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拝啓、八月  作者: 結城 冴
エピローグ 『敬具』
12/12

十一、九月十五日







 殺したいほど、






 聖壇に掲げられた十字架は金色に輝いている。天井は低いけれど壁、聖壇同様に真っ白で、ガラス窓から差し込まれる陽光を美しく反射していた。

 壁に飾られているのは淡いピンクのバラと薄紫のカーネーション、カスミソウ。チェアフラワーに使われたのはおそらくフランネルフラワーだろう。深く柔らかい木目の長椅子に、楚々とした花の白がよく映える。

 新郎新婦の親族だけが呼ばれた小さな式場。その最後列の長椅子に一人だけ座る彼は、粛々とした会場全体を見まわして退屈そうにため息をついた。

 咎める者は誰もいない。

 それどころか、彼がいることに誰も気づいていない。

 淡い輪郭で象られた彼は、ゆっくりと足を組みなおす。目を閉じ、深く呼吸をするその様子は、驚くほど洗練されていて優雅であった。

 大丈夫。心の中で、彼が呟く。

 昔から、諦めることは得意だった。



 幼い頃。母親から、好きなお菓子を買ってあげると言われたことがある。三歳か四歳の頃だ。

確か、前々から気になっていたマシュマロのお菓子を取りに行った。ふわふわのマシュマロを薄いスポンジケーキで挟み、チョコレートでお洒落にコーティングされたものだ。いかにも甘そうで、柔らかそうで、ずっと食べてみたかった。

 しかし、それを見た母親は困ったように微笑んだ。


『それよりも、あっちの棚のお菓子の方がいいんじゃない?』


 指さした先の棚には、グルテンフリーのお菓子が並べられていた。オートミールのビスケットや米粉のスノーパフ。添加物をなるべく使用していないことを売り文句にしていて、オーガニックで体に優しいお菓子とPOPに書かれていた。地味で素朴な見た目のものばかりだった。

 結局、てんさい糖の猫型ビスケットを買うことになった。


『猫、かわいいもんね。こういうのが、いいわよね』


 言い聞かせるように、優しい声で母は繰り返した。そのまま、ビスケットの袋を俺に手渡す。判でついたような笑顔を浮かべる大量の猫が、俺を見つめ返していた。


『透真、どうしたの?』


 マシュマロへの未練で俯いていた俺に母親が聞いた。

 当時の俺が何を言おうとしていたのかはよくわからない。今からでも買いなおしてほしいと訴えようとしたのか、なんでもないと言いたかったのか。

 常に甘い花の香りを纏っていた母。


『――――食べたくないの?』


 瞬間、首筋からさわりと鳥肌が立った。

 自分を見下ろしている母親の表情が、逆光で真っ黒になっている。

 全身の血管が凍結した俺は、身動きひとつできずに『ううん』と言った。


『これがいい』


 数秒、空白が空いた気がした。

 確かあれは真夏のことで、母の返答が来るまで蝉がひどく五月蠅かったのを覚えている。

 やがて、母はしゃがんで俺の目線に合わせてくれた。


『そうよね』


 お手本のように、美しく母は笑った。

 家に帰ってから食べたビスケットの味は、よく覚えていない。



 

 良好な家庭だったと思う。

 都内の大手IT企業に勤めていた父。フラワーアレンジメント教室で講師をする母。父と母はそこそこ歳が離れていたけれど仲は良かったと思う。父は毎日仕事に明け暮れていたけれど、休日はデパートでケーキやおもちゃを買い与えてくれたし、母は身なりを常に美しく整えて、毎日凝った料理を作ってくれた。記憶の中にある、イタリアンモダンを基調にした我が家を花で彩る母の顔は、いつも女優みたいに微笑んでいる。

 習い事もかなりさせてもらい、中学受験もする予定があった。都内で有名な私立の中学校。一度も行ったことがなかったし、同級生が行くと話していた公立が気になっていたけれど、まあいいかと思った。母が決めた場所ならば、そこが一番良いに決まっている。なら、俺がするべきことはそこを目指して勉強することだけだ。

 息子の成績も振る舞いも人生も母にとっての理想があり、俺はそれに喜んで応える。俺と母が安心してそれに集中できるように、父は外で人一倍稼いでくる。別にそれが悪いことだとは思っていなかったし、それぞれの役割を果たすことは俺たちのとっての当然だった。


