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拝啓、八月  作者: 結城 冴
エピローグ 『敬具』
11/12

十、八月三十一日






 死ぬまでずっと、私たちだけの





 音割れのひどい駅メロが響いて、うとうとしかけていた意識が叩き起こされた。

 二車両しかないはずなのに、乗客は私を含めて数人しかいない。夏休み帰りの小中学生で埋まっていないか心配だったけれど、どうやら杞憂だったみたいだ。扉が閉まり、夕焼けの光を溜めた車両が、やがてゆっくりと動き始める。

 深いワイン色の座席と、経年を感じるプラスチックの床の黄ばみ。広告があまり貼られていないおかげか、色彩がうるさくない。外はしぶとい暑さなのに、車内は滑らかな涼しさで満ちていた。傾いた西日が、世界をノスタルジーに仕立て上げる。

 どうしてだろう。初めて乗る列車なのに、懐かしいと思ってしまう。

 私はスマホを手に取り、今更乗換案内を調べる。時刻は17時25分。目星をつけていた駅まであと一時間ほどだった。よかった、今日中に帰れそう。遅くなるとは連絡したけど、流石に日を跨いだら心配される。私は次いで、数枚の写真とライターを確かめるように鞄の中でひと撫でした。そして、奥に仕舞っていた手紙をすっと抜き取る。

 初夏の空を思わせる、淡い浅葱色の便箋。

 がたん、ごとんと優しく揺れる列車を、まるで揺り籠みたいだなと思いながら、私は昨日したためたばかりの手紙を読み返した。



『拝啓、


 久しぶりです。

 十三年ぶり、ですね。

 もう八月も終わりになってきて、暦の上では秋になります。私は今、自分の部屋でこの手紙を書いていますが、アブラゼミよりもひぐらしの声をよく聞くようになりました。朝も、昼も、夜も、空はまだ鮮やかな色をしていますが、これからはどんどん淡い色になるでしょう。

 ゆっくりと色彩が移ろっていく空。あなたは、いかがお過ごしですか。


 今日は、色々と伝えたいことがあるので、筆を執りました。

 これを書くまでに、敬語がいいか、それとも砕けた口調のままがいいか、随分悩んでしまいましたが、結局、かしこまった形に落ち着いてしまいました。でも、もしかしたらところどころ間違ってしまっているかも。気をつけますが、見つけてもどうか笑って許してください。

 誰かに宛てて言葉を綴るのって、こんなに難しいんですね。

 ひとつひとつ、お話をするので、どうか、最後までお付き合いください。



 まずは、あの後どうなったのか。

 私は睡眠薬とワインを吐き出したあと、由紀子さん(私の継母です。)が呼んだ救急車によって搬送されました。翌日の昼には目を覚ましましたが、事が事でしたから、中学最後の夏休みのほとんどを、私は病院で過ごすことになりました。

 薬物中毒と急性アルコール中毒、その二つの一歩手前。加えて、あの頃の私は食事も睡眠も満足に摂れていたかったため、かなり憔悴していたそうです。本当に危なかったそうですが、応急処置が適切だったこともあって、後遺症も残らずに済みました。

 とても運が良かったと、何度も、医者から繰り返されました。

 三日も過ぎると、私は自分で起き上がれるようになって、会話もできるようになりました。

 搬送されて、一週間ほど経ったころでしょうか。

 由紀子さんでさえほとんど来なかった病室に、詩織と早苗が来たのです。』




 私しかいない個室の病棟は、『敏感な』精神状態に配慮しているのか、壁も床も明るい木目調で、サイドレールのついたベッドを見なければお洒落なビジネスホテルに見える。できるだけ余分な音を排除するためか、扉も静かな引き戸だ。

 だから二人が来た時も、扉はあっけないくらい静かに開いた。


「……あ」


 私はその時ベッドにいた。看護師に案内されて扉を開けた二人と目が合う。早苗は怯えたような顔で、詩織は冷たいくらいの無表情だった。

 持っていた筆をテーブルに置く。なんて言えばいいか分からなくて、私は「ひさしぶり」と不器用に笑った。

 瞬間、詩織は顔を真っ赤にしてつかつかとこちらに向かい、やがて耐えられなくなったように、目からぶわっと涙を溢れさせた。


「――――この、馬鹿!」


 体を震わせて、詩織が叫んだ。詩織ちゃん! と慌てて、扉を閉めた早苗が中に入る。


「馬鹿、馬鹿、馬鹿! こんなになるまで、なんで言わなかったの。言ってくれなかったの。あたしら友達じゃん!」

「詩織……」

「友達、じゃん……」


 顔をくしゃくしゃにした詩織が、その場に蹲る。早苗は駆け寄って、わあわあと大声で泣きじゃくる詩織の背中をさすった。そのまま早苗は真っ直ぐ私の目を見る。大きな黒曜石のような瞳は、赤く充血して濡れていた。


「ごめんね、葉月ちゃん。――――葉月ちゃんのご両親、亡くなっていたんだね」


 囁くような声に驚く。ややあって、私は頷いた。


「こないだ担任の先生から電話が来て、葉月ちゃんが病院に運ばれたって聞いて……去年とか仲が良かったから、なにか事情を知りませんかって聞かれて。その時に葉月ちゃんのおうちのこと聞かされたの。詩織ちゃんも」


 早苗が肩を震わせる。


「ごめんね。葉月ちゃんずっと辛かったのに、私、自分のことしか考えてなかった。詩織ちゃんと葉月ちゃんが私に話してくれるのが嬉しくて、私二人がずっと憧れで、隣に並んでも恥ずかしくないようになりたくて、そればっかり考えていて……」

