回すような腕から踊るような軽やかさで逃れていく。
「やめてってば! ねえ、返してよ!」
ほとんど泣きそうな声で私が叫んだのと、彼がある一枚に目を止めたのはほとんど同時だった。
目を止め、動きを止め、笑っていた表情が抜け落ちる。その一瞬を見逃さなかった私は、いっそ引き剥がす勢いで彼からスケッチブックを奪い取った。
内臓が、煮えたぎっているみたいだった。汗が滲むほど色鉛筆を握り締め、潤んだ視界で向こうを思いっきり睨みつける。彼は言葉を失っていた。目を見開いて突っ立ったまま、茫然としたように私を見ている。
ひどい。
泣き叫びたくなった。
ひどい、ひどい、こんなの。小学生の癇癪のような語彙のない喚きが脳に響き渡る。
大事に大事にしまっておいた宝物を、泥だらけの足で踏みつけにされたみたいだった。羞恥とも怒りともわからない熱が、腹の奥に溜まってくる。
向こうが無表情なのが腹立たしかった。さっきまでお得意の綺麗な笑顔をしていたくせに、今ではその一切が拭い去られている。笑えないほど下手だとでも言いたいのか。馬鹿にするならすればいい。私だって、人のプライバシーを侵害したその人間性の低さを罵ってやる。
ふ、と。息を吐く音が聞こえた。
「上手い」
―――― は、と今度はこちらが気の抜けた息を吐く番となった。
放たれたそのたった一言があまりにも真っ直ぐで、理解が遅れてしまう。
今、この人は、なんて。
「……え?」
「上手い。いや、本当に。驚いた、めちゃくちゃ上手い。教室とか通ってるの?」
「え……いや、え?」
先ほどまで沸騰しそうなほど熱くなっていた体が冷めていく。怒りで潤んだ目も一瞬にして渇き、ぱちぱちとまばたきをした。教室。学校のことじゃないよね。そうじゃなかったらなんだろう、レッスンとかのことを言っているのだろうか。
「……絵画教室のこと? 行ってないよ。全部独学というか、趣味で。その、勝手に一人でやってたことだし……」
「独学?」
彼が聞き返す。本気で驚いた声音だった。
「信じられない。このレベル、一人で?」
「だって、通いたかったけど、そんなの家の近くになかったし」
「ねえ、もうちょっとよく見ていい?」
愉悦の滲んだ笑顔でも、ましてやあの異質な完全さを伴った微笑みでもない。真剣で、でもどこか輝いた瞳で彼が聞く。こうしてみると、くっきりと深い二重瞼のある、本当に綺麗な瞳を持っていた。
「ど、どうぞ……」
「ありがとう」
目元をほんのりと緩め、口角だけ少し上げる。そんな大人びた微笑み方を彼は一体どこで学んできたのだろう。反射で敬語になった返事と共に、スケッチブックを手渡す。その時、彼が見たであろう絵が見えた。
(あ、)
青。
目に沁みるような、アクリル絵の具で描いた青。つい一週間前に思い立って衝動的に描いた、それは空の絵だった。
真っ青な空と背の高い入道雲を背景に、中心として描きいれたのは花束。束、といってもリボンはほどけ、纏められていたはずの向日葵や白百合、その蕾や花びらがばらけている。落下させるつもりで描いたそれらの周りに添えたのは、白と水色を混ぜて作った泡と、氷を意識して描いた硝子の破片。好きなバンドの新曲に『青空に溺れる』というフレーズがあって、言葉選びがなんとなく好きで、勢いで描いた一枚絵だった。
彼は、これを上手いと思ったのだろうか。
ぱら、ぱらりと。スケッチブックに描かれた私の絵を丁寧に彼が見ていく。裸の身体をじろじろ見られているような気分だった。でも、『上手い』というたった一言が、羞恥も恐怖も溶かしてしまうほど温かく全身を包んでしまう。
初めて味わうその温度は、くすぐったいような甘いような、とても変な感じだった。
やがて。全てを見終わったらしい彼が、もう一度すっと私を見据えた。緻密に睫毛を縁どらせた瞳で、射貫くように。
「才能、あるよ」
「――――へ?」
「いや、あるなんてもんじゃないな、溢れてる。こんなクオリティ高い絵、久しぶりに見た。コンクールとか出したことない? この実力なら確実に賞取れると思うんだけど」
「え、え、ちょっと……え?」