 狂い始めたのは、父が写真コンクールに入賞した時だ。


 お祝いとして三人でフレンチレストランに行った三日後に、父は突然会社を辞めた。


 きっと、父は最初からサラリーマンになりたくなかったのだ。体裁か家庭か自分の将来か、経済力か。なんにせよ、自分の感情を抜きにしたのっぴきならない事情のために就職して、文字通り生きるために、家族を生かすためにただ働いていたんだろう。文句も言わず黙って会社に行き、お金を稼いでたまに土産を買って帰って来る。その疲弊しきった表情に気付けなかった方にも多分責任はある。俺も母親も、父が写真好きだったことすら知らなかった。

 両親は見合い結婚だと聞いた。母もきっと、父という人間以上のものを見込んで結婚をして子どもを産んだ。稼ぎの良い旦那のもとで庇護されながら、余裕を持って子供を育てたい。優秀な子どもを育てる、上品で美しい妻でありたい。そんな願いを、悪いことだとは思わない。

 だから、脱サラした父を散々罵り、狂ったように泣き喚き、連日部屋を荒らした母を止めることができなかった。

 父は最初こそ謝って説得をしようとしていたが、次第に諦めて自分の部屋に籠るようになった。母はしばらくの間、怒りよりも重く激しい恨みにのたうち回っていたが、ある日から亡霊のように静かになり、俺がいても黙って化粧をするだけになった。その頃になると、母の帰宅は週に3日、週に2日、月に1回と少なくなっていった。男の気配がすることは父にだってわかっていただろうに、一言も口には出さなかった。


 そうして、母はぱったりと家に帰らなくなった。

 俺が学校から帰った時にはもう家具のほとんどが無くなっていて、机の上には母の名前が記された離婚届だけがぽつんと置かれていた。



 新しい職種の影響もあって、父は住んでいたマンションの一室を売り、全国各地を転々とするようになった。夜逃げのように慌ただしく引っ越したため、中学受験は当然のように立ち消え、通っていた学校の卒業式にも出ることができなかった。内臓のどこかが抜け落ちたように思えたけれど、どうしてだか特段悲しくなかったのを覚えている。

 どこかでわかっていたのかもしれない。

 裕福で恵まれた、良好な家庭だった。

 でもそれは、全員が()()()()なろうとしていただけだったのだと。




 小学六年の頃から数えて、転校は四回あった。

 最初は目も当てられなかった。六年間一緒に過ごしてきた人間たちの中にぽっと出の転校生が馴染めるはずがない。加えて、歪な動機でカメラに興味を持ち出した俺は、学校にも写真集やカメラのカタログを持ち出し、クラスメイトそっちのけで貪るように読み耽って卒業までの時間を溶かしていた。

 面倒見のいい人は話しかけてくれたりもしたが、自分の興味のある話しかしなかったせいで俺はすぐに敬遠された。救いようがないのは、敬遠されているということにすら当時の俺は気付けなかったことだ。ささやかな陰口だって、俺の見えていないところできっと叩かれていたのだろう。

 二度目の転校は卒業式前に決まっていたため、担任はお別れ会を提案し、みんなは非常に義務的に応じてくれた。

 教師に促されて教室の前でこれまでの感謝を口にする。上っ面な微笑みでありがとうを吐きながら、クラスのみんなの顔ぶれを見、そして愕然とした。


 気まずそうに目を逸らす人、退屈そうに虚空を見上げる人、机の下に隠しながら本を読む人、落書きをする人、窓の外をぼんやり眺めている人。


 ほとんどの人間たちが、まともに俺のことを見ていなかった。


 誰も、俺の転校を悲しんでいなかった。


 誰とも話さず写真も撮らなかった卒業式の帰り道で、俺は卒業証書をびりびりに破き、放り出そうと思ったけれど結局できず、惨めに家のゴミ箱に捨てた。肥満気味の身体を包む、みんなとは違った制服の裾を握りしめる。


 俺は処世術を学ぶ必要があった。

 別れの時、惜しまれるような人間にならねばならなかった。




 海と山に囲まれた街。そこが、父に連れられ越してきた二つ目の場所だった。

 一見穏やかだが非常に人間関係が閉鎖的で、誰かに関するプライバシーもクソもない噂話が最大のエンターテインメントになる街だった。隣の家は自分の家と考えているような人間ばかりで、一挙手一投足が監視されているように感じた。