「早苗」

「今年に入ってから、やっと堂々とできるようになった、葉月ちゃんと一緒に歩けるって、そんなことばっかりで。葉月ちゃんは私の話なんでも聞いてくれたのに、私は葉月ちゃんになんにもしてなくて、……っ、ごめん、ごめんね、ごめんなさい、葉月ちゃん……」


 声を詰まらせながら早苗まで泣き出し、私は居ても立ってもいられなくなって、ベッドから降りて二人の前に跪いた。詩織が、顔を上げる。びっくりするほど溢れた涙を、彼女は乱暴に手の甲で拭った。


「……馬鹿って言ってごめん……葉月は、言えなかったんだよね」


 息を浅くして、詩織は言った。


「葉月は、美人でスタイルも良くて勉強もできて、背も高いから大人っぽくて、あたし葉月の隣に立てるのが嬉しかった」

「……そっか」

「でも葉月は、そうじゃなかったんだよね。モールに行くのも学校でしゃべるのもお揃いのコスメとかアクセとか買うのも、葉月、全部あたしに合わせてくれてたんだよね」


 私は目を見開いた。


「なんで……」

「だってあたし、葉月のすごいところはいっぱい言えるけど、葉月が好きなこととか、好きな色とか、なんにも知らなかった」


 泣き腫らした目のまま、詩織は皮肉っぽく微笑んだ。「カサぴ……葛西に、言われたんだ」


「あたし、去年は葛西の悪口言いまくってたのに、文化祭終わってから態度変えたでしょ?」

「……うん」

「腹立ってたのはほんとだよ。クソ忙しいのにすぐ帰ろうとするし、なんか見下されてる気がして偉そうだったし。他の実行委員の子たちもおんなじこと言ってた。でもね、文化祭の二日くらい前かな。放課後、教室に1人で残っているの見たの」


 その日、詩織は忘れ物を取りに帰って来たらしい。葛西さんは空き教室でたった一人、巨大なキャンバスに対峙していたそうだ。文化祭の時に正門に設置するゲート、その絵を、葛西さんは描いていた。

 廊下にいた詩織に気付かないほどの集中力。教室に差し込まれた夕焼けの光の中、魔法みたいにキャンバスを彩る葛西さんは、放心してしまうほど美しかったという。


「すごいもの見たって思った。次の日学校来たらもう出来上がってて、あの日に全部描き上げたんだって気付いて。実行委員のみんなが葛西のこと褒めだしたんだけど、あたし、自分が褒められたみたいに思えた。あの子のすごいとこ、最初に見つけたのはあたしだって」


 詩織は恥じるように目を伏せた。「ほんと、馬鹿だよね。あたし」


「そんで、葛西と仲良くなりたくて、近づいて、褒めたら……怒られた」



 ――――前まで事情も知らないまま私の悪口言ってたくせに、手のひら返してすり寄ってきて恥ずかしくないの?


 ――――あんたさ、本当に『自分』がないよね


 ――――ステータス高い人の隣にいる自分が好きなんでしょ


 ――――そういうのって相手にわかるし、普通にウザい



 葛西さんの言葉の鋭さと苛烈さに、私は息を止めてしまった。強く、厳しく、けれど容赦なく核心を突いている。詩織もよほど胸に刺さっていたのだろう。一言一句が正確で、詩織にそう言い捨てた葛西さんの表情までが見えてくるようだった。


「腹立ったけど、納得しちゃった。あたし、仲良くなりたい人には褒め言葉しか言ったことなくて、全然会話していなかった。でも、葛西と仲良くなりたくなったのも、本当で……どうしたらいいのって葛西に聞いたら、あんた何が好きなのって聞かれて、それで、アニメとか、歌とか、コスメとか好きって言ったら、カサぴ、『いいじゃん』って、言ってくれて」


 でも、私とは話せなくなった。

 今までの自分の発言、ラインの言葉、態度を思い出すうちに、自分の全部が恥ずかしくなったそうだ。


「葉月、本当はずっとウザかったんじゃないかなって。早苗もなんか急にキラキラしだしてさ。話したかったけど今さらなにを話せばいいのか分からなくって、声優が夢って言ってたことも恥ずかしくて、あたし葉月の好きなものも早苗の好きなこともなんにも知らなくて、二人と友達だと思ってたのあたしだけだったんじゃないかって。そう思ったらなんかもう、あたしがあたしのこと、無理になってきて」

「詩織」


 違う。私があなたたちのことを馬鹿にしていた。見下していた。本心も言わず、欲しい言葉を言ってあげた気になっていた。間違っていたのは、悪いのは、全部私だ。


「あたしが……あたしが避けてたから、最低な態度ばかりとってたから、葉月、死にたくなったのかなって、思って……」


 言いながら、詩織はまたぼろぼろと涙を流し始めた。私は詩織の手を握った。隣で泣いている早苗の手も。


「ごめんねぇ、はづき……」


 どうしてだろう。謝られているのに、謝るべきなのは私なのに。長い長いトンネルの向こうで、小さく光が見えたような気がしてしまうのは。

 可愛く笑って、安心させてあげたいのに、涙が流れて止まらないのは。


「葉月ちゃん」


 早苗が呟く。目を腫らし、ぐちゃぐちゃに泣く早苗の顔はそれでも、朝露に濡れた花みたいに綺麗だった。


「助かって、よかった……」


 ひぐっと喉から嗚咽が漏れかける。歯を食いしばろうとして、でもどうしようもなく唇は震えて、浅く息だけ吐きだした。消えたくなるくらい恥ずかしく、なのに同じくらい、安堵が全身に溢れてしまった。


