九、七月✕✕日、あるいは
突然、拘束が解けた。
狭くなった気管にいきなり酸素が襲い掛かり、たまらず激しく咳き込んでしまう。喉が焼けているみたいだった。まともに息ができず、倒れたまま体を丸める。
「……葉月さんなんか嫌いだ」
絞りだしたような声がした。
生理的な涙で歪んだ視界。透真は、力なくへたり込んでいた。
「……優しくしてくれるのが俺だけだったとか知らないし、俺しかいなかったとか、一番幸せだったとか。なんだよそれ。なんでそんなこと、今になって言うんだよ!」
透真が声を張り上げ、思いっきり私を睨みつけた。烈しさのこもった、鋭い目つきだった。
「いっつもいっつも思わせぶりなことばっか言いやがって、言われる方の気も知らねえで! こっちはどうにかして折り合いつけようとしてたのに、なんで今さら、そんなこと俺に言うんだよ。なあ! なんで!」
いつも穏やかだった彼のものとは思えないほど、悲痛な叫びだった。心の全部がずたずたになった人の声だ。
呼吸が浅く整い、ようやく彼の顔がはっきり見える。
目を見開いた。
透真が、泣いている。
「死にたいとかふざけんなよ! 俺だって戻りてえよ! 戻って、俺だって、駅で……ああもう、なんなんだよ。クソ、クソ……」
全身が痛い。それでもなんとか、私は上体を起こした。
決定的ななにかが、目の前で崩れようとしていた。
「……俺……」
叫び声は、怯えた涙声に変わっている。そこで突然、向こうの両手が私の首に掛けられた。反射的にびくっとしたけれど、手にはまったく握力がなかった。痛そうに、苦しそうに、震えている。
「葉月さんのこと殺せない……」
息が、止まった。透真の手が弱々しく首から離れ、私の肩を掴む。彼がうなだれ、涙を流しながら縋るのを、私は眺めることしかできなかった。
「死んで、ほしくない……!」
トタン屋根の向こうに広がる水彩画みたいな青空から、雨の匂いを連れた風が吹いてくる。
木立が優しくさざめいて、線路いっぱいに咲く梔子からは残酷なほど甘い香りがした。
私は、なにも、言えなかった。
さっき泣き過ぎたせいか、涙さえ一筋も流れなかった。
肩を掴む透真の手。感触も大きさも全部同じだというのに、体温だけがまったく無い。あの時私を甘やかに溶かした熱は、もうどこにも残っていなかった。
たった、昨日のことなのに。
手を伸ばせば届きそうな、まだ間に合いそうな距離なのに。
アップルグリーンのベンチ。錆びついた線路。どこよりも綺麗な緑で輝く夏の木立。雨上がりの匂い。夏じゃないみたいに柔らかな陽光。蝉の声。スカーレットとコバルトの鮮やかな自販機。そういえば、まだサイダーを奢ってもらっていなかった。写真も貰っていなかった。海にも行っていなかった。転校前の、最後の待ち合わせだって。
積み重なっていた約束と未来が、音もなく消えていく。砂みたいに手から零れ落ちていく。
初めから無かったかのように。
何度も私を砕いた言葉が蘇る。今さら過ぎる確信は、前と違って痛みを伴わない代わりに、どれよりも冷たくて静かだった。
私たちはもうあの駅に行けない。
もう、二度と帰れない。
不意に、声がせり上がった。
「……ぁ」
すぐに咳きこんでしまう。唾液が足りないんだ。喉が焼け焦げたみたいに苦しくて痛い。透真はまだ私の胸元でうなだれていた。全ての力が抜けてしまったように、声も出さないまま。
「……ま」
なにを言えばいいのかわからなかった。今の彼になにを残してあげられるのか。まったく見当がつかなくて、でも涙よりも強い熱が、胸から込み上げて止まらない。
きっとどんな言葉でも足りないんだろう。今の彼に、今の私たちになにを言ってももうどうにもならない。でも、でも、それでも。伝えきれない全てをのせて、私は、
「とうま」
彼の名前を、呼んだ。
今にも壊れてしまいそうな、細くて頼りなさすぎる声だった。
しかし、彼はぴくりと反応する。
ゆっくりと、顔を上げてくれる。
「透真」
やっと、きちんと目が合った。
長い前髪は乱れていたけれど、それでも彼の瞳が見える。
くっきりと深い二重瞼に、長くて豊かな睫毛。形の整った大きな輪郭が、その縁に溢れんばかりの透明な雫をたたえていた。彼は一つまばたきをして、すっと一筋涙を零して、やがて光を見つけたみたいに目を見開かせた。
(なんて綺麗)
肩から手を離された。
きっと昨日と同じくらい真っ白であろう彼の左手が、優しく私の頭を包んだ。
ふわり、梔子の香りがする。
それが線路から香るものなのか、彼から来るものなのかはわからなかった。
私は空いている向こうの右手に自分のを絡めた。
彼が泣きそうな顔で目を細める。
その微細な睫毛の震えが見えるほど、私たちは顔を寄せあった。
淡く吐息が重なっていく。
不思議と、まったく狼狽えることなく自然に目を閉じることができた。
柔らかくて、優しくて、甘くて、しょっぱくて、
夢みたいな、味がした。
衝撃音が聞こえた。自分の頭からだ。
側頭部がじわじわ熱くなって、目を開けると暗闇とうっすらとしたフローリングの木目が見えた。胃が痛みの絶叫を上げている。椅子ごと真横に倒れたんだと気付いたとき、胃の痛みが急速に口まで駆け上がって、止める前に吐いてしまった。
内臓全部がひっくり返ったような激痛。咳と嘔吐を繰り返すうち、階下から慌ただしく誰かが来る音がしてきた。
「葉月ちゃん!」
悲鳴に似た、甲高い声が響いた。答える余裕なんて無く、私は視界と脳を揺らしながら、さっき呑んだ睡眠薬とワインを吐き続ける。咳も止まらなかった。
「葉月ちゃん、葉月ちゃん! 聞こえる!? ああ、なんで――――大丈夫、大丈夫よ。絶対に助けるから!」
力強い声の誰かが、手際よく私の体勢を組み替える。溺れているような苦しさの中、私の身体は横向けにされ、手を顔の下に入れられ、脚と腕の位置を直された。すると気道ができたのか少しだけ楽になり、えずきも収まった。喉が焼けたみたいに熱い。不快な苦みと酸味、それと吐いた時の苦しさで、生理的な涙がじわりと滲んだ。
待ってて、今救急車を。由紀子さんの叫び声が遠くなる。階段を転がるように駆け下りる音。汗を噴き出し、ぜえぜえとひどい音のする呼吸を浅くしていくうちに、滲んだ視界に焦点が合っていった。暗いけれど間違いない。私の部屋だ。私の、現実。
壁にかかったデジタル時計の文字が、くっきりと映り込む。
薄く膜を張っていた目から、一粒だけ雫が落ちる。
『0:03 8月1日』
七月が死んだ。