思ってもみなかった言葉を投げかけられ、私はしどろもどろになる。魚のように口をはくはくさせて、今言われた声を嚙み砕いた。確実に賞取れる。コンクール。こんなクオリティ高い絵、久しぶりに見た。才能、あるよ――――。
「……本気で言ってる?」
「冗談でこんなこと言わない」
「……出したこと、ない。そもそも誰にも言ったことなかったし、見せたこともなかったから、機会もなかったし……」
「え? 見せたことないの?」
これ、と手に持っていたスケッチブックを少し持ち上げて彼が聞いた。
顎を引いて、私は頷く。
「周りに絵描いてる人いなかったし……なんか、恥ずかしくて。自分の作ったものを他人に見せるの」
あー……と向こうが納得したような声を漏らした。それと同時、彼がその表情をバツが悪そうに歪める。
「そっか。秘密だったのか。知らないとはいえ、悪い事したな。ごめん」
「え、あ、いやっいいよ! 気にしてないし」
あんなに腹が立ったくせに今更気にしていないと言うのもおかしい気がする。でも事実だ。不思議なことに、怒りも羞恥も一切心には残っていない。褒められたからだろうか。だとすれば私も、随分と現金な人間だ。
けれど、彼は黙ったままだった。私の絵をもう一度慎重な目で見返す。少し考えるように眉間に皺を寄せ、やがて丁寧な手つきでスケッチブックをベンチに置いた。
「ごめん。少しここに置かせて」
「あ、うん。別に……」
私が返事を言い終わらないうちに、彼は背負っていたリュックを素早く降ろした。痩せた白い手が、黒のリュックからするりと何かを取り出す。
冊子だ。ハードカバーの白い表紙は艶やかな光沢があり、なにも書かれていない。何の本だろうと首を傾げていると、彼がすっと差し出した。
「見てもらえる?」
「え?」
思わず冊子と彼を見比べる。背表紙にも表紙にもタイトルが記されていないことが、商業品じゃないプライベートのものだと語っていた。彼が申し訳なさそうに微笑む。
「……いいの?」
「もちろん。こっちが頼んでいるんだから」
言われて漸く、私はおずおずと冊子を受け取った。手にしてみると、ただの本にしてはしっとりと重みがあり、仄かに花の香りがする。彼から漂うものと同じものだ。どこかで嗅いだことがある気もするけれど、なんて名前の花だっけ――――ぼんやりと考えながら表紙を捲った先、最初のページに綴じられたそれを見た瞬間に、呼吸が止まった。
一枚の風景だ。
開封前のラムネの瓶が、波打ち際に佇んでいる。細かい泡が無数に浮かぶ透明な液体、その背景に広がるのは、朝の海。冴えわたるほどに透き通った海は、昇ったばかりの太陽に溶けるように滲んで、水平線がぼやけている。瓶の中に入っている青いガラス玉が、朝焼けの光を映して煌めいていた。
それを見た途端、たちまち持っていた冊子も、駅も、目の前に立っていた森宮透真でさえも消え失せ、みるみるうちに情景が広がっていく錯覚に陥った。朝日に照らされ煌めいている海と、白波のなかですっくと立っているラムネ、柔らかい砂浜の上で茫然と佇んでいる私。
潮騒が聞こえた気がした。
冷たい夜明けの風と海の匂いが、ふうと頬を撫でた気がした。
全部私の想像のはずなのに、くっきりと、はっきりと五感が景色を認識した。
水彩画で描いたような、作り物じみた精巧さを持った、それはあまりに―――― 美しい、世界だった。
「……す、ごい。なにこれ」
掠れた息で、まだくらくらと目眩がする中で言った声と共に、見えていた景色がふっと消える。陽炎のような、白昼夢のような曖昧さ。しかしそれを見せるほどの臨場感と完成された世界観。なんだ、これ。
戻ってきた視界の中で、彼がちょっとだけ笑う。
「ありがとう。去年撮った写真なんだ。東京の前にいたとこが、海に近くて。離れる前に一枚」
「えっ……写真なの、これ」
絵かと思った。意図的に作り出したとしか思えないほど美しく、光の映し方から構図、色彩の濃淡まで完璧に絡み合ったこの風景。
信じられない、これが実際に存在するなんて。けれど確かに、風景から視点を外せば、表面には現像された写真特有の艶と粘りがわかる。