「詩織、早苗……」


 私はなにをしていたんだろう。

 彼女たちの、なにを見ていたんだろう。


「ごめん……」


 それしか言えなかった。本当に、情けない。

私たちは病室のフローリングに直接へたりこみながら、ごめんねばかり泣きながら言いあった。一緒に泣いて、謝って、泣いて、謝って、を幼児みたいに繰り返し、しまいにはもういいよ、と三人で泣き笑いをした。

 手の施しようもなく絡まって硬くなっていた糸が、絡まっていた部分ごと温かく溶けてしまったみたいだった。

 しばらくして、詩織がベッドに備え付けられた机に置かれたものに気付いた。


「葉月、これ――――」





『詩織も早苗も、高校からはバラバラになりましたが、成人式で再会しました。

 そのあとは何年か月一で飲みに行く仲が続きましたが、詩織が九州に転勤してからは、中々三人では集まれなくなりました。

 けれど、お互いの誕生日は欠かさずメッセージを送っています。この間の私の誕生日にも、プレゼントを送ってくれたんですよ。

 大学を卒業したあとは、詩織は化粧品会社に入って、早苗は薬剤師になって、それぞれ元気に過ごしているようです。』


 通知音がして、私は読み返していた手紙から視線を外した。眩しく差し込む夕陽を手で軽く遮りながら、私は届いたメッセージを読む。


『一人で大丈夫そう?』


 私はアプリを開いた。列車はまだ、目的地には着かない。


『大丈夫。今日中には帰れると思う』

『了解。晩ご飯は?』

『向こうでなんか適当に食べるよ』


 少しだけ間が開いた。


『わかった、気をつけて。また帰る時に連絡入れて』


 私は了解のスタンプを送信し、スマホの電源を落とした。

 聞きたいことなんて山ほどあったろうに、なにも聞かずに送り出してくれたことに感謝した。帰りは何かお土産を買って帰ろう。クッキーか、チョコか。ううん、コーヒー豆がいいかな、そろそろ少なくなっていたし。

 浅葱色の便箋を手に取る。

 長く綴られた手紙は、三枚目に入ろうとしていた。




『由紀子さんとは、入院してからしばらく経っても会うことがありませんでした。

 母が癌で亡くなり、父も再婚した後に事故で亡くなったことは、昔少しだけ話したと思います。

私は、継母である彼女と二人で暮らしていましたが、家族と思えていませんでした。

 七月三十一日の深夜に私が発見された状況を見て、病院側は自殺未遂だと断じたようで、警察にも通報をいれたそうです。

 虐待の可能性。それが疑われたため、しばらく由紀子さんは私の病室には来ませんでした。取り調べを受けていたのだと思います。自室に置いてあった本や漫画、画材などはその都度病室に届けられたため、家には帰っていたと思いますが、病室まで届けてくれたのは看護師で、直接由紀子さんが来ることはありませんでした。

 私自身も、病院側から随分質問されました。なにか悩みがあったのか、どうして睡眠薬の場所を知っていたのか、お義母さんとはどんな仲だったのか、どうしてこんなことをしたのか。

 詳しく話したくはありませんでしたが、虐待は受けていないことだけは、何度も、明確に伝えておきました。それが功を奏したのか、それとも由紀子さん自身の精神的な憔悴が考慮されたのか、彼女の応急措置の適切さが虐待の線を薄くしたのか。

 入院からしばらく経って、私はようやく、由紀子さんと面会しました。』



「ごめんなさい」


 病室に入るなり、彼女は額を床につけた。弱々しい声は疲弊と罪悪感に濡れていて、この二週間ほどの彼女の心労が滲み出ている。

 土下座は流石に想定外で、私は困惑した。


「由紀子さ……」

「ごめんなさい、青山葉月さん」


 目を見開いた。初対面の時でさえちゃん付けだった由紀子さんの呼び方。彼女が、ゆっくりと顔を上げる。びっくりするほど白髪が増えていた。隈が濃く、髪も体も痩せ細ったその姿は、とても三十代には見えない。


「こうなってしまったのは、全部、ぜんぶ、私のせいです。わたしの」


 ず、と由紀子さんが鼻をすする。服の上からでもわかるほど骨が浮き出た彼女の肩が、その時細かく震えだした。


「ごめんなさい、わたしが」


 彼女が少しだけ顔を上げる。紙みたいに真っ白だ。ぜえぜえと次第に、向こうの呼吸が荒くなる。さわりと微かに鳥肌が立った。彼女もあれから心身ともに不安定で、通院をしていると聞いていた。


「わたしが……娘さんをここまで追い詰めて……」

「由紀子さん!」


 怖くなって、私は声を張り上げた。由紀子さんはびくっとする。


「由紀子さん、謝罪はもういいです。これは全部私が選んだことで、全部私の責任です。私だって謝りたいことがたくさんある。でも、申し訳ないけどそれは後にさせて。私は、今日はどうしても由紀子さんが話したいことがあると聞いたから、あなたに病室に来てもらったんです」


 ご両親について、お伝えしたいことがあるそうです。これまで私と由紀子さんを直接会わせないようにしていた病院側から伝えられた。

 彼女に何を言うのが正しいのかわからない。けれど、今を逃したら本当にもう二度と聞けない気がした。

 六月に、私が聞きたかったこと。


「どうして、お父さんと結婚したんですか」


 由紀子さんが一瞬だけ目を見開く。くすんだ茶色の瞳がゆらりとぼやけたのち、やがて自分を落ち着かせるようにゆっくりと瞬きをした。


「……あなたの……」


 掠れた声が聞こえる。やがて彼女は立ちあがり、すっと背筋を伸ばした。


「あなたのお父さんは、病気でした」


 一瞬、頭の中が真っ白になった。


「え?」

「脳腫瘍でした。あなたのお母さまが亡くなる少し前に診断されたそうで。お二人ともご両親を早くに癌で亡くしていたため身寄りがなかった。ご自分たちが亡くなったあとに、あなたを任せられる場所がないと。だから、あなたのお母さまはご自分が亡くなった後にどなたかと再婚するよう、あなたのお父さんに勧められた」


