はじまり
第一章
「散髪と虫歯の治療ならはリリーちゃんにお任せ!」
大きく無骨な鋏を持ち、白いワンピースを着こなした女の子キャラクターがスマホの画面でポーズをキメている。
僕は慌てて画面スクロールを止めると、キャラクターの詳細設定を見た。
「治療スキル持ちの床屋の娘か。いいね、こういうリアリティがあるキャラは大好きだ」
ゲームアプリ“魔女っ娘ギルティ”の最新ニュース画面を見ながら、ほくそ笑む僕。
サラリーマン生活十数年、齢三十五の中年男がこんなゲームを楽しんでいるのには理由があった。
このゲームアプリはキャラクターのゲーム設定やイラストが実際の魔女裁判に即しているのだ。
通常、魔女を題材としたゲームや漫画というものは魔法やドラゴンといった空想の産物を多く取り入れているが、このゲームはそれが無い。攻撃方法から回復アイテム、詳細設定まで現実の中世ヨーロッパ時代に即しており、大学時代は歴史を専攻していた僕でも勉強になることが多くあった。
「あー、そろそろ魔女に与える鉄槌イベントが開催か……てことはボスは異端審問官だからそれに有利属性なキャラを……」
ゲームでしか役に立たないような歴史知識を思い出して満足しつつ、スマホを操作する。
すると突然、前方から人々の騒ぎ声が聞こえた。
視線の端で見て見ると、どうやら男が道路の中央で暴れているらしい。
男を避ける人の流れに合わせて歩く僕。
それで何事もなく危険は回避されたハズだったが、予想が大きく外れてしまう。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
騒乱男は何を思ったか僕の方に駆け出すと、体当たりをしてきた。身長が小さく体つきも華奢な僕を女性と勘違いしたのだろうか。
「いたた……」
衝撃を受け、尻餅をついてしまう僕。
勢いで放り出してしまったスマホを探そうとするが、脇腹に熱いような、痺れるような痛みが奔る。視線を向けて見れば、僕の脇腹には何かを刺したような穴と、そこから大量の血が流れ出していた。
自分の身に起きた災難が信じられなくて騒乱男を見てみれば、手に安っぽい包丁を持っていた。恐らく、百円均一か何かで購入したものだろう。
刃は大きく、取っ手は安っぽい。しかも切れ味が悪かったようで、刺された僕の脇腹からはズキズキと強い痛みが伝わって来る。
「うそ……だろ……」
とにかくその場から離れようと、地面を這いずっていく。
頭に浮かぶのは仕事のことと、怪我の治療のことばかり。
脇腹だから出血は多いが、きっと早く治療すれば死ぬことはないだろう。でも、仕事の方はどうだ? 締め切りが近い案件の引継ぎや、そもそも長期間の休みなんて急に取れるだろうか。
僕が悩みに思考を巡らせていると、何人かの通行人が僕を気遣う言葉をかけてくれたり、救急車を呼んでくれていた。
人々の優しさに感謝しつつ、軽く安堵した僕。
痛みはまだ続くものの、致命傷ではないと頭が理解したためか、僕をこんな目に遭わせた騒乱男への怒りが沸々と湧いてくる。
ふと見て見れば、騒乱男は人込みの向こうで、小さな男の子を人質にとるように抱えていた。
「うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛寄るなあ゛あ゛あ゛!」
手に持った包丁を振り回しながら奇声を上げる男と、泣きわめく男の子。
男の子の母親と思しき女性が必死に騒乱男へ近寄ろうとするが、包丁に阻まれて男の子を助けることができない。
「なんで……だよ」
なぜ、自分がそうしたのかわからない。
理不尽な他傷行為をくり返す騒乱男に一泡吹かせてやりたいと思ったのか。
大好きな歴史に名を残すことはできなくとも、ニュース記事くらいには名を残したいと思ったのか。
僕はヨロヨロと立ち上がると、一目散に騒乱男へと突進した。
「うぉぉぉぉぉ!」
足を踏み出す度に襲い来る傷みを無理やり押さえつけ、そのまま騒乱男の足元へ自分の体をぶつける。
プロの格闘家であれば刃物を奪ったり身体の動きを封じることができたのかもしれないが、僕にそんな技術はない。とはいえ、多少の知識はあった。
全身鎧と剣や槍による戦闘が主だった中世ヨーロッパにおいて、剣術以外に有効だったのがレスリングの技である。
文献によれば様々な技があったようだが、とりあえず上半身主体の攻撃をする相手にとって、下半身への攻撃というのはとても有効とのことだった。
僕の素人タックルを膝下に受け、倒れる騒乱男。
一瞬気分がスカッとした僕だったが、現実はそう甘くなかった。
倒れた騒乱男は半狂乱になって僕を殴りつけると、今度は地面に膝をつき泣いている男の子に向かって包丁を振り上げたではないか。
「や、やめろぉ!」
僕は騒乱男の思い通りにはさせたくない一心で、男の子を護るように覆いかぶさった。
騒乱男は僕をどけようと何度も包丁を刺してくるが、僕は動かない。いや、痛みと極度の緊張で動こうと思っても動くことができなかった。
「どけぇぇぇぇぇ!」
騒乱男が立ち上がり、僕を蹴り飛ばそうとした瞬間、現場に到着した警察官が騒乱男を取り押さえた。
「犯人確保ぉ!」
「救急隊です! 自分の名前は言えますか!」
「ね、根室……根室聡です……」
救急隊員からの呼びかけに、なんとか名前だけ答える僕。しかし満身創痍の身体でできたのはそれだけで、言葉の代わりに血が口から漏れ出すばかりだった。
「うぇぇぇぇん」
自分が必死になって護った男の子が、上に乗った僕の重みで鳴き声をあげている。
ああ、自分は何をやっているんだ。こんなに小さい子を困らせてはいけない。
最後の力を振り絞って自分の身体を動かし、地面に仰向けに横たわる。
視界は朧気で、赤く滲んだ海面を真っ黒な魚たちが泳いでいるように見える。
身体も水没しているかのように重く、冷たくなり、感覚がどんどんと薄れていく。
――ああ、これが死ぬということなのか。
いつになく自分を客観的に把握しながら、僕の意識は白い光の中へと消えて行った。
第二章
――どれくらいの時間が経ったのだろうか。
まるで一晩ぐっすりと寝て起きた時のような充実感と共に意識が覚醒し、目を開く。
すると僕の目の前には真っ青な空。ただただ、美しい世界が広がっていた。
「うわぁ、綺麗だなぁ」
そよ風に吹かれ揺れる牧草が僕の頬をくすぐる……というよりは削っていく。
ザリザリザリッ!
よく牧草地などで寝そべっている描写を映画や漫画で見かけるが、アレはまやかしだったようだ。
柔かいとはいえ牧草も草である。
鋭利で平らな草がユラユラ揺れているのだから、人間の皮膚ごときで耐えられるものではない。
「いててて……」
頬の痛みに耐えかねて上体を起こせば、自分が寝ている場所が広大な牧草地の一角だということに気づいた。
まるで絵画でも見ているかのような、地平線まで続いていそうな牧草地。
こんな広い牧草地が日本にあっただろうか。北海道ならばこれくらいの規模の牧場があるかもしれないが、なぜ東京の街中で刺されたはずの自分が北海道にいるのか。
僕が自分の置かれた状態に混乱していると、突然、モフっとした感触が僕の後頭部を埋め尽くした。
「うわっ、なんだ!」
「メェェェ」
気づけば、やけに大きな羊が牧草地に座る僕に身体を擦りつけていた。
こちらが座っている状態とはいえ、僕より頭一つほど大きな羊だ。羊には詳しくないが、そういう巨大な品種なのだろうか。
羊の毛がくすぐったくて立ち上がる僕。しかしそこで、違和感を感じた。
座っている状態から立ち上がったにも関わらず、羊の身体が僕の視界の半分を埋め尽くしている。目線の高さもそこまで先ほどと変わっていない気がするし、何より身体が軽い。
ふと自分の体を見てみれば、手足は短く、まるで子供のようだった。
「僕の身体が子供になった? はは、子供を助けて意識を失ったから、夢でも見てるのかな」
定番な行動だが、自分の頬を抓ってみるとリアルに痛い。
僕も運よく気づけた時に夢の中で自分を抓ってみたことがあるが、本当に夢の中で自分を抓った場合、痛いというよりは少し違和感を感じるという程度なのだ。
現在のように鋭い痛みが奔るということは、これ即ち、今の状態が現実であるということを示唆している。
現実は小説よりも奇なりと言うが、さすがにこんなに奇妙なことが起きては自分も納得することができない。
準備運動をしてみたり、ジャンプをしてみたり、とにかく体を動かしてみた。
流石は若い身体というべきか、これといった動きの鈍さはなく、息も上がらない。
なぜか腕に切り傷のような怪我を多く負ってはいるものの、ある程度血が乾いているためか、少し痛痒い程度だ。草で切ったわけでもないし、もしかすると転生する前の傷が少し残っているのだろうか。
「ゲームアプリとかだと転生モノが流行ってたけど、そういう類なのかな? これは」
現実逃避をしたくなり、すり寄って来た羊に飛び乗った僕は、そのまま腕を組んで考える。
転生モノとは、事故や寿命で死んだ人間がファンタジーの世界に生まれ変わるというストーリーの創作の総称だ。
剣や魔法、ドラゴンなんかが存在する中世ヨーロッパっぽいどこかの世界を舞台にすることが多いのだが、自分が置かれた状況もそれなのだろうか。
「でも、なんだか違う気がする。この羊の毛も……なんか毛玉とか多いし、色艶も微妙……というかあんまり定期的に毛を刈られていないのか? やけに手入れが悪いな……」
「メェェェー!」
自分のみてくれを貶されたと思ったのか、羊が抗議の声をあげる。
僕は一抹の申し訳なさを感じながら、羊の毛を手櫛でほぐしてあげた。
羊といえば真っ白な毛むくじゃらというイメージが強いかもしれないが、それはあくまで現代技術によって管理され、定期的に手入れをされている羊だけの話。
昔、例えば中世ヨーロッパのように機械化が進んでおらず、手作業と簡素な道具だけで毛刈りをしていた頃は手入れが行き届いておらず、毛が伸びすぎて絡まっている上、薄汚れた色になっている羊が多かったそうだ。
羊の毛を無心になってほぐしながら考え事をしていると、遠くから声が聞こえた。質の良いガラスのベルを鳴らしたような、力強くも凛とした女の子の声だ。
「ムート! また毛狩りから抜け出したわね!」
ムートとは、僕が騎乗している羊のことだろうか。遠くから近寄って来た少女は怒り気味に声を荒げていたが、羊の上に乗っている僕の姿に気づくと恥ずかしそうに顔を赤らめた。
まるでロール髪のようにフワッとした金髪の癖っ毛と、オレンジ色の瞳を持つ美しい少女だった。
年齢は十代中盤といったところだろうか。中学生くらいの子供から大人にほんの少しなりかけている状態だが、そこはかとなく振る舞いに気品があり、それよりも大人なようにも見えた。
「……あなたはどこの子かしら? 私の村に銀髪の男の子はいなかったと思うのだけれど」
「なるほど、今の僕は銀髪をしているんですね」
前髪を引っ張り、目を無理やり上に向けて自分の髪の色を確認してみる。
確かに、少女の言う通り、今の僕は銀髪をしているようだった。先日までは黒髪の純日本人だったのだが、今の僕はどこの人種なのだろうか。
「あなた、名前は?」
「僕の名前ですか? 根室聡です」
そういえば死に際にも救急隊員に名前を聞かれたなと思い出しながら少女の問いに返答すると、彼女は口をもごもごさせながら答えた。
「ネェムロ、サトォル? ネロ・サトゥールかしら?」
少女は姿勢を正すと、紺色のワンピースの裾をつまみながら挨拶をした。
「先ほどは失礼しました、ロード・サトゥール」
「おおおお! なんて素晴らしい挨拶なんだ」
少女の振る舞いに思わずテンションが上がってしまう僕。
ネロは恐らく僕の名、聡を発音できなかったからサトゥールになったのだろう。
日本は姓・名の順だが、西洋諸国では名・姓の順だ。相手は金髪の女の子なのだし、恐らくココはヨーロッパだから僕をサトゥールと呼んだのはいい。問題は、彼女がネロの前にロードをつけたところ。
この風習があったのは僕が大学で専攻していた中世ヨーロッパだ。
相手が貴族ならばロードやレディ。王族相手ならばユア・マジェスティやユア・グレイスと頭につけるのが習わしだった。
この年代の平民に姓はなかったから、姓と名を答えた僕を貴族と判断したんだろう。
言語学も詳しく学んでおけば彼女の言葉の発音からヨーロッパのどこの地域かまで特定できるのだろうが、僕にそこまでの学はない。
「あぁ、こんなことなら歴史だけじゃなくて他の学問も多く習得しておくべきだったな……」
「あの、大丈夫ですか? ロード・サトゥール」
「これは失礼! 考え事で頭がいっぱいになっていました。あなたの名前は?」
「私はマルグリッド。この地を治める領主ゴルゴッタの娘です」
「こちらこそ無礼を失礼しました。地方領主の娘であれば、貴族階級に近い地位をお持ちのお方ですね。レディ・マルグリッド」
羊から降り、ボウ・アンド・スクレープという西洋式のお辞儀をする。
ボウ・アンド・スクレープは足を少し交差させ、右手は胸、左手は後ろに流すように伸ばす西洋のお辞儀だが、実際にやってみると凄く恥ずかしかった。
まるでオペラの役者にでもなった気分でいると、マルグリッドが目を丸くしていた。
「正式なお辞儀法までご存じなんて……なぜ貴男のような方が、私の家の羊に乗っていらしたの? それに、お召し物が血に汚れていらっしゃいますわね。ちょっとお待ちください」
マルグリッドはワンピースの上に着けたエプロンからハンカチを取り出すと、僕の腕の傷の所に巻いてくれた。
彼女が僕の腕を手当てしてくれている間、なんとなく気恥ずかしくなってしまい僕は無理やり会話を繋げた。
「僕も何がなんだかさっぱりでして……腕の傷はあまりお気になさらず。傷はすっかり塞がっているみたいなので」
僕は頭を掻きながら苦笑すると、マルグリッドに自分の状況を全て話した。
ここが本当に中世ヨーロッパだったとしたら、彼女は僕の話を微塵も理解できないし、もしかしたら気が狂った人間と考えるかもしれない。
でも、それでもよかった。現実とも夢ともつかないこの状況だからこそ、誰かに話を聞いて欲しかった。
日本の東京に生まれ、バイトで生活費を稼ぎながら大学院まで行き、幼い頃から好きだった歴史学を徹底的に学んだ。