「はは、ありがとう。お世辞でも嬉しい」
声がして、顔をあげる。向こうはさっきと同じはにかんだ笑顔を見せていた。
「ううん、お世辞なんかじゃない。ほんと、本当に、すごいよこれ。写真がこんなにすごくて綺麗なんて知らなかった」
「おお、すごい褒めてくれる。自分で見せといてあれだけどやっぱ恥ずかしいな……父親が写真家で、将来同じ仕事に就きたいと思ってるんだ。それで、周りにあるものを手当たり次第に撮っている」
「いや、ほんと、すごい……語彙力死んでるな、私……でも、なんでこれを、私に?」
すると彼は言葉に詰まったように一瞬、唇をきゅっと引き結んだ。しかしそれも瞬き一つのうちに過ぎて、森宮透真は言いづらそうに口を開く。
「……秘密に、してたんだろ?」
「え? ……あ、絵のこと? うん、まあ」
「……だったら、俺のこれも秘密にしておけば、フェアかと思って」
「え」
目を見開く。彼は気まずそうに口角を引きつらせ、視線をゆらゆらと彷徨わせていた。気を遣われた事を察して、私は慌てた。
「いやっもう怒ってないし、そんな気にしなくていいのに!」
「俺の気が済まないんだよ、完全に自己満足だけど……まあ、あとは、そうだな。話がしたかったし」
「話?」
「うん」
揺れていた視線が芯を取り戻す。形の綺麗な瞳が、もう一度私をしっかりと捉える。
「今まで、似た趣味の人に会わなかったんだ。……だから、喋ってみたくて」
真摯な彼の表情を見る。昼間や、絵を見る前までに見せていたあの軽薄な態度はどこにもなかった。そういえば、産毛が逆立つようだったあの嫌悪も一切感じない。
まるで別人みたいだった。目の前の人間は、本当にあの転校生なのだろうか。
「……似た、趣味」
「そう。そっちは絵、こっちは写真。結構相通ずるものだと思うんだけど、どうだろう。……それとも、絵の話をするのも嫌?」
「いや、そんなことは……そんなに詳しい話できないと思うけど、いいの?」
「構わない。好きなこと話してくれれ、ばっ」
突然、彼の声が裏返る。そうかと思えば、気管に飲み物が入った時のようにげほげほ噎せ込んだ。驚いて反射的に彼に近づく。大丈夫? と聞くと、激しい咳を手で押さえながらこくこく頷いた。
幸い、本当にただ噎せただけらしく、一分と経たず落ち着いた彼は大きく咳払いした。
「ごめん」
目を見開いた。
私を見た向こうが、怪訝な表情をする。でもそれどころじゃない。聞き間違いだろうか。今、今の、この人の、
「ねえ、声」
「ん? あ、」
完全に咳が治まった彼が、そこで気づいたように声を上げる。それを聞いて、私は確信した。間違いない、この声の低さ。噎せ込んだせいのものじゃない。
「バレたか」
ずっと、鼓膜を引っ掻くように高かった彼の声が、ぐっと低く様変わりしていた。捉えることが難しかった掠れ声が、耳にしっとりと馴染む穏やかな音になっている。
「ひょっとして、声変わり」
「うん、とっくに終わってる」
チェロの音色のような、よく通る声だった。悪戯がバレてしまった子供のような顔を、彼がする。そうして、疲れたように駅のベンチに座り込んだ。あー、とため息交じりに零れた声も低かった。
「無理に高くしてたの? どうして」
「……地声でいたら、前の学校で女子に怖がられたんだ。真顔でその声だと怖いって」
「……じゃあ、学校の時のテンションも」
「学校? あー、あれか……うん、なんというか、陽キャっぽい雰囲気の方が馴染みやすいかと思って」
首を傾け、彼が私を見る。苦く笑っていた。
「話しやすい奴って思われないと、後々苦しいだろ?」
写真を見せてくれた時の、彼の言葉を思い出す。去年撮った写真なんだ。東京の前にいたとこが、海に近くて。
手に持っていたミニアルバムと色鉛筆をきゅっと握り締めた。弱く二、三度瞬きをする。
この二年ほどで二回も住む場所が変わっているあたり、転校が多いのだろう。父親が写真家であるようだし。あの馬鹿みたいなノリもテンションも、異質なまでの美しい微笑みも、全て彼が作って装ってきたものだと、ようやく理解した。