 由紀子さんの声に芯が戻る。これまで私の神経を逆撫でた声音はどこにもない、静かな声だった。

 お母さんが、再婚を勧めていた。病気だった。お父さん、脳腫瘍。まったく知らなかった情報が一気に頭を駆け巡る。気付けなかった自分にも言わなかった二人にも、全部がわからなくて、「どうして……」と呟きが漏れていった。


「葉月さんには、伏せておいてほしいと言われていました。これ以上、親が目の前で弱っていく姿を見せて辛い思いをさせたくないからと。通院治療を続けていましたが、長く生きれないことはご本人もわかっていた。事故も、おそらく運転中に体調を崩してしまったのではないかと」


 市立図書館。思い出す、母のお見舞い帰りにいつも寄っていて、母が死んだ後も定期的に通った場所。空の図鑑を借りて、画集を借りて、小説を借りて、返しに行ってくれたのはいつも父だった。大学病院の近くの図書館。

 小学校の卒業式が終わった夜。母が死んでから病気みたいにやつれていた父。


『今日はあのあたりに用事があるんだ』


 あの時、父は本当に病気だったんだ。


「戸籍上の妻。それをお探しになられていました。あなたのお父さんは私のことを女性として見たことは一度もありません。お父さまが私に求めたのは、ただ一点。葉月さん、あなたの母親になることです」


 私は顔を上げる。彼女は真っ直ぐ、私を見ていた。


「ご自分がいなくなったあとも、経済的に、精神的に、葉月さんを支えること。葉月さんができる限り普通に生活できるようにすること。戸籍上の親子として、葉月さんを育てて守ること。それを、約束してほしいと仰っていました」


 胸が詰まって、声が出なくなった。

 寡黙で穏やかで、いつも本を読んでいた私の父。海外の絵本を与えてくれた手。柔らかい紙の匂いで満ちた書斎。母の葬式でくしゃくしゃに泣いていた顔。やつれ切った頬。散歩や図書館に連れ出してくれた時に繋いでいた大きな手。警察署の鈍いグレー。母が入院してから立つようになった台所での後ろ姿。

 図書館の小説を私から受け取った、あの微笑み。

 目頭が急激に熱くなって、私は口を手で覆った。


 お父さん。


 おとうさん、


「……あの、由紀子さん。由紀子さんは、母の病院の看護師で、母の病棟の対応もしたことがあったんですよね? ……父とは、それ以前に面識があったんですか?」


 彼女は首を横に振った。


「いいえ。病院が初対面です」

「……じゃあ、どうして父の条件を呑んだんですか? お父さんのこと、」


 好きだったんですか、とは言えなかった。でもそれ以外に理由が思いつかない。私のためとはいえ、父が由紀子さんに求めたことは、未婚の二十代女性には責任が重すぎる。由紀子さんにとってなにもメリットがない。なのに、どうして。

 由紀子さんは口をきゅっと引き結び、やがて、声を震わせた。


「――――恩返しが、したかったんです」

「恩返し?」


 彼女は頷き、深く息を吸い込んだ。

 由紀子さんは、母子家庭だったらしい。不倫した旦那に一矢報いるため、自分の娘をどうにか医学部に行かせたかった母親は、娘の人間関係や生活を管理して必死に教育した。けれど、元々希望ではなかった医学部受験は失敗し、看護学科に進学した。それを、母親は半狂乱になるほど許せなかったそうだ。

ほとんど絶縁状態だったけれど、就職したあとに実家に戻ってみたら、怪しげな壺や鏡、キーホルダー、鴨井にお札が大量に置かれた部屋の中で母親がぶつぶつと文言を唱えていたらしい。宗教の道具を購入するために娘の貯金にもクレジットカードにも手を出し、しまいには闇金にまで借金をしたと。

 奨学金返済もまだ残っている二十代の看護師が、とても返せる金額ではなかった。


「夜も眠れず、食事もできず、頼れる身内もいなくて、眩暈と吐き気で蹲っているところを、あなたのお父さまが声をかけてくださったんです。お母さまの病室で数回顔を合わせただけだったのですが、耐えきれず、私はすべての事情を話してしまいました。そしたら、学生時代のご友人――――弁護士を、紹介してくださったんです」


 由紀子さんは目を伏せ、ベージュのロングスカートをぎゅっと握りしめた。


「統合失調症になった母が精神科に入院できたのも、借金が無くなったのも、あなたのお父さまのおかげです。――――人生を、救っていただきました」


 末尾の言葉が、妙に真っ直ぐ聞こえた。


「だから、再婚相手をお探しになっている時に、差し出がましくも声をかけたんです。これでなにか、ほんの少しでも恩を返したかった。秀樹さんが求めていた母親に、明るくて優しくて料理が上手な、水月さんみたいな母親に、私は、なりたかった」


 父と母の名前が出てしまったことに気付かない振りをして、私は由紀子さんを見つめる。

 理想の母親になりたがっていた彼女のことを。


「青山葉月さん。あなたをここまで苦しめたのは私です。死ぬほど追い詰めてしまったのは私です。でも、私は……信じられないかもしれないけれど、ほんとうに、あなたを…………」


 由紀子さんはそれきり言葉に詰まってしまったようだった。室内の換気扇が薄く音を立てている。青褪め、俯く彼女に返す言葉が見つからず、私たちの間に不自由な沈黙がひたひたと落ちた。