学生生活は本当に夢のようだった。
学校では授業中、昼休みを問わず歴史書を読み、バイトも古本屋と新しい本屋で交互に働き、食費を削って海外の歴史を学ぶため海外旅行へも行った。
好きが高じて、英語、フランス語、ドイツ語もある程度なら話せるようになった。
しかし、好きな事が将来に役立つかというと、そんなことはなかった。
いくら大学院卒とはいえ、歴史にしか詳しくない僕が高給な職業に就けるわけもなく。
高卒から大卒まで誰でも入れる広告会社で、ただひたすらに資料やキャッチコピーを作成する日々。
自慢の歴史の知識が活かされるのなんて、三国志が大好きな上司の酒の席だけだ。
僕は中世のヨーロッパにしか興味が無いと何度説明しても、歴史学を専攻していたのならば中国にくらい詳しいだろうと本当に面倒くさかった。
しかも上司は三国志と三国志演義の知識が混ざっているものだから、本当に手に負えなかった。
一体どれくらいの間話していただろうか。マルグリッドという少女が困惑しながらも頑張って理解しようと話を聞いてくれるものだから、ついつい話し込んでしまった。
「ロード・サトゥールは色々なことをご存じなのですね」
十代の少女の、素直な感想を聞いたことで、僕の胸の奥が熱くなる。
僕は歴史が好きで、勉強を続けていた。それは好奇心が強かったこともあるが、子供の頃、絵本に書かれていた英雄、ドン・キホーテの伝説を親に話した時、彼らが凄いと褒めてくれたのが、本当に嬉しかったのだ。僕は、自分の知識を満たしながら、誰かに褒められたり、感謝されるのが好きだった。だからこそ、あそこまで貪欲に歴史を学んでいたのかもしれない。
「……ありがとう」
涙を流しながらマルグリッドに感謝を告げる僕。そのまま沈黙の時間が流れ、マルグリッドが僕の顔を覗き込んだ。
「あの……それで、貴男はこれからどうするんですの?」
「……あ」
そう。僕は、今自分がどうなっているのか。どうすればいいのか、サッパリわからない状態だった。
「すず! お父様! 居らっしゃいますか!」
マルグリッドは優雅でありながらも、慌てた様子で領主の小城のなかへ入ると、従者であるすずと父、ゴルゴッタの名を呼んだ。
「はい、こちらに」
マルグリッドの呼びかけに答えるように、メイド服姿のすずがどこからともなく姿を現す。
黒髪の長髪に黒い瞳を持った十四歳の少女、すずは西洋的ないで立ちのマルグリットと比べると、明らかに人種そのものが違った。
アジア系、それも日本人に見られるような少し垂れ下がった目じりと、一重ながらに大きめの瞳を持っていた。
「どうしました、マルグリッド様。そんなにお急ぎになって」
体躯の大きな老齢の男、ゴルゴッダは遅れて奥の部屋から現れると、かしこまった様子でマルグリッドに話しかけた。
「お父様! 私は貴男の娘ですわよ?」
「ごほん、そうだったな。それで、どうしたんだマルグリッド」
「羊牧場で何やら変な少年が居たんです。ネロ・サトゥールという銀髪の……」
「銀髪の少年か。私の領地では見たことのない風貌だな。どこか近隣の地域から農奴が逃げ出してきたんじゃあないのか?」
ゴルゴッタがすずに視線を向けると、既にすずはどこからか分厚い書類の束のようなものを手に持ち、パラパラとめくっていた。
「ネロ・サトゥールという農奴はこの辺りの地域では登録されていないようです。もしやと思い貴族の線もあたってみましたが、サトゥール家という貴族は見当たりませんでした」
「ふむ……それは奇妙な話だな」
すずとゴルゴッタが首をかしげていると、マルグリッドが思い出したように顔をあげた。
「すず! 貴女、確かニッポンという国の生まれよね?」
「いえ、お嬢様。ニッポンではなく二ホンです」
「ニッポンと二ホンって別の国なのかしら?」
「さぁ、国の方言によってはニッポンと言う場合もあるかもしれませんが……いかがされました?」
「彼、サトゥールはニッポンという国から来たと話してくれたのよ」
「なるほど……」
すずが背伸びをして小窓から外を伺う。
小城の敷地内で銀髪の少年が羊と戯れながら、城のあちこちを見て喜んだり、驚いたりとコロコロ表情を変えている姿が目に入った。
「あの少年ですか? とても拙者と同じ二ホンから来たとは思えないいで立ちですが……」
「そうよね? 貴女たち日本人は黒髪が多いと聞いているわ。でも彼は銀髪だし……」
「もちろん、銀髪のニホン人がいないとも限りません。拙者は二ホンから他国に売られましたが、その逆もしかり。もしかしたら、外様大名のご子息である可能性もあります」
「……そうなるともっと複雑ね……他国の貴族に無礼な扱いをしたとなっては問題だし……でも、貴族の子供が一人で牧草地に放置されるなんてことがあるかしら? 近隣の領地から脱走した農奴の親子からはぐれたっていう方が自然なんだけれど……」
俯き、眉間に皺を寄せるマルグリッド。
「何か不可思議な点がおありで?」
「彼、貴族のマナーを心得ているのよ。振る舞いはまったく洗練されていないのだけれど、私の名を呼ぶ時に敬称をつけたり、ボウ・アンド・スクレープもしていたわ。農奴レベルの子供が、遊びでもそんなマナーを覚えるなんて思えないの。それに、私が知らない事を色々と語っていたわ。トーキョーとか、ディエガクとか……見た目は私よりも年下なのに、まるで学者とでも話しているみたい」
「ふむ……拙者がちょっと様子を見て来ましょう。もしニホン人であれば、何か情報を聞き出せるかもしれません」
「お願いするわ」
すずはメイドの振りをしてそれとなく根室に近づくと、まずは声をかけずに傍らから彼を観察した。
これはずずの身体に見に着いた習慣である。
すずは現在マルグリッドに仕えているメイドであるが、その実は日本の足利将軍家に仕えた忍びである。
里の者が犯した失態により一族郎党が海外に身売りされ、中国で暗殺業をしていたところ、その腕を買われて時のローマ王に雇われた経歴を持つ。
そんな彼女は忍びの習性、情報収集のための目立たぬ立ち振る舞い、相手の様子の伺い方を駆使して根室の行動を逐一監視した。
すずの監視にまったく気づかない様子の根室は城壁を指でなぞったり、匂いを嗅いだ蚊と思えば、城の様子を見てうんうんと頷いている。
一見すれば頭のおかしな人間の行動だが、それにはある一貫性があった。
「……もしや、何かを調べているのか?」
すずは過去の経験を元に根室の行動を推測する。
壁に触れたり匂いを嗅ぐというのは、恐らく素材や頑強さを確かめるもの。城の全体像を見ているのは、構造の把握や攻め込みやすい場所を見ているのだろうか。
であれば牧草地に正体不明の子供が独りで居たというのにも合点がいく。恐らく、この領地の下働きとして潜入させ、情報を収集した後に他領の兵士を招き入れるという算段だろう。
すずはエプロンの腰の部分に隠した苦無を握り締めると、ゆっくりと忍び足で根室に近づく。
殺しはしない。雑談の後に相手の意図を聞き出し、間者とわかれば即座に捕縛、拷問にかけるだけだ。
大恩あるマルグリッドを護るため、すずは心を殺し、忍びへと戻る。
すると突然、根室がずずの方を見て目を輝かせた。
「ああ!」
(しまった、殺気が漏れていたか? )
身構えるすずであったが、その心配は憂いのようだった。
根室はまるで旧来の友人にでも会ったかのように目を輝かせ、すずに顔を近づけてきた。
「その黒髪と黒い瞳! アジア人特有の骨格も間違いない……君、日本人ですよね?」
「……貴様、二ホンの言葉が話せるのか?」
「僕も日本人ですから、もちろん話せますよ! いやぁ、レディ・マルグリッドとはずっと英語で会話をしていたから、日本語が懐かしい……」
急に日本語で滔々と話し出す根室を見て、目を丸くするすず。
言い回しにかなり癖があるが、確かに根室という男はすずの知る二ホンの言葉を話していた。
自らをニホン人ではなくニッポン人と呼んではいるが。
「同じ日本人同士、仲良くしてください。僕は根室聡。君の名前は?」
「拙者の名はすず。マルグリッド様にお仕えするメイドだ」
「へぇ、日本人でも欧州でメイドになることができるんですね……あ、そうだ! 今、日本の首相……いや、支配者? 権力者っていえばいいんですかね。そういう人は誰ですか?」
突然の問いに戸惑うすず。今まで数多の地域に潜入し、諜報活動をしてきたすずであったが、出会いがしらに時の権力者の名前を聞かれたのは初めての経験である。
素直に教えてよいものかと逡巡した挙句、特に問題はなしと判断してすずは正確な情報を伝えた。
「私がこの国に来る前、幕府の征夷大将軍は足利義尚様だった」
「足利義尚! お酒の飲みすぎで早くに亡くなっちゃった人か……ということは今の時代は1480年代くらいかな?」
「足利義尚様が亡くなったとはどういうことだ! 貴様、二ホンの情報を知っているのか!」
「あ、いやぁ、知ってはいるんだけど、今の情勢は知らないというか……ココが本当に1480年代のヨーロッパのどこかであれば、数年以内に足利義尚は脳溢血予定なんだ」
「予定というのは何だ! もしや、お主は軍配者なのか?」
「軍配者? ああ、軍の指揮の他に、占いめいたこともやってた人ね。そうじゃないんだけど、何て言えばいいんだろうな……僕はただの未来を経験してきた一般人なんだよ」
雲を手探りするように掴みどころのない根室の物言いに混乱するすず。
根室はすずの混乱を察したのか、一度深呼吸してから言葉を続けた。
「あー、僕はその、記憶喪失ってやつかもしれないんだ」
「キオクソウシツ?」
「うん、そう。記憶が混乱して自分のことを思い出せない病気なんだけど、わかるかな?」
すずは頭をフル回転させ、キオクソウシツなる言葉を思い出す、もしくは推測しようと試みる。
いくら記憶を辿ってもキオクソウシツなる言葉は聞いた事がないが、記憶が混乱する病というのには、すずも心当たりがあった。
甲賀の忍の中でも薬草の知識に長けた者は毒草の効能により相手の記憶を混乱させ、情報を吐かせたり、その家族と成り代わったりして情報を得ていたという話を聞いた事がある。
もしかすると本当に高貴な家柄の少年が命を狙われ、間者によって仕込まれた毒草で記憶に障害が生じたのかもしれない。
そう考えたすずはひとたび自分の中にある混乱を落ち着けると、根室との会話を続けた。
「キオクソウシツなる言葉は知らぬが、恐らく毒草か何かによって記憶が混乱しているのであろう。お主も、もしかしたら命を狙われているのかもしれない」
「そうじゃないけど……そうなのかな? そう思ってもらった方が都合がいいかも」
「委細はわからないが、マルグリッド様に貴様の処遇を掛け合うことにしよう。そのために、色々と教えてはくれないか」
すずは打ち解けたというような雰囲気を出しながら、根室と会話を続け、情報を集める。
この領地で雇ってもらえるかもしれないと餌を垂らした状態で根室の身体能力を測り、格闘術や暗殺、間者としての隠密術などを習得した者特有の癖を見つけようとしたが、根室には何もなかった。
頭脳や分析力はかなり高かったものの、身体能力に関してはその辺の子供の方が高いくらいだ。
高等教育を受けた貴族に多い特徴だが、それにしても博識がすぎる。
一般常識については疎いようだが、城の造りや壁、動物の生態などに関してはすずが及ばぬほどの知見を持っているようだった。
(……これは、案外使えるやもしれないな)
すずは心の中でほくそ笑みながら、表情は変えずに根室を見つめる。
忍びとは、周囲にあるものの特性を見抜き、活用することを信条する。潜入の為に縄を持ち歩くのではなくその場にあるツタや城壁の欠けを利用したり、戦闘のために小刀を持ち歩くのではなくそこらへんに落ちている石を投げて戦うのが真の忍者である。
そんな生粋の忍者気質であるすずにとって、根室という男は謎が多いながらに実に有用な駒であった。
豊富な知見はそれだけで使い道があるし、仮に高貴な家柄だった場合、保護したマルグリッドを助けてくれる支援者になるかもしれない。
記憶に障害があり不可思議な部分は多いが、それを差し引いても抱えておく利は多い。
すずは根室を客室に案内した後、事の次第をマルグリッドに報告するのであった。
第二章
「ふぁ……あ」
翌朝、僕は来客用の寝室で目を覚ますと、眠い目を擦った。
本来ならばもう数時間ほど眠っていたいところだが、カーテンなどないはめ込み窓のみの部屋には日光が濁流のように入ってきており、強制的に目を覚めさせられてしまう。
「カーテンって大事だったんだな……」
何気なく使っていたカーテンという文明の利器を懐かしみつつ、昨日あった事を回想する僕。
牧草地で目を覚ました後、僕はマルグリッドに匿って貰えることとなった。
すずという日本人メイドの口利きのお陰もあって来客兼、マルグリッドの付き人として働きつつこの城で暮らすという、好待遇で迎えて貰うことができたのだ。
記憶喪失だなんて嘘をついてしまった結果、マルグリッドたちが勝手に勘違いして重用してくれた結果なので、少し心が傷む。
二十一世紀の日本で働いていたはずの僕が、通り魔に刺されて死んだと思ったらこんな中世フランスのどこかにで目を覚まし、銀髪の少年に生まれ変わっていたのだから記憶喪失といってもいいのかもしれないが。
「僕……本当に中世ヨーロッパに来たんだな……今は西暦1490年代くらいかな?」
マルグリッドにこの国全体を収めている人間の名を聞いて、本当に驚いたものだ。
統治者はシャルル8世。温厚王として知られながら、イタリア戦争を始めたフランスの王様である。
すずから幕府の征夷大将軍、足利義尚の情報も聞けたし、恐らく年代は間違いないだろう。
最初はファンタジーの世界に異世界転生してしまったのかと複雑な気持ちになったものだが、過去にタイムスリップ転生? したのであれば話は別だ。
僕の大好きな中世フランスをこの目、耳で確かめることができるし、何よりファンタジー世界と違って潰しが効く。
ドラゴンや魔法なんて空想のものがあれば、話としては面白いかもしれない。実際に転生すれば、最初は面白いかもしれない。
しかし、転生であれなんであれ、産まれた世界で生きなければいけないとなれば最悪の環境だ。