 中学入学のタイミングで転校してきたとはいえ、メンバーは小学校の頃とほとんど変わらない。既に出来上がっているだろう同級生の輪に、溶け込むための努力が要った。

 東京の私立中学を目指していた経験が生きたのか勉強には困らなかった。その分、春休みに運動して体型をわずかに絞り、対人関係は「愛想よくかつ踏み込み過ぎないように」を心がけた。人間同士の程よい距離感を手探りでどうにか突き止め、親しみやすい人間として振舞っていくうちに、クラスメイト達の見定めるような目はだんだん穏やかになっていった。

 しかし、いつも誰かに見られているという意識は抜けず、俺はせめて下品な人間には見えないように、仕草や言動に気を遣うようになった。流行りは逃さず、失言を許さず、身内ネタにもついていき、居心地いいと思わせる雰囲気を作る。

 一ミリたりとて、気は抜けなかった。

 上手く眠れなくなったのはこの頃からだ。夜、布団に入ると動悸がし、異常なほど手汗をかくようになった。辛いことなんてなにもないはずなのに、明日のことを考えると過呼吸になった。理想の型に自分を無理やり押し込むうちに、体中のあちこちから悲鳴が上がっていたのだ。

 誰にも相談できないまま、鎮静方法を自己流で見つけた。要は、自分以外の人間を忘れればいい。俺が俺でいられる時間を作る。それが、本であり映画であり音楽だった。電灯一つの下で照らされたそれらが長い夜をあたためてくれて、俺はその温もりで眠ることができた。

 父親から一眼レフのフィルムカメラを譲ってもらってからは、写真が俺の居場所になった。海や裏山の麓の花、アパートの駐車場に迷い込んだ猫、空、駄菓子屋や寂れたスナックが立ち並ぶ商店街。景色だけは綺麗だった、この街は。

 美しい風景をシャッター音で切り取り、父親が簡易的に作った暗室で現像する。きつい酢酸の匂いに毎度噎せ返りそうになっていたが、狭く暗い部屋の中、切り取られた世界がゆっくりと像を結んでいくのを眺めるのが好きだった。淡く優しい色彩の情景が、俺の手から作り出されたように思えたから。


 この世界の美しい欠片を、写真にすることで自分のものになったと錯覚できたのだ。


 精神ごと締め上げられるような生活を耐えきれたのも、写真のおかげだと思う。


 三度目の転校が決まった早朝、俺は一人駄菓子屋でラムネを買って海岸線をぶらぶらした。砂浜の上でラムネをラッパ飲みし、鼓動みたいに繰り返す波の音を聞いて、何も考えずにラムネ瓶と海を撮ろうとした。

 深い濃紺で満ちた景色が、目が覚めるような速度で変化したのを今でも覚えている。

 何度かシャッターを切るうちに、映した情景が徐々に輝きを見せ始めたのだ。

 青く透明なラムネの瓶と中に封されたビー玉。瓶のガラスとまだ残る炭酸の細かな泡が、朝焼けに滲む海を眩しく反射させていく。白に近い金色と澄んだ青色を完璧に絡め、溶かしながら、世界はゆっくりと夜明けを迎えていた。

 祝福のような光景に、息をすることも忘れてしまう。

 撮り終えたカメラを降ろし、沁みるほど目に焼き付かせながら、俺の口から不意に笑いが漏れた。




 この海で死にたいと思った。




 嘘みたいに鮮烈で、それでいて淡くて、透明で、澄みきった世界に沈みたいと思った。

 あんな綺麗なものの一部になれたらどれほどいいだろう。目の前に広がる夢に全速力で走って飛び込んだら、そのまま全身が溶けて同じ光になれたりしないだろうかと。

 しかし、見惚れているうちに黎明の光は消え去ってしまい、俺は普通に生きて普通に学校に行って、普通にお別れ会をしてきた。

 同級生の反応を見て、俺は自分の努力が最高の状態で実り、熟れたことを実感した。級友たちは涙し、連絡先をせがみ、寄せ書きも贈ってくれた。俺はそのすべてにありがとうと笑い、心の内では解放感と虚無感が満ちるのを感じていった。