 言うべき言葉を間違えないように、私はできるだけ冷静になろうとする。


(この人は、多分)


 私は唇を引き結んだ。

 この人は、父に呪われた。

 『理想の母親』になろうとしていたのは本当だろう。でもそれは見栄や体裁のためではなく、父の言葉に従うためだったのだ。進学校に入れたがっていたこと、料理を進んでしたがったこと、しきりに『お母さん』と呼ばせたがったこと。

 父の願いを果たせたのだと、彼女は他の誰よりも、自分に証明したかったのだ。

 強迫観念になって自分自身を縛り付けるまで。


「……由紀子さん」


 父が由紀子さんのことをどう思っていたのかは、もうわからない。

 でも、父は私たちがこうなってしまうことを、多分望んでいない。

 彼女を本当の意味で救える人はいなくなった。

 だったら私が、お父さんの呪いを解かないと。


「もう、無理に『母親』になろうとしなくていいです」


 彼女がばっと顔を上げた。


「私の母だったらこうしたとか、由紀子さんのお母さんがそうだったからとか、良い母親だったらこうするべきとか、そういう……そういうのはもう、考えなくていいです。由紀子さんは、由紀子さんのままでいてください」


 初めて顔を合わせた日のことを思い出す。あの日、彼女は緊張気味に微笑んでいて、ほとんど私に話しかけられていなかった。

 父が亡くなって、どんどんと私に干渉していった彼女。私の居場所を奪おうとしていった彼女。あれは本当に『由紀子さん』だったんだろうか。


『葉月が好きなこととか、好きな色とか、なんにも知らなかった』


 私は、由紀子さんのなにを知っているんだろう。


「人殺しって、罵って、ごめんなさい。……大事な時間を、私と父のために使わせてしまって、ごめんなさい」


 彼女は驚き、戸惑ったようにぶんぶんと首を振った。何か言おうと口を開いたのを、私は遮る。


「あのね、由紀子さん。私、絵を描くのが好きなの」


 ずっと言えなかった言葉は、あっけないほどするりと口から零れていった。

 私は、布をかけていたキャンバスを取り出して、由紀子さんに渡す。

 入院してから描き始めた絵だ。未完成の絵。でも、あの時と違って、そこには大元になる程度の色彩を閉じ込めていた。


「絵を描く仕事に就きたい。そうでなくても、きちんと絵の勉強がしたい。――――S高校の、美術科に行きたいです」


 キャンバスを見て、彼女が息を呑んだ。

 肋骨の裏側で、心臓が鳴っている。


()()()()()は、どう思いますか」


 彼女が、絵と私を見比べる。

 短く息を吸い、泣きそうな顔をしたあとで――――ゆっくりと微笑んだ。


「……絶対に行けます。応援、させてください」


 肩から重たい何かが落ちていった気がした。

 私は、多分ずっと、その言葉が聞きたかった。





『私が退院したあと、由紀子さんは経済的な面で私をサポートしてくれました。おかげで不自由なく、大学も卒業できました。

 絵に描いたような仲良し親子にはなれなかったと思います。

 けれど、由紀子さんは由紀子さんのまま、私は私のまま、支障なく二人で生活できたと思っています。家を出たあとも疎遠にはならず、お互いが困ったときの相談相手になるくらいには、良い関係ができているのではないでしょうか。

 父が願ったような家庭にはならなかったかもしれません。

 でも、私たちが私たちであることを、誰に許してもらう必要も、ましてや強制される必要もないと思います。

 父でさえも、母でさえも。

 気づくことができたのは、ずっとずっと後になってしまいました。』


 途中駅、列車が停まった。

 向かいの席に座っていた老婦人と30代くらいの眼鏡をかけた男性が降りていく。ただでさえ少なかった乗客はさらに少なくなり、車両はほとんど貸し切り状態になった。

 西日が眩しくなってきている。

 白い雲が夕焼けの光と、夜を予感させる藍を鮮やかに反射して、夢みたいな空を描いていた。

 胸の奥がじんわりと熱くなる。嬉しかった。

 きっと、着くころには美しい夕空が見られるだろう。




『そうそう、お見舞いと言えば。

 もう一人、意外な人物が見舞いに来てくれました。

 あなたは話したことがあるでしょうか。

文化祭の時、灯籠流しの絵とクジラの絵を描いた、葛西さんです。

 その時までほとんど話したことが無かったのですが、詩織から私のことをいろいろと聞いて、話がしたくなったのだと。』





「話……? 何について?」


 葛西さんは無表情のまま、「それ」と言った。話すたび、オールバックに結い上げられた長いポニーテールが揺れる。彼女の指した先には、棚の上に置いてある60色の色鉛筆といくつか残ったコピックがあった。


「絵、描いてるって、詩織から聞いた。青山さんも好きなのかなって」

「……それだけ?」

「うん。駄目だった?」

「いや、そういうわけじゃ……」


 淡々と、けれど食い気味に返事をしていく葛西さんに私はまごつく。駄目じゃない。駄目じゃないけれど。彼女を見るとどうしても、これまでの自分の感情と詩織から聞いた言葉が蘇る。

 嫉妬と羨望と憧憬。鋭く容赦なく核心を突く彼女の言葉。

 このまま会話をしてしまったら、私が抱える醜い部分の全てを暴かれ、突き刺されてしまう。そんな緊張感が、なんとなくあった。


「よかった。直近で描いたやつとかある? ツイッターにあげてるんだったらアカウント教えてほしいんだけど」

「いや、SNSには全くあげてなくて……全部、画用紙かキャンバスに描いてて」

「へえ、アナログなんだ。珍しい」

「……あの、一番最近のって言っても、今これしかないんだけど」


 私は由紀子さんに見せたものと同じものを引っ張り出した。

 ばくばくと全身が脈打っている。彼女に気圧されながら、私は激しく緊張していた。

 たった昨日描き上げたばかりの絵だ。詩織たちに見られた時も、由紀子さんに見せた時もまだ最後のフェーズが終わっていなかった。完成したと自分でピリオドを打った後、初めて見せるのがよりにもよって葛西さんになるなんて。