すぐに馴染めるように。みんなから嫌われないように。
あまり同い年とは思えなかったけれど、彼も彼なりに―――― 今まで色々と苦労してきたんだ。
「……私は、今の声の方がいいけどな」
彼の隣に腰かけた私は、控えめに笑って言ってみる。独り言にも似た声音だったけれど、向こうにはしっかりと聞こえたようで。外していた視線をこちらに向ける。
「そう?」
「うん。落ち着いてて聞きやすい。そっちの方が」
「……へえ、そっか」
「そ、だから」
私は、手に持っていたミニアルバムをすっと彼に差し出す。まだ途中までしか写真を綴じられていない、未完成の作品。でも美しい作品だった。淡い光と色で描かれた、透明感のある世界。
きっとこれが、本来の森宮透真なのだ。
彼の創る世界を、私はもっと見てみたい。
「ここでくらい、素のままでいればいいんじゃない? 私は低い声も今の口調も全然怖くないし。むしろそのままが一番好きだな」
へらへらとした態度にも、おぞましいほど完璧な微笑にも感じた凄まじい違和感の理由。作ったものだから、繕ったものだから。だから今の、よく通る低い声も穏やかな語り口も私には好ましく思えた。私は微笑む。
向こうは少し動揺しているみたいだった。大きな瞳を見開いて、ひどく驚いたように私を見つめ返す。
「……そっ、か」
「うん」
「……そっか、そうか。わかった。……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
口元をほろりと綻ばせた彼が、ゆっくりとミニアルバムを受け取る。ふいに、風が吹き抜けて私の前髪をかき上げた。甘くすっきりとした香りがする。夏を予感させる匂いだ。
「話をしようっていう誘いは了承っていう解釈でいい?」
「うん、もちろん。私も写真の話、聞きたい」
「そっか、よかった。じゃあ……ああ、まだ聞いてなかった」
「なに?」
向こうがスケッチブックをこちらに差し出す。オレンジと黒の、何の変哲もない写生帳だ。薄い唇が、尋ねる。
「名前、なんて言う?」
思わず私は彼を見つめ返した。予想しなかったその問いに拍子抜けする。
まだ名乗ってすらいなかったんだ、私。
「……青山、葉月」
彼から、スケッチブックを受け取る。
「字は?」
「普通に。青い山に、葉っぱの葉と月」
「そっか。俺は森宮透真。森に宮殿の宮で――――」
「知ってる。今日見た」
「え?」
今度は向こうが目を丸くした。
「気付かなかった? 同じクラスだよ、二年一組」
「え、あ……え、マジか。ごめん俺、てっきり……」
「なに?」
色白な彼の顔が、うっすらと赤くなっていく。向こうが気まずそうに俯いた。
「……俺が、年上かと」
絞りだすような、小さな声。恥ずかしそうに、情けなく口を歪めている。あんなに大人びた雰囲気だったのに、その顔は、本当に幼い子供みたいで。
ふっ、と。スイッチが入ったみたいに、私は笑い出してしまった。
なんだかくすぐったくて、温かくて、夢の中にいるみたいだった。心の中がふわふわする。つられたように、透真も笑った。少し照れたような、眩しいものを見つめるような表情で。
それは異質さなんてどこにもない、年相応の屈託ない笑顔だった。
不意に、景色が溶けた。
駅も線路もベンチも、受け取ったスケッチブックも持っていた筈の色鉛筆でさえも、色がほどけて消えていく。驚いて、瞬きをした。
目の前にいた少年はどこにもいない。探すよりも早く体が重心を失い、ぐらりと、私は浮き上がった。
(あ、)
泡が口から零れていく。明るい青で満たされたその中は、私以外誰もいない。
途端、微睡みに落ちるように思考が霞んだ。
曖昧になる意識の中で、ぼんやりと宙を見上げてみる。
太陽だろうか。光が水面に反射して煌めきを水中に落とし込んでいる。
ひどく綺麗で、でもどこかで見たような気がして、私は目を細めた。
冷えているはずなのに優しく温めるような水に包まれて、導かれるように瞼を閉じる。
水中だというのに、息ができないのに、とても心地良かった。