 彼らにせがまれ渡した連絡先は、街を出たときにアカウントごと捨てた。


 人間は、どんなに仲が良かったとしても傍にいない人物に愛着を抱かない。徐々に連絡が途切れ、忘れられていくのはごめんだった。




 三度目の転校、そして二回目の東京は天国で地獄だった。

 前の街で溜まっていたストレスが表面化したのか、毎日毎日凝った料理を作り続けていた母がいなくなってから一年近く経ったからか、単に成長期がやってきたからか。小学生まで背も低く小太りだった俺の体型は急激に痩せた。溜まっていた脂肪が回されたのか、気づけば身長も10センチ近く伸びていた。痩せて顔は小さくなり、瞳は大きく目立つようになった。試しにSNSで見かけたスキンケア商品を(薬局の安いやつだ)使ってからは肌荒れとは無縁になった。前の学校では多少マシだったものの、チビで野暮ったい容姿は意図せず中性的で小綺麗なものに変質したのだ。

 俺は好きじゃなかったが、都会に馴染むには最高の武器だった。

 転校初日、すぐにクラスで一番派手なグループに取り込まれ、顔と名前が一致しないうちから携帯が新しい連絡先でいっぱいになった。前の街ではコミュニケーションスキルで渡り歩いてきたが、東京では初日から全員に好印象で、見た目が変わると周りの反応はここまで違うのかと驚いた。

 学校のすべての休み時間は誰かしらと駄弁り、放課後は集団でカラオケボックスやらファストフード店で遊び、金が無いときは公園周辺をぶらぶらする。帰りが遅くても父親は特になにも言わない。この頃はもう一、二時間程度の睡眠でも動けたため、仮眠を取ってからは登校時間まで撮り方や写真の構図を調べた。集中できないときは読書か映画、それでも駄目なときは寝転がりながら音楽をかけた。洋楽が一番好きだったけど、カラオケに連れていかれるようになってからは彼らの流行に即した歌を流すようになった。好みの変化じゃなく、単純に話題に乗り遅れないためだった。

 鼓膜を破るようなアップテンポのメロディーに、意味があるのかないのかよく分からない歌詞。思考が停止してしまうような曲を聴きながら、俺は明日のトーク内容や振る舞いを考えた。クラス内やクラス外、時には学年を超えた人間関係を復習し、メンバーに合った話題を作っておく。カラオケで歌う曲も面子ごとに振り分けておく。そうやって夜を溶かしていった。


「とーま、なんか今日香水つけてる?」


 ある放課後、教室でいつものメンバーと無意味な会話をしていた時に一人の男子が尋ねた。俺が返事をする前に、別の男子がくんくん嗅ぐ。


「ホントだ。なんかすっげー良いにおい」


 どうしても眠れなくて、やることも思いつかなかった数日前の夜。なんとなく片付けをしていたら古いサシェを見つけたのだ。本当に昔、多分俺が小学校に入る頃に母親が渡してくれたもの。学校に通い始めて土や汗に塗れていく息子が嫌だったのだろう。母は、当時持っていた花のアロマオイルをコットンに染み込ませて、サシェを作ってくれた。


『これはね、ガーデニアって言うお花よ。梔子の花。ほら、良い香りでしょう?』


 手渡してきた白く細い手まで思い出して嫌な気持ちになったが、ラベンダーの刺繍があしらわれたデザインが気に入って、通販で小さい梔子のアロマオイルを買って作ってみた。完全に気まぐれだったのだが、透明に甘くて清潔な香りが予想外に俺を眠らせてくれた。

 短くなった睡眠時間自体は今さらどうにもならなかったが、少なくとも入りを良くしてくれる。登校前の動悸や発汗、過呼吸も梔子の香りは和らげてくれた。味覚や嗅覚の刺激でパニック症状が治まることがあると知ったのは随分後のことで、お守り代わりに学校に持ち込んできたのが知られかけた時は本当に焦った。


「そうかぁ? 自分じゃ全然わかんねぇ」


 平静を装って制服のシャツを嗅ぐ。夏の予感に似た花がふわりと香る。


「やべーな。イケメンってホントにいい匂いすんだ」

「すげぇ。とーまっち、抱いてくれよぉ!」

「きっしょ。近寄んなよ、馬鹿」


 言いながら周りと同じように自分も馬鹿みたいに笑い飛ばす。無理に高くした声を出したせいで喉はざらつくように痛み、大袈裟に揺れた体からはますます梔子が匂った。自分を覆う仮面と自分を保つ安定剤がアンバランスに漏れ出す。