 淡い光で満ちていた灯籠流しと、宇宙を悠々と泳ぐクジラ。あれを描いた、彼女に。


「ありがと」


 葛西さんが受け取る。目を、通す。

 瞬き一つの間さえ、永遠に感じた。

 ふっと、彼女が息を吐く。




「上手い」




 立ち眩みのような感覚が、一瞬だけ視界を揺さぶる。

 放たれた単語を理解した時、私は塊みたいな息を吐いた。

 気づかないまま、彼女が続ける。


「上手い。待って、びっくりした。めちゃくちゃ上手い。どっかで習ってたの?」


 葛西さんが私を見る。そばかすの目立つ彼女の白い頬は、気づけば興奮気味に紅潮していた。

 チェロが反響するように、胸の中に熱が広がっていく。


「……ありがとう。習ってないよ。全部自己流だから、変なところいっぱいあるかも」

「習ってない? ……信じられない」


 彼女が再び絵を見つめる。画材は何を使ったのか、どれくらいかかったのか、ここの部分だけ画風が違う気がするけれど何を使ったのか。等々、同じ絵を描く者として細かな質問をたくさんされた。

 ひとしきり聞いたあと、はっと葛西さんが顔を上げる。


「……ごめん。いきなり聞き過ぎた」

「ううん、いいよ。絵の話するの好きだから。突然来たのはびっくりしたけど」

「詩織から、青山さんの絵がすごい上手かったって聞いて、見てみたくなって……だって、いないじゃん。うちの学校に絵描く人。美術部もないし」


 前々から気になっていたことを言われて、思わず大きく頷いた。


「わかる。いないよね」


 葛西さんはそんな私を見て、ようやく安心したみたいに笑った。切れ長の目が猫みたいに細められる。普段の淡々とした雰囲気とのギャップも相まって、それはひときわ魅力的に映った。

 仲良くなってみたいと思わせる笑い方だ。


「青山さん、この絵どこかに出さないの? コンクールとかさ」

「出したいなって思ってはいるんだけど、まだ決まって無くて。そもそも何があるかとかよく知らないし」

「いや、流石にもったいないって。そうだな、直近だと県の芸術祭があるよ。毎年九月に開催されるやつ。あれまだ締め切ってないと思うけど」

「芸術祭?」

「うん、書道とか陶芸とか生け花とかも募集するやつ。受賞作品は中央会館で展示されるって。私も去年出したんだけど、あれ、規定も緩いしテーマも自由だったと思う。これなら絶対賞獲れるよ。存在感がすごい。真夏の光みたい」


 息が止まった。

 つかえた何かを出そうとして、咄嗟に言葉が突いて出た。


「私、葛西さんの絵、好きだよ」


 言った途端、足先から頭のてっぺんまでぐわーっと熱くなった。今ほど、自分のことを恥ずかしく思ったことはなかった。いたたまれないどころの話じゃない。抱いていた感情への自覚があったいた分、いつの間にかほどけてしまった心の中のどろどろの残骸を見て、愚かしさに顔を覆いたくなった。


「あたしも青山さんの絵、好き」


 何も知らない葛西さんはさらりと微笑んだ。二の句が継げずにいると、なんてこともないように彼女が聞く。「S高、受ける?」


「あ……うん、そのつもり」

「そっか」


 その時、私の病室の扉が開いた。何度も顔を合わせた看護師を見て、あっと思い出す。今日は検診の日だった。


「ごめん。今日は帰るね、絵を見せてくれてありがとう」

「ううん、こっちこそ……あ、そうだ。待って」


 出ていこうとした彼女がこちらを見る。


「下の名前、教えてくれない?」


 看護師が不思議そうに私たちを見比べる。葛西さんはまばたきをすると、やがて穏やかな表情をしてくれた。

 ハスキーだけど甘い、アップルジンジャーティーみたいな声。


「葛西千秋。――――S高行ってもよろしくね、葉月」






『彼女とは高校の三年間を一緒に過ごして、大学からは別々の道に行きました。

 向こうは油絵を学んだあと、大学でデザインコースを専攻して、今はデザイン系の仕事に就いているそうです。

 ツイッターの相互なので、いつでも会えると思っていましたが、もうかれこれ何年も会っていないことに、書きながら気づきました。確か今は隣県に住んでいるので、引っ越す前にご飯でも誘ってみようかな。

 

 病室にいる間、私は一枚の絵を描き続けていました。

 部屋に残っていた画材と画用紙、それからキャンバスを由紀子さんに持ってきてもらって。本当なら勉強漬けであるべき中三の夏休みを、私は贅沢にも絵を描くことに溶かしたのです。

 皮肉ですね。そんな自由が許されたのも、追い詰められて自殺未遂をしたからだと思います。

 けれど私は、どうしても仕上げたかった。

 八月の間に。世界が真夏であるうちに。

 下書きを重ね、何度も構図を練り直し、相応しい色を作り、時々過呼吸を起こしながら、私はようやっとその絵を千秋――――葛西さんが尋ねる二日ほど前に完成させました。

 写真を同封します。

あなたみたいに上手く撮れなかったのですが、どうかそこは目を瞑ってください。』


 私は封筒から一枚の写真を取り出した。

 実家にあった古いデジタルカメラで撮ったものだ。生前、母が愛用していたらしい。幼稚園の頃の私の写真がたくさん残っていた。一軒家に越してからは使っていなかったけれど、バッテリーを入れたらきちんと作動した。