魔法は才能や特殊技術の習得が必要だし、戦士として自分を鍛えるにしても人間の能力には限界がある。そして、魔法使いだろうと戦士だろうと冒険者だろうと、毎日が命がけだ。どれだけ強い人間になったとしても、30~40年程度しか生きる事は難しいだろう。
じゃあ商人や農民として長生きすればいいじゃないかと思うかもしれないが、それも難しい。だって、モンスターや盗賊がいるんだから。
魔法があるから産業革命も起きないし、機械もほとんど流行らない。
ただただ手作業で、死の危険を身近に感じながら小麦を作ったり、売ったりするのなんて御免だ。
その点、過去の時代に産まれたのであればまだどうにかなる。
歴史、特に中世ヨーロッパは僕の専攻だから多少の知見があるし、他の料理や農業、酪農だって当時の時代背景と一緒に調べていたから素人よりは知っている。……実作業をしたことがあるかは別だが。
「それと心配なのが……後世に残ってる歴史ってけっこうデタラメが多いんだよな……」
歴史を学んでいて痛感したのが、僕達の知っている歴史は事実ではなく、人間が作った情報を読んでいるに過ぎないということ。
地質学なんかは地層っていう誰も偽れない証拠があるからまだ確実性が高いが、歴史は本当に嘘が多い。極端な例になってしまうが、現代におけるインターネット掲示板やSNSを何千年も後に見返して歴史として体系づけた、と言えばどれだけ僕達の知る歴史というものが不確かなものか伝わるだろう。
土地の風土や大まかな事件なんかはある程度合っているが、人物の人となりや現地の人々の細かい暮らしぶりなんて資料に残ってないから解りようがない。
現にここ、僕がタイムスリップした中世フランスのラテリーテだって、まったく知らない地名だ。
中世の頃なんて領地の入れ替わりが激しかったし、そもそも国土を正確に記した正確な地図なんてものはそうそう作れなかった。
だからその領地を治める人間が、自分の名前や何かにあやかった名前を付けているのだろう。
ラテリーテは……恐らくフランス語の豊穣“la fertilité”あたりから名前をとったのだと思われる。
そういえば語学的な考察をしていて気づいたのだが、どうやら僕の身体は以前とは少々異なる状況にあるらしい。
確かにフランス語は以前から話すことはできたが、ここまで流暢ではなかったし、そもそも中世のフランス語なんて発音が現代とはまったく違うから伝わるかすら怪しい。
だというのにマルグリッドと普通に会話ができるし、すずが室町時代の日本語を使っていてもキチンと理解できた。
ニッポンではなく二ホンだと何度注意はされてしまったが。
「でも知らない単語は聞いてもわからないままだし……色々と学んでいくしかないな」
気分を入れ替えるべく、寝心地のいいベッドから這い出る。
貴族用のものだからか木組みのベッドにマットやシーツ、羽毛布団なんかがフルセットで揃っており、下手な安物の現代布団よりよっぽど寝心地がいい。
しかし、一つ問題があった。
「心もとない……」
布団から脱出し、立ち上がった僕の裸体を日光が四方八方からライトアップする。
記憶が正しければ中世のヨーロッパにおいて寝間着という文化は一般的だったはずなのだが、僕のベッド付近にそのようなものは用意されていなかった。
案内してくれたすずに聞こうと思った頃にはいつの間にか彼女が姿を消していたので、布団を汚さないようにこうやって全裸で寝たのである。
「キリスト教系の国では全裸で寝る習慣があったと聞くし、恐らくこれが正解だろう。たぶん」
マルグリッドはどういった格好で寝ているのかと気にはなったが、流石にそれを問うのは気が引ける。
もし全裸で寝るのが習慣だった場合、可愛らしい女の子にそれを聞くのはセクハラに当たると思ったからだ。
「うーん……」
せっかくなので自分の体を改めて見てみる。
鏡はないので顔は見えないが、マルグリッドによれば僕は銀髪で肌が白い少年とのことだ。
身長はマルグリッドより小さいらしいが、僕は生前も身長が小さかったことを考えれば、恐らく年齢はマルグリッドと同じ十代前半だろう。
筋肉は必要最低限しかついていないが、肌艶はよい。手指も女の子のように綺麗なことから、これといった力仕事はしてきていない身体なのだろう。
「まずは体力をつけるか……この時代、フィジカル第一だからな……」
別にトレーニングが好きという訳ではない。ただ、中世ヨーロッパという時代をある程度知っている者だからこそ、身体を鍛えないと高確率で死ぬという恐怖に怯えてしまうのだ。
詳しいデータは文献になかったものの、当時の農作業などを考えれば、中世ヨーロッパの女性は現代日本人の男性平均かそれ以上の力があったはず。
中世の日常生活には水の運搬や薪割り、動物の解体など多くの力作業が存在する。
そんな中、貧弱な身体をしていては自炊することすらままならないだろう。
「いち……に……うわ、もうキツイ……」
普通の腕立ては二回で断念し、追い込みは膝をつけた状態で腕立てを続行する。
腕を小鹿のようにプルプルさせながら全裸で膝つき腕立てをしていると、部屋の扉が開いた。
「失礼します、ロード・サトゥー……きゃぁぁぁぁ!」
勢いよく開いた扉が、これまた勢いよく閉まる。
扉が開いた瞬間に見えたのは、マルグリッドの姿。恐らく、僕の様子を見に来たのだろう。
マルグリッドの悲鳴に呼応するように、すぐさますずの声が近づいてきた。
しかし、足音がまったく聞こえない。これが忍びの歩法なのだろうか。
「大丈夫ですか! お嬢様! あの男に何か……」
「すず! 入ってはダメよ! なんでもないの! 私がノックをするのをすっかり忘れていたから……」
「しかし、先ほどの悲鳴は?」
「あの……サトゥー様の可愛らしいアヒルを見てしまって……」
「……アヒル?」
扉の向こうから聞こえるやり取りに赤面しながら、自分のお尻を見る。
日光に照らされ真っ白に光った僕のお尻は、確かにアヒルのしっぽのような愛らしさがあった。
服を着替えた僕は、マルグリッドに案内され食卓についていた。
領主のゴルゴッダ、マルグリッド、僕の三人が食卓に座り、すずが給仕をしている。
マルグリッドが僕をゴルゴッダに紹介すると、ゴルゴッダは軽く僕と会話しただけで部屋を出て行ってしまった。彼の皿が汚れており、食べ残しもあるところを見ると僕らよりも先に朝食を済ませていたようだ。
「……」
「……」
残された僕とマルグリッドの間に会話はない。
先ほどのアヒルのお尻事件が尾を引いているのだろう。マルグリッドは僕の方をチラチラと見るものの、顔を赤らめすぐに視線を逸らしてしまう。
どうしたものかと悩んでいると、すずが食事を運んでくる。
「お持ち致しました」
「おおー!」
食卓に並ぶのは塩漬けの魚や肉に果物、白いパン、大きなガラス瓶に入った赤ワインだ。
中世の食事は貴族と平民で大きく差があるとは聞いていたが、ここまでちゃんとした料理を朝から食べているとは、マルグリッドは相当な家柄の娘なのだろう。
魚料理が多い所を見ると、近くに海があるのだろうか。
「失礼」
すずは料理を並べた後に懐から銀のフォークを取り出すと、料理の一つ一つに刺しては布で拭き、刺しては布で拭きをくり返している。
そして一通りの料理を刺し終わった後、今度は銀製の二本の棒……いや、箸で料理を一口づつ食べていく。
「なるほど……毒見か」
中世ヨーロッパでは毒殺が盛んであり、王族などは銀の食器を使って毒の有無を判別していたという。そこに、日本人であるすず特有の毒見というチェック方法も追加しているのだろう。
地方領主の娘の食事にしては少々仰々しいというか、過剰な保護な気もする。
しかし、僕が知っているのはあくまで書物による知識で、確実なものではない。
実際は地方領主というだけで命を狙われることが多いのかもしれない。
「問題ありません。どうぞ」
すずの合図が出て、僕は反射的に両の手の平を合わせる。
「頂きます!」
そんな僕の様子を見たマルグリッドはポカンとしたあと、小さな花を咲かせるかのように笑った。いつもの気品漂う笑いではなく、心からの笑いといった感じだ。
「ふふふふ。本当に、すずと同郷の方なのですね。サトゥール様は」
「しまった……」
すずの名を出され、自分の失態に気づく。
日本人として30年以上暮らしたせいで、頂きますという習慣が咄嗟に出てしまったのだ。
本来、中世ヨーロッパでは聖職者でもない限り、食事の際の挨拶はないはずだ。
「お気になさらないでください。出自の地域によって作法が違うことは私も知っております」
「ありがとうございます。でも、僕はマルグリッドさんたちの作法も知りたいですね。この辺の地域では、食事の前の挨拶のようなものはあるのでしょうか?」
「そうですね、王の許しが出てから皆が食事を始めるくらいでしょうか。すずやロード・サトゥールのような、号令? のようなものはないですね」
「王の許しですか……レディ・マルグリッドは領主ゴルゴッタの娘と伺いましたが、こういった領地の食事の際、どうやって王の許しを得たことになるんです?」
「あっ……それは……王というのはその土地を治める主のことなので、ココの場合は父のゴルゴッタか、私の許しがあれば大丈夫です」
何か隠し事でもあるのか、マゴマゴとしながら作法を説明するマルグリッド。
確かにホストの許しを得て食事を始めるという食事マナーは知っているが、それはあくまで王室で開かれるごく一部の貴族や王族のみが参加する食事会でのことだと本に書いてあった気がする。
地方領主は貴族に近い階級だが、貴族に近いだけで貴族、しかも王族に食事会に招かれるほどの地位はない。
もしかすると、マルグリッドは何か特殊な境遇なのだろうか。それとも、僕の知識が間違っているだけなのだろうか。
持ちあがる知識欲に逆らうことができず、食事をそっちのけでマルグリッドに質問をする。
「レディ・マルグリッドはもしかして、王室に所縁のある方なのですか?」
「な、なぜ急にそのようなことを?」
「先ほどの作法のことです。私の記憶違いでなければ、王が許しを出す食事会というのはかなり高位の貴族か王族でなければ参加自体難しいはず。なのに王の名が真っ先に出てきたということは、レディ・マルグリッドは王と謁見する機会が多かったのでは、と思いまして」
「あの……その……」
「さらに気になるのが、地方領主であるレディ・マルグリッドのお父様がこの場に居ないことも気になります。僕という部外者が娘である貴女と食事をするというのに、彼は僕達……いえ、レディ・マルグリッドが自由にできるようにここを離れたように見えました。これはかなり奇妙な状態だと思うんです」
僕のまくしたてるような質問に目が泳ぐマルグリッド。
僕も質問の内容が失礼だったり脈絡がなかったりしているのは承知だが、気になったことはすぐにでも調べたい性格だ。
マルグリッドの様子をじっとみていると、すずがマルグリッドに耳打ちをした。
(マルグリッド様。この方はかなり聡明なようですし、要らぬ誤解を生む前に説明してしまってはいかがでしょうか? )
(でも、私と王の繋がりを話してしまってこの方にご迷惑をおかけしたら……)
(心配なされるな。もしもの時は拙者が何とかします)
何を話しているのかほとんど聞き取ることはできないが、マルグリッドの表情や仕草を見るに、僕に害を与えようという気はないようだ。
マルグリッドは意を決したのか、視線をあげると僕の瞳をまっすぐに見つめてきた。
「ロード・サトゥール……あの、初めて会ったばかりの貴男にお話してもいいものか、非常に悩んでいるのですが……よろしければ私の話を聞いてもらえますでしょうか? もちろん、貴男が不利益を被りそうな場合は全て聞かなかったことにして頂いてかまいませんわ」
真剣でいて、僕を心配するような瞳でこちらを見つめるマルグリッド。
本来、こういった複雑そうな事情に首を突っ込む性格ではないが、ここはタイムスリップした異世界であり、言わば第二の人生だ。
以前の人生で一番好きだった時代をこの身、この命を賭けて体験できるのならば、それも歴史学を志した者の冥利に尽きるというものだ。
僕は少し間を置いてから、一度だけコクリと頷いた。
それを見て安心したのだろう。マルグリッドは軽く安堵の息を吐いてから、言葉を続けた。
「ありがとうございます。私自身の問題とはいえ、人々に嘘をつきながら生きるというのはやはり辛いです。だから、こうやってロード・サトゥールが私の話を聞いてくれるだけでも感謝いたしますわ」
マルグリッドは深々とお辞儀をすると、ゆっくりと話し始めた。
「まず、私の名前を改めて紹介させていただきますわ。私の本当のフルネームはマルグリッド・ドートリシュ」
「その名前は……!」
マルグリッドの名前を聞いた時から、引っかかっていた何かがやっとわかった。
マルグリッド・ドートリシュ……それは……
「はい。私は現在、このフランスを束ねる王、シャルル8世の婚約者ですわ」
「では、この領地を束ねるゴルゴッタの娘というのは……」
「半分本当であり、半分嘘です。ゴルゴッタは私の遠い親戚なので、多少なりとも血は繋がっております。なので、私を匿ってもらったのです」
「……貴女が身分を偽ってここに居ることはわかりました。ただ、少し疑問があります」
「なんですか?」
「シャルル8世ほどの権力者に追われながら、なぜ貴女はこのような土地で暮らすことができているのですか? 普通、国王の婚約者が逃亡したとあっては国中にお触れが出ると思いますが」
「そうですわ。だから、私に背丈や特徴が似た女性に身代わりをしてもらっています」
自身のわがままのために身代わりを用意したのが相当心苦しいのか、マルグリッドは胸に手を強く押し付けながら俯いてしまう。
「貴族の暮らしと、王の妻になれるという言葉で誘惑し、私は何の罪もない平民の女性を身代わりに仕立ててしまいました。これは、許されることではありません。でも……私は狭いお城での暮らしはもう嫌なんです。小さい頃から城の外に出ることは許されず、教育や習い事ばかり……いつかは大きくなって自由になることを夢見ていたのに、今度は政略結婚の駒として使われたのです。せめて一生に一度くらい、自分のしたいようにしてみたかった……」
「レディ・マルグリッド……話してくれてありがとうございます」