 声変わりした低い声を、クラスの女子から怯えられたのも数日前。きっと彼女も冗談だったのだろうけど、少しでも近寄りがたく思われたくはなかった。イケメンで、冗談が通じる馬鹿で、写真やカメラに興味はない。森宮透真は人気者の男子中学生にならなければ。


「でもさ、とーまマジで心当たりねえの? 教えてよ、俺もイケメンになりたい」

「バーカお前、とーまっちみたいなイケメンだから許されんだよ。お前のいい匂いなんて需要どこにあるんだよ」

「おっやるか? 表出るか?」


 性格を偽り、趣味を偽り、声を偽り、己を偽る。自分の芯が保てなくなるのは必然だった。

だって、父が会社を辞めてから何もかもが変わったのだ。家も自分の見た目も環境も生活も。久しぶりに掘り出された花の香りだけが変わっていなかった。まだ比較的平和だった頃の東京のマンション、あそこは母の職種の影響で、いつだって何かしら花の香りがした。

 冗談、揶揄、たまに見える本気の羨望。その対象になった自分の顔をもう一度馬鹿っぽく綻ばせ、蝉よりも五月蠅い彼らに言い放つ。


「やめろって。多分これ、柔軟剤だよ。母親の趣味」


 前髪がちらりと睫毛にかかる。こちらに来てから伸ばすようになった。深い二重瞼に長い睫毛、肌荒れ知らずの白い肌、すっと通った鼻筋に薄い唇。イケメン。美男子。王子様。周りの人間は色んな言葉で俺の顔を褒めてくれた。

 

 けれど自分の顔は好きじゃなかった。

 鏡を見るのが嫌になるほど、その顔立ちは、俺を捨てた母親に似ていた。







 パイプオルガンの音が鳴り響く。白く小さな教会で、ささやかな式が始まった。

 後ろの扉から、新郎が入場する。派手過ぎないライトグレーのタキシード。誠実に整えられた短い黒髪。バージンロードを歩く足取りは少しだけぎこちなく、顔も緊張気味に険しくなっている。

 出席しているすべての親類が拍手をしていた。

 誰にも見えない少年を除いて。









 ――――ここでくらい、素のままでいればいいんじゃない?



 遥か遠くへ過ぎ去った、屈託のない声がした。

 なんの衒いもない素直な彼女の声は、向日葵みたいな明るい淡黄色に、よく似ていた。



 ――――私は低い声も今の口調も全然怖くないし。むしろそのままが一番好きだな



 社交的と呼ぶにはおかしい距離感と、パニック障害一歩手前のぼろぼろの自己。嘘で塗り固め、自分を見失いそうになっていたギリギリの俺を、救ったのはたった一言だった。

 落ちた色鉛筆の乾いた音が導いた、点字ブロックの延長線。最悪な初対面にも関わらず、そのままが一番好きだと笑ってくれた女の子がいた。

 当時、俺がきちんと呼吸できたのは梔子の匂いで目を閉じている時か、写真とカメラに向き合っている時だけだった。少なすぎた俺の居場所を増やしてくれた、いや、居場所そのものでいることを許してくれた人。

 海とラムネと夜明けの夢。あの写真を見せたのは、後にも先にも彼女一人だ。



 ――――透真はあるの? 撮ってみたいもの



 あるよ。ある。

 俺は美しいものが撮りたかった。

 世界の美しい欠片を切り取って、全部自分のものにしたかった。

 海も空も雲も花も、朝焼けも真夜中も、祭りも雨も雪解け水も流氷も、冬も、夏も。


『……ひと、を』


 でも本当に撮りたかったものには、カメラを構えることすらできなかった。


『人を、綺麗に撮れるようになりたい』


 この世で一番、美しい、








 式場の後ろ、扉が開いた。

 スレンダーラインのウェディングドレスを着た、一人の女性だ。

 空気に溶けそうなほど繊細なヴェール。まとめ上げられた艶やかな黒髪。太陽よりも真っ白なドレスは滑らかな素材で、胸元と長い裾には緻密なレースがあしらわれている。上品で華のある衣装を身にまとった新婦は、背筋を凛と伸ばしてバージンロードを歩いた。