 そこから、描いた絵はカメラで撮って、印刷して、アルバムに綴じることが習慣になった。絵自体は残るけれど、どうしても色が褪せたり紙が劣化したりする。写真ならそれがない。写真は、褪せない。

 初めて自分で撮ったのが、この絵だ。

 宝石のような青い空の下で、一人の少女が佇んでいる。艶やかで長い黒髪に、抜けるような白い肌。肌と同じくらい真っ白なレースのワンピースを着た彼女の周りに、何本もの向日葵を咲かせた。咲き誇る大輪の花の周りで、彩るように散らばっているのは数多の水滴と氷の欠片だ。

 吸い込むような青空を切り裂いているのは、一機の飛行機。

 飛行機雲は描かなかった。雨は降らないでほしいから。

 雪のような肌の少女は、頬を染め、満開の笑顔を向けている。

 

 彼女の持つ一輪の花の正体、彼女の正体。

 これにどれだけの人が気づいただろう。誰もわからなかったかもしれない。

 

 覚えている。他の部分はありったけのアクリル絵の具とコピックで描いたけれど、この花だけは水彩絵の具を使ったのだ。溢れんばかりの八月の中に咲く、たったひとつの初夏の名残。


 八重咲きの、梔子の花。


 写真の裏には、ボールペンでタイトルが刻まれている。







『拝啓、七月』






『透真は覚えていますか?


 秋か冬の頃だったと思います。あの日、私はあなたに約束をしました。

 一番綺麗な八月の空を描いて、あなたに見せると。

 中学三年の私は、意識の根底で自殺願望を持っていました。

 私が描きたいものは空であることをあなたが教えてくれましたが、その始まりは天国への憧憬だったのだと、睡眠薬を飲んだ時に気付きました。両親のいる場所に行きたいと。

 だから、ずっと自分は死にたかったのだと思った。

 でも、問題はそのことを思い出すまで『忘れていた』ことです。

 確かに、空を描いたのは父と母が死んだからでした。

 けれど私は空が好きでした。真夏の空が好きでした。

 宝石のように眩く、海のように透き通った、光のすべてを集めたような八月の空を。

 少女を描き、少年を描き、花を、水を、雲を描き、その実空ばかり描いていた私は。

 間違いなく、あの青さを愛していました。

 それを描いていた理由を忘れてしまうほど。


 千秋が勧めてくれた芸術祭に提出したところ、ありがたいことに準グランプリをいただきました。この賞歴がS高校への推薦枠に繋がった。

 ただ綺麗なものを描くのではなく、物語の解釈やメッセージを込める。これも、あなたが教えてくれましたね。

 あなたが撮った写真の構図、色の取り合わせ、角度。繰り返したデッサンに何度も交わした言葉。教えてくれた私の強み、個性、願望。あなたから吸収した発想や創作技術のヒントを土台にした作品が、私の未来を繋いでくれました。

 あなたの欠片が、私を生かした。

 ありがとう。

 約束を守れなくて、ごめんなさい。』




 列車が速度を上げる。

 二つに分かれている線路、その右方向。

 何が続いているかまだ見えないまま、列車は走る。

 迷いも無く、真っ直ぐに。




『私はS高校で日本画を専攻して、国公立大学の芸術学部に進学しました。

 デザインにイラストに日本画に油絵、色々な絵を描いてきました。空以外の絵も。

 けれどなんとなく、絵を仕事にしない方がいい気がして、近県の小さな食品メーカーに就職しました。

 自分でも気づかなかったのですが、私、結構料理が好きだったみたいです。手持ちのもので何かを作る。相性のいい材料を合わせる。なんだか絵を描くことに似ていて、性に合っていました。

 美術の学校という絵を描くことが義務になる場所で何年か過ごして、私は怖くなったのです。

 私はこれから、成績のために、生活のために絵を描いていくことになるのか。お金のために絵を描いていくのか。

 絵に責任を付与してしまうことが怖かった。

 私は絵をずっと好きなままでいたかった。

 臆病者でしょうか。でも、私は自分の世界という最後の逃げ場を、できる限り守りたかったのです。

 居場所の全部が壊れるような、あんな恐怖はもうたくさんでした。




 来月、私は結婚式を挙げます。

 五年前に知り合った彼とは何年か一緒に暮らしてきました。些細な喧嘩は何度もしてきましたが、ずっと一緒に居たいと思わせてくれる人です。

 幸せであることには間違いありません。ですが、不安が全く無いと言えば嘘になります。

 この人も、ある日突然、この世界から消えてしまうかもしれない。

 あんな痛みを味わうくらいなら、最初から一人の方がいいと思った時期もありました。

 なのに、また私は大事な人を作ってしまった。

 ずっと一緒なんてありえないのに、いつかどちらかが必ず一人になるのに、どうして誰かを愛してしまうのでしょうか。

 28歳なんて大人だと思っていたのに、私は何もわからないままで、どうしようもない自己矛盾を抱えたままです。

 私は、ゆっくりとそれを解きながら、彼と生きてみようと思います。




 一歳年上の彼は、どこかあなたに似ている気がするし、まったく似ていない気がします。

 ごめんなさい、実は、私、

 あなたのことを、たくさん、忘れてしまったのです。

 中三の秋に転校するはずだったから、卒業アルバムにはあなたの写真を載せる予定はなかった。年次全体にあなたの事故死が伝えられたのも、卒業する直前のことです。高校受験生であった私たちを動揺させたくなかったのでしょう。