僕の知っている歴史では、マルグリッド・ドートリシュはシャルル8世の婚約者になるものの、後に婚約を破棄され、父親であるローマ王の元へ帰ることになるはずだ。
それを言ってしまいたくなるが、僕はぐっと言葉を飲み込んだ。
僕の知っている歴史が本当の歴史かわからないし、仮に婚約破棄をされて故郷に戻ったところで、マルグリッドを待っているのは政略結婚の駒としての役割だけ。別の国の王族と婚姻することになるだけだ。
歴史書にでてきたマルグリッドが僕の目の前にいるマルグリッドなのか、身代わりとなった別の女性なのかはわからない。もしかしたら歴史の途中で身代わりのことがバレたものの、王の面子のために隠蔽されたという線だってある。
どちらにせよ、僕にどうこうできる問題ではない。僕は多少の歴史に関する知識を持っているだけで、ファンタジー小説のような魔力やスキル、神から授かった恩恵などの超常現象を起こすことはできないのだから。
「それで……僕は一体何をすればいいのでしょうか?」
「はい?」
「レディ・マルグリッドがマルグリッド・ドートリシュだということは理解しました。ですが、だからといって僕に出来ることは特になくて……簡単な身の回りのお世話か、知識の提供くらいですかね。あ、今までのように名前は呼ばず、ユア・ハイネスって言った方がいいでしょうか? 相手は国王の婚約者ですし……」
「ふふふふふふふ」
マルグリッドは何かが笑いのツボに入ったようで、咲いた花のようにコロコロと笑っている。
普段はどこか貴族めいた振る舞いしかしていなかった彼女が、年齢に相応な姿を見せてくれたのがなぜかとても嬉しくて、なぜか僕の中の欲求を刺激した。
高貴な振る舞いの女の子といえば聞こえがいいが、マナーが完璧ということはそれだけ他人行儀に感じてしまうものだ。
それがここにきて、僕とマルグリッドの距離が縮まったような気がした。
「お嬢様」
すずがたしなめるように言うと、マルグリッドはどうにか笑いを抑え込み、話を元に戻した。
「……失礼しましたわ。ロード・サトゥールの今後のことですが、私の使用人として、すずと一緒に身の回りのお世話をしてくれませんか?」
「はい、喜んで!」
僕は居酒屋のバイトの時にでも出したことが無いような大きな声で返事をした。
だってそうだろう。
大好きな中世ヨーロッパの文化を学ぶ上で、マルグリッドの傍にいることはこれ以上ない環境なのだから。
第三章
「ふぅ……ふぅ……これは大変だぞ……」
中世ヨーロッパの生活を舐めていた僕は、初日からその多忙さに舌を巻いた。
文献などで現代と中世で人々の生活時間が異なることは知っていたが、貴族の文献ばかり残っていたため、朝はゆっくりできると踏んでいた。
しかし、ゆっくりできるのは貴族だけの話。
「お早うございます、サトゥール」
まだ陽が出る前の薄暗い時間にすずが現れ、着替えを渡され、羊小屋の一角に用意された風呂桶の中で体を洗った。
一般的な平民は風呂屋に行くそうだが、僕はマルグリッドに仕えているため敷地内で済ませる必要があるとのことだった。
風呂が終わったらすずと速足で村の教会に行き、朝のお祈り。
朝とはいえ夜明けの始まり、体感的には朝5時頃だというのに多くの人々が教会を訪れ、シスターと共に神への感謝の祈りを捧げていた。
そして神への祈りも早々に帰宅すると、朝食として簡易的なサンドイッチを食べ、仕事へと向かう。
そうしてやっと太陽が出てきた朝。僕は羊たちを運動させるため、牧草地に来ていた。
「メェェェ!」
待ちに待った自由の時間だからか、羊たちは朝から元気に散歩したり、牧草を食んだり、風に当たりながらメェメェ鳴いている。
僕は羊飼いの代わりに、この羊たちが遠くに行きすぎないよう見張ったり、羊を誘導するのだが、これが大変だ。
本来ならば牧羊犬を使うらしいのだが、肝心の牧羊犬が老齢で亡くなってしまったとのことで、人力のみである。
動きは早くないとはいえ、自由奔放に動き回る羊たちを僕だけでまとめるというのはかなりしんどい。
「だから昨日のマルグリッドも苦戦していたのか……」
疲れ果てた僕が柵に休んでいると、遠くから女の子の声が聞こえた。マルグリッドだ。
「ロード・サトゥール! 朝から大変でしょう」
「ロードは不要ですよ、お嬢様」
「あ……そうですわね。さ、サトゥール」
「はい、お嬢様」
マルグリッドは何か恥ずかしいのか、スカートの裾を掴み、もじもじとしている。
「あの、私と貴男の二人だけの時はマルグリッド……いえ、マリーと呼んでくれませんか?」
思わぬマルグリッドの反応に、まさかこれが恋する乙女なのかと考えた僕。
恋愛経験が全くないことを悟られないよう、満面の爽やか笑顔でマルグリッドの名前を呼んだ。
「わかりました、マリー」
「うふふ、嬉しいですわ。なんだか、友達ができたみたい」
友達という言葉にガクリと肩を落とす僕。恋ではないとわかったもののどうも未練が残り、マルグリッドに探りを入れる。
「友達……ですか?」
「はい、友達です。実は私、小さい頃から城の外に出たことがなくて……交流を持てたのも、家庭教師と一部の親族、貴族だけだったんです」
マルグリッドの話によれば、ローマ王の娘として産まれた彼女は幼少期から政略結婚のための教養を身につける英才教育を受けていたそうだ。
変な虫がつかないよう、怪我をしないよう、勉強からダンスのレッスンまで、やることなすこと全部が城の中であり、教育係となる他の貴族としか会えない毎日が続いたとのこと。
「お父様、ローマ王が子供の頃は貴族の食事会やマナーというものがなくて、後からそういったものが生まれてきたから身につけるのに苦労したらしいんです。だから、私には苦労をさせたくないって仰ってました」
「確かに、中世ヨーロッパの貴族も初期の頃は絢爛豪華な衣服を身につけたり、ダンスや晩餐会を開くようなことはしなかったそうですね。農村の領主が少しいい生活をする程度のレベルだったと聞きます」
「うふふ、サトゥールはまるで昔の時代を生きてきたようなことを仰るのね」
「初めて会った時にも話しましたが、僕が読んだ書物には色々な歴史のことが書かれていましたからね。実際にあったことかどうかは、わかりませんが」
「過去のことが書かれた本があるならば、私達のことは後の世でどう書かれるんでしょうか」
マルグリッドの事は既に書かれているなどと言うことができないので、それとなくはぐらかす。
「マリーの事は秘密ですし、僕は自分の出自もわからない人間ですから。歴史書には書かれないかもしれませんね」
「そうなんですの? サトゥールの言う本にならば、何でも載っているのかと思いましたわ」
「歴史書は万能ではないんですよ。昔の人々が書いた本や日記、出土した品々を元に歴史書は作成されるんです。だから間違っていることも多いんです。動物図鑑のように分析できるものならば正確に書かれているんですが」
「どうぶつずかんというのは、どういう書物なのですか?」
「僕は生物が専攻ではないので詳しくは覚えていませんが、あそこでのんびりしている羊たちの習性なんかも書いてありますよ」
「まぁ、凄いですわ。羊のお世話が大変だから、何か役立つ習性が書いてあるといいのだけれど」
「うーん……」
僕はなんとかして羊に関する情報を思い出そうとするが、そこまで生物について詳しく勉強した訳ではないので思い出すことができない。なので歴史として何か羊に関する記述がないかと記憶をひっくり返してみると、一つだけ使えそうなものが思い当たった。
「そういえば、羊は仲間の羊の急激な動きに合わせる習性があると聞きます。そういった習性を使って、牧羊犬は羊を追い込むらしいですよ」
「でしたら、どれか一匹の羊を追いかけてみますか? そうすれば他の羊もついて行ってくれるかもしれません」
「なるほど、ちょっとやってみましょうか」
僕は近場で草を食んでいる羊を選ぶと、後ろから追いかけ、羊小屋の方に移動させようとした。
「ほら、いけ!」
「メェェェ!」
しかし、急に僕に追いかけられた羊はビックリして走り出したものの、羊小屋とは逆方向に向かって走り出してしまった。
しかも、他の羊たちもそれについて行ってしまった結果、羊の集団を小屋に連れて行くのがより難しくなってしまった。
「あぁ、おしいですわ」
「そうですね、追い立てられた羊に他の子達がついて行ったのはよかったんですが……」
そこで、ふと妙案が思いついた。少々恥ずかしいが、上手く行くかもしれない。
「マリー。ちょっと、羊たちの毛を集めるのを手伝ってくれませんか?」
「羊たちの毛ですか? 何に使うんでしょう?」
「それは見てのお楽しみ、です。失敗しなければいいのですが……」
僕はマルグリッドと協力して羊の毛をむしり集めると、人間の子供を覆えるくらいの大きな毛玉を作り、その中に体を突っ込んだ。
「ふふふ……まるでボノム・ドゥ・ネージュですわね」
ボノム・ドゥ・ネージュとは、フランス語で雪だるまを意味する言葉である。
羊の毛皮で丸く白い胴体になった僕は、まさにボノム・ドゥ・ネージュだった。
「それじゃあ、ちょっと試してみます」
僕はゆっくりとした動きで羊たちに近づき、羊の集団の中央辺りでゆっくりと腰を下ろす。
羊は知性が低いせいか、偽装した僕を仲間だと思ったのかそのまま受け入れ、のんびりとしていた。
「よーし……第一段階成功」
僕はそのまま腰を下ろしてしばらく間を空けたあと、おもむろに羊の鳴き声を真似しながら羊小屋に向かって走り出した。
「めぇぇぇぇぇー! はぁ……はぁ……めぇぇぇぇ!」
息も絶え絶えに走る僕を仲間だと思っている他の羊たちは、何が起きたのかわからずに本能のまま、僕の後ろをついて来た。
そしてそのままの勢いで全ての羊が羊小屋の中に入っていった。
「凄いですわサトゥール! 大成功ですわ!」
喜びながら羊小屋の方に駆けて来るマルグリッド。
そして彼女が見たのは、羊小屋の奥の方で羊たちに圧し潰されている僕の姿だった。
「ぐ……ぐるじぃ……」
「メェェェェェ」
「はぁ、酷い目に遭った……」
羊たちの世話を終えた僕はマルグリッドと分れ、一度着替えのために客間へと戻った。
羊追い込み大作戦の仮装をした結果、服が羊の毛や牧草だらけになり、酷い獣臭も放つようになっていたからだ。
服を脱ぎ、着替えようとしたところで気がつく。ここは客間であり、着替えの服が欲しければすずを呼ばなければならない。
「……しまった、事前に何着か服を貰っておけばよかったな」
「服なら持ってきたぞ」
「うわぁ!」
背後から突然聞こえたすずの声に驚き、飛び上がってしまう僕。
しかしすずは涼しい顔で僕を見ながら、替えの服を渡してくれた。
「ありがとう。それにしても、なんで服が必要なことがわかったの?」
「……私は給仕の傍ら、定期的にお嬢様の様子を見ているからな。貴様が一緒の時は猶更だ」
「あはは、君も見てたんだね。もしかして、僕達を護ってくれようとしていたの?」
「くっ!」
すずは突然僕の足を払い転ばせると、そのまま馬乗りになってどこからか取り出した苦無を構えていた。
「せ、拙者が護るのはお嬢様だけだ! 貴様など、少しでもお嬢様を裏切る素振りを見せたら……その首、搔っ斬ってやる!」
「ご、ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないんだ!」
すずは流石、現役の忍者というだけあって僕が逃げ出そうと身をよじっても上手く上体を制御し、常にマウントをとり続けている。
なんとか誤解を解き逃れようとする僕だが、努力もむなしく息が上がるだけだった。
「どうしたんですの!」
僕の叫び声を聞いたのか、マルグリッドが扉を開けて入って来る。
ガチャリ
そして僕達の姿を見ると、慌てて扉を閉めた。
「あ……アナタ達、破廉恥ですわよ!」
バタン
僕とすずは顔を見合わせ、お互いの姿を改めて見直した。
上半身半裸で、汗ばんだ僕の上にすずが馬乗りになっているこの状態。僕からすれば命がけの危険な状態だが、他の人から見ればただの情事の最中である。
「お、お嬢様! これは違います!」
「そうそう! すずが僕を殺そうとしただけで……」
「すずがサトゥールを殺そうとした!? それはどういうことですか!」
殺すという単語に反応し、激昂するマルグリッドに事情を説明する僕とすず。
マルグリッドはすずの行動を理解はしたものの、納得は出来ない様子で叱りつけた。
「すず。私の身を案じることは嬉しいですが、サトゥールを殺めることは何があってもゆるしません」
「しかし、もしこの男がお嬢様を裏切るようなことがあれば……」
「その時はその時です。私が信ずる人を間違えた。それだけのことですわ」
マルグリッドは僕の方に振り返ると、深々とお辞儀をしてくれた。
「この度はすずが失礼を働きました。主人として、謝罪させていただきますわ」
「いえ、すずもマリーのことを大切に想っての行動ですから。褒めることはあれど、気分を害することなんてありませんよ」
すずが暮らしたであろう忍びの世界は、主君の命令一つで今日の味方が明日の敵になる殺伐とした世界だったはずだ。
その基準で考えれば、僕が仮に超がつく好青年だったとしても、裏切りを警戒するのは当たり前の行為である。
現代の日本でも裏切りは往々にしてあったことだが、それはあくまで大なり小なりの金銭的、精神的被害を出す程度の裏切りがほとんどであり、中世の頃のような、命を奪うような裏切りは滅多に起こらない。
逆に裏切り=死が直結しているであろう中世ヨーロッパの貴族……しかも国王の婚約者でありながら逃亡中のマルグリッドにとって、裏切り行為というものをそう簡単に流すことはできない。
しかし、彼女は僕が裏切ったとしても、それは自分の見る目がなかったからだという。
強い眼差しで僕を見つめる彼女を見て、僕は自分が心から平民なのだと痛感した。
僕は、自分の命が仲間の裏切りによって失われた時、そのような台詞を言うことができるだろうか。
それはない。裏切った仲間を罵り、罵倒し、恨みながら死んでいくだけだろう。
「マリーは……本当に美しい人間なんだね」
心から湧き出た言葉を、思わず呟いてしまう僕。
するとマルグリッドから堂々とした風格が消え去り、年相応の少女のようにおろおろとしだしてしまう。