 付き添いはいない。それでも彼女は歩いていく。

 拍手の中。一人でも、真っ直ぐに。

 少年はその様子を、食い入るように見つめていた。







 例えば、晴天の下で広がる向日葵畑。

 濃紺の夜空に瞬く北極星。エメラルドグリーンに輝く真昼の木立。ロックアイスを浮かべた透明なサイダー。

 結晶が砕けたような渓流の水飛沫、海に滲む朝焼けの金色。

 深く深く澄みわたった青空。

 俺にとって、青山葉月とはそういう存在だった。

 甘く洗練されたお洒落な少女小説や外国の童話が好きで、パッション溢れる少年漫画も好き。ストーリーよりも絵柄やコマ割りの構成に目が行きがちで、一枚絵をずっと眺めていられる。よく聴くのは邦ロックやボーカロイドの曲。よく見る映画はアニメばかり。甘いものをつまみがちで、ブラックコーヒーはまだ飲めなくて。

 誰よりも美しい夏空を描く、宝石みたいな才能を持った人。

 途方もなく眩くて色鮮やかな光でありながら、時々しんとした影が落ちる。隣にあったら息がしやすくて、遠くなるほど懐かしさに似た切なさが募った。美しさと翳りと安らぎのすべて。彼女自身が描く絵のように、いや、きっと絵以上に、八月に似ていた人。

 それまで真夏の光と言えば、逆光で黒く染まった母の顔と、全身の血が凍りつく感覚だったのに。彼女という存在は、俺の中でずっと燻っていたささやかなトラウマまで、鮮やかに消し去ってしまったのだ。



 両親が揃っていた頃の東京の家でさえも許されなかった自由を、俺はあの駅で思いがけず手に入れた。

好きなことを好きな風にしゃべる、出しやすい声を出す。話は適当になったっていいし、疲れたら眠ってもいい。話題がなければ本を読んでもいい。それらを彼女は当たり前のように受け入れた。おそらく、心地よいと感じる波長が合っていたのだろう。居心地良いと感じる人間に出会ったのは初めてだった。

 しかし、教室にいるときの彼女はどことなく居づらそうだった。いつだって誰かしら女子と一緒にいて、周りに合わせてにこやかに会話をしていたが、その微笑みには達観が滲んでいた。俺とは比べ物にならないほど壮絶な過去と家庭環境を持っているのを知ってから、あれは仮面だったのだとやっと気がついた。


 俺と同じように、彼女も不安定な自分を騙しながら生きている。駅で見せる幼げな笑顔が本来なのかもしれない。彼女の翳と、感じていた居心地の良さの正体に納得し、放課後の時間が彼女にとっても救いであればいいと思った。俺が、俺で居られる時間に救われているように。


 だんだんと、絵だけではなく声の高さだとか、手足の細さとか意志的な瞳とか、絵筆を走らせる繊細な手の動きとか、黒く艶やかな髪を結い上げる仕草とか、笑った時のえくぼとか、そういったところが甘やかに匂い立つようになって。向こうも嫌ってはいないんじゃないかって、淡く期待してしまったこともあったけれど。



『都会の人って、なんかチャラチャラしてて嫌なんだよね』



 言えるわけがなかった。

 そのくせ、放課後になったら何も無かったかのような顔で俺に笑いかけ、俺の写真が好きだと抜かす彼女に腹が立ち、何一つ責められない自分にも腹が立った。もう戻れない地点まで来てしまったと自覚したのはこの時だ。海とS高に誘ったのはほとんどやけくそだったけれど、嬉しそうな彼女の顔を見るたびに胸がぐらぐら揺れた。

 わかってしまった。


『透真から誘ったくせに、勝手に諦めないでって言ってるの!』


 もう、なにも諦めたくない。

 あの味のないビスケットを選んだ時から、俺はずっと諦めてばかりだった。

学校も、家族も、同級生も、生活も、人生も、将来も。

 どうせなにも叶わないから、最初から願っていない振りをしていたんだ。

 これ以上、俺は俺を騙したくなかった。







 牧師が聖書を朗読する。長く深く言葉を述べたあと、新郎新婦に誓約を言い渡した。

 声は耳に入ってこない。赤いバージンロードに降りている、粉雪のようなヴェールを見つめている。金色に輝く十字架へ、永遠を誓う人の姿を。

 白く光り輝く未来の、後ろ姿を。








 飛行機が落ちて、

 内蔵から破裂するような衝撃と、濁流のような走馬灯に揉まれて目覚めた先。線路中に咲いた梔子と売り切れのサイダーしか並んでいない自販機が不気味な、美しい駅。あそこが一体何なのか。自分はどうなっていて、どうして彼女が空から降ってきたのか、一番聞きたいのは俺の方だった。