 それでも先生方の配慮で、あなたはクラスの集合写真の右上、丸枠に収める形で写真が載せられた。中二の頃の、作り物めいた微笑を浮かべるあなたの顔。

 私の前で見せてくれたものとは違う。

 もっと、子供みたいな笑い方だった。チェロの低い声だった。痩せていて背も高くなっていた。手が大きかった。髪が少しだけ長かった。肌が白かった。美しい瞳だった。照れたらぶっきらぼうになった。近づくと優美に梔子が香った。

 言葉ではわかっていても、もう思い浮かべることができない。

 かつては苦しくなるほど鮮明だったのに。夏になるたびに、あの花の香りを嗅ぐたびに、感覚ごと全部思い出してしまっていたのに。どうして、どうしてと、自分が冷酷になったように思えて、泣いてしまった時期もありました。

 けれど、記憶が薄れていくと同時に、私は喪失の痛みも薄れていると気付きました。

 同じくらい両親のことも思い出せなくなったからです。

 記憶が幸福だったこと、美しかったことを思い出し、全部を失ったことに絶望する。これはかつて、私を殺しかけました。

 忘却は最後の痛み止め。

 かつて麻酔だった頭の霞が消えた私への。

 人間が、失ってもきちんと生きていくために作った装置かもしれません。

 



 いつかきっと、あなたが死んだ日を忘れるでしょう。

 あなたが死んでしまったことを忘れ、目の前の人と一緒にケーキを食べて笑って過ごしてしまう日が、いつかきっと来るでしょう。

 運命みたいな恋をしたと思っても、やがて風化し忘れていく。

 これまで失った日々と共に、優しく砂になっていく。

 あなたの顔も声も匂いも、くれた言葉のひとつひとつも。

 楽しい記憶も辛い記憶も救われた記憶も、どれも等しく薄くなる。

 それは残酷でもあり、救いでもある気がします。』




 列車が停まった。

 目的地である駅名を告げるアナウンス。私は慌てて手紙を畳む。

 降り立つともう潮の香りがした。

 ホームは私以外に誰もいない。背中越しに列車が走り去り、髪とワンピースの裾が吹きあげられる。

 小さな駅だ。トタンの屋根、錆びたアナウンス機。水色のベンチに自販機が一つ。ホームの周りを覆うように、低木が青々と茂っている。

 ベンチに人影を見た気がした。そこに走り寄る誰かの影も。

 けれど私は背を向けた。

 ここから、歩いてすぐだ。




 改札を出て、住宅街の坂道をずんずん下っていく。

 道すがら、無邪気に走り回る子供を見た。少し離れたところで父親と母親に微笑まれながら、安心の中で笑っている。自転車に二人乗りする、制服姿の男女を見た。彼らもまた、言い合いをしながらも楽しそうに笑いあっていた。晩夏の潮風に髪と制服をたなびかせて。

 眩しくて、目を細める。

 視界の向こうに水平線が見えた。

 下りた砂浜は真っ白で、海は夕陽を鮮麗に輝かせている。

 私は手紙の、最後の一枚を取り出した。






『けれど、あの夜のことはまだ覚えています。

 睡眠薬を飲んで、死んだはずのあなたに会った七月最後の夜。

 本当にあなたに会えたのか。あなたが私を助けたのか。私を殺さなかったのか。

 それとも、ただの都合の良い夢だったのかはもうわかりません。

 でも、昏睡状態からなんの刺激もなく睡眠薬を吐き出すでしょうか。それもわかりません。

 誰にも聞いていないからです。

 七月三十一日の夜、駅であったことは誰にも言えていません。

 言えないままでいいと思っています。

 絵のこと。写真のこと。進路のこと。自分たちの家族のこと。放課後いつも会っていたこと。七月と八月。白雪姫。梔子の花。飛行機雲。みんなには隠していたいくつもの欠片。

 あの夜は、私たちが交換した最後の欠片です。

 死ぬまでずっと、私たちだけの秘密です。



 ごめんなさい

 ありがとう

 あなたがせめて安らかであるよう、祈っています。



敬具 

青山葉月』




 サンダルを脱いだ。

 砂浜に揃え、足首に浸かる程度だけ海に入る。少しだけぬるい。水平線は眩い夕焼けのせいで空との境界がぼやけている。沁みるような橙が空と海を照らして、波は白銀を、空は紫に近い淡い桃色を描いていた。

 ああ、海の音がする。反対側の空はもう夜になろうとしている。なにかに祈るみたいに、光がずっと遠くで溶けていく。宝石を溶かしたような海の向こうで、八月最後の陽が沈んでいく。

 胸を衝く光景だった。

 私は全ての手紙を取り出した。同封していた絵の写真も。そして、私のものではない数枚の写真も。


 十三年前に貰った写真たちだ。

 淡く透明な、私のすべてだった世界の欠片。


 もう片方の手でライターを取り出し、火をつけた。

 小さな火が、ゆっくりと手紙と写真を燃やしていく。

 遠くで輝く夕焼けのように。

 私は何度も火傷をしながら、それでも全部が完全に灰になるまで燃やし続けた。

 黒く細かな灰は、潮風に乗って海へ溶けていく。


 飛行機事故から十三年。

 彼の遺体は、見つからなかった。




『なら、行こう。海』




 透真が誘ってくれたのはこの海だろうか。

 透真が眠るのはこの海だろうか。

 数年前だったら苦しくなっていたはずの言葉も、夕凪のように溶けていく。



 

 八月が終わる。


 でも、私はきっと、まだ生きていける。


 海の匂いがふわりと全身を包んだ。


 柔らかく、優しく、静かに。


 すべてを、赦すみたいに。


















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