「う、美しいだなんてそんな……私は城の貴婦人方のようにドレスも着ておりませんし、メイクもしていないですし……」
「ま、マルグリッドは今のままが一番美しいんですよ! むしろ他の装飾など邪魔です! 女神の像が布一枚しか羽織っていないように、真に美しい女性は着飾る必要などないんです」
自分の言葉をフォローしようとして美辞麗句を並べる僕。しかし言葉選びを間違ったらしく、マルグリッドはさらに顔を赤らめると、慌てて部屋から出て行ってしまった。
「し、失礼しますわ!」
部屋に残された僕はすずに理解を求めようとしたが、すずの姿もいつの間にか消えていた。おそらく、マルグリッドを追っていったのだろう。
「はぁ……喉が渇いた」
僕は溜息を吐きながら、ベッドに座り込む。
そういえば、今日は朝から忙しくてろくに水分も摂っていなかった。集中していたから我慢できたが、こうやって気が抜けた今、喉の渇きからくる給水の渇望に抗うことは難しい。
「羊小屋の近くに井戸があった気がするけど、この時代の水って飲んでいいんだっけ……」
僕は頭の中にある歴史書を思い出し、水に関する情報を思い出そうとする。
現代の日本では公園やら駅やらで好きなだけ水を飲むことができたし、井戸水についてもそのまま飲めるイメージが強い。
しかし、それはあくまで現代の日本だからという話。
同じ現代でも発展途上国では水道の水をそのまま飲むことはできないし、中世ヨーロッパならば猶更である。
動物の糞尿が落ちて混ざっていたり、鉱山からの土壌汚染があったり、地下水だからといって井戸の水をそのまま飲むのは危険行為なのだ。
「かといって煮沸して飲むにしても火を起こすのが大変だな……」
僕がどうしたものかと悩んでいると、部屋の奥からコトリと音がした。
慌ててそちらを見て見ると、部屋の奥には喫食用のテーブルと椅子があり、そこには取っ手付きの壺のようなものと、木製のコップが置かれていた。
もしかして、すずの仕業だろうか。
「これは……?」
重い壺を手に持ち、コップに液体を注いでみる。
鮮やかな赤紫の液体と、鼻孔に広がる爽やかな酸っぱい匂いと、古い木の香り。
僕が飲んだことあるものとは違うが、恐らく赤ワインだろう。
試しに少し舐めてみると、強めの酸味と共にほんのりとアルコールが感じられた。
「そうか、昔のワインは発酵が弱いからアルコール成分自体も微弱なのか。うん、酸っぱい栄養ドリンクだと思えばイケるな」
喉の渇きに耐え切れず、ゴクゴクと何杯もワインを飲み干す僕。
「そういえば、中世ヨーロッパでは生水が危険だからワインを飲んでいたんだったっけ……」
少し頭にふらつきを覚え、ベッドに座ろうとするが、そのまま仰向けに倒れてしまう。
いくら度数が低いとはいえアルコールはアルコール。酒豪や、昔から飲みなれている現地の人ならばいざしらず、アルコール代謝能力が最も低いアジア人から転生した僕が耐えられるわけがない。
ぐるぐると回転している部屋の天井を見ながら、自分の体もプロペラのように回転しているような錯覚を覚え、そのまま気を失った。
第三章
「サトゥール、いらっしゃいますか?」
この村で生活を初めて二週間。中世の日常にも少し慣れてきた頃、マルグリッドが客間を訪ねてきた。
「こんにちは、マリー。どうしたんですか?」
「もうすぐ村で葡萄の収穫祭があるので、そのための準備を手伝って欲しいんです」
「葡萄の収穫祭……そうか、今の季節は秋だったのか」
自分が転生してからカレンダーもなければ時計もないような状態で生きてきたから気づかなかったが、小城の外を見て見れば、畑の麦が収穫され始めていた。
「秋という言葉は、以前すずからも聞いたことがあります。私達は意識したことがありませんが、二ホンには四季というものがあるそうですね」
「はい。日本は島国で季節ごとの寒暖差が激しいので、春夏秋冬と一年を四つの季節に分けて呼んでいます。おっとすいません、話が逸れてしまいましたね。収穫祭の準備は、何を手伝えばいいですか?」
「教会と協力して食事の準備やお祭りを行うので、シスターとの打ち合わせに付き合ってほしいのです。それで、お祭りに関する役割分担を決めます」
「それは楽しみですね」
「あ。それと……その……シスターはとても愛情深い方なので、勘違いなさらないでくださいね」
「勘違いですか?」
「いえ、なんでもないのです。それでは参りましょう」
歯切れの悪いマルグリッドに連れられ、教会へと歩く。僕とマルグリッドの二人だけではなく、もちろんすずも一緒だ。
「……」
すずが居るためか、マルグリッドは唇をキュッと結び、すまし顔をしている。
教会までの道すがら、すれ違った村人に挨拶されるところはさすが、領主の娘といったところだ。
「ここですわ。といっても、何度もお祈りに来ているとおもいますけれど」
マルグリッドの言う通り、僕は転生の翌日からすずに連れられて毎日のようにこの教会へと足を運んでいる。
とはいえ早朝の祈りをしているだけだし、村人全員が代わる代わる祈るものだからほんの数十秒滞在する程度だ。
教会のシスターも遠巻きに見たことがあるくらいである。
「失礼しますわ」
マルグリッドが通りやすいよう、僕とすずが教会の大扉を開ける。
すると、教会の中がより一層明るくなった。
教会のステンドグラスには老若男女と抱擁を交わしているキリストのような人物が描かれており、改めて見て見ると少々珍しい絵だ。
そのステンドグラスに向かって膝をつき、祈りを捧げていたシスターがマルグリッドの方に向き変える。
一本一本が細くシルクのような金髪ロングのシスターは、齢15くらいだろうか。
マルグリッドとはまた違う、儚さのようなものを感じられる風貌の彼女は、マルグリッドを見つけるとまるで兎のように飛びついた。
「マルグリッド! 愛してるー!」
「か、勘違いされそうなことを言わないでください!」
マルグリッドはシスターの抱擁からなんとかして逃れようと身をよじるが、ガッチリと組まれたシスターの腕はほどける様子がない。
一見するとマルグリッドよりも細身なのだが、一体どこにそんな力があるのだろう。
「失礼します、シスター。お嬢様が困っておられますので、その辺りで許してもらえませんか?」
僕が声をかけると、シスターが僕の方に顔を向ける。
そして、小さな口を開いた。
「あれれ? アナタ、見ない顔ですね。お名前は?」
「ネロ・サトゥールです」
「あれ! あれあれあれ!?」
シスターは何がおかしいのか、嬉しそうに首を傾げるとマルグリッドを手離し、今度は僕の方に飛び掛かって来た。
「ネロ! 愛してるー!」
シスターは僕の方にグルリと首を回転させると、木から木へ飛び移るムササビのように飛んで抱きついてきた。
「うわぁ!」
突然、可愛らしい女の子が飛びついてきたことで僕の全身が硬直してしまう。
ふわりと、花や薬草のような香りが漂ってきて、すべすべ肌の腕が僕の首に巻きついてくる。
絡みつくような抱擁をされたものの、シスターは胸が小さいというか無きに等しかったので、そういった柔らかさを堪能することはできなかった。
「アーリン! サトゥールが誤解したらどうするの!」
「誤解もなにも、神はすべからく人を愛しておりますし、神職者たるボクも、男女問わず全ての人を愛しておりますよ?」
シスター、もといアーリンは可愛らしく首を傾げると、目をハートにさせながら再び僕に抱きついてきた。
「し、シスター! いくら博愛主義者でも女の子が男に抱きついてくるというのはいただけませんよ!」
緊張で高鳴る心臓を必死に抑えつつ、アーリンを自分の身から引きはがす。
まだシスターだったから思いとどまることができたが、これがマルグリッドだったら僕は耐えられなかったかもしれない。
ぜぇぜぇと息を整えている僕を見て、マルグリッドは額に手を当てた。
「やはり、そう思いますよね……」
「そう思うって?」
「ボクは男の子だから、全然気にしなくていいってことですよ♪」
再び僕に抱きつき、頬ずりをしてくるアーリン。
「え、男……?」
そう言われてみれば、身長はマルグリッドより少し低いくらいなのに、肩幅は彼女よりアーリンの方が広い。
胸についても、単なる貧乳の類かと思ったがそれにしても胸が無さすぎる。
アーリンの手をとって触って見ると、確かに少し筋張っているというか、少女というよりは柔かな少年の肌に触れているような感触だった。
「あれれ? サトゥールって大胆? 同性でも恋愛OKな人?」
アーリンは何を勘違いしたのか、目をハートにさせたまま僕にキスをせがんでくる。
僕は必死にアーリンを引きはがそうとするが、今度は全力で抵抗されてしまい、押し返すことができない。
なるほど、確かにこの腕力は男子のものである。
「アーリンったら、また気分が飛んでしまっているようね。すず」
マルグリッドがすずに命じると、すずはどこから取り出したのか何かの草をアーリンの口に放り込み、水袋を突っ込んで大量の水も飲ませた。
「がぼぼぼぼぼ」
まるでフォアグラの生産牧場を見ているかのような気分でアーリンを眺めていると、突然、瞳の中のハートが消えて光が宿った。どうやら正気に戻ったようだ。
「あれれ? マルグリッドさんにすずさん。いつの間にいらしたんですか?」
「いつの間にじゃないですわ! まったく、お祈りの最中に薬草を嗜みすぎるのはやめた方がいいんじゃないの?」
「いいえ、それはできません! あの薬草を大量に食べながらお祈りすると、神の愛をより敏感に感じることができるのですから」
「あの……薬草とはどのようなものでしょうか?」
「あら? そこな銀髪の少年も神の愛にご興味がありますか?」
手に薬草を持って距離を詰めて来るアーリン。ちょっと圧力が強くて怖いが、歴史探求者の性というべきか、彼女が食べているという薬草は気になった。
「僕はサトゥールと申します。最近、マルグリッドお嬢様の付き人になりました」
「あらあら、これはご丁寧に」
「ところでその薬草、名前はなんと言うんです?」
「これはエニシダという花の葉と茎の部分ですわ。一か月程度干して水分を飛ばしてから食べると、まるで天使になったかのように身体が軽くなり、愛が満ち溢れてくるんです」
エニシダといえば、乾燥させた茎をホウキの穂先に使用することで有名な植物だ。
西洋の魔女が乗っているイメージがあるホウキの原材料だが、様々な薬効を持ち、種類によっては空を飛ぶような幻覚作用を及ぼすと言われている。
「なるほど……合法は合法ですが、立派な麻薬ですね……」
「薬草のことは置いておいて、お祭りの準備の話をしませんか? 私達は遊びに来たわけではないのです」
少々ムッとした様子のマルグリッドが嗜めると、アーリンは頭に電球でも点灯したかのような表情を浮かべる。
どうやら、マルグリッドとの約束の件をすっかり忘れていたようだ。
「そうでした! そうでした! お祭りの準備についてお話する予定でしたね!」
パタパタと忙しく動き回るアーリンに案内され、教会の奥、シスター達が食事や休憩をとるスペースに通される。
すると、アーリンはテーブルの上に赤いクロスを敷き、そこに粒子の細かい砂を撒いた。
「一体何をするんですか?」
「これからお祭りのための物資の運搬スケジュールや、保管に使用する倉庫決めをしますわ」
マルグリッドは指で砂をなぞり、四角をいくつも作ると、それらを結ぶように線を引いていく。どうやら、砂のキャンバスでこの村の図面を描いているようだ。
「紙は使わないんですか?」
なんとなく気になり、マルグリッドに問いかける。
中世ヨーロッパであれば、羊皮紙だけでなく低品質ながらも紙の製造がされていたはずだ。なぜ、彼女はそれを使わないのだろうか。
「紙を潤沢に使えるのはよほどお金のある貴族か、王都の教会だけですわ。こんな小さな村では、こういった工夫をしないとやっていけません。そういえば、サトゥールは二ホンの出身でしたね。二ホンでは、紙を使うのが一般的なんですか?」
「僕はあまり覚えていないのですが……すず! 日本は紙を使うのが一般的でしたよね?」
「そうですね。質の高い紙はもちろん高級品ですが、和紙であれば傘や浮世絵など色々なところで使われておりました」
「二ホンというところでは傘にも紙を使うんです!? 凄いですわー」
マルグリッドが図面を描く間、暇をしているアーリンが目を輝かせながらすずを見つめている。
すずは恥ずかしそうに咳ばらいをすると、黙り込んでしまった。無駄話はこれで終わりのようだ。
「さ。村の見取り図ができましたわ! 今回、倉庫として使える建物には印をつけておきましたので、それを確認しながら決めていきましょう」
こうして、祭りのための会議が始まった。
祭りの内容はまだわからないものの、今やっているのは村で集めた穀類の保管とその運搬スケジュールを決める事らしい。
穀類の保管など、とりあえず片っ端から倉庫に詰めていけばいいと思ったがどうやらそうではないらしい。
この村は穀類と羊、少々の酪農で生計を立てているため、納税のほとんどが穀類である。
生活するだけであればこれで必要十分かもしれないが、祭りとなれば話は別だ。
屋台や出し物、村の飾りつけなどで多種多様なものが必要となるが、それを買うお金を常にプールしてあるわけではない。
都度、必要に応じて穀類や羊の毛などと交換するのだが、穀類をお金に換える場合、大量に必要となるのだ。
物々交換で購入するにしても一時的に交換用の穀類を保管しておく必要があるため、やはりそれ専用の保管庫を管理するのはとても重要な作業なのである。
「行商人のマーチャはいつ頃から交易に来る予定なのかしら?」
「はいはい! マーチャさんは今日から何度か村を往復してくれるそうですわ!」
「では、今日は備蓄庫の方から小麦を回収してもらって、明日以降は刈り取った新しい小麦や、牛、毛織物などを交換に出しましょう」
マルグリッドは砂の図面に次々と印をつけ、順番を振っていく。
倉庫の順番や小麦の刈り入れ日程が決まったと思ったら、マルグリッドが手を止めた。
「はい、次は催しの内容や場所を決めるから、各自は図面を覚えてくださいね」
「はーい!」
「御意に」
アーリンやすずは当然のように頷くと、砂に描かれた図面を見つめた。