 俺は死んでしまったのか。彼女も死んでしまったのか。ここは天国なのか地獄なのか、それともただの夢なのか。俺は海に落ちたはず。じゃあ彼女はどこにいるのだろう。どんな状態なのだろう。青白い肌も、閉ざされた瞼も縁どられた睫毛も、眠るような呼吸も、夢と呼ぶには生々しかった。じゃあ、現実の彼女の周りには誰がいる? 彼女もどこかで死にかけているのか。蘇生されている途中なのか、どんどん死んでいくところだろうか?


 たった一つわかったのが、今ここで殺せば彼女は死ぬということだけだった。


 俺を何度も救った真夏の光。


 白く細い首めがけて彼女のかんざしを突き刺せば、その光は真実俺のものになるかもしれない。


 永遠に、俺だけのものに。



 喧嘩した時、手足が震えるような動揺を味わいながら、どうすれば対話ができるかを冷静に必死に考えることができたのは、自分を諦めたくないと気付けたからだ。仕方ないですべてを手放したくないと思えたから。

 綺麗な風景写真を渡すという口実なら会ってくれるかもしれない。好きだと言っていた初夏の景色。どうせ撮るなら海外がいい。違う国なら、マンネリな写真にならないだろう。飛行機も窓際なら、七月の海が空から撮れるかも。彼女が好きそうな色の海を。俺がいなくても、見返してくれそうな風景を。


 転校しても、忘れないでほしかった。

 ずっと彼女に、自分のことを覚えていてほしかった。

 だから欠片を渡したかった。

 一枚と言わず何枚でも。

 海でも空でも町でも雲でも花でも。

 抱えきれないほどの写真を渡して、自分の世界の欠片を渡して、彼女が今脳裏に描く時と同じくらいの彩度で、俺を思い出して欲しかった。

 例えば、転校したあとずっと経ってからあの駅に戻ってこれた時に、久しぶりだねと笑えるような。

 無い心臓が焦げる感覚。感じたことのない激情を、胸がぎゃんぎゃんと叫んでいた。

 誰かから必要とされたかった。

 そのままの自分を愛してほしかった。

 母に捨てられたこと、父から腫れ物のように扱われること、転校を誰も悲しまなかったこと、見定めるような目を向けられること、勝手な理想像を期待されること。全部俺のせいで、俺が招いたことだ。わかってる。自業自得だ。でも、でも、俺は。

 黙ったままでも、隣に座ってくれる人がほしかったんだ。

 誰かの心に残りたかった。

 彼女の心に残りたかった。

 記憶として、傷として、

 ずっと苛む毒として。








 七月の終わり。白い駅で、天国の入り口で、安らかに彼女は眠っていた。握るかんざしは固く冷たいのに、彼女の首は柔らかくて温かかった。


 早く、早く。


 脳が急かすほど、手は震えた。手汗が滲んでかんざしがぬるぬると濡れた。まるでまだ俺も生きているみたいだ。遠くへ行ったはずの感覚が、喉を突くという目的によって生々しく蘇っていた。


 早く、早く、早く早く早く、早く!

 急かされるまま、握るかんざしの切っ先を、喉元めがけて振り下ろした。




 この首から放たれた、鈴のような笑い声を知っている。




 細く長い足が奏でた、軽やかな靴音を知っている。




 冬の日にマフラーから漏れた吐息の白さも。かんざしで髪をまとめる柔らかな手つきも。丸い瞳の素直さも。描く空の、鮮やかな青さも。





――――待っててね、透真。



――――私、一番綺麗な八月の空描いてくるから。



――――透真が今まで撮ったことないくらい、鮮やかできらきらした空。



――――だから待ってて。






 涙が溢れた。

 止めてしまったかんざしを取り落とし、眠り続ける彼女に跪く。


 やめろ。

 もう、もう、やめてくれ。


 思わせぶりなことを言うな。半端に期待を持たせるな。都会の人は嫌だって言ったのはお前だろ。ならどうして、どうして特別みたいに話しかける。どうして特別みたいに俺に絵を渡す。どうして今更、こんなことを思い出す!