すずは職業柄、こういった記憶術に長けているのかすぐに目線を戻した。
アーリンはすずより時間がかかったものの、数分ほどで記憶したようだ。
僕はといえば、そんなことできるわけがない。
「すいません……覚えられないのですがどうしましょう……」
「拙者が都度、お主に伝えるから大丈夫だ。安心するといい」
すずにポンポンと背中を叩かれ、項垂れる僕。
現代に生きた人間として昔の人より優れているような錯覚に陥っていたが、機械どころか紙などのサポート器具が充実していなかった中世の人々の方が、基礎的なスペックは高いようだ。
「次は催し物だけれど、例年通り供物を神にささげる踊りをしましょうか」
供物を神に捧げるのは中世ヨーロッパでも定番の祭りだ。
現代日本に居るとつい忘れがちになってしまうが、農業を主体に生きていた昔の人々は、作物の良し悪しで生活どころかその生死までが決定してしまう。
だからこそ、天気や豊穣という人間の力の及ばぬ範囲を神の所業と考え、供物を捧げ祈るのだ。
祈ったところでどうこうなるものではないと思うかもしれないが、人々の生死がかかっているのである。もしかしたら実りに影響があるかもしれないと思えば、できることは全て試したくなるものだろう。
キリスト教が浸透し、神という存在が強く信じられていたこの時代では猶更である。
「どのような踊りをするのですか?」
「そんなに身を固くしなくても大丈夫ですわ。王宮の舞踏会と違って、決まった踊りはありません。皆さんの手拍子に合わせ、気の向くままに踊ればいいんです」
「そうですわ! ボクのように、神への愛を全身で表現すればよいのです!」
そう言うと、アーリンはくねくねとタコのような、暴れ狂うマンドラゴラのような不思議な踊りを披露してくれた。
「アーリンの踊りは参考にしないとして、そうですわね。私と一緒にロンドなんていかがでしょうか?」
「ロンドですか?」
「そうですわ。本来は輪になって踊る踊りですが、こう見えて私も領主の娘。民衆の輪に入って踊ることは難しくて」
「確かに、みんな緊張しちゃってそれどころじゃないですもんね」
「そうですわ。だから、私と一緒に焚火の近くで踊りましょう」
「でも、僕はダンスの経験がほとんどないんです。上手く踊れますでしょうか?」
「うふふ。では、今日から二人で特訓ですわね」
なんだか上機嫌なマルグリッドを見て、嬉しいような、怖いような感覚が僕を包み込む。
彼女のような美しい女の子とダンスを踊れるのは喜ばしいことだが、僕は生まれてこのかた、踊りというものをほとんどしたことがない。せいぜいが、小学校の時に踊ったマイム・マイムくらいだろう。
そういえば、現代日本でも途中から学校のカリキュラムにダンスが取り入れられたと聞いた事がある。
どうせならば現代っ子として生まれ、ダンスの一つも嗜んでおけばよかった。
「ボクも一緒に踊ってあげてもいいんですよ? サトゥールさん♪」
「貴男はシスターとしての祈りがお仕事でしょう。踊ってはだめですわ」
「はーい」
アーリンが不貞腐れていると、教会の外から馬の嘶きと、ゴリゴリという何かが転がる音、そしてハスキーボイスな女性の声が聞こえた。
「おーい、シスターボーイはいるかい?」
「あ。マーチャだ! はーい!」
アーリンは扉を開けると、赤髪ボブヘアの少女、行商人のマーチャと雑談を始めた。
マーチャは小学生のようなかなり幼い見た目をしているのだが、実年齢はマルグリッドとそう変わらないらしい。
幼い見た目とハスキーな声のギャップが脳を狂わせる不思議な女の子だが、商人としての腕は一人前のようで、アーリンやマルグリッドと穀類の換金や輸送について次々と話を進めていった。
「そういえば、都の方では活版印刷という技術ができてね。本の量産が可能になったんだ」
「それは凄いですわね。本といえば手書きで作るから、貴族でも数冊しか持っていないのに」
「中々興味深い本も多くてね。せっかくだから、往復ついでに村人たちに売って行こうと思うんだ」
「それはよいことですわね。ここの村人たちにはある程度文字の教養もしてありますから、簡単な本くらいなら読めると思いますわ」
「そうか、ありがとう」
商談が終わると、マーチャは保管庫から麦を受け取るため、アーリンと一緒に行ってしまった。
「さぁ、私達は刈込みの方をやりますわよ!」
「御意」
「はい!」
それからは本当に目まぐるしい忙しさだった。
マルグリッドの指示のもと、村の家々を回りながら祭税として麦や物品などを徴収したり、まだ収穫が済んでいない家からはすずと僕が直接小麦の刈り取りを行うなどして祭りの資金を集めた。
そうやって集めた麦や牛、羊などの税をマーチャに渡し、祭事用の物品や貨幣と交換してもらった。
そうやって祭りのための税を次々と取り立てていったのだが、村人たちは祭りを喜ぶ半面、どこか辛そうな顔をしていた。
なぜ、祭りが近いというのに皆辛そうな顔をしているのかとマルグリッドに聞いてみたのだが。
「私の力が及ばないせいよ。貴男は気にしなくていいわ」
と苦笑されてしまった。
あとでこっそりすずに聞いてみたところ、先週に珍しく起きた地震保管庫が壊れ、食料の備蓄が少なくなっている家がでたのだという。
僕は地震大国日本の出身だから狼狽えることはなかったが、他の皆は大慌てしていたのを覚えている。
いくら保管庫とはいえ、このような小さい村の、しかもお金がないような家にある保管庫は石を糞で固めた簡易的なものが多く揺れに弱い。
地震が頻繁に発生する日本とは違い、中世ヨーロッパなど地震が極端に少ない地域は、雨に対する対策はしても、揺れというものにはほとんど気を配らない。
知識ではわかっていたことだが、こうやって体感してみると人々の悲壮が伝わって来るようだった。
耐震を気にしないとはいえ頑丈な建物を作ればいいじゃないかと思うかもしれないが、それはお金や技術、人員を投入できる一定以上の階級の人々がすることであって、来年の生活がどうなるかわからないような一般の農民には、そんな余裕はないのである。
マルグリッドの小城は特に被害が出なかったためわからなかったが、こうやって村の家々を回ってみると、母屋の一部や保管庫、馬小屋が崩れている家庭が多くあった。
「とはいえ、祭りのための納税を断って、もし不作でも起きてみろ。他の村人から恨みを買い、家ごと焼き討ちに遭ってしまう可能性もあるのだ」
すずはそう言って、深く頷いていた。
江戸時代の日本にも、この心理を使った制度があった。
五人組といって、農民の五つの家族をグループとし、その誰かが脱走をしたり、不正を働いたり、税を滞納したら五つの家族全員が罰せられるというものだ。
これは非常に大きな効果をあげており、何も縛りがない農村と比べ税の納税率が高くなったという。
その代わり掟を破った家族への八つ当たりは激しく、一度でも皆に迷惑をかけようものなら奴隷のような扱いか、殺されることもあったそうだ。
人間というのは助け合わなければ生きていけない生き物であり、理知的な生き物である。
しかし、知性があるが故に貧富の差が生まれ、恨みも発生する。
そういえば、僕の好きな魔女裁判もこういった人々の恨みつらみが重なって発生した大惨事である。
今までは歴史や事件として、情報として知るだけだからどんな悲惨な出来事を聞いてもうろたえることはなかったし、気に病むこともなかった。むしろ、エンターテイメントとして楽しんでいる節さえあった。
しかし、こうやって実際に祭りのための税を徴収しただけで僕の心には小さな針が沢山刺さっていた。
心無しか、日に日に村人たちの視線も痛く感じてくる。
最初は気のせいかとも思ったが、徴税中にすずは片時もマルグリッドから離れなくなったし、徴収した小麦を受け取るマーチャも、護衛として女性の騎士を連れていた。
直接会話をすることはできなかったが、女性騎士の名前はヘルメェスというそうだ。
ヘルメェスは身の丈を超える大剣を振るう女性で、纏う鎧は右腕のみ。他は黒いベルトのようなもので全身をグルグル巻きにしており、大人の女性らしい煽情的なボディラインが露になっていた。
あまりにも僕の知っている西洋騎士の格好と違うものだから遠巻きにヘルメェスを眺めていると、マルグリッドが少々頬を膨らませながら肩をコツンとぶつけてきた。
「サトゥールはああいった女性が好みなんですか?」
質問をしているようで、咎めるような口調のマルグリッドを見て、僕は慌てて否定をした。
「べ、別にそんなわけじゃないですよ! ちょっと気になっただけです!」
「……そうですか」
普通に否定すれば問題ないのに、不自然に慌ててしまったものだからマルグリッドはより疑いを強くしたようだ。
「……私だけしか見られないようにしてしまいますからね」
「え?」
「なんでもありませんわ。さぁ、練習の準備ができたので一緒に踊りましょう」
マルグリッドに手を引かれ、教会横にある広場へと移動する。
祭りで生贄となる牛を焚くためのものだろう。そこには木や藁が小さなテントのように組まれており、まるでキャンプファイヤーのような様相をしていた。
「実際に火を点ける訳にはいかないので、練習の時はこちらで」
マルグリッドに手招きされ、松明を持ったアーリンがやってくる。
「それじゃあ、全力で歌っちゃいますね!」
アーリンは火の点いた松明を持ったまま、広場の中央で賛美歌を歌い出した。
「さぁ、私達も踊りましょう?」
マルグリッドに手を引かれ、焚火役? のアーリンの前に移動する。
陽が少し傾き、赤みがかってきたタイミングも相まって、村全体が炎に包まれているようにも錯覚してしまう。
「サトゥール?」
惚けている僕を見て不思議に思ったのか、マルグリッドが顔を覗き込んでくる。
夕陽がマルグリッドの頬をほんのりと朱く染め、まるで上気しているかのように見える。
そんな彼女が妙に大人っぽく、なまめかしく感じられてしまい、僕は彼女から目を逸らす。
「あー! サトゥール、顔が赤くなってませんです?」
アーリンが僕を見て茶化してきたので、慌てて否定する。
「べ、別に……」
「ふふふ。そうですわね、きっとこの夕陽のせいですわ。さぁ、踊りの練習をしましょう? サトゥール」
マルグリッドに手を握り直され、心臓がバクンと跳ね上がる。
こうやって同世代の女の子と手を繋いだのは、何年ぶりだろうか。いや、そもそもそんな経験をしたことがあっただろうか。
僕の意識はここにあるようでいて、どこか宙に浮いていたような気がする。
風船のように漂う僕の意識を導くように、マルグリッドは輪舞を踊った。
本来は男性である僕がリードするはずなのだろうが、踊りなどさっぱりわからない僕は先行して踊るマルグリッドに手を引かれるように、抱きしめられるように、揺られるように踊った。
マルグリッドは相当踊りに精通しているようで、彼女が僕をリードしているのに、まるで僕と彼女が同時に動いているような錯覚を覚えた。
「ダンス、上手なんですね」
思わず、ポツリとこぼしてしまう。するとマルグリッドはダンスを止めずに答えた。
「はい。ダンスのレッスンは小さい頃からずっとさせられましたから。でも……」
「でも?」
「踊っていて楽しいダンスは、これが初めてです」
流れるようにダンスを続けながら、マルグリッドの頬が大きく緩んだ。
それは楽しいような、嬉しいような、例えるならばクリスマスに貰ったプレゼントで遊んでいる時のような笑顔だった。
「……僕はダンスなんてしたことがありませんでしたが、こんなに楽しいことならばずっと続けていたいですね」
「うふふ。では、貴男が私をリードできるようになるまで続けませんか?」
「あはは……それは嬉しいですが、何年かかることやら」
「何年でも……何十年でも練習にお付き合いしますよ」
マルグリッドと見つめ合いながら、ひたすらにダンスの練習を続ける。
そんな僕達を見て、アーリンは不貞腐れたように頬を膨らませた
「あのー! ずっと歌うのも大変なんですからね! あと、ボクも踊りたいんですけどー!」
楽しい、楽しい時間がゆっくりと流れていく。
ずっとずっとお祭りの準備期間が続いて、もっともっとマルグリッドとダンスの練習ができればいいのに。
僕は忍び寄る魔の手にも気づかずに、ずっと夢見心地のままだった。
第三章
「「「ウォォォォォォ!」」」
人々の歓声が重なり、狼の遠吠えのように木霊してきた。
「な、なんだ!?」
客室で寝ていた僕は目を覚ますと、慌てて窓を開けた。
太陽が沈み、空は暗くなっているというのにやけに周囲が明るい。肌寒いはずの夜風も、ほんのりと暖かかった。
「もう祭りが始まったのか? 明日の朝から開始のはずなのに……」
陽が明けたら始まるはずの祭りを楽しみにした村人が先走ったのかという考えが脳裏を過ったが、そうではない。
教会の方から大きな火の手が上がり、そこに村人と思しき人々がたむろしている。
「もしかして前夜祭というやつか? だったら僕にも何か手伝わせてくれればよかったのに」
僕は小城の中を歩き回り、すずを探した。
「すずー! いないのか?」
いくら声をあげても、すずは出てこない。もしかしたら、前夜祭の運営に回っているのだろうか。
寝ていたら失礼とも思ったが、マルグリッドやゴルゴッタの部屋をノックしてもでて来る気配がない。
「すずだけならまだしも、マルグリッドも領主もいないなんて……」
何やら背中に嫌なものを感じ、もやもやとこびり付いていた眠気が一気に晴れる。
何かが、この村で起きている。
「はっ……はっ……はっ……」
慌てて寝間着から着替えた僕は、全力で教会への道を駆けていく。
前夜祭ならば村の家々に明かりが灯っていてもいいものだが、全員が寝静まっているかのように真っ暗だ。
「マルグリッド……」
ただただマルグリッドの安否を心配しながら、丘を駆け上がる。
やっとのことで教会の前に到着した僕の目に入ったのは、燃え盛る薪や藁。
そして、炎の中にそびえ立つ木柱に括りつけられたマルグリッドの姿だった。
よく見ればすずやゴルゴッダ、アーリンまでもがマルグリッドと同じように柱に括りつけられ、火炙りにされている。
「……」
服は焦げ、肌も焼けただれ始めているというのにマルグリッドたちはうなだれたままで、暴れる気配がない。もしかして、人形なのだろうか?
「魔女に鉄槌を! 悪魔の使いに神の裁きを!」
「「「魔女に鉄槌を! 悪魔の使いに神の裁きを!」」」
赤い一枚布を服のように羽織った男が声をあげると、それを復唱するように村人たちが叫び、拳を振り上げている。
「魔女……まさか……」
このような光景は歴史書だけでなく名画やゲーム、漫画などでも何度も目にしたことがあった。
――魔女裁判
中世ヨーロッパで起きたとされる、集団ヒステリーと政治的な思惑が重なった大量虐殺事件である。
近代日本においてはファンタジーのイメージが強く、魔法を使ったり、悪魔に魂を売った魔女が断罪される裁判のイメージが強いだろう。
しかし、そんなおとぎ話のように不思議な力を持った人間など実際にはいなかった。
魔女裁判にかけられた人間のほとんどが普通の男女で、魔女っぽいものといえば怪しい薬草を調合して麻薬のようなものを配合していた人がいたくらいである。
政治的な理由や、個人的な理由で魔女と密告された者が多かったとは知っている。知っているのだが……
「なんで……なんで彼女達なんだ……!」
僕は無心に駆け出すと、熱狂する人々をかき分け、マルグリッドに近づこうとする。
しかし、燃え盛る炎に阻まれ、彼女を開放することができない。
「あつっ!」
揺らめく炎で肌を焼かれ、反射的に距離をとってしまう。たかが反射的な反応だと、意を決して炎に飛び込んでも、息ができず、体中が焼け、ほんの数秒で外に逃げ出してしまう。
「なんでだよ……この前は子供を助けることができたのに……!」
前世……暴漢に子供が襲われていた時は身体を張って子供を救うことができた。
痛みなんてほとんど感じずに、ただただ自分の身を盾にすることができた。
なのに、なんで今はできないんだろう。
「くそっ! くそー!」
僕は苦し紛れに周囲の雑草を抜き、土を掴むと炎の中に投げ込んだ。少しでも消火を行うためだ。
しかし、子供が投げた土程度で消えるような炎ではない。
「「「魔女に鉄槌を! 悪魔の使いに神の裁きを!」」」
人々が藁や薪を次々と投げ込み、炎の勢いが増す。
初めは形を保っていたマルグリッドの体も、服が焦げ散り、髪が焼け溶け、真っ白な肌が害虫に蝕まれるように赤黒く変色していく。
「あぁ……マルグリッド……やめてくれ……誰か止めてくれ!」
そんな彼女の姿を見ていられなくなった僕は、すがる思いで赤い布を羽織った男……この魔女裁判の異端審問官役と思われる男にしがみついた。
「なんで、なんであんな酷いことをしているんだ! お願いだからやめてくれ!」
男は焦点の合っていない目で僕の居る方を一瞥し、微笑んだかと思うと。おもむろに一冊の本を頭上に掲げた。
「おお、このような幼き子供が、良心の呵責に苛まれている! しかし、安心しなさい。あそこにて断罪の炎に焼かれている者達は人に非ず! 悪魔に魂を売り、善良なる人々を魔に売り払う人外である! なればこそ、我々は愛する子を、妻を、夫を、村の人々を護るために断ずぜねばならんのだ! 村の衆よ! 我らが聖なる書に書かれた心得を述べよ!」
「「「一つ! 魔女は人の形をした魔の者なり!」」」
「「「一つ! 魔女は我々の親しき人々を殺し、その肉を喰らい、姿を模倣する者なり!」」」
「「「一つ! 魔女によって殺された者を開放するためには魔女を断罪の炎にて焼き尽すべし!」」」
「「「一つ! 魔女を一人残らず駆逐するため、大切な人々を護るためにためらうことなかれ!」」」
「「「魔女には鉄槌を下すべし! 魔女には鉄槌を下すべし!」」」
村人たちは男と同じ本【魔女に与える鉄槌】を掲げながら、どんどんヒートアップしていく。
僕が何を言おうと、必死に邪魔をしようと、彼らは止まらない。彼らは自分の想像の中にある魔女を断罪すべく、聖なる炎の糧を放り込んでいく。
一体どれほどの時間が経っただろうか。
マルグリッドたちを縛り付けた杭すらも焼け焦げ倒れ、教会前の広場が灰の湖となった頃。人々は満足したのか、各々の家へと帰っていった。
朝陽はとうの昔に登り切り、今度は夕焼けの炎が僕の視界を焼こうとしていた。
「もう夕方か……輪舞を踊らないと……あれだけ練習したのに本番で踊りそびれたら、マルグリッドに起こられちゃうな……おーいマルグリッド! どこにいるんだ?」
僕は冷めきった灰をかき分け、ゆっくりと歩き出す。そして、灰の中に埋もれている人型の何かを見つけた。
雑な焼き方をしたためか、完全な炭化はせず焦げた肉が骨にこびりついており、その形を保っていた。
「マリー……ここにいたのか」
僕は彼女の手をとると、慎重に抱き起こす。見た目は赤黒くなり、綺麗な金髪の癖っ毛も、身を飾るワンピースも、輝くオレンジ色の瞳もなくなっていたが、僕には彼女だとすぐにわかった。
「お祭りの仮装かい? そんなことをしても、僕にはわかるんだ。君とは、何度もこうやってダンスを踊ったんだから」
僕はマルグリッドを抱えながら、何度も何度も練習したダンスを踊った。
いつもはマルグリッドにリードされていたが、今は僕が彼女をリードしている。
「どうだい? 僕も少しは上手くなったでしょ?」
「……」
彼女は答えない。
音楽も観客も何も存在しない空間で、二人だけの時間が流れた。
そうして一曲踊り終え、二人でお辞儀をする。
僕が頭を下げて横を見て見ると、マルグリッドの頭は胴体にはついておらず、地面へと転がり落ちていた。
「あぁ……あぁ……」
僕はマルグリッドの頭を慌てて拾うと、彼女を抱え込むように地面に跪いた。
「あ……あ……」
頭が氷漬けになったかのように冷え、肺が麻痺し、上手く声がでない。
急に現実に引き戻された心が、今の状態を受け入れるのを拒否している。
「マ……リー……」
視界が涙で埋まり、ゆっくりと意識が遠のいていく。
身体も涙に水没しているかのように重く、冷たくなり、感覚がどんどんと薄れていく。
前世で死んだ時に似た、あの感覚が僕の体を包んでいくが、悲しさだけは消えることがなかった。
『コマンドを選択してください』
「ここは……どこだ?」
突然、人工音声のようなものが聞こえて目を覚ます。
気がつけば、僕の身体は宇宙空間のような、暗くてキラキラした場所に浮いていた。
『コマンドを選択してください』
「コマンド……?」
人工音声の聞こえる方を向くと、僕の目の前にウィンドウが現れ、二つのボタンが表示された。
【このままの生活を続ける】
【やり直し】
「これは……どういうことだ?」
何の説明もない選択肢を出され、困惑する僕。しかし、ゲーム慣れしていたせいか、すぐにこのボタンの言いたいことはわかった。
「もしかして、さっきまで僕が居た中世ヨーロッパの生活のことを言っているのか? そのまま続けるか……最初からやり直すのか。いや、日本で死んだ時の状態からやり直しっていうことも考えられるか……?」
その場の感情に流されず、慎重に考えを巡らせる。突拍子の無い夢のようにも思えるが、僕の中には日本で生きた記憶も、マルグリッドたちと過ごした中世ヨーロッパの記憶も、どちらもハッキリと存在している。
中世の出来事が夢であったならば、ここまで鮮烈に体験を記憶していないはずだし、他の夢の中にまでその記憶を持ち込むのも不可能なはずだ。
「……やり直そう」
僕は考慮に考慮を重ねてから、やり直しを選択することに決めた。
戻る世界はどちらかわからないものの、日本で殺されたタイミング、もしくは中世でマルグリッドが魔女裁判にかけられたタイミングから生活を続けるなんて苦痛どころの話ではない。それであればどちらにしろやり直して最初から生きた方がマシというものだ。
と、頭では考えていたものの、僕の中には不思議な確信めいたものがあった。
きっと、この選択肢を選べばマルグリッドと再会することができる。
「頼む……」
祈るような気持ちで【やり直し】のボタンを押すと、視界が再び真っ白になっていった。
僕は両手をぎゅっと握ると、無意識にアーリンの歌っていた賛美歌を口ずさんでいた。
「メェェェ」
なんだか懐かしい声とゴワゴワした毛を押し付けられる感覚に包まれ、僕の意識が覚醒する。
「こ、ここは……」
見渡す限りの牧草地と、覚えのある羊の姿を見て、僕は確信した。
あの人工音声が言っていたことが本当ならば……
「ムート! また毛狩りから抜け出したわね!」
金髪の癖っ毛に、オレンジ色の瞳を持った少女が僕の方へ駆けてきた。
間違いない、あの姿は……
「マリー!」
僕は思わず彼女に抱きついてしまうが、彼女は何が起きたのかわからず、オロオロとしていた。
「あの、失礼ですが貴男はどちら様でしょうか? なぜ、私の名前を?」
「これは失礼しました。僕の名は……」
僕は一回目の失敗から学習し、自分の身分をインドの王侯貴族であると騙った。
これならば最初からマルグリッドに近い位置で働くことができるし、無下にされることもないだろう。
なぜ日本ではなくインドにしたのかというと、サトゥールという名前の響きがインド系に近かったことと。インドを知っている人物がこの村に居なかったからだ。
下手に日本出身であることを告げてしまうとすずとの知識や時代のズレが発生し、無駄に疑いを持たれてしまう。すずはマルグリッドを護るためならば僕の殺傷も辞さないはずだから、これだけは避けたかった。
(すずとの日本談義も楽しかったんだけどな……)
心の中でボソリとそう呟くが、そんな一時の快楽の為に不安要素を増やしてはいけない。
一度目は思うままに行動してマルグリッド達と仲良くなれたが、全ての行動を覚えているわけではないからまた同じような関係になれるかわからないし、そもそもマルグリッドを救うためには彼女たちと仲良くなりながら、違った行動をとらねばならないのだ。自分の行動の一つ一つを、注意深く行わなければならない。
「必ず……僕が彼女を救ってみせる」
僕は決意を新たにすると、マルグリッドの付き人としての生活を再開した。
「よし、まずは村の地震被害を食い止めないと」
マルグリッドの付き人として生活を初めて二日目。ある程度の立ち位置を確立した僕は、この後村を襲うであろう地震から皆の食料を護るための策を考えようとする。
「あぁ、こんなことならば建築学もやっておけばよかった」
前世の知識を総動員して、なんとか地震に使えそうなものはないかと思案する。
しかし、建築士の資格どころか犬小屋すら建てたことがない僕にとって建物の耐震性を上げる案などでてくるはずがない。
「そうだ! 日本生まれのすずなら何か知識があるかもしれない」
すずは1480年代の昔とはいえ、地震が多い日本の出身だ。しかも忍者である彼女なら、家の構造などにも詳しいはずである。
「ふむ……日本家屋の地震対策が知りたい? そうだな……拙者も専門ではないが、壁や天井に斜めの梁を入れるのがよいだろう」
すずによれば、四角く造られた壁や天井をそのままにすると横の揺れで大きく歪んでしまうが、一本の柱を斜めに打ち込むことで、左右の揺れを防いでくれるらしい。
天啓を得た僕は早速、マルグリッドと領主のゴルゴッダに耐震対策の重要性を説いてみた。
僕の熱心な説明に納得はしてくれた二人だったが、快い返事は返ってこなかった。
「大地が揺れることは確かにあるらしいが、私はまだ産まれてから一度も地震というものを経験したことがない。それに、その耐震補強とやらを村の家々に行うにしても資材が足りないし、工事夫を雇うほどの金も村人たちには無いはずだ」
「そうですか……」
すぐに解決できると思っていた自分が恥ずかしくなり、部屋へと戻る。
こういった時、転生者は前世の記憶でなんでも問題を解決してみせるものだが、ここは現実だし、一般人の僕には金も超常的な力もない。どうにかして、できる範囲のことをやるしかない。
「食料だけでも保管庫から出しておくように忠告するか? でもそれじゃあ鼠や鳥に食べられてしまうし……」
なんとか知恵を絞ろうとするが、上手い案が思いつかない。
ただの子供が、特別な地位も財力も無しに大勢の村人を動かすなんてことは簡単にはできないのだ。
「こういう時に神様を頼っちゃうのは、やっぱり日本人なんだろうな……」
僕は部屋を出ると、何の気なしに教会へと向かった。理由は簡単、神頼みである。
「神様仏様阿弥陀如来様……いや待てよ、ここはフランスだし、キリストに祈った方がいいのか? いや、キリストはあくまで神の使いだから、神に祈るべきなのか?」
くだらない問答をしながら教会の前に差し掛かると、教会の扉から何やらフルーティな香りが漂って来た。
「何の匂いだろう? フルーツワインでも作ってるのかな? でも、アーリンってそういうことしてたっけな?」
一週目の記憶でアーリンは神や民を愛しまくっていたが、神に仕える者としての流儀は意外とちゃんとしており、質素な食事を守っていた記憶がある。
「そういえば、アーリンも火炙りにされていたな……何かしらの恨みを買ったか……もしかして、男がシスターをやってたから異教徒扱い? それは酷すぎるよな……」
火炙りにされるアーリンのことを思い出しながら、次は決してあんな目に遭わせまいと心に誓う僕。
そんな僕の想いを知ってか知らずか、礼拝堂の中央に座ったマーリンは何やら怪しいハーブを燻し、その煙を吸いながらお祈りをしていた。
「ふぁぁぁぁ……愛しの神様ぁぁ……羊様ぁぁ……ボクを天の国に連れて行ってくれるんですねぇぇぇぇ……」
「あぁ……アーリンってこういう子だったな」
完全にトリップ状態に入っているアーリンを見て、溜息を吐く。そういえば、この子は神の使徒の姿をしたハーブジャンキーだった。
「あへあへぁ……」
頭をぐるんぐるん回しながら目をハートにしているアーリンに水を持って来ようとして、ふと思いつく。
「神託ってことにすれば村の人々も地震の発生を信じてくれるんじゃないか?」
僕は物陰に隠れると、低い声で呟くようにアーリンに話しかけた。
「アーリン……神に仕えし敬虔なる信者よ……」
「こ、このお声は!? 神しゃまですか!」
「そうだ……いつもお前が祈ってくれている神だ」
「おおおー! ついに神しゃまのお声が聞けました! このアーリン、アナタ様と愛について語らうべく日々の祈りを……」
「あ……あー、そういう話は一旦置いておいて欲しいのだ、アーリンよ」
「はへ? では、ボクを正真正銘の女の子にして頂ける……とか?」
「アーリンよ、私にとって性別などさしたる問題ではない。お前はお前のままでよいのだ……神の僕である限り、私は前を見捨てることはない」
「あぁ……あぁぁぁ……ありがとうございます神しゃま……」
感動の涙を流しているアーリンを見て、自分の何気ない言葉に罪悪感を感じてしまう。
しかし、ここで止まる訳にはいかない。僕がアーリンやマルグリッド達の命を救わなければならないのだから。
「アーリン、可愛い神の子であり、神に仕える者よ。今日はお前に神託を与えに来たのだ」
「し、神託ですか!」
「そうだ。近日中に、お前の暮らす国で大きな地震が起きる。私の力によって揺れは最小限に抑えるつもりだが、それでも被害が出るだろう。お前には地震を村人に伝え、備えをするよう導いて欲しいのだ」
「じ、地震ですか……!? しかし、私が導くといってもどうすればよいのでしょう?」
「大丈夫だ……これより私がお前に人々を護る知恵を与えよう……」
僕はアーリンに、神託と偽って地震に関する対策を教えた。
大工の心得がある者は壁に梁を設置すること。心得の無い者は小麦の収穫を地震が過ぎるまで遅らせる他、備蓄食料はなるべく家の中に入れておくこと。家の強度に不安がある場合は、領主に協力を仰ぎ、食料を一時的に保管させてもらうこと。揺れを感じたら、すぐに家屋の外に出ること。
「アーリンよ。お前の祈りがあってこそ、私はこの声をお前に届けることができた。私の愛しい子……この村の人々の命を護ってくれ……」
「あぁ……神しゃま……」
神託を聞いたあとのアーリンの動きは実に早かった。
「みなさーん! すぐに教会に集まってくださーい!」
時刻はもう昼になろうというのに昼食も摂らず、村の家々を回っては教会への集合を呼びかけた。
家人が家に居ない場合は畑や牧場などに行き、作業中の村人の手を引っ張って教会へと連行した。
そうして人々を集めた後、彼女は礼拝堂の中央で皆に神託があったこと。神から地震に対する備えを教えて貰ったことを人々に告げた。
「神は仰いました。大地が裂け、割れるような大地震がこの国全体を襲おうとしている! しかし、神はボク達、神の子を護るためそのお力で弱めてくださるというのです。そして! それでも被害が出てしまうからと、ボク達のことを想って神託を寄越してくだりました!」
「か、神でも抑えきれないほどのものなのですか!?」
「はい。この広大な大地が裂けるほどの大地震ですから、完全に止めてしまうと大きな歪みが生じてしまうのでしょう。しかし、ご安心ください! 神は我々を愛し、常に見守ってくれているのです!」
「で、でもよぅ……オラ達のために領主様が土地を貸してくれるだろうか……」
「だいじょーぶです! 神に仕える私が、神のお言葉を領主様にお伝えします! 例え断られたとしても、何としてもボクが説得して見せましょう! 神は仰いました、お前の……このアーリンの信ずる心が神との会話を可能にしたのだと! つまりボクには今、神のお力が僅かなりとも残っているのです! そのボクに不可能などありません!」
「「「おおおー! 神様万歳! アーリン様万歳!」」」
人々が神とアーリンを称えると、いい感じにステンドグラスから日光が入ってきてアーリンを照らしだす。
アーリンが焚いていたハーブの煙の残りと、陽に照らされた教会内の埃がイイ感じにマッチしてまるで天使の羽が彼女を包み込んでいるように見えた。
「これは……確かに信じたくなるなぁ」
僕はアーリンたちの様子を見ながら、感嘆の声を漏らす。
現代日本に住んでいた僕は、書物から得た知識として昔の人々は信心深いということは知っていた。科学も発達しておらず、世界で起こっていることがわからない事だらけだった昔は神の御業という言葉に頼らなければ不安でいっぱいだったのだろう。
そこまで理解はしていたが、心で納得はしていなかった。でも、今は違う。
小さな教会であっても神に仕え、滅私奉公を常とするシスターがこうやって人々に神の教えを説き、人々がそれに応えるというのは実に神秘的で、一体感があった。
「領主様! お話があります!」
アーリンはまるでドラクロワの絵画【民衆を導く自由の女神】が如く村の人々を連れ領主の小城に乗り込むと、ゴルゴッダの前で神託があったこと。地震に対する備えが必要なことを矢継ぎ早に告げ、村人と神様万歳の大合唱を始めた。
ゴルゴッダも領主ではあるが、所詮は人の子である。村人に対しては強く出られるが、神の名を出されてしまっては心配になってしまう。
「わかった、わかった。我が城の一部を開放し、地震が過ぎ去るまで食料の備蓄を許可しよう」
「「「わぁぁぁぁぁ!」」」
人々から歓声が上がる中、アーリンが膝をついて神に祈りを捧げている。またまた無駄に絵画チックな風景を見て、僕はボソリと呟いた。
「名づけるなら……倉庫開放……かな? 普通過ぎるか……」
小城の一部開放により、善は急げと人々が自分達の備蓄食となる小麦や保存食を城内に持ち込んでくる。しかし、その量は余り多くなかった。
一週目の頃、徴税して回った時よりは家々の蓄えがあるのは確かだが、とは言え生活するにはギリギリの量に思えた。
「マリー、なんで人々の食料があんなに少ないんだい? 畑の方に小麦はけっこう残っているように見えるんだけれど」
「王都も収穫祭を行う時期だから、この村の税とは別に王都に納める分も必要なのです。もう少し楽をさせてあげたいとは思うのだけれど……」
「……王都に納める税は、必ず食料である必要はあるのかい?」
「いいえ。税は小麦の量で規定されていますが、それと同等の貨幣や別のもので支払うことも可能です。でも、この村にはそういったものが無くて……」
「そっか……」
来る地震に対しての備えは恐らくこれで大丈夫だが、人々の生活を豊かにし、かつ領主であるゴルゴッダやマルグリッドへ集まる不満を解消しなくてはならない。
「お金になるものか……どうにかしてこれを売れないかな」
地震対策が失敗した場合のことも考え、村の資金を稼ぐ方法は僕もある程度考えていた。
もちろん、金銀財宝を持っているわけではないから正攻法でお金を稼ぐことはできない。しかし、この時代の世界には無い、僕だけの珍品を用意することならできる。
「一回目はすぐに捨ててしまったけれど、今回はコイツに役だってもらおう」
僕はこの世界に転生した時に着ていた服……現代日本のスーツジャケットとシャツ、スラックス、ベルト、革靴をタンスの中から取り出した。一回目の時とは違い血濡れや破れも無いので、十分に着ることができるだろう。
「サイズも大人用だし、どこかの貴族が買ってくれるといいんだけどな」
僕はマルグリッドに依頼して上等な布を準備してもらうと、それに社会人スーツセットを包み、村の広場へと向かった。
「安いよー! 安いよー! 豪華絢爛な王都から取り寄せた、貴族様御用達の一品もあるよー!」
激安路線を狙っているのか高級路線を狙っているのかわからない台詞を叫びながら、広場で行商をしているマーチャを見つける。
「やぁ、マーチャ」
僕は挨拶とばかりに赤ワインの入ったボトルを差し出すと、彼女はピタっと動きを止め、僕の瞳を覗き込んだ。
「これ、無料かい? 有料かい?」
「もちろん無料だよ。僕からのプレゼントさ」
「ありがとうよ! でも商品はまけないからね!」
マーチャはゴクゴクと赤ワインを飲み干すと、空になったボトルを僕に返却した。
こういうキッチリしたところは流石商人といったところである。
「それで、今日は領主様ん所の買い物かい? それとも、マルグリッド様へのプレゼントかい?」
「実は……うーんどうしようかな……」
僕は迷ったような演技をして、本題に関する話を焦らした。
これは僕が営業で外回りをやらされていた時に覚えた唯一の技術なのだが、日本に居た時は見た目も大人だったし、こんな稚拙な心理作戦にかかる者はほとんどいなかった。
しかし、今は見た目が子供であるため多少幼稚なところがあっても、逆に真実味が増すはずである。
「なんだい、煮え切らないね。年上なんだからシャキッとしておくれよ」
見た目が幼女な16歳にしっかりしろと言われるとなんだか複雑な気持ちになったものの、僕は周囲に人がいないのを確認してから、持ってきた包みを広げた。
「これなんだけど。なんだかわかるかい?」
「んんん? なんだいこりゃぁ? ふんふん……こりゃあ服と履物のようだけれど……」
「これ、実はインドの国の皇族だけが賜ることのできる貴重な服なんだよね。公式な場に出る時に着る礼服的なものなんだ」
「ふぇ!?」
素っ頓狂な声をあげた後、目の色を変えてスーツを吟味するマーチャ。
流石は多様な商品を扱う商人といったところか、初めて見る服であってもある程度の素材の傾向や、機能などを次々と理解していく。
「こりゃぁ確かに珍しい一品だ……コイツを持ってきたってことは……アレかい?」
「そうなんだよ。僕も心苦しいけれど、いつまでもマルグリッド様の世話になる訳にもいかないし、まとまったお金が欲しくてね。でもそこら辺の商人に任せたんじゃ二束三文で売られてしまう。だからこそ、君にお願いしたいんだ」
「アンタ、見る目あるじゃないのさ! その話ノッたよ! 領主様の小城が買えるくらいの値段で売ってきてやるさね! その代わり……」
「あぁ、わかってる。売り上げの半分でどうだい? 貨幣や金品なら価値の半分づつ。食料なら重さでキッチリ半分だ」
「アンタ、商売ってもんがわかってるね! 任せときな!」
マーチャは僕と証文を交わすと、そそくさと露上店を畳んで王都の方へ行ってしまった。
持ち逃げされる危険性もあるが、一回目の時でもマーチャは商売に関して嘘や誤魔化しをするような人物ではなかったし、マルグリッドとも良好な関係を築いていた。恐らく大丈夫だろう。
「お金に関してはマーチャに期待するとして……あとは村人に対する制度や税の見直しだな」
僕は小城に帰るとマルグリッドを呼び、この村の制度について教えてもらった。
インドという異国から来た王侯貴族という肩書は本当に便利で、領地運営のための勉強をしたいと言ったら喜んで教えてくれた。
「実は私、習い事よりもこういった人々のためになることを考える方が好きなんです」
マルグリッドは楽しそうに微笑むと、色々な制度を説明してくれた。
地代や人頭税など、住んでいる人間やその農地に関する税金については僕もなんとなく知ってはいたが、その他にもこの時代の人々は多くの税金を払っているようだ。
「マリー、この施設使用料というのは何だい?」
「施設使用料は、風車小屋の使用料ですわ。人々が収穫した小麦を脱穀した後、風車小屋にある石臼で粉にする時や葡萄の圧搾機を使う際に徴収するものです」
日本で言うコイン精米機のような制度だが、一回が少額であっても回数が重なるぶん膨大な費用となるのは確かだ。
「これを減らすことはできないのかい?」
「私もそうしたいところなのですが、施設利用料を下げようとした時に風車小屋の管理人から猛反対を受けまして。強行すれば施設自体が使えなくなる危険がありましたので、そのままなのですわ」
そういえば、小麦挽きはちょっとした貴族のような生活をしていたと読んだことがある。
領主であるマルグリッド達には影響が無いが、一般の村人たちは多くの利用料を取られているに違いない。
「もう一つ風車を建てればどうかな?」
「そうですわね……現在の風車小屋の管理人に妨害をされる可能性はありますが、領主が改めて風車小屋を建て、管理を村の人々に交代で行って頂ければ、権力が一人に偏ることはありませんし、不当な値上げも発生しないのではないかと」
「じゃあ、それも一つの案に入れておこう」
「ですが、流石に風車小屋をもう一つ建てるだけのお金がありませんわ。その為に税を取り立てては本末転倒というものですし……」
「お金のことは……一旦考えないで案だけをまとめて行こう。そうだな……この村の税収の二年分くらいは余裕があると思ってみて?」
「うふふ。そんなに沢山のお金があれば、村民の生活を楽にしてあげられそうな気がしますわね」
「次に教会税は……えええ!? 収穫高の10%もかかるのか!」
「はい……ですが神仏に関わるものですし、中央教会への献金などもあるのでこれを減らしてしまうと神罰が下る可能性がありますわ……もちろん政治的な罰もです」
「教会はこれほどまでに力を持っていたのか……」
教会税がこれほどまで高額だとは知らなかったが、いつの世でも宗教絡みの権力者はとにかく力が強く狡猾なことが多い。
アーリンが日々節制した生活を送っているところを鑑みると、中央教会というところが甘い蜜を吸っているのだろう。
なまじ現場の神官やシスター達が敬虔な分、こういったお金の流れは人々に伝わりにくいものだ。
「これはちょっと手に負えない話題だね……徴税の他に、村の人達の重しになりそうな制度は何かないかい?」
「そうですわね、私がこの村に来て驚いたのは、村民が扱う農奴の結婚が制限されていることですわ。あとはその……新婚の女性と領主が初夜を共にする……というものもあります」
流れで言ってしまった手前、途中に言葉を隠すことができなかったのだろう。
マルグリッドは少々恥ずかしそうに俯いている。
「それは……ゴルゴッタさんもやってるんですか?」
「はい……」
「こ、こほん。やっぱり、愛する二人にそういった水をさす行為は良くないね! 好きな人同士は二人だけで居たいものだしさ」
「そ、そうですわね。私もそう思いますわ!」
「ということはお嬢様、拙者は席を外した方がよろしいですか?」
すずが蜘蛛のように天井からぶら下がって現れたので、僕とマルグリッドはギョッとして彼女を見つめてしまう。
どういう原理なのかわからないが、逆さまになっているすずのスカートは捲り上がらず重力に逆らっている。
「き、気にしなくていいんですのよ、すず。護衛を続けてくださいな」
「御意」
再び天井に戻っていったすずを見上げてから、僕とマルグリッドは会話を再開した。
結婚の申請や初夜権など一見すると不要に思えるものがチラホラあるが、その裏を考えてみると、領民の管理、把握の他に弱みを握って権力を保持する意図などもあるのだろう。
領主であるゴルゴッタを言いくるめてそれらの制度を無くすことはできるかもしれないが、無くした後に領地が没落してしまったり、村人達が居なくなってしまっては元も子もない。
「机上の空論になってしまう部分は多いけれど、二人で色々と制度を調整してみよう。村人が楽になることもそうだけれど、この村が栄えて皆が幸せになれるような制度を考えてみたい」