 声が、あの日見た夕焼けごと蘇る。橙と紫が完璧に織り上げられた夕空を背景に放たれた、生きる希望に満ちた声。微笑み。思い出すだけで息が詰まるほど、美しく、そして憎かった。今なら突き刺せるんじゃないかと一瞬思ったくらいだった。

 だけど、今度はかんざしすら取れなかった。

 代わりに、みっともなく泣きながら、まだ眠る彼女の手を祈るように握る。

 この手のひらが伝えた熱も、俺はよく知っていた。


 殺したいほど。


 殺せないほど。







『白雪姫はバッドエンドだと思う?』


 冬の日。毒を呑んだ白雪姫の絵を見た自分の疑問。返ってこなかった質問の答え。

 お姫様が出てくるおとぎ話は、結婚式で幕を閉じるのが大半だ。


『だって白雪姫は死にたかったのに、王子様の勝手な都合で生き返っちゃったじゃん』


 聞けば、三回のうち二回は小人が蘇らせていたらしい。

 頭に櫛が刺さった時。帯できつく締め上げられた時。

 毒林檎を食べた時だけ、王子様が目覚めさせる。映画と原作では、方法が少し違っているけれど。

 金色の十字架の下に立つ、彼女の後ろ姿を見る。

 壊れたように泣き叫び、あなただけだったと縋っていた中学生はもういない。

 そこいるのは、共にする相手を見つけ、家庭も友人関係にもきちんと向き合った、凛とした大人だった。

 花と光に包まれた教会で、全てを乗り越えた彼女が、未来と愛を誓っている。信頼し、きっと心から愛している隣の男と、これから人生を共にするのだ。

ここにいる誰もかれもが、その選択を祝福している。



 これ以上の結末がどこにあるのだろう。


 神様はきちんと、俺の最初の願いも叶えてくれた。

 誰かから必要とされたい。

 俺が繋いだ命が、彼女の幸福に辿り着いた。

 俺は、あの人の幸福に必要な存在だった。

 七月が死んで、八月を生きて、夏が跡形も無くなった九月になっても、きっと彼女は生きていける。もう一人ぼっちじゃない。光り輝く、最高のハッピーエンド。

 笑い声が、漏れた。








「ひどいなぁ…………」









「それでは、誓いのキスを」


 牧師が厳かに言い渡す。新郎は優しい手つきで、慎重にヴェールを上げた。

 神聖なものに触れるみたいに、二人が美しくキスをする。

 その時だけ、花が咲くように拍手が沸き起こった。

 頬を染め、はにかむように二人が微笑む。

 ふと、甘い匂いがした。

 香水でも、飾られたどの花のものでもない。上品で甘く、すっきりとした香り――――。


(これ、なんだっけ)


 祝福の中、新婦だけがさっと会場を見渡した。

 親族以外、誰もいない。


(なんて名前の、花だっけ)


 最後列の長椅子には、誰も座っていない。

 初夏の残り香を帯びた幽霊は、もうどこにもいなかった。




(名前は、確か、)














 くちなし【梔子、山梔子】

1 アカネ科の常緑低木。暖地に自生し、高さ約2メートル。葉は長楕円形でつやがある。夏、香りの高い白い花を開く。果実は熟すと黄赤色になり、染料とするほか、漢方では山梔子さんししといい消炎・利尿剤などに用いる。名は、果実が熟しても口を開かないことによる。庭木にする。

2 「梔子色」の略。(小学館 デジタル大辞泉より引用) 


 その白さから、海外では「天国の植物」「天使が地上に降ってきた花」と言われており、アメリカでは男性が女性をダンスに誘う際に贈る花として知られている。


 花言葉:「優雅」「洗練」「胸に秘めた愛」「とても幸せです」







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― 新着の感想 ―
[一言] 最初は葉月に感情移入できないでいましたが、 読み終えた今となっては彼女の気持ちもわかる気がします。 とても切なくて読むのが辛い部分もありましたが、最後まで読めてよかったと思っています。 …
2024/05/07 10:23 退会済